#17 天丼ではない
いつの間にか日は暮れて辺りは薄暗くなりはじめていた。
いくら平和な田舎とはいえ下校するわけでもない女子中学生をひとりで歩かせるのは躊躇われ、僕は芹奈さんを家まで送ることにした。
「響木先生もなにかできるんですか?」
「え?」
なんのことかと思ったら「楽器」と言いつつ自身の持つフルートを示した。
「吹奏楽部をやりたいってくらいだから」
「ああ、まあ」
トランペット──と言いかけたところで「当てます」と言われて驚く。
「当たらないと思うよ」
自慢じゃないが僕はよくいるトランペット奏者らしくはない。どちらかといえば梅吉のようなタイプのほうが向いている。怖いもの知らずの目立ちたがり屋。その特徴は一見短所のようだけどソロ演奏が多く合奏でも音が立つトランペットを吹く上ではかなりの長所となる。だから僕は下手なんだ。
「『当たらない』ってことは、それっぽくないってことだから……金管楽器ですね?」
参ったな。すっかり彼女のペースだ。『金管楽器』とは主に金属でできたラッパ形の楽器を指す。つまり当たりだ。
「トランペットだよ」
なんとなくこのまま話の主導権を握られているのが嫌で自ら明かした。案の定芹奈さんは「なんで言うんですかあ!」と怒る。絶対当てられたのに、と。はは。
「聴きたいなあ、先生の演奏」
「いや、いいよ。下手だから」
苦笑いで返しておいた。すると彼女は薄闇の中微笑んで、改めて僕に言った。
「学校、行きます」
驚いた。そうなればいいとは思っていたがまさかこんなにあっさりいい返事がもらえるとは思っていなかったから。
「みんなで吹奏楽なんて、そんな楽しそうな話、やりたいに決まってるじゃないですか。けど……」
けど……なるほど、わかるよ。
「説得、してくれるんですよね?」
「するよ。けど芹奈さんも協力してよね」
「協力……ですか」
「僕ひとりで言ってもダメだよ。それじゃ僕が芹奈さんをそそのかしたみたいでしょうが」
「そそのかした……んじゃない?」
「ええっ?」
意地悪く微笑まれてたじろいだ。
「ふふ……先生のこと、気に入りました」
「あ、ありがとう」
喜んでいいのか、これは。
「このフルート、美咲先生のなんです。タイミングなくて、返せなくなっちゃって。そのこと……親には言ってないんです。もちろん吹いてることも。誰かから聞いて知ってるかもしれないけど、その話題はお互い避けてる、っていうかで」
「今日お母さんは家にいる?」
「います……たぶん」
「夕飯時だけど、いいかな」
言う間に石本家の前に到着していた。今日このまま面談に踏み切るか、芹奈さんの今の心境からはそれがたぶんいちばんいい。しかしさすがにいきなり家庭訪問なんてのは非常識か、そもそもまさか学校の許可など要るのか、瞬時にいろいろと考えているうちに芹奈さんが玄関で手招きをしていた。
「いい……のかな」
「ええ? 今更ですよ、先生」
呆れた顔をされてはこちらもプライドがあるので弱ってもいられない。はあ、腹を括るか。
「お母さーん?」
よく通る声を家の奥に向かって掛けると、「なによー」と似たトーンの返事が来た。
ぐ……緊張、している場合ではないんだが。
「あら?」
「こ、こんばんは」
僕の存在に驚くその人は中学生の母親にしてはいくらか若い印象で、この土地に似つかわしくない都会っぽさも少しばかり漂わせていた。
「学校の先生。春から新しく来た」
娘にそう紹介されて納得しつつも「でもなんで?」と僕を見る。
「すみません。たまたま道でお会いして、その……ああ、響木といいます」
「暗くなったから送ってくれたの」
「へえ……ああ先生。それならご飯、どうですか? ね?」
「え!?」
思わぬ誘いに目を剥いた。いくら娘の中学の先生とはいえ、初対面で普通そんなことになるはずはない。
「カレーでもよければ。ね?」
咄嗟のことに上手く断ることもできずそのままリビングに流された。うそだろ。
「先生お若そうですね、独身? おいくつですか」
いきなり立ち入った質問をしてくれる。なるほど芹奈さんの母親は『そういうタイプ』の人らしい。これは参った、想定外だ。
芹奈さんに「どうぞ」と席を勧められたが「や、やっぱり……」と断りかけたところで大盛りのカレー皿を持ったお母さんに阻まれた。強すぎる。なるほどあの美咲先生に勝った相手なんだからそりゃ無敵なわけだ、と妙に納得した。
「す、すみません。そんなつもりじゃ」
言う途中で腹が鳴った。たしかにここ数日天丼かお茶漬けばかりだったので恥ずかしながらカレーというメニューには実際かなり体が喜んでいるようだった。
「うっふふ、いいんですよ。食べながら聞きますし、話します。芹奈が学校行ってないこと、ですよね?」
どうやら話は早いらしかった。