第57章 残す仕事、選ぶ時間(前編)
城下町から戻った翌朝、紡はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の壁を淡い灰色に染めていた。夜の冷たさが床に残っていて、布団から出した足先が思わず縮こまる。
時計を見ると、目覚ましが鳴るまで十五分ほどあった。
もう一度目を閉じてもよかった。
けれど、眠気は残っていなかった。
昨日まで歩いていた町の景色が、まだ体のどこかに残っている。
石畳を踏んだ感触。
川面に揺れていた冬の光。
和菓子店に広がっていた餡の甘い匂い。
資料館の窓越しに聞いた、遠い自転車の音。
どれも鮮明だった。
仕事として訪れた旅だったから、帰宅してからもやることは多い。録音した会話を聞き直し、写真を整理し、記事の構成を考えなければならない。
それでも、今朝の紡の胸に重くのしかかっていたのは、締め切りではなかった。
会社へ伝えるべきことだった。
布団から出て、暖房をつける。
台所で湯を沸かしながら、冷蔵庫の扉に貼った予定表へ目を向けた。
午前十時。
上司との面談。
予定表には、それだけが書かれている。
改善企画の進め方について話したいと伝え、時間を取ってもらった。
けれど、本当に話したいことはそれだけではなかった。
会社での役割。
旅の仕事。
勤務時間。
これからの働き方。
今までなら、そんな話を持ち出すこと自体にためらいがあった。
会社へ何かを求めることは、自分の都合を押しつけるような気がしていた。
与えられた条件の中で、できる限り応える。
それが働くということだと思っていた。
けれど、それでは続かないと分かってきた。
続けられない形のまま無理を重ねれば、いつかどちらかを手放すことになる。
会社か。
旅か。
そんなふうに二つへ分ける前に、考えられることがある。
両方を続けられる形を、自分から提案すること。
それが今の紡に必要な一歩だった。
コーヒーを淹れ、窓辺へ立つ。
向かいの建物の屋根には、薄く霜が残っていた。朝陽がその縁を照らし、白い線のように光っている。
マグカップを両手で包みながら、紡は小さく息を吐いた。
緊張している。
それを否定する必要はなかった。
大切なことを伝えようとしているから、怖いのだ。
言葉にしたあと、どう受け止められるかは分からない。
会社にとって都合の悪い提案だと思われるかもしれない。
仕事への責任が足りないと見られる可能性もある。
旅の仕事を優先したいだけだと誤解されるかもしれない。
それでも、黙ったままでは何も変わらない。
紡はマグカップを置き、深い青色のノートを開いた。
昨夜、眠る前に書いた言葉が残っている。
『どちらも、自分が選んだ一日だった。』
その下へ、今朝の日付を書いた。
しばらくペン先を止めたあと、一行を加える。
『続けたいなら、続けられる形を言葉にする。』
書いた文字を見つめる。
誰かに背中を押してもらうためではない。
自分の決意が揺らがないよう、確かめるための言葉だった。
紡はノートを閉じ、身支度を始めた。
通勤電車は、いつもより混んでいた。
厚いコートを着た人たちが肩を寄せ合い、それぞれの手元でスマートフォンの画面を見つめている。
紡は吊り革につかまりながら、窓へ映る自分の顔を見た。
見慣れた通勤の朝だった。
同じ時間。
同じ路線。
同じ駅。
けれど、以前の自分とは違う気持ちでここに立っている。
会社へ向かうことを、選べないものだと思っていた時期があった。
月曜日が来るから行く。
給与が必要だから働く。
辞める勇気がないから続ける。
理由を探せば、どれも間違いではなかった。
けれど、そのどれにも自分の意思が見えなかった。
今は、会社へ残したい仕事がある。
真帆に伝えたいことがある。
自分が提案した改善企画の行方を見届けたい。
旅の記事を書きながらも、会社の中で続けたい仕事がある。
その気持ちを、妥協と呼びたくなかった。
一つに決められない弱さでもない。
二つとも大切だと知ったからこそ、簡単に手放さないための選択だった。
電車が大きく揺れ、車内の人々の体が一斉に傾く。
紡は吊り革を握り直した。
窓の外を流れていくビルの間から、明るくなり始めた空が見えた。
会社へ着くと、真帆がコピー機の前で資料を揃えていた。
「おはようございます。」
紡に気づき、少し慌てたように紙の束を抱え直す。
「おはよう。早いね。」
「今日の打ち合わせで使う資料、先に確認しておこうと思って。」
「昨日のうちにできていたんじゃなかった?」
「できていたんですけど、もう一回見たら気になるところが出てきて。」
真帆は困ったように笑った。
その表情が、少し前の自分と重なった。
間違いがないか不安で、何度も同じ資料を見直す。
確認を重ねるほど安心できると思いながら、実際には新しい不安を見つけてしまう。
紡は真帆の手元にある資料へ目を落とした。
「どこが気になったの?」
「この数字です。前月と比較した方が分かりやすいかなと思って。」
「真帆さんは、どう思う?」
すぐに答えを渡す代わりに尋ねた。
真帆は資料を見つめる。
「私は......比較があった方が、変化が伝わると思います。」
「じゃあ、入れてみようか。」
「いいんですか?」
「うん。ただ、数字を増やしすぎると見づらくなるから、伝えたいものを一つに絞って。」
真帆は頷き、すぐにデスクへ戻ろうとした。
その背中へ、紡は声を掛ける。
「真帆さん。」
「はい。」
「昨日、私がいない間の対応、ありがとう。」
「いえ。分からないことも多くて、何度か他の方に聞きました。」
「聞けたなら大丈夫。」
真帆は少し驚いたように紡を見た。
「一人で全部できなかったんですけど。」
「一人で全部やることが仕事じゃないから。」
口にしてから、紡はその言葉が自分自身にも向けたものだと気づいた。
真帆はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「藤沢さんにそう言ってもらえると、少し安心します。」
「私も、最近やっと分かってきたことだから。」
「藤沢さんでも?」
「うん。むしろ、ずっと分かってなかった。」
二人の間に、柔らかな笑いがこぼれた。
真帆は資料を抱えたまま、自分のデスクへ戻っていく。
その姿を見送りながら、紡は胸の奥に小さな寂しさを感じた。
引き継ぐということは、自分がいなくても仕事が進むようにすることだ。
必要とされなくなることとは違う。
頭では分かっている。
それでも、長く抱えてきた仕事を誰かへ渡すとき、心のどこかに空白が生まれる。
自分の手から離れていくことへの寂しさ。
自分よりうまくできるようになるかもしれないという、わずかな怖さ。
そんな感情があることを、以前の紡なら認めなかっただろう。
教える側なのだから、余裕を持たなければならない。
後輩の成長を心から喜ばなければならない。
そう思い込み、複雑な気持ちを押し込めていた。
けれど、寂しさがあるのは、それだけ大切にしてきた仕事だからだ。
手放したくないから渡さないのではなく、大切だからこそ、続いていく形にする。
それも自分にできる仕事なのだと思えた。
パソコンを立ち上げると、取材中に届いていたメールが何件も並んでいた。
急ぎのものから順に返信し、今日の予定を確認する。
午前十時の面談まで、あと一時間半。
画面の隅に表示された時刻が気になる。
意識しないようにしても、胸の内側が落ち着かなかった。
九時を過ぎた頃、改善企画に関わる部署から問い合わせが入った。
新しい運用について、現場から懸念が出ているという内容だった。
紡は送られてきた文章を読み、すぐに返事を書くのをやめた。
以前なら、その場で解決策を提示しようとした。
自分が調整役なのだから、答えを出さなければならないと思っていた。
けれど、相手が本当に困っていることが、文章だけでは見えなかった。
電話をかける。
相手は少し驚いたようだったが、話し始めると、メールには書かれていなかった事情が次々と出てきた。
「新しいやり方そのものに反対ということではないんです。」
担当者は慎重に言葉を選んでいた。
「ただ、繁忙期と重なると、現場が対応しきれない可能性があって。」
「時期をずらせば、対応できそうですか。」
「それなら、かなり違います。」
「具体的には、いつ頃がよいでしょう。」
相手の話を聞きながら、紡はメモを取る。
最初に考えていた案を守ることより、続けられる形へ整える方が大切だった。
十分ほど話したあと、導入時期を一か月遅らせ、先に一部の部署で試す案がまとまった。
電話を切ると、隣の席にいた真帆がこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「すみません。聞くつもりじゃなかったんですけど。」
「うん。」
「最初の予定と変えてもいいんですね。」
紡は少し考えてから答えた。
「変えないことが目的じゃないから。」
「でも、一度決めたことを変えると、ぶれたと思われませんか?」
その不安もよく分かった。
紡自身、以前は計画を変えることを失敗だと思っていた。
「理由を説明できれば、ぶれたことにはならないと思う。」
「理由。」
「現場が無理なく続けられるように変えるなら、それは後退じゃないよ。」
真帆はゆっくり頷いた。
「藤沢さんは、前からそう考えていたんですか?」
「ううん。」
紡は苦笑する。
「前は、一度決めたことを守る方が責任だと思ってた。」
「今は違うんですね。」
「続かないものを無理に進める方が、無責任なこともあるって分かったから。」
言葉にしながら、今日の面談で伝えたいことと同じだと思った。
働き方も同じだった。
一度入社したから。
正社員だから。
周りと同じ時間で働くのが当然だから。
決められた形を守ることだけが責任ではない。
続けられない状態になる前に、変える必要がある。
紡はデスクの引き出しから、面談用にまとめた資料を取り出した。
A4用紙二枚。
昨夜、何度も書き直したものだった。
一枚目には、現在の担当業務と改善企画で担う役割。
二枚目には、これから希望する働き方と、そのために整理すべき業務。
感情だけではなく、会社にとって何が必要かも考えた。
旅の仕事を理由に負担を減らしてほしいと伝えるだけでは、自分の希望しか見えない。
勤務時間を変えるなら、どの仕事を誰へ渡すのか。
自分が担い続ける仕事は何か。
連絡が取れない時間をどう補うのか。
繁忙期にはどう対応するのか。
自分なりに、できる限り具体的に整理した。
それでも、すべてが受け入れられるとは限らない。
資料を見つめていると、指先が冷たくなる。
「藤沢さん。」
真帆の声に顔を上げる。
「そろそろ、会議室じゃないですか?」
時計は九時五十五分を示していた。
「ありがとう。」
資料を持って立ち上がる。
真帆が何か言いたそうに見えた。
「どうしたの?」
「いえ......。」
迷ったあと、真帆は小さな声で言った。
「大事な話ですか?」
紡は一瞬、答えに詰まった。
まだ何も決まっていない。
不安にさせたくはなかった。
けれど、曖昧に笑ってごまかすこともしたくなかった。
「これからの働き方について、相談してくる。」
「辞めるんですか?」
真帆の表情が変わった。
驚きと不安が、そのまま目に浮かんでいる。
紡は静かに首を横へ振った。
「辞めるための話じゃないよ。」
「じゃあ......。」
「続けるための話。」
真帆はしばらく紡を見つめたあと、少しだけ表情を緩めた。
「そうですか。」
その声には、まだ不安が残っている。
「戻ったら、話せることは話すね。」
「はい。」
「行ってきます。」
資料を胸元へ抱え、紡は会議室へ向かった。
会議室の前で一度立ち止まる。
曇りガラスの向こうに、上司の影が見えた。
深く息を吸う。
これまで何度も、仕事の報告や相談でこの部屋へ入ってきた。
失敗したとき。
新しい企画を提案したとき。
評価を伝えられたとき。
けれど、今日はそのどれとも違う。
自分の人生に関わる条件を、自分から話すために来た。
扉を叩く。
「どうぞ。」
中へ入ると、上司はパソコンを閉じ、机の向かいの椅子を示した。
「座って。」
「失礼します。」
資料を机へ置く。
上司は紡の表情を見て、少しだけ姿勢を正した。
「改善企画の話だけではなさそうだね。」
見抜かれていたことに、紡はわずかに緊張した。
「はい。」
「聞こう。」
すぐに話し始めるつもりだった。
けれど、用意してきた言葉が喉元で止まった。
何から伝えればいいのか。
旅の仕事を始めたことは、すでに会社へ申請している。
副業として認められている範囲で続けてきた。
ただ、依頼が増えた。
取材の機会も増えた。
会社の仕事にも、以前とは違う責任が生まれている。
どちらも大切にしたい。
言葉にすれば簡単だ。
けれど、その希望が身勝手に聞こえないかという不安が消えない。
上司は急かさなかった。
机の上で手を組み、紡が話し始めるのを待っている。
その沈黙に助けられ、紡はゆっくり口を開いた。
「今後の勤務について、相談したいことがあります。」
「うん。」
「まず、改善企画の調整役は、これからも続けたいと思っています。」
上司は小さく頷く。
「会社の中で、続けたい仕事があることも、はっきり分かりました。」
言葉を重ねるたび、自分の気持ちが輪郭を持っていく。
「以前は、旅の仕事を続けるなら、いつか会社を辞めなければいけないと思っていました。」
上司は黙って聞いている。
「どちらか一つを選ばなければ、中途半端になると思っていたんです。」
紡は膝の上で手を握った。
「でも、今は、会社を辞めたいとは思っていません。」
はっきり言うと、胸の奥が少し軽くなった。
これは妥協ではない。
迷いの末に残った言葉だった。
「会社でしかできない仕事があります。ここで一緒に働きたい人もいます。改善企画も、途中で手放したくありません。」
上司の表情は変わらない。
そのため、どう受け止められているのか分からなかった。
紡は一度息を整え、続ける。
「同時に、旅の仕事も続けたいです。」
「そうだろうと思っていた。」
思いがけず穏やかな声が返ってきた。
紡は顔を上げる。
上司は椅子の背へ少し体を預けた。
「取材から帰ってきたあとの藤沢さんは、前より顔が明るい。」
「そうですか。」
「自分では気づいていなかった?」
「少しは。」
上司は小さく笑った。
「隠せていないよ。」
その笑みに、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
けれど、まだ本題は伝えていない。
紡は用意した資料を一枚、上司の前へ差し出した。
「両方を続けるために、勤務時間と担当業務を調整できないか、相談させてください。」
上司は資料を手に取り、ゆっくり目を通し始めた。
紙をめくる音だけが会議室へ響く。
紡は自分の心臓の音まで聞こえるような気がした。
資料には、週に一日、勤務時間を短縮する案を書いていた。
取材や執筆の時間を確保するためだけではない。
会社の仕事を長く続けるために、休息を含めた時間が必要だと考えた。
ただし、希望だけを並べたわけではない。
短縮する時間の分、日常業務の一部を真帆へ引き継ぐ。
改善企画に関する会議や調整は、これまでどおり責任を持つ。
重要な時期には勤務日を柔軟に変更する。
緊急時の連絡方法も明記した。
上司は最後まで読み終えると、資料を机へ置いた。
すぐには何も言わなかった。
その沈黙が長く感じられた。
紡は唇を結ぶ。
「よく考えたね。」
ようやく返ってきた言葉は、予想していたものとは違った。
「ありがとうございます。」
「ただ、いくつか確認したい。」
「はい。」
上司は資料の一か所を指差した。
「週一日の短時間勤務。これは、取材がある週だけではなく、継続して希望するということ?」
「はい。」
紡は頷いた。
「取材がない週も、記事を書く時間や準備に充てたいと思っています。それだけではなく、自分の生活を整える時間としても必要だと考えました。」
言いながら、少し怖くなる。
仕事のためだけではなく、生活のための時間がほしい。
以前なら、会社へそんなことを言ってはいけないと思っていた。
けれど、曖昧にしたくなかった。
「正直に言うと、これまで会社と副業を両立しようとして、休む時間を削っていました。」
「そうだろうね。」
上司は淡々と答えた。
「気づいていたんですか。」
「いつもより疲れている日はあった。」
「ご迷惑をかけていましたか。」
反射的にそう尋ねると、上司は少し眉を寄せた。
「その言い方はやめた方がいい。」
「え?」
「疲れていたことを、すぐ迷惑に結びつける必要はない。」
紡は言葉を失った。
上司は資料の端を指で押さえながら続ける。
「仕事に支障が出ていたなら、それは話し合う必要がある。でも、疲れている人がいること自体を迷惑だとは思わない。」
その言葉が、静かに胸の奥へ染み込んでいく。
紡はこれまで、弱さを見せることを周囲への負担だと思っていた。
疲れたと言うこと。
難しいと伝えること。
助けを求めること。
それらは誰かへ迷惑をかける行為だと思い込み、自分の中で処理しようとしてきた。
けれど、すべてを隠した結果、限界まで抱え込めば、かえって周囲は何もできない。
「すみません。」
そう言いかけ、紡は口を閉じた。
謝る場面ではない。
「ありがとうございます。」
言い直すと、上司は小さく頷いた。
「この働き方に変えた場合、収入も変わる。その点は理解している?」
「はい。」
「社会保険や評価制度についても、人事へ確認が必要になる。」
「分かっています。」
「すぐに決められることではない。」
「はい。」
紡はまっすぐ上司を見る。
「すぐに認めていただけるとは思っていません。会社にとって難しい点があれば、教えていただきたいです。その上で、別の方法も考えたいです。」
上司は少し目を細めた。
「以前の藤沢さんなら、ここまで言えなかっただろうね。」
「そう思います。」
「何が変わった?」
思いがけない問いだった。
紡はすぐに答えられず、机の上の資料へ目を落とした。
何が変わったのだろう。
旅を始めたこと。
記事を書いたこと。
知らない町を歩き、知らない人の話を聞いたこと。
母と旅をしたこと。
書かない時間を選んだこと。
会社で真帆へ仕事を教えるようになったこと。
半年間の収入や時間を数字で振り返ったこと。
どれか一つではない。
小さな選択が重なった先で、自分の望むものを言葉にできるようになった。
「自分で決めないまま続けることの方が、怖くなったんだと思います。」
紡はゆっくり答えた。
「前は、会社を辞められない自分を弱いと思っていました。」
上司は黙っている。
「旅の仕事だけで生きていけるようにならなければ、前へ進めないと思っていたんです。」
自分の中に長くあった焦りを、初めて会社の人へ話していた。
「でも、会社に残りたいと思うことも、私の本当の気持ちでした。それを認めないまま、いつか辞めることばかり考えるのは違うと思うようになりました。」
会議室の窓から、冬の陽射しが細く差し込んでいる。
机の上に置かれた資料の端を白く照らしていた。
「辞めないことを、選べないからだと思いたくありません。」
紡は言葉を続ける。
「会社に残ることも、旅の仕事を続けることも、自分で選びたいです。」
口にした瞬間、胸の奥にあった迷いが静かにほどけていくのを感じた。
何度も考えてきた。
それでも、誰かへ伝えるまでは、どこかで自分を疑っていた。
欲張りなのではないか。
覚悟が足りないのではないか。
一つに絞れないだけではないか。
けれど今、自分の声で言えた。
どちらも選びたい。
その言葉に、恥ずかしさはなかった。
上司はしばらく紡を見つめたあと、椅子へ深く座り直した。
「一つ聞いてもいい?」
「はい。」
「旅の仕事がもっと増えたら、どうする?」
紡は息を止めた。
いつか考えなければならない問いだった。
依頼が増え、収入が安定し、会社との両立が難しくなる日が来るかもしれない。
反対に、旅の仕事が減ることもある。
今決めた形が、ずっと続くとは限らない。
「そのとき、また考えたいです。」
紡は答えた。
「今ここで、何年先まで同じ形を続けるとは言えません。」
正直な言葉だった。
「でも、そのときの自分が何を大切にしたいかを確認して、選び直したいです。」
「会社を辞める可能性もある?」
「あります。」
上司の目を見たまま答えた。
それを言えば、今回の提案が受け入れられなくなるかもしれない。
それでも、会社へ残り続けると約束して安心させることはできなかった。
未来の自分を縛る言葉は、今の決意とは違う。
「ただ、今は辞めたいとは思っていません。」
紡は続けた。
「今ここで、できることを続けたいです。」
上司は少しだけ視線を下げ、資料を見た。
「正直だね。」
「曖昧にしたくなかったので。」
「会社としては、ずっといてくれると言ってもらった方が安心だけど。」
「はい。」
「でも、そんな約束は誰にもできない。」
上司は資料を揃え、机の端へ置いた。
「僕だって、五年後もここにいるか分からない。」
その言葉に、紡は少し驚いた。
上司はこれまで、会社で迷うことなどない人に見えていた。
与えられた役割を受け入れ、組織の中で順調に進んできた人。
けれど、それは紡が外から見ていた姿にすぎない。
誰もが、自分の働き方について考えている。
役職が上がっても、迷いがなくなるわけではない。
「だから、今続けたいという気持ちは大切にしたい。」
上司は言った。
「ただし、会社の制度として可能かは別の話になる。」
「はい。」
「人事と相談する。担当業務の整理も、もう少し必要だ。」
「ありがとうございます。」
「まだ決まったわけじゃないよ。」
「それでも、話を聞いていただけたことがありがたいです。」
上司は紡の顔を見たあと、わずかに笑った。
「藤沢さんは、結論が出る前に感謝する癖があるね。」
「そうでしょうか。」
「話を聞くくらい、当然だよ。」
当然。
その言葉が、紡には新鮮だった。
自分の希望を伝えること。
会社がそれを聞くこと。
受け入れられるかどうかは別として、話し合うこと自体は特別なお願いではない。
「改善企画については、どう考えている?」
上司は話題を切り替えた。
「勤務時間を短くした場合も、調整役を続けたい?」
「はい。」
「責任が重くなることもある。」
「分かっています。」
「旅の仕事が忙しい時期と重なるかもしれない。」
「その場合は、早めに相談します。」
以前なら、「大丈夫です」と答えていただろう。
何があっても自分で対応すると伝えることが、信頼につながると思っていた。
けれど今は、できない可能性を隠さないことも必要だと分かっている。
「抱え込まずに?」
「はい。」
「本当に?」
念を押され、紡は苦笑した。
「そこは、努力します。」
「努力では困るな。」
上司も笑う。
「では、抱え込む前に相談します。」
「そうして。」
会議室の空気が、ようやく柔らかくなった。
話し始める前に感じていた怖さは、完全には消えていない。
希望が通るかどうかは分からない。
人事から難しいと言われるかもしれない。
条件を変えなければならない可能性もある。
それでも、何も言えないまま一人で結論を出そうとしていた頃とは違う。
今は、話し合いの中に自分がいる。
「もう一つ。」
上司が資料の二枚目へ目を落とす。
「真帆さんへの引き継ぎだけど、少し急ぎすぎていない?」
紡は意外な指摘に瞬きをした。
「急ぎすぎていますか。」
「藤沢さんが、自分の業務を減らしたいからという意味ではない。」
上司は慎重に言葉を選ぶ。
「真帆さんの成長は早い。ただ、任せることと、置いていくことは違う。」
胸に軽い痛みが走った。
「置いていくつもりはありません。」
思わず強い口調になり、紡は息を整えた。
「すみません。」
「責めているわけじゃない。」
上司は穏やかに言う。
「ただ、藤沢さんは自分で決めると、早く形にしようとするところがある。」
否定できなかった。
働き方を変えると決めた瞬間から、そのために必要なことを急いで整えようとしていた。
真帆へ仕事を渡すことも、その一つだった。
もちろん、真帆ならできると思っている。
成長してほしいという気持ちも本当だ。
けれど、その裏に、自分の時間を確保しなければならないという焦りがなかったとは言えない。
「真帆さんと、きちんと話した?」
「業務の引き継ぎについては。」
「その先のことは?」
紡は黙った。
今日、会議室へ来る前、真帆は不安そうに「辞めるんですか」と尋ねた。
続けるための話だと答えたが、それだけだった。
働き方を変えたいことも、真帆へどこまで仕事を任せたいのかも、まだ伝えていない。
相手の気持ちを確認する前に、引き継ぎの計画だけを進めていた。
「話します。」
紡は静かに答えた。
「私の都合だけで任せることにならないように。」
上司は頷いた。
「藤沢さんが仕事を渡す相手なら、大丈夫だと思っている。ただ、任せられる側にも選ぶ時間は必要だよ。」
選ぶ時間。
その言葉に、紡は胸を突かれた。
自分が選ぶことばかり考えていた。
会社に残るか。
旅を続けるか。
勤務時間をどうするか。
けれど、紡の選択によって役割が変わる人にも、意思がある。
真帆が新しい仕事を望んでいるのか。
責任を担う準備があるのか。
不安を言える関係になっているのか。
それを確かめなければ、本当の意味で仕事を託したことにはならない。
「ありがとうございます。」
紡は言った。
「真帆さんと、改めて話します。」
「うん。」
上司は資料を手元へ引き寄せた。
「これは預かる。人事へ相談して、来週までには一度返事をする。」
「分かりました。」
「その前に、担当業務をもう少し細かく整理しておいて。」
「はい。」
紡は椅子から立ち上がった。
話す前よりも、体が軽い。
望んだ答えをもらえたわけではない。
何も決まっていない。
それでも、逃げずに言葉にできた。
扉へ向かおうとしたとき、上司が呼び止めた。
「藤沢さん。」
振り返る。
「はい。」
「会社に残りたいと言ってくれたことは、素直に嬉しいよ。」
胸の奥が熱くなった。
予想していなかった言葉だった。
上司は少し照れたように視線を資料へ落とす。
「ただ、残るために無理をしてほしいわけじゃない。」
「はい。」
「続けられる形を、一緒に考えよう。」
紡はすぐに返事ができなかった。
喉の奥に何かが詰まる。
会社は、自分を縛る場所だと思っていた時期がある。
決められた時間に行き、与えられた仕事をし、簡単には離れられない場所。
けれど、会社という建物や制度だけで働いているわけではない。
そこには人がいる。
話を聞き、考え、迷いながら一緒に形を探そうとしてくれる人がいる。
もちろん、すべてが思いどおりになるわけではない。
制度には限界がある。
組織として守らなければならない条件もある。
それでも、話す前から諦める必要はなかった。
「ありがとうございます。」
今度の感謝は、結論を急ぐためではなかった。
一緒に考えると言ってくれたことへの、素直な気持ちだった。
紡は頭を下げ、会議室を出た。
廊下の窓から、白い冬空が見えた。
雲の切れ間に、淡い青がのぞいている。
会議室へ入る前と、景色は何も変わっていない。
それでも、足元の感覚が違った。
決めてもらうのを待つだけではない。
自分の希望を伝え、相手の事情を聞き、その間にある形を探す。
それもまた、選ぶということなのだと思った。
デスクへ戻ると、真帆がすぐに顔を上げた。
「おかえりなさい。」
「ただいま。」
「どうでしたか。」
不安を隠せない表情だった。
紡は自分の椅子へ座らず、真帆の隣へ立った。
「今日の午後、少し時間をもらえる?」
「はい。」
「引き継ぎのことも含めて、ちゃんと話したい。」
真帆は緊張したように頷いた。
「分かりました。」
「それと。」
紡は少し笑った。
「私は辞めるつもりはないよ。」
真帆の肩から、目に見えない力が抜けた。
「よかった。」
あまりにも素直な言葉に、紡は胸が温かくなる。
「そんなに心配してた?」
「少しだけです。」
「顔に出てたよ。」
「藤沢さんも、さっき会議室へ行くとき、すごく緊張した顔をしてました。」
「そうだった?」
「はい。」
二人で顔を見合わせ、笑った。
その笑いが静まったあと、真帆は机の上の資料へ視線を落とした。
「でも、何かは変わるんですよね。」
紡は誤魔化さずに頷いた。
「変えたいと思ってる。」
「仕事を減らすんですか。」
「減らすというより、続ける仕事と渡す仕事を整理したい。」
「私に渡す仕事もありますか。」
「ある。」
真帆は小さく息を吸った。
期待と不安が混じった表情だった。
紡はその顔を見て、会議室で言われた言葉を思い出す。
任せられる側にも、選ぶ時間が必要だ。
「でも、真帆さんがどうしたいかも聞きたい。」
「私が?」
「うん。私が決めたから、全部そのとおりにしてほしいとは思ってない。」
真帆は何も言わず、紡を見つめている。
「午後、時間を取って話そう。」
「分かりました。」
その返事は、先ほどまでとは少し違っていた。
ただ指示を受ける人の声ではない。
自分も話し合いに加わるのだと理解した声だった。
紡は自分のデスクへ戻り、パソコンの前へ座る。
画面には、城下町で取材した記事の白い原稿が開かれたままになっていた。
まだ一文字も書いていない。
けれど、焦りはなかった。
町で受け取った言葉は、胸の中に残っている。
知っている町へ帰ってくるような気持ち。
町の音がよく聞こえる冬。
それらを急いで文章にする前に、まず今日やるべきことがある。
会社の仕事を整えること。
真帆と話すこと。
自分の働き方を、誰かとともに形にしていくこと。
窓の外では、午前の光が少しずつ明るさを増していた。
紡は新しい文書を開き、真帆へ引き継ぎたい仕事を書き出し始めた。
仕事の名称だけではない。
なぜその仕事が必要なのか。
どんなときに迷いやすいのか。
自分がこれまで失敗したこと。
助けを求める相手。
答えを一つずつ渡すのではなく、真帆が自分で考えるために必要なものを残したかった。
キーボードへ指を置き、最初の一文を打つ。
『これは、正しくこなすためだけの仕事ではありません。』
そこまで書いて、紡は手を止めた。
正しくこなすだけではない。
誰かへ渡す仕事には、これまで積み重ねてきた時間が含まれている。
けれど、その時間をそのまま引き継がせる必要はない。
真帆には、真帆のやり方がある。
自分と同じようにすることを求めたら、それは任せることにはならない。
紡は文章を消した。
代わりに、別の一文を打つ。
『この仕事を、あなたのやり方で続けてほしいと思っています。』
画面に現れた文字を見つめる。
まだ本人の気持ちを聞いていないのに、先に「続けてほしい」と書くのは違う気がした。
再び消す。
考えた末、紡は短く書いた。
『この仕事について、一緒に考えたいことがあります。』
それなら、今の気持ちに近かった。
渡すのではない。
押しつけるのでもない。
一緒に考えた上で、託せるものを託す。
紡は次の行へ進んだ。
会議室で伝えた言葉が、まだ胸の中に温かく残っている。
会社に残ることも。
旅を続けることも。
自分で選びたい。
そのためには、自分一人の都合だけで周囲を動かしてはいけない。
選ぶということは、誰かの選択にも耳を傾けることだった。
午後になれば、真帆と向き合う。
そして来週には、会社から最初の返事が届く。
何が決まるかはまだ分からない。
けれど、紡はもう、答えが与えられるのを待っているだけの自分ではなかった。
自分の希望を言葉にし、相手の言葉を受け止めながら、続けられる道を探していく。
その道が、最初に思い描いた形と違ってもいい。
一度決めたものを変えてもいい。
今の自分に必要なものを確かめながら、何度でも選び直せばいい。
紡は画面へ向き直り、真帆と話すための項目を一つずつ書き始めた。
窓の外では、冬の陽射しがビルの壁を白く照らしていた。




