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#02 期待通りではない



 深海にいるかのような、静かな始まり。気が付かないくらいに静かに、だけど確実に、そこから始まる。細かな粒が見えて、徐々に水面へと向かって昇る。あぶくが虹色に光り、さかなの腹がきらめく。


 ばしゃん! と弾けるように空気に触れる。途端に音が押し寄せる。鳥がさえずる。獣が吠え、うたう。重なる旋律に聞き惚れているうちに地響きにも似たけたたましい低音が響き、いつの間にか絶頂を迎えている。


 このままでいたい。

 このまま音に酔いしれていたい。


 だけど確実に終わりは近づいて、音は自然とひとつの塊になってゆく。やがて、ひときわ大きな光となり、そして、


 握られた指揮者の手の中にあっさり消える。


 大きな余韻だけをのこして。



 瞬きも、息さえも忘れた数秒の静寂ののち、どっ、と押し寄せるような拍手がホールを膨張させるほど鳴り響く。


 忘れられない光景。

 忘れられない快感。


 鳴り止まない大拍手────。



 いつのことだったか、天ぷらを揚げる音が大観客の拍手の音に似ている、と友人に話したことがあった。


 バカかよ、と笑われた。



 ────パチパチパチパチ……



 それでもこの音は、やはり大拍手だと今でも思う。



「おはようございまーす……」

「お! 先生おはようさん!」


 借りている部屋を出てすぐの階段を降りたところに靴棚があって、その先は仕切りもなしにいきなり店になっている。


 僕の冴えない挨拶に満面の笑みで応えてくれる初老の男性はここの大将。白髪混じりの角刈りに気合いのねじり鉢巻。板前のような白衣姿で、白い前掛けの裾には紺の糸で店名が刺繍されている。


 〈天ぷら たちばな〉


 それがこの店。僕が春からお世話になることとなった下宿先だ。


 いや、いくら大拍手を浴びたいからってなにも好きで天ぷら屋の二階を間借りしているわけじゃないとは言っておく。


「先生ぇ、今日の新作、いっとく? 今日はなんと……ぬか漬けきゅうり天や! 初めてっしょ? わしも初めて! かっははは」


「う……はは、遠慮しときます」


 靴棚から自分のものを取り、履きつつ苦笑いで答えた。


「あんった、朝からいらんわよそんなん! ねえ、先生。あっははは!」


 反り返るように大笑いするのは大将よりいくらか体にふくふくと厚みのあるおかみさん。こちらは白衣ではなくえんじ系の濃淡でデザインされた仕事着だ。


 こんな田舎で天ぷら屋。経営は大丈夫なのかとはじめは心配したが、店は昼も夜もそれなりに賑わうから不思議だ。客は一体どこから来ているのか。間違ってもそこの山に住むタヌキや妖怪じゃないとは思いたい。


「いやー。今日から新年度が始まるわけやな! ええねえ! 先生もやっと『先生』になれるちわけや。ほでは行ってらっしゃい張り切って!」


「はは。……いってきます」



 どれだけ明るく見送られても、やはり気持ちは晴れなかった。


 引越し自体は数日前に済ませていて、学校での勤務ももう始まっていた。ただしそれは『春休み』中のことであったため、実際に教務に就くのは今日からとなる。


 外は春の陽射しが眩しかった。


 中学教師になって五年。これまでに二校赴任したがいずれにも吹奏楽部は存在しなかった。運のなさを恨んだが、この春ついに念願叶って吹奏楽部のある中学校に赴任できることとなった。


 よし。やっとだ。これでまた部活ができる。懐かしいあの日々を『顧問』として味わえる。慣れないガッツポーズまでして期待に胸を膨らませたが、ふたを開ければそこは市内でいちばん小さい、いちばん田舎の、いちばん知らない中学だった。


 山奥すぎて自宅からは車でも通うことが不可能だった。下宿先を探したのだが信じ難いことに空き部屋どころかアパートそのものがなく。教頭のツテで今の下宿先である天ぷら屋を紹介してもらった。


 ──そうまでして来てもらわんでも。


 僕だってそう思わないこともない。だがここに吹奏楽部が『ある』と聞いたからには多少のことは妥協できた。肩身の狭い居候だろうと、部活さえ始まればそう長く自宅にいることもないはずだから。


 天ぷら屋での下宿は大将夫妻の人柄のよさもあり順調だった。間借りとあって部屋に鍵がないのは難点とも思えたが、使い放題の電気に水道、そこに昼食用の天むすと天丼の晩ごはんまで込みでたったの月三万円という破格の好条件。逃す手はなかった。


 田舎暮しはたしかに不便ではあるがもともと物欲などないし身体も丈夫なほうだ。数日住んでみて困ることはそれほどなかった。


 なんにせよこれで長年やりたかった教師生活が送れる。生徒がどれだけ少人数だとしても、校内で楽器に触れられる。指揮ができる。それだけで幸せだ。


 ……と思っていたのに。


 僕のそのパンパンに膨らんだ期待がペシャンコに踏み潰されたのは数日前の、赴任初日のことだった。



「……ない?」


「はあ。ないんですわ、日比野先生」

「……ひび、()、です。すみません」


「ああ、失礼。せやから、ないんですわ」


「いやでも、あると聞いて来たんですが」


「うん。あったにはあったんですぅ、ついこの間までは。ほでも入部者が絶えて、顧問も昨年度でちょうど退職したもんで」


「え……つまり、廃部、ってことですか!?」

「ええ、ま、そうゆうことですわな。実質」


「そ、そんな、なんとかできないんですか!?」


「なんとかちぃ、言われてもねえ」


 唖然……。


「まあそう気を落とさんと。日比野先生は二年生の担任、やってもらいます。一番多い学年やし、気合いを入れて。ね!」


「ひび、き、…………いえ。わかりました」


 この瞬間、僕の『妥協』はただの『苦痛』と化した。



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