#01 ホラーではない
部活が好きだ。吹奏楽部が。
好きで、好きで堪らなくて。一生関われる道を求めた。
『部活顧問』
そこに行き着くのにそう時間は掛からなかった。
だけどそこからが予想以上に長く。僕は途方に暮れることとなる。
そもそも部活顧問は職業じゃない。ただでさえ枠の少ない音楽教師。赴任先があるだけでありがたいのにそれ以上を望むなんてことができるはずなかった。
気がついたら、夢を叶えないまま五年もの月日が経っていた。
次でハズレなら、教師なんかもう辞める。
そこまで腹を決めたところに舞い込んだのは、思いもしない転任の話だった────。
緑溢れる車窓を眺めていたらいつの間にかつまらない過去を振り返っていたようだ。
『ラッシュアワー』の『ラ』の字も知らないというような顔をして、一両編成の古びた電車はのんびりゆるりと線路上を動く。『走る』というよりやはり『動く』という体感だった。
たたん、たたん、一定のリズムを刻みながら揺れる灰緑の長いシートに座る乗客は僕ひとりだった。
たたん、たたん
たたん、たたん────
たかたか、とことこ
たかとこ、たかとこ
とととと、とととと
とろろろろろろろ、とろろろろろろろ
オンボロ車両が悲鳴のようなブレーキ音を立てるから無意識にリズムを刻んでいたことに気が付いた。職業病だ。
とうに限界を超えたご老体が臨終の寝床に就くごとく到着したのは終点の無人駅だった。
なんとなくホーム全体が黒ずんで見えたのは駅舎が古く朽ちているからかと思ったがどうやらそうではないらしい。その壁一面に古びた黒いポスターがびっしりと貼られていたからだ。
さすがに少々気味が悪い。ホラーものやミステリー、サスペンスもできれば避けて生きていきたいと願うのは僕だけじゃないはずだ。人生にそこまで大きな刺激はいらない。ヒューマンドラマやロマンスならともかく、自分が恐ろしい事件モノの主人公だなんてまっぴらごめんだ。脇役すらもいらない。その他多勢でじゅうぶんだ。
とはいえこの駅こそがこの電車旅の目的地である以上、下車しないわけにはいかない。不気味なポスターを見ないよう、目を閉じて、息もとめて通過すれば事件には巻き込まれない、なんて保証もないのでこの際ひとつのポスターの前に立ってじっくり観察してみた。黒いから勝手に不穏なものを想像したが内容はどうやらそうおっかないものでもないらしい。
黒地に、色とりどりの星。太陽らしい大きなオレンジ色の塊と、土星らしい輪のついた星。それからやたら綺麗な青の星がいやに目立つ。油彩画だろうか。芸術は好きだが絵画は専門外だ。プロの絵描きが描いたと言われれば、なるほど通りで構成や色の濃淡がいいと思うだろうし、そのへんの小学生が描いたと言われても、ああそうなんだ、と思うと思う。
絵に大きく印刷された白抜きの文字は明朝体でこうあった。
『天原から──宇宙へ』
ホーホホッホホー
姿は見えないがハトが近くでさえずりを始めた。のどかな景色とマッチしすぎる。
ホーホホッホホー
ホーホホッホホー
音痴ではないが拍子のとり方がヘタだ。これでメスを落とせるのか。
ポスターに意識を戻す。
宇宙。あいにく理系は専門外だ。
とりあえずポスターが不穏なものでないとわかって安堵した。そもそもこのポスターがそんな不気味なものならこの場所ももう少し珍スポットとして有名になっているはずだろう。
ポスターには他にも小さな文字が書かれていて、そこには見覚えのある名前があった。
『日本人宇宙飛行士 西野 湊斗 ゆかりの地』
数年前に世間で話題になった日本人宇宙飛行士の名だ。情報に疎い僕でもその名くらいは知っていた。
なるほど。つまりは彼がこの土地『天原』に関係しているということらしい。生誕の地か、あるいはなにか職務で関わったのか。
それにしても枚数が多い。町おこしとして調子に乗って刷りすぎたのをすべて引き受けたのかというほどあちらにもこちらにも、しつこいくらいに貼り巡らされている。
木造の駅舎は黒いポスターに覆われ、せっかくのレトロな雰囲気が台無しだった。町おこしがしたいのならこの駅舎をレトロモダンとでも謳って集客したほうがまだマシなのでは、といらぬ世話まで考える。まあ朽ちた壁の傷みや汚れを都合よく覆い隠しているのかもしれないが。
あいにくこちらは宇宙にあまり関心はなく、懲りずに続くポスター群を横目にさっさとバス停へと足を向けた。
肌寒い春風の中寂しく突っ立つ錆びたバス停の標識。時刻表を見ると見慣れたものよりもかなり空白が多かった。要するに運行本数が驚くほどに少ないのだが、閑散とした駅と緑溢れる景色を前に納得する。無人にもほどがある無人駅だ。
腕時計と見比べつつ、近くの朽ちてギチギチ鳴るベンチにこわごわ腰を降ろしてぼんやりと景色を眺めた。春の穏やかな陽射しの中、聴こえるのは相変わらずのハトのさえずり。木の葉が風にそよぎ軽やかにこすれ合う音。目を閉じてみると、ジー、と静かな虫の声が足元から聴こえた。
ホーホケキョ
遠くの山から微かに聴こえた。模範解答のような『春』。出来すぎだろ。ひとり軽く口角を上げた。
排ガスを黒く噴きながら年季の入ったバスがのろりと到着したのは、春の寒さがだんだんと骨身に染みてきた頃だった。慎重に乗り込んで適当な座席に着く。舗装の悪い田舎道を揺られること約一時間。痛くなってきた尻を庇いつつ車窓を窺うと、眩しい新緑の中、見えてきたその校舎は木造でこそないものの灰黒く、予想通りかなりさびれていた。
徐行しながら通り過ぎた黒い校門には、知っているから読める文字でこうあった。
『市立 美音原中学校』
この新天地で一体なにが待ち受けているのか。現時点でわかるはずはなかった。