#38 『嫌い』ではない
「さく坊はたぶん、部のために、みんなと、ミト中のために、辞めるべきかどうか悩んでるんだよ」
僕がそう言うとナンプは「え」とその顔を上げた。
「なんやそれ……? 単純に嫌んなった、ちうワケやないん?」
うん。わかんないか。説明するよ。
「ホルンはね、難しいんだ。まあ簡単にできる楽器なんてないんだけど。それでもホルンは特になかなか自分の理想の音が出ない。出せない。ナンプ、さく坊の『音』、知ってるでしょう?」
訊ねるとこくりと頷いた。なかなか濁りが抜けないさく坊の音について梅吉やナンプが同じ金管楽器として発言をしているのを僕も聞いたことがあった。
──自信なさすぎじゃろ。
──もっと息を入れるんじゃて!
「みんなと比べて自分は未熟、たぶんそう感じてしまったんだろうね。それが『焦り』となって、『不安』となって、『心配』になったんだよ」
「心配……?」
「そう。自分のせいで、金賞を逃すんじゃないか、って」
「あ……」
驚きながらも「そうか、そうやな」とナンプは納得していた。彼もさく坊の真面目な性格をよく知っているからだ。
「僕がかなり無理をして全校生徒を部に引き込んだのはそうだけど、でも『だから絶対に辞めないで』とは言わないよ。全校生徒でやることは目標ではあったけど、生徒の気持ちを無視してまでやっていいことじゃない」
「……そう、やけど、ヒビノ」
引き止めないのか、と不安げに見つめられいるのを感じ「大丈夫」と小さく笑った。
「さく坊は、もう答えを持ってるはずだから」
「……?」
「話しに行こう。さく坊に」
「……ああ、けどどこに」
訊ねかけたナンプに指でさし示す。それはすぐ近くの植木の陰。背中と尻が見えていた。
「さく坊」
声をかけると人影は動き、やがてその顔を見せた。
「……すいません、逃げてしもて」
「いや。いいんだよ」
労うように微笑んだ。そして「聞いてたよね?」と訊ねると、真面目な少年は黙ってこくりと頷いた。
「……うん。だから『全校生徒参加』を理由に辞めないでほしい、とは僕は言わない。だけどさく坊、ひとつ教えてほしいんだ」
心地よく響く虫の声の中、僕はまっすぐさく坊を見つめて問うた。
「『苦手』なのはわかった。だけど、『好き』かどうか、は?」
さく坊は少し驚いて、そしてその目をゆらりと泳がせた。
「さく坊、僕と初めて話した時言ってたでしょう。プロのホルンの演奏聴いて、鼻血出たって。痺れたって。惚れたって。だから自分もやってみたいって。春から……四ヵ月近く実際に『ホルン』に触れて、『音楽』に触れて、さく坊はどう思ったの? 思い通りに演奏できなかったから、もう『好き』じゃないか?」
鼻血のエピソードを聞いたあの春の日、この生徒はきっと伸びる、と僕はたしかに思ったんだ。
彼は黙って、泳がせていたその視線を自分の指先に落とす。花火の火薬の燃えた香りがぬるい空気に混ざってふんわりと漂ってきた。夏の匂いだ。
「辞めてさく坊が後悔するのなら、僕はキミを辞めさせるわけにはいかない」
人生は何度だってやり直せる。だけど『今その時』は『今その時』にしかない。
さく坊は少しの間黙ってなにか考えるような顔をして、やがて潤んだ力強いその目をまっすぐ僕に向けてきた。
「……好きですよ」
それは震えた涙声だった。
「めちゃくちゃ、好きです。下手でも、報われんくても、それでも好きで……っ! だから苦しい。だから悔しい。そんでほんまは……辞めたくない。逃げたくない! けど、僕が下手やから、それでミト中が全国行けんなったら、そんなん絶対嫌じゃから、だから……っ」
僕はその震える肩に手を置いて少し屈んで目線を合わせた。喉の奥にぐっと力を込めて、もらい泣きしそうになるのをこらえる。
「自分が下手だと思える奏者は、必ず成長できる。コンクールは明日じゃない。まだ時間はあるんだ。だから焦らないで」
ぐずんっ、と後ろで聴こえるのはナンプが鼻水をすする音か。
「好きなら、やろうよ。やっていいんだよ。さく坊」
「……ううう」
ぐちゃぐちゃの顔で、さく坊は震えながら何度も頷いてくれた。僕はほっと息をついて彼の肩から手をどけ目線を外す。花火大会はそろそろ後半戦か。
「さく坊のホルンはたしかに濁った音が出てる。同じ金管のトランペットやトロンボーンに比べて、自分の音が未熟に感じることもあると思う。けどホルンってさ、さっきもナンプに言った通り、難しいんだよ。だけどちゃんと鳴ればその音はさく坊も知っての通り本当に美しい。難しい、だからこそ僕はすごく魅力的な楽器だと思うよ。『出来ない、イコール向いてない』って簡単に決めないで、もっとしっかり楽器と向き合ってみて」
「……楽器と、向き合う?」
「そう。できなくても、下手でも、好きでいていいんだよ。吹き続けていいんだよ」
奪う権利は、誰にもないはずだ。
「それとさく坊が『居ないほうがいい』だなんて、絶対に誰も思わないよ。……ね? ナンプ」
振り向いてナンプに笑いかけると「当たり前!」という力強い返事がもらえた。あらら、こちらもグズグズの顔だ。
「ごめん……ナンプ兄」
「謝るんは俺の方じゃ」
謝罪し合う二人に微笑んだ。
「ナンプ兄も梅吉くんも……悪くない。今ヒビノ先生に言われてわかった。僕が、ちゃんと『ホルン』と向き合えてなかったんや」
そう言うとさく坊はキラキラとした瞳で僕を見上げた。
「僕、練習したいです。ヒビノ先生」
はは。やっぱ真面目だな。
「まあ焦らずに。まずはそうだな、こんな……線香花火なんてどう? みんなと同じ輪に入って、『協調性』を養うってわけ」
にっこりそう言ってこっそり持っていたそれを二人に見せた。
「いつの間に」
「はは。好きなんだよね」
一本ずつ手渡してライターで点火すると、未だにギャーギャー騒いでいるみんなを遠目に眺めつつ並んでしゃがんだ。
虫の声の中、パチパチと橙色に弾ける小さな光を静かに眺めて、さく坊の、そしてみんなの未来を想った。
人生において中学時代なんか、この光のごとくほんの一瞬にすぎない。それでも、その一瞬に全力を燃やすんだ。めいいっぱい美しく輝かせるんだ。
「そいやさっき梅吉が西野先輩に告られよったで」
「えっ!?」
ナンプによるいきなりの爆弾投下に驚くと僕の線香花火の光が早々にぽとりと地面に落ちた。そもそも彼はその報告がしたくて僕を探していたらしい。
「ははん。ちゃうでヒビノ」
するとニヤリとそんなことを言う。「ちゃう」とはなんだ?
「『ずっと梅吉くんの…………坊主頭が触ってみたかったの』やってさ。くっははは!」
大きく笑うと同時に今度はナンプの線香花火の光がぽとりと落ちる。続いてさく坊のものも。
「はあ? それって告白?」
「告白じゃろが。真っ赤になりよったで、梅吉。へははは! ま、あの感じやと全く男として見られてなさそやな」
はは。西野さんらしい。これも青春か。いいな。若いってのは。
こうして合宿の夜は更けていった。
……と思ったのだが。夜というのは案外長いようだ。




