#16 先生でなくはない
◇
母親が家を出たのは必然だった、と芹奈は思っていた。
好奇心旺盛な、派手好き。娘が中学生になっても少女の心を持ったままだった母が、こんななにもない田舎でおとなしく専業主婦なんかやれるはずがなかった。
芹奈の中に『引き止める』という選択肢は初めからなく、それはまるで上京する姉を見送る妹のような心境だった。
「人生、たのしんで」
すべてを理解したふうを装って言ってみると、相手は嬉しそうに頷くから。芹奈にはやはりこの人を母としたままにはできなかった。それは芹奈のほうが母よりいくらか、大人だったからかもしれない。
空いた穴は、部活で埋めようとした。なにかに熱中していたら、ある程度のことは忘れられた。
顧問は美しい女性の音楽教師だった。美咲先生、というその人は芹奈に割り当てられた楽器と同じ、フルート奏者だった。
担当楽器が同じということで、自然と指導を受ける時間はほかの部員より多くなった。「スジがいい」という美咲先生のことばの通り、芹奈には素質があった。
やがてほかの部員たちからも『師弟』とみられるようになってきた頃、美咲先生から、ではなく、父親から話をされた。
「美咲先生と結婚しようと思うんや」
まるで知らなかった、わけじゃない。うすうす感じてはいた。さすがにいつどこで出会ったかまでは知らないし聞かなかったが、なんとなく、そんな気がしていた。
「いいよ」
あっさり答えてみせると父親はバカみたいに安堵した顔になった。
美咲先生となら、うまくやれる。母親の代わりは無理でも、穴を埋めるセラミックにはなってもらえる。
芹奈も芹奈なりに覚悟を決めた、というのに。
大人は本当に自分勝手で嫌になる。
◇
こうして生徒たちが練習を開始した裏で、僕は芹奈さんに会う方法を考えていた。あの日以来できる限り耳をすまして帰っているが例のフルートの音を再び聴けた日はない。それはたぶん部活が本格始動して僕の帰宅時間が少しずつ遅くなっているせいだろう。
そんなわけで今日はいつもより急いで帰り支度をして足早に校舎を出た。西日がまだいくらか高い。前回彼女の演奏を聴いた時間とおそらくほぼ同じだ。
──C……
聴こえているのか錯覚なのか、わからないまま気がついたら走っていた。
近づくにつれ音は明瞭になり、明瞭になったところで演奏は終わってしまった。
また手がかりを失った、わけじゃない。僕は既にしっかりとこの目に捉えていた。田畑の中にある大きな木の陰で、細長い銀色の楽器に夕日をキラリと反射させて立つ、小柄な少女の姿を。
「芹奈さんっ……!」
日頃の運動不足がたたって足はもつれ、つんのめる形になって僕は格好悪くそこに到着した。
「……こ、こんにちは。上手だね」
興奮のあまり下手なナンパのようになってしまった。少女はそんな僕に「ん、名前……?」と小首を傾げる。
は、そうか。しまった。つい気持ちが早った。
「ああ……えと」
「もしかして、中学校の先生ですか?」
目を見開いて相手を見た。少女は更に「音楽
の先生だ」と指をさし当ててくる。じとり、と背中にへんな汗が流れた。
否定できずにいる僕に相手は「当たりですね」と断定して微笑んだ。
大人っぽい口調だがなんとなくあどけなさの残るそばかすおさげ。黒髪でこそあるがどこぞの『アン』のような印象の少女だった。
「……なんで、そう思うの?」
苦し紛れに訊ねてみると少女は「ふふ」と笑った。
「だって美咲先生が辞めたから。新しい先生が来るのは当然でしょ?」
まあ、そうだな。べつに隠すつもりもなかったし、なんなら話が早くて助かるくらいだ。
「でも担任は中村先生だって聞いてますけど……」
小首を傾げる相手に「ああうん」と頷いた。
「僕は響木といいます。察しの通り音楽の先生だよ」
芹奈さんは「やっぱね」と小さく呟いて「それで?」とまた僕を見る。
僕はひと息ついて背筋を伸ばすと少しだけ距離を置いて彼女の隣に立った。ちょうど西日が眩しい方角だ。
「……学校のこと、嫌い?」
「そういうわけじゃ」
わかっている。いじめや勉強が原因ではないことは。ただ、話のきっかけを作りたかったんだ。
「美咲先生のこと……?」
芹奈さんは答えなかった。ただその瞳を遠い畑に向ける。青く茂る葉っぱだけではそれらがなんの野菜なのか移り住んでまだ日が浅い僕にはわからない。
「僕は、二人とも学校に戻ってほしいと思ってる」
「え……?」
畑に向けていた顔をこちらに戻した。僕と目が合うと、また視線を外して近くの小石へと落ち着ける。
「響木先生は知ってるかわかんないですけど、美咲先生と私は……会っちゃいけないんですよ」
「知ってるよ。けどそれは芹奈さんのお母さんが芹奈さんのために決めたことなんでしょう?」
僕を教師だと言い当てた少女に、今度は僕がその内を言い当てる。
「否定するつもりはないけど、それは本当に『芹奈さんのため』になってる?」
なっていないから、今こうなっている。
「説得したいと思ってる。お母さんを」
「え……」
芹奈さんが困惑しているのが伝わった。だけど、そうしないとこの生徒は、あの先生は、きっと前には進めない。
「吹奏楽部を創ったんだ。全校生徒に、参加してもらいたいと思ってる」
「吹奏楽部……え、全校生徒、ですか?」
「美咲先生にも手伝いを依頼してるんだ」
「……」
「本当は、会いたいんじゃない?」
言わせたいわけではないが、気づかせたいとは思う。その気持ちにふたをしてほしくはなかった。
「だから……吹いてるんでしょう?」
僕が問うと、彼女は目線だけでなく身体ごと畑に向けて、やがてその細い肩を震わせ始めた。夕日のみかん色に照らされながら、静かに、洩れる声を噛み殺すようにして、彼女は泣いていた。
「会ってもいいよ。大人たちは、芹奈さんの気持ちをなにより大事にすべきだ」




