#105 ただの思い出ではない 〈終〉
懐かしい美音原中の生徒たち。みんな立派な大人になっていて驚いた。
子どもだったあの頃の姿からは想像出来ないくらいに逞しく美しく成長して、それぞれが、それぞれの居場所で頑張っているのがわかって僕も嬉しくなった。
「ヒビノ! それから、響木先生!」
見送りにと天ぷら屋を出たところで呼ばれ振り向くと、しっとりと心地よく冷えた初夏の夜風の中で梅吉青年が少し照れくさそうにしていた。
「なに。改まって」
やさしく言ってやると、青年は指で鼻先をこする。少し笑って、真面目な顔になった。
「先生のおかげで、美音原中学は不滅や。名前がなくなっても、校舎がなくなっても、いつも、いつでも俺らの心に在り続ける。そうさせてくれたんは先生のおかげや。ありがとう。ありがとうございました」
「「ありがとうございましたっ!」」
清々しく微笑む若者たちの目は、どれも少しだけ潤んでいた。
「ふ……。ほんと、立派なこと言えるようになったよね」
照れ隠しに、もらい泣き隠しに、そう言って僕は笑った。
広いホールいっぱいに響くその音は、大観客の大拍手。
人々は立ち上がり、感動と感謝の気持ちを拍手に込めて眩しく照らされるステージへ送る。涙を流すご婦人。満足顔の紳士。心をうたれて呆然とする少年。
──パチパチパチパチ……
朝一番に聴くのは天ぷらの揚がる音。大将の元気な声に送られて、その次に聴くのは学校のチャイム。古めかしい鐘の音だ。
それからみんなの元気な声と、教頭と中村先生のボヤき。これは聞き流すに限る。
音楽の授業はほとんど楽器練習にあててしまった。教師としては、まあ失格かもね。
それからは校内で聴こえる様々な音や声を聴きながらあれこれ仕事を片付けて、迎える放課後。聴こえて来るのはまだ下手くそな演奏の数々。苦笑いをしつつ、今日もその真剣な瞳たちと真正面から向き合う。
やがて静かになった校内で残った仕事と楽譜の整理なんかを終えて、くたくたになって帰宅すると今度は美咲先生のマシンガントークになぜか毎晩付き合わされる。
天丼に胸焼けしつつ風呂を済ませて布団にもぐると、外の虫の声を子守唄代わりに聴きながら溶けるように眠りに就く。
毎日同じ繰り返しのようで、実は限りがあって、価値があって、かけがえのないその時間。
当時は必死でちゃんと見えていなかったけれど、今になってその輝きがよくわかる。
あれはただの『思い出』なんかじゃない。
あの日々は、紛れもない僕たちの『宝』だ。
──『音』を『楽』しんで、
『音』を『楽』しませて──
「美音原中学──」
「「うおおおおおっ!」」
──数年後、東京。
半円状に並べられた椅子。その中心に立って軽く二度手を打ち鳴らし場を静める。
三分の一が新たな顔となった新年度最初の合奏。そろそろ引退の時期を意識し始める歳になった今でもまだこの日は緊張する。それは、僕の『秘密』を、まっさらなこの生徒たちに明かす日だからだ。
「……はい、今日はこのメンバーで初めて合奏するわけなんだけどね、先に一年生のみんなに言っておかないといけないことがあります」
不思議そうにこちらを見つめる無垢な眼差し。これから三年間、どんな成長を見せてくれるのだろうか。もしかしたら、この子たちが僕にとって卒業まで見届けられる最後の学年になるかもしれない。
「上級生から聞いて知ってる人もいると思うけど、『僕』は指揮者になると、かなり……キツくなります。『僕』であることは確かなんだけど、『僕』と思わないでもらった方がいい。それだけ、言っておきます」
「知ってます!」
びしっと長い手が天井に向かって伸びた。おや。こんな反応は正直珍しい。今年はなかなか個性の強い生徒がいるようだ。
「え……っと?」
「一年のトランペット、梅田 琴羽です。よろしくお願いします! 『ヒビノ』先生!」
「えっ!?」
瞬間、懐かしい田舎の風に包まれたように錯覚して驚いた。生唾を飲んで改めて見るとその女子生徒にはたしかにその面影が……いや、坊主頭にしたらそのままだ。似すぎだ。
「その節は父が大変お世話になりました!」
梅吉。
「……う、ははは。ああ、やられた。そうか。すごいな、お父さん、か。……ええと琴羽さん。よろしくお願いします。ああごめんみんな。じゃあ気を取り直して、合奏を始めます」
ひと呼吸ついて、指揮台に置いた指揮棒に僕はゆっくりとこの手を伸ばした。
了
完結となります。
ありがとうございました!




