第53章 残したい仕事
十二月に入ると、会社の空気は少しずつ慌ただしくなっていった。年末の締め切り、来年度へ向けた準備、部署ごとの業務整理。廊下では「今年中に」「年明けまでに」という言葉が何度も聞こえる。紡も例外ではなかった。改善企画の正式運用は順調に進み、最後の確認資料をまとめる仕事が残っている。
エレベーターホールには小さなツリーが飾られ、給湯室には誰かが持ってきたチョコレートの箱が置かれていた。廊下ですれ違う人の足取りも、心なしか早い。年末という区切りは、会社の中の時間を少しだけ圧縮するように働く。
一年前の自分なら、この時期はただ忙しさに流されていた。目の前の仕事を終わらせることだけで一日が終わり、帰宅すると疲れて眠るだけだった。今は少し違う。忙しさの中でも、自分がどんな役割を担っているのかを考えられるようになっていた。
朝のミーティングを終えたあと、上司が声を掛けた。
「藤沢さん、少しいい?」
「はい。」
会議室には上司だけだった。窓際に立ち、外を見ながら言う。
「来年度の体制を考え始めている。」
紡は黙って続きを待つ。
「改善企画は今年で一区切りになる。」
「はい。」
「来年は別の部署も巻き込んだ取り組みを考えている。」
紡は静かに頷いた。
「その中心メンバーに入ってほしい。」
予想していなかったわけではない。それでも、実際に言葉になると胸の奥が少しだけ熱くなる。半年前なら、迷わず引き受けていた。今は違う。嬉しい。でも、すぐに返事はしない。
「ありがとうございます。」
そこまで言ってから続けた。
「少しだけ考える時間をいただいてもいいですか。」
上司は笑った。
「やっぱりそう言うと思った。」
「以前ならすぐ返事をしていました。」
「そうだね。」
上司は椅子へ腰掛けた。
「でも、その方が安心できる。」
紡は少し意外そうな顔をした。
「即答しない方がですか。」
「今は、自分の時間も仕事量も見て決めているでしょう。」
「はい。」
「責任を増やす人ほど、それが必要だから。」
紡はその言葉をゆっくり受け止めた。責任。以前の自分は、「期待されること」と「仕事を引き受けること」を同じ意味だと思っていた。期待に応えたい。だから受ける。断れば失望される。そう考えていた。今は違う。引き受けることと、期待に応えることは必ずしも同じではない。受けた仕事を最後までやり切ること。そのためには、増やしすぎないことも必要だった。
「いつまでに返事をすればいいですか」
紡が尋ねると、上司は少し考えた。
「年明けでいいよ。今すぐじゃなくていい」
「わかりました」
「一つ聞いていい?」上司が続けた。「迷ってる理由は、時間のこと?それとも、やりたいかどうか?」
紡は少し考えてから答えた。
「両方です。やりたい気持ちはあります。ただ、今の役割と副業と、両方を維持できるかを先に確認したいです」
「それは、いい迷い方だと思う」
上司はそれだけ言って、資料を閉じた。会議室を出る前、紡はもう一度頭を下げた。
昼休み、真帆が隣へ座る。
「藤沢さん、何かありました?」
「どうして?」
「少し考え事してる顔。」
紡は笑う。
「上司から来年度の話があって。」
「昇進ですか?」
「そういう話じゃないよ。」
改善企画を別部署へ広げる話。中心メンバーの打診。真帆は目を輝かせた。
「すごいじゃないですか。」
「まだ返事してない。」
「どうしてですか?」
「続けられるか考えたいから。」
真帆は少し考えてから言った。
「昔の藤沢さんなら、すぐやりますって言ってそう。」
「そう思う?」
「はい。」
「今は?」
「ちゃんと考える人になりました。」
紡は味噌汁を一口飲んだ。
「変わったかな。」
「変わりました。」
真帆は迷いなく言う。
「最初は全部自分でやろうとしてました。」
紡は苦笑した。否定できない。改善企画。副業。記事。母。会社。全部を完璧にやろうとしていた。今は違う。できること、できないこと、あとでやること、誰かへ任せること。分けられるようになった。
真帆はスプーンを置いて、少し真面目な顔になった。
「私、藤沢さんが全部一人で抱えてたときの方が、実は不安でした。」
「そうなの?」
「はい。何かあったら、藤沢さんが倒れちゃうんじゃないかって。」
紡は少し驚いた。そんな風に見られていたとは思っていなかった。
「今の方が、安心して聞けます。」
真帆はそう言って、また笑顔に戻った。
「藤沢さんが完璧じゃなくても、私が頑張ればいいんだって思えるので。」
その一言は、紡の胸へ静かに残った。完璧であろうとすることは、誰かを頼りにくくさせることでもあったのかもしれない。
午後、改善企画の最終資料を印刷する。数字。問い合わせ件数。入力時間。差し戻し率。グラフを見ながら、紡はふと思う。この数字も記事と同じだ。読まれた数。保存数。平均作業時間。報酬。数字だけでは見えないことがある。でも、数字を見なければ気づけないこともある。感覚だけでも足りない。数字だけでも足りない。その両方を見るようになった半年だった。
勤務を終え、帰宅する。活動用の受信箱には新しい依頼は来ていない。少しだけ確認し、閉じる。深い青色のノートを開く。
『会社に残したい仕事は何だろう。』
そう書く。少し考える。最初に浮かんだのは、
「改善企画」
だった。でも、それだけではない。真帆と話す時間。他部署との調整。困っている人の話を聞くこと。一緒に仕組みを考えること。文章を書くこととは違う。それでも、自分に向いている仕事だった。
ページをめくる。今度は黒いノート。会社で得たものを書き出す。安定収入。社会保険。有給休暇。副業申請。改善企画。後輩育成。部署を越えた経験。仕事を任せる経験。仕事を断る経験。最後の二つを書いて、少し笑う。会社でも外でも、「断る」ことを覚えた一年だった。
ノートを閉じる前に、紡はもう一つ問いを書き足した。
『残したい仕事と、続けられる仕事は、同じだろうか。』
答えはすぐには出なかった。改善企画は、紡が向いていると感じる仕事だ。けれど、来年度の中心メンバーになれば、今より多くの部署と関わる。真帆へ引き継いだ分、時間に余裕ができるはずだったが、新しい役割はまた別の時間を必要とする。増えた分だけ、どこかを削る。会社の仕事も、副業と同じ構造をしていた。
紡は、これまでの一年でできるようになったことを、もう一度紙へ並べてみた。任せる。断る。条件を確認してから引き受ける。急いで答えを出さない。数字と気持ちの両方を見る。どれも、記事を書く仕事の中で身につけたことばかりだった。会社の仕事にも、副業で学んだことがそのまま生きている。逆に、会社で学んだ進行管理の感覚は、記事の締め切りや修正のやり取りにも生きていた。二つは別々の場所にあるようで、同じ紡という一人の中でつながっていた。
『残したい仕事を選ぶことは、続けられる形を選ぶことでもある』
紡はそう書き直した。最初の問いより、今の自分に近い答えだった。
数日後、改善企画の引き継ぎ会議が開かれた。真帆が運用担当として説明する。紡は隣で聞くだけ。必要な場面だけ補足する。会議中、真帆は資料をめくりながら、以前よりずっと落ち着いた声で話していた。質問が来ても、慌てずに答える。答えられない部分は「確認して後日ご連絡します」と正直に伝える。その姿を見ながら、紡はかつての自分を思い出していた。何でもその場で答えなければならないと思い込み、曖昧な返事をしてあとで訂正することもあった。真帆はその失敗を、紡より先に避けられている。
一つだけ、参加者から厳しい質問が飛んだ。「導入コストに見合う効果が本当に出ているのか、数字で示してほしい」という声だった。真帆は一瞬言葉に詰まったが、資料の別のページを開き、「試験運用時の差し戻し件数の推移でしたら、こちらに」と冷静に答えた。紡は口を挟みたくなる衝動を抑えた。真帆なら答えられる。その通り、真帆は落ち着いて数字を示し、質問した相手も納得した様子で頷いた。
会議後、参加者の一人が言った。
「真帆さん、説明わかりやすかったです。」
真帆は少し照れながら、
「藤沢さんに教えてもらいました。」
と答えた。紡は首を振る。
「自分で考えたからだよ。さっきの数字の答え方、私は教えてない」
真帆は少し驚いた顔をした。
「とっさに出てきました」
「それが力になってるってことだよ」
真帆は少し笑った。その笑顔を見て、紡は胸が温かくなる。仕事を渡す。以前は、自分がいなくても仕事が進むことを少し寂しく感じていた。今は違う。自分がいなくても続く仕事を作れたことが嬉しかった。
その夜、美咲と食事へ行く。久しぶりだった。会社近くの定食屋。温かい煮込みうどんを注文する。湯気の向こうで、美咲が先に口を開いた。
「最近どう?」
「半年の見直し終わった。」
「どうだった?」
「会社辞めない。」
美咲は笑った。
「知ってた。」
「そんな顔してた?」
「うん。」
「残念じゃない?」
「何が?」
「夢が遠くなったとか。」
美咲は首を振る。
「前より近づいてると思う。」
「そうかな。」
「前は会社辞めることしか考えてなかった。」
紡は黙る。その通りだった。会社を辞めれば自由。そう思っていた。
「今は?」
「会社を続けながらでも、ちゃんと進んでる。」
美咲はうどんを食べながら言う。
「それに。」
「うん。」
「会社の話を楽しそうにするようになった。」
紡は少し驚く。自分では気づかなかった。改善企画。真帆。上司。以前なら愚痴ばかりだった。今は違う。もちろん大変なことはある。でも、「会社にも好きな仕事がある」と言えるようになっていた。
「美咲は?」紡が尋ねると、美咲は少し肩をすくめた。
「私はまだ、好きな仕事とそうじゃない仕事の間くらい。」
「それでいいんじゃない?」
「紡に言われると説得力あるね」
美咲は少し笑ってから、箸を止めて続けた。
「新しい部署、慣れてきたけど、まだ好きって言えるところまでいってない。得意なところと、苦手なところが半分ずつって感じ」
「苦手なところは?」
「数字を細かく詰める作業。前の部署の方が向いてた気がする」
「じゃあ、前の部署に戻りたい?」
「戻りたいわけじゃない。今の方が、任せてもらえることは増えたから」
紡は頷いた。得意な部分と苦手な部分、戻りたいわけではないという気持ち。すべてが同時に成り立つことを、この一年で二人とも学んできたのかもしれない。
「紡の副業も、そんな感じ?」
「うん。得意な記事と、苦手な記事がある」
「苦手なのは?」
「取材が多いやつ。人に話を聞くの、まだ緊張する」
「意外」
「意外?」
「紡、人の話聞くの得意だと思ってた」
「聞くのは好きなんだけど、初めて会う人に取材として聞くのは別」
美咲は納得したように頷いた。
「それも、半年後にはまた変わってるかもね」
「そうかもしれない」
二人で笑った。うどんの湯気が、寒い夜の中でゆっくりと立ち上っていた。
帰宅後、ノートを開く。
『私は会社が好きになったのではない。』
そう書いて止まる。違う。消す。会社全部が好きなわけではない。好きな仕事がある。苦手な仕事もある。人も同じ。
『会社の中で、自分が続けたい仕事を見つけた。』
その一文を書き残した。
週末、母から電話が来る。
「元気?」
「うん。」
「最近忙しい?」
「会社が少し。」
「記事は?」
「落ち着いてる。」
母は少し笑った。
「ちょうどいいんじゃない。」
「何が?」
「忙しすぎないの。」
紡は窓の外を見る。冬の空は高かった。
「お母さん。」
「なに?」
「会社で新しい仕事を頼まれた。」
「やるの?」
「まだ考えてる。」
母は少し黙ってから言う。
「昔ならもう引き受けてたね。」
最近、みんな同じことを言う。真帆も。上司も。美咲も。母まで。
「そうかもしれない。」
「今は?」
「考えてから決めたい。」
母は嬉しそうだった。
「それでいい。」
短い言葉だった。それから母は、話題を変えるように続けた。
「そういえば、この前泊まりに来たとき、朝ご飯どうだった」
「美味しかったよ」
「パンとご飯、どっちがよかった?」
「どっちでもいいって言ったでしょう」
「もう一回聞いてるの」
紡は少し笑った。
「次はご飯がいいかな。寒いし」
「じゃあ、次はご飯ね」
たわいのない会話だった。それでも、電話を切ったあと、紡は自分でも不思議だった。昔の自分なら、「早く会社を辞めたい」と母へ話していた。今日は一度も出なかった。辞めたくないわけではない。違う。急いで辞める理由がなくなった。それだけだった。
翌週、上司へ返事をする日が来た。
「来年度の改善企画ですが。」
上司が顔を上げる。
「お引き受けしたいです。」
少し間を置いて続ける。
「ただ、一つお願いがあります。」
「何?」
「今の担当業務を整理してから始めたいです。全部抱えたままでは難しいと思っています。」
上司は頷いた。
「その考えで進めよう。」
それだけだった。以前なら言えなかったお願い。断るのではない。条件を伝える。仕事を続けるための相談。上司は当然のように受け入れた。
「もう一つ、確認していいですか」紡は続けた。
「何?」
「真帆さんに任せる範囲を、正式に文書にしておきたいです。口頭だけだと、あとで誰の判断か曖昧になるので」
上司は少し驚いたような顔をしたあと、笑った。
「藤沢さんらしいね」
「そうですか」
「前は、そこまで考えてなかったでしょう」
「はい。全部自分で抱えてましたから」
会議室を出るとき、紡は少しだけ肩の力が抜けた。仕事を受けること。仕事を続けること。その間には、「どう受けるか」という選択がある。
帰宅後、黒いノートを開く。会社。副業。母。旅。半年。すべてを見渡して書く。
『私は、会社を辞める理由を探すことをやめた。』
そして、その下へ。
『代わりに、会社で残したい仕事を探すようになった。』
翌日、人事の柏木から連絡が来た。来年度の中心メンバー就任にあたり、簡単な確認面談をしたいという。会議室で向かい合うと、柏木はいつもの穏やかな調子で切り出した。
「役割が増えると、副業の許可条件にも影響が出る場合があります。念のため、今の活動状況を伺ってもいいですか」
紡は月ごとの作業時間や、会社への影響がなかったことを説明した。柏木は資料を見ながら頷く。
「特に問題はなさそうですね。ただ、来年度は業務量が変わる可能性があるので、半年後にもう一度、副業側の作業時間も含めて確認させてください」
「半年後、ですか」
思わず声が出た。奇しくも、自分がちょうど今日ノートへ書いたのと同じ言葉だった。
「何かおかしいですか」
「いえ」紡は笑った。「ちょうど、自分でも半年ごとに見直そうと決めていたので」
柏木は少し意外そうな顔をしたあと、「それなら好都合ですね」と言った。会社の制度と、紡が自分で決めた習慣が、同じリズムで動き始めている。それは偶然かもしれないが、紡にはどこか心強く感じられた。
静かな夜だった。活動用の受信箱は今日も静かだった。それでも紡は、不安だけで一日を終えなかった。会社には、続けたい仕事がある。外には、続けたい文章がある。どちらかを失くさなければ、もう一方を手に入れられないわけではない。そのことを、ようやく自分の経験として信じられるようになっていた。
窓の外では、冷たい風が木々を揺らしていた。紡は灯りを消す前に、押し入れの上段を一度だけ見上げる。古い靴の箱は、今日も静かにそこにある。まだ開ける日ではない。急がなくても、歩みは止まらない。そう思いながら、紡は静かに眠りについた。




