幕間 息抜きではない
折れたその途端にパッと戻るわけじゃない。スイッチが入ってさえいれば折れても構わず振り続けるから。
つまり指揮をやめない限り、あるいは指揮棒を『置く』という行為をしない限りは『僕』に戻ることはないんだ。
だからその点は心配いらないのだが。
問題は『折る』その頻度がとても多いということだ。
『彼』はよく指揮棒を折る。
熱血なのは自覚してるし直せないから仕方ないのだが、基本的に指揮棒は『振る』ものであって譜面台を『叩く』ものではない。ゆえに当然それに耐えうる強度はない。そしてピンキリはあれど指揮棒というものはそれなりに高額だ。
勘弁してくれ。
何度念じても『不出来なガキどものせい』と平然と言うんだ、あの鬼顧問は。はあ。
サマーコンサート本番翌日の今日は完全休日としていた。自主練自体は可能だがなるべくは身体を休めるように言ってある。
その理由は、明日月曜からいよいよコンクールの練習に入るつもりでいるからだ。生徒たちにはしっかりと気持ちをリセットして、新たに全力で取り組んでもらいたい。
それは僕自身にも思っていた。
というわけで、今日の買い出しもその一環だ。とはいえ単純に『息抜き』ともいえるが。
バスに揺られるのはいつぶりだろう。記憶を辿るとどうやら楽器調達に奔走した四月下旬以来だった。
そういえばあの頃は乾いていた田んぼに今はすっかり水が入って綺麗に並んだ稲が青々と育っている。
こんな田畑ばかりでなにもない田舎だが、案外街へ出ずとも生活できるものなんだな。
そんなことを思ううちに、バスはのろりと例の黒い小さな駅の前に到着していた。
その楽器店は駅前の寂れたショッピングセンターの中の店舗のひとつなのかと思っていたが、実際はそこにほど近い、そこよりさらに寂れた暗いビル……ビルと呼べるかよくわからないそんな建物の一階の一角にぽつんとあった。
『伊川楽器店』
楽器をやる者でも立ち入るのには割と勇気のいる雰囲気だ。要するに中の様子が見えない構造になっており、ショーウィンドウや案内のようなものもなし。つまり客を歓迎する雰囲気がひとつもなかった。
とはいえバスで一時間かけてせっかく来たんだ。このまま引き返すのもなんだかもったいない。
送料と配送期間を妥協してネットで買うべきだったか……と少しだけ後悔しつつ、
意を決してその扉を開いた────。
「えっ」
「あれ、なんで」
見知った三兄弟がそこにいた。
「なんでヒビノがおるん!?」
「梅吉こそ。……それに久原くんとさく坊まで」
ナンプはいないのか。思えば少し珍しい取り合わせだ。
「さく坊が『楽器の値段知りたい』言うから。見に来てみた。そんなら駅んとこで誠司兄と会おて」
なるほど。それで三人連れ立ってここに来た、と。
「まあ正直俺には関係ないもんばっかやけどな。けど楽譜やらもあるやろし、暇つぶしにちょうどええから付いてきた」
打楽器担当の久原くんはたしかにマイ楽器と言っても難しい。打楽器は種類が多い上、自宅に置くにはなかなか厳しい大型のものが多いから。まあ久原くんのタイプならドラムセットくらいはゆくゆく買いそうではあるが。
ちなみに楽器というものは言わずもがな値段が高い。梅吉の担当するトランペットは低ランクのものなら十万程度で買えるが、さく坊のホルンともなると五十万くらいが相場になってくる。
いずれにせよ中学生にはかなりの高額だ。小遣いで買うのはまず無理だろう。それにしても。
「やっぱ、ピカピカのに憧れる?」
生徒たちの購入動機はそれがいちばん多いのではないだろうか。学校所有の楽器はもとは良いものでもどうしても古く傷んでいるものが多いから。
するとさく坊は「あ、いえ」と首を振った。
「今の楽器に不満はないんです。でもいずれは欲しいな、ちて思うてます。やで、目標にしよ、いうか。高いんはわかっとるから、値段知って、今からコツコツ貯めていけたらな、って」
「なるほど……」
コツコツか。さく坊らしい言葉だ。
改めて四人でガラスケースを眺めた。こんなに光る楽器は今のミト中にはほぼない。芹奈さんのフルートくらいだろうか。
「ところでヒビノはなにしに来たんや?」
梅吉に訊ねられて「ああ」と返す。そして店内をぐるりと見渡した。この小さな店に指揮棒コーナーなんてあるだろうか。
「これやろ」
「あ」
久原くんがどこからか持ってきた箱を僕に向けて差し出していた。
「よう折るもんなぁ」
「はは……当たりだよ」
差し出されていた指揮棒の箱を受け取って売り場を教えてもらった。さて。何本買うかな。
「へえ……割と値段に幅があるんやな」
前から思っていたがこの不良はぜんぜん不良っぽくない。見た目は不良だし、やることも振る舞いもたしかに不良ではあるんだが、芯の部分が腐ってない。まず中学生の不良が『値段の幅』などという言葉を知っているのか。貫禄生徒のナンプならまだしも。
ちらと振り向くと梅吉とさく坊はまだガラスケースの前でヨダレを飲み込んでいた。まるでレストランの食品サンプルの前のようだ。
「素材の違いとか、かな。あとは有名ブランドかどうか、とか」
「ふうん」
質の良さはわかるが買うのは最低ランクのものだ。僕が棚から三つばかりごっそりと箱を取ると久原くんが苦笑してきた。
「百均で菜箸でも買えば? そっちのが強度もあるやろ」
「僕もそうしたいところだよ」
けど強度がないことは悪いことではなくて、鋭利であるそれの危険性を低くするなどの意図もあるそうだ。なにより肝心の指揮者サマがちゃんとしたタクトをご所望なのだから仕方ない。そりゃ菜箸じゃ格好もつかないもんな。
「ってことは、箸でも『なる』んやな」
う。やはりこの生徒は鋭い。
「意識すれば、ってところかな。普段食事を摂るのに箸を使っても変化はないよ。あとペンとかの書き物もね」
そんなでいちいち変わっていては身が持たない。
久原くんはまた「ふうん」と答えて梅吉たちのほうへ去っていった。さっさと会計してくれば? というところか。
非常にゆっくり動くご老人の店主相手に会計を済ませて店を出る。梅吉たちにもいちおう声を掛けておくか、と振り向くと当たり前のように三兄弟は僕のあとについてきた。……いや、なんでだ。きびだんごは渡してないはずだぞ。
「ヒビノ、このあとどこ行くんや?」
無邪気に訊ねるキウイ頭に少したじろぐ。嫌な予感だ。
「どこって……帰るよ」
「メシは?」
「え」
たしかにそろそろ早めの昼飯時ではあるが。
「ハンバーガー屋ができたんよ。そこに」
指さす先を見ると赤と黄色の派手な店がたしかにあった。いや、『できた』って。こんな日本中どこにでもある世界的な有名チェーン店が、まさか今までこの地には無かったのか。ついに上陸、という手作り感のあるのぼりが梅雨空の下ではためいている。
「行きたい」
「……行ってらっしゃい」
「ヒビノも一緒に」
「え」
やはり指揮棒はネットで買えばよかった。
まともに遠慮してくれたのはさく坊だけで、あとの二人はバカ食いだった。梅吉は単純な育ち盛りのバカで、久原くんは計算高いバカだ。つまり僕のおごりだからって好き放題注文された。ああ、とんだ災難だ。
「こういうの、関係上はほんとはよくないから。もうこれっきりにしてね」
精一杯不機嫌に言ったが『僕』が言ってどこまで伝わったかはわからない。買ったばかりの指揮棒、開封したほうがよかったか。
ようやく店を出てもうさっさと帰ろうとしていると、またしても僕を不幸が襲った。今日は絶対厄日だ。
「おい、なんしよる? セージ」
低い唸り声。森でクマと遭遇した時のような心境だった。はあ。
ハンバーガー屋の駐車場の陰からわらわら出てくるのはあの日のアマ高の不良たちか。あっという間に囲まれてしまった。
「おい! なあ!? なんしよる、ちて聞きよんけど!」
リーダー格の生徒が急に大声で怒鳴るから、梅吉とさく坊はビクンと小さく跳ねて僕の後ろにひっついた。こら、盾にするな。
横に立つ久原くんの表情をちらりと窺う。するとまさかと思ったが、笑んでいた。おいおい、頼むから煽るなよ。
「昼メシ食うてただけやけど?」
見てわからん? とやはりにやりと挑発する。ああもう。やめてー。
「は、まあええわ。ちょうどおまえに話あったんよ。顔かせる?」
リーダー格の不良が久原くんを指で呼ぶ。明らかにこちらを下に見ている嫌な動作だ。まあ実際年下でしかも中学生だしな。
「話? なに」
「べつの場所で」
「ここでええやろ」
動こうとしない久原くんに不良高校生は舌打ちをした。あー。苦手だ。先生なんだから止めろって? 非力な僕がひとりで? この獰猛なクマたちを? あいにく戦力外のサルとイヌを守るだけで桃太郎は手一杯なんだ。
「おまえ、他人の女に手ぇ出したらしいやん」
え。と隣の不良を見ると「はて」という顔をしていた。身に覚えがないのか、あるいは。
「は、俺ちゃうわ。むこうが勝手に寄ってきたんやで? 『あんなダサい男なんかいらん、かわいいセイくんのがええ』いうて」
挑発のほうかよっ!
案の定不良高校生は目を血走らせて久原くんに掴みかかってきた。うわうわ、勘弁してくれよ…………と、その久原くんから突然、す、と長い『なにか』を右手に握らされた。
これは……ストロー?
さっきまでいたハンバーガー屋の派手な赤と黄色の線が入ったストローだった。
おいおい。最悪なことをしてくれる。…………ほんっと、もう、まじで最悪だ久原。
「……はー。騒がしい」
静かに言ったが、目の前の不良高校生はなにかを察してかビクリとその巨体を震わせた。
「な、なんや?」
「今日の俺は機嫌が悪いんだ」
ああそうだ。指揮棒代は部費では落ちないとか言われて自腹になったし、そのうえでバカ食いするバカ共の食費まで払わされたんだ。ただでさえ激務に見合わない少ない給料だってのに。
まったく、腹が立ってしかたないんだよ。
「なあ、今日は持ってねーの?」
真正面に立って訊ねるとマヌケ面で見返してくるから「タ、バ、コ」と手のひらを出す。すると相手はまたいくらか縮んだ。なんだ、虚勢はってるただのビビりか。
「ち。使えねーなぁ」
仕方ないから自分のを……出すフリをしてスマホを出した。『自分のタバコ』なんてあるわけないだろ。
タタ、と片手で手早く操作して耳に当てる。
「ああ、天原駅前のハンバーガー屋で複数の不良が暴れてます。対応よろしく」
ぴ、と通話を切って顔を上げると、不良高校生たちが顔を青くしていた。ぼーっと見てないで通報の阻止でもすればよかったのに。まあ久原がさせなかっただろうけど。
「……んじゃ、帰るぞ。おまえら」
不良高校生が「待てや!」と声を出すのと、近くの交番から走って警官が来たのはほぼ同時だった。ほほう。仕事がお早い。よっぽど暇だったのか。
まったく。とんだ休日になった。
自転車で来た、という三兄弟とは駅で解散した。久原くんには「二度とやらないでよ?」と釘を刺したがたぶん効果はなさそうだ。
はー。息抜きになるはずが返って疲れた。当分の間、指揮棒はネットで買うことにしよう。というかなるべく折らないようにしよう。
〈幕間 終〉




