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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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第51章 選ばれなかった企画の行き先

継続執筆者としての条件が決まり、六件目の相談を一度断ってから、三週間が過ぎた。川辺から新しい依頼は来なかった。黒いノートには新しい基本原稿料が書かれている。まだ一度も使われていない数字。手に入れたのに、まだ使えていない。新条件で最初に来た相談は、書ける実体験がなく断った。判断は間違っていないはずなのに、連絡がないと「断らなければよかったのではないか」という考えが浮かぶ。

三週間という時間は、以前の紡なら耐えられなかったかもしれない。依頼のない受信箱を眺めていたあの頃を思い出す。あのときと違うのは、今は「次が来ないこと」への恐怖ではなく、「条件を上げてもらったのに、それに見合う働きができているのか」という、また別の種類の不安だということだった。恐怖の形が変わっても、受信箱を気にする自分は、あまり変わっていないのかもしれない。

紡はその不安を、これまでのように黙って抱え込むのではなく、一度きちんと言葉にしてみることにした。ノートに「見合う働きとは何か」と書き、その下に条件を並べた。締め切りを守る。修正に誠実に対応する。書きたいことを妥協せずに書く。これらを守れていれば、依頼の頻度そのものは、紡の努力だけでは決まらない要素も含んでいる。予算、季節、媒体の方針。紡がコントロールできないものまで、自分の責任として抱え込む必要はなかった。

月曜の朝、駅までの道で、紡は立ち止まる場所を探している自分に気づいた。記事の相談はすでに断ったのに、題材として景色を見ている。歩く速度は変えなかった。

その癖に気づいたとき、紡は少しおかしくなった。断った企画のことを、頭ではもう終わったことにしているつもりでも、体の方はまだ「立ち止まる場所」を探し続けている。考えることと、体に染みついた習慣が、必ずしも同じ速さで変わっていくわけではないらしい。紡はその矛盾を無理に正そうとせず、ただ苦笑しながら、いつも通りの速度で駅へ向かって歩き続けた。

会社では、改善企画の最終報告会が近づいていた。真帆と日程調整をしながら、紡は「資料を事前に送って、会議は四十分で終える形にしよう」「決めることを三つに絞る」と提案した。記事でも会社の会議でも、すべてを書けば・話せば中心が消える。試験運用で一部署だけ問題が起きたことも、「隠してまた困る方が嫌だから」と正直に報告資料へ残すことにした。

真帆は資料をまとめながら、「問題があったことまで書くの、勇気いりますね」と呟いた。「そうだね。でも、隠して後から見つかる方が、もっと信頼を失うと思う」「それも、記事の修正のときと同じ考え方ですか」「たぶんそう。都合の悪い部分を隠したくなる気持ちは同じだから」真帆はその答えに納得したように頷き、資料の該当箇所を丁寧に整えていった。会社の仕事と副業の仕事、扱う対象は違っても、紡の中で判断の軸は少しずつ一つに定まりつつあった。

昼休み、活動用の受信箱に、川辺の媒体から新しい企画募集の一斉案内が届いた。テーマは「家族と離れて暮らす人の、小さな往復」。締め切り二週間後、採用本数三本。紡の胸が動いたのは報酬のことではなく、最近母に言われた「泊まっていけば」「泊まるほど遠くないから、泊まらなくなるのね」という言葉だった。紡はいつも日帰りで、母の家に泊まったことはほとんどない。

夜、紡は母に電話をかけ、「本当に泊まってほしいの?」と尋ねた。母は「別に、どっちでもいい」と言ったあと、企画の説明を聞いて「たまには朝ご飯を一緒に食べてもいいと思っただけ」と答えた。夜ではなく、翌朝。紡が実家を出る前、毎朝一緒に食べていた食卓——今は泊まらなければ、その時間はない。「昔は毎日いたから」という母の声が少しだけ変わった。

その一言に、紡は電話口で言葉を失った。母がこんな風に、日常の欠落をぽつりと漏らすことは、これまでほとんどなかった。いつも気丈で、寂しさを表に出さない人だと思っていた。その母が、電話の向こうで一瞬だけ見せた小さな声の揺れに、紡は自分がこれまで気づかずにいたものの大きさを感じた。

紡は記事にする範囲を確認した。母の年齢や一人暮らしの詳細は書かない。発言は事前確認。それでも、記事にならなくても一度泊まりたいと思い、その週末、実際に母の家へ泊まりに行くことにした。

泊まる支度をしながら、紡はふと、実家を出てからの年月を数えてみた。もう何年も、日帰りでしか母の家を訪れていなかった。泊まるという選択が、これほど久しぶりのことだとは、自分でも意識していなかった。小さな鞄に着替えを詰めながら、紡は少し不思議な緊張を覚えていた。慣れた場所のはずなのに、泊まるとなると、また少し違う顔を見せるのかもしれない。

母の家では、いつも通りの夕飯とテレビ、狭い台所で並んで食器を洗う時間があった。「寂しい?」と聞くと、母は「また記事?」と少し身構えたあと、「毎日寂しいわけじゃない。一人の方が楽な日もある。紡が来たら嬉しいけど、帰ったら片づけも増える。でも、来ないとつまらない日もある」と、一つに決めない答えを返した。

台所の窓から差し込む夕方の光の中で、母はいつもより饒舌だった。近所で新しくできた店のこと、テレビで見た旅番組のこと、昔飼っていた猫のこと。紡はほとんど相槌を打つだけで、母の話をただ聞いていた。取材ではない。ただ、母の今日を聞く時間だった。

翌朝、七時前に起きると母はすでに台所に立っていて、いつもと同じ献立の朝食が並んでいた。特別な感動はなかった。ただ一緒に食べた、それだけでよかった。

食卓に着きながら、紡は昔、毎朝当たり前のように交わしていた朝の挨拶を思い出していた。「おはよう」「今日は何時に出るの」「傘持った?」——特別でも何でもない、ただの日常の会話。それを久しぶりに交わしただけで、紡の胸には静かな満足感が広がっていた。特別な出来事だけが、大切な時間をつくるわけではない。当たり前の繰り返しの中にも、確かに大切なものがあるのだと、紡は改めて実感していた。

洗濯をしながら、紡は企画案を作った。仮題「『泊まっていけば』の中にあった朝」。母を孤独な人として描かず、家族と過ごす時間を増やすことを勧めるのでもなく、同じ言葉から母と娘が想像していた時間の違いを描く構成にした。

構成を練りながら、紡は何度も「これは本当に書きたい企画か」と自分に問い直した。継続執筆者になってから、紡の中には「次も選ばれたい」という気持ちが、以前より強く根を張っている。その気持ちに引きずられて企画を作れば、母との朝食という個人的な時間さえ、実績のための材料に変わってしまう。紡はその境界線を、慎重に確かめながら言葉を選んだ。

送信前、ノートに「この企画が選ばれなくても、泊まってよかった」と書いた。五件目のためでも六件目のためでもない、と確認するために。

会社では改善企画が正式運用に入り、真帆が問い合わせに自分で対応するようになっていた。紡が何も言わなくても仕事が進んでいる。週末、母から一人分の朝食の写真とともに『今日は一人』と届いた。胸が少し痛んだが、企画には使わないと決め、私的なやり取りとして保存した。

写真の中の食卓は、紡が見慣れた母の食卓だった。それでも、一人分だけ並んだ器を見ると、いつもと違って見えた。紡が実家にいた頃、母は毎朝、何人分もの食器を並べていた。今、母の食卓は、紡が来る日以外、ずっとこの一人分の景色なのだろう。企画にしないと決めたその写真を、紡はもう一度だけ見つめてから、そっと画面を閉じた。

一週間後、選考結果が届いた。「今回は採用を見送らせていただくこととなりました」。不採用。視点は編集部内でも高く評価されたが、特集全体は「繰り返される往復」を中心にする方針となり、紡の企画は「一度の宿泊で見えた気づき」という性格が強く、また採用予定の別企画に親との朝食を扱う内容が含まれていたため、題材が重なることも見送りの理由だった。商店街企画の不採用と似た構造だった。それでも、五件を書き、継続執筆者になった今なら通ると、どこかで思っていたことに気づく。

不採用の理由を読みながら、紡は自分の中に、以前とは違う種類の落ち着きがあることに気づいた。以前なら、不採用の知らせを受け取るたびに、自分の企画そのものを全否定されたような気持ちになっていた。今回は違う。理由を読み、納得できる部分は納得し、それでも残る悔しさは悔しさとして認める。感情を一つに決めつけず、複数の感情が同時にあることを、そのまま受け止められるようになっていた。

美咲に「落ちた?」と言い当てられ、理由を話すと「企画が悪かったわけじゃないんじゃない?」と、前と同じ言葉が返ってきた。「五件書いたのに」と紡が言うと、「五件書いたら、落ちないと思ってた?」「ほかの人もわかってるんじゃない?」。「泊まったこと、後悔してる?」「してない」「なら、その時間は残ったじゃん」。仕事にならなかったが、経験は残る。ただし、経験が残るから無報酬でよいとは思わない、と紡はきちんと分けて考えた。

紡は川辺へ、検討への感謝と、特集全体の方針を理解したこと、通常記事としての再構成は今後改めて検討したいことを簡潔に伝えた。ノートには「五件書いても、企画は選ばれない」「採用される人になったのではなく、採用されることも、不採用になることもある人になった」と書いた。

その一文を書き終えたとき、紡は自分の中で何かが静かに定着していくのを感じた。継続執筆者という肩書きも、基本原稿料の増額も、紡を不採用から守ってくれるものではなかった。それでいい、と思えた。守られることを目指すのではなく、不採用があっても書き続けられる自分でいることの方が、ずっと大切だった。

母へ結果を伝えると「そう」とだけ答え、「また泊まりに来たら、続きになるんじゃない?」と気にしていない様子だった。数日後、採用された三本のタイトルが共有され、そのうちの一つ「母と月に一度、駅の喫茶店で朝食を取る」が紡の企画と重なる題材だった。公開後に読むと、別に暮らす母娘が家ではない場所で短い時間を重ねる、丁寧な記事だった。悔しさと納得の両方があった。特集に合う形が違っただけで、優劣ではない、と頭では理解しながら、心は少し遅れてついてきた。

読み終えたあと、紡はしばらくその記事を開いたままにしていた。よくできている。素直にそう思える。それなのに、胸の奥では小さな棘のようなものが疼いていた。自分が書けなかった題材を、別の誰かが、別の形で美しく仕上げている。その光景を見るのは、初めての経験ではなかったけれど、何度経験しても、まったく痛くならないわけではなかった。紡はその痛みを、無理に消そうとはしなかった。消えない痛みを抱えたまま、次の記事へ進む。それも、書き続けるということの一部なのだと、今は思えた。

会社の改善企画が終わり、上司との振り返りで「会社の企画も、藤沢さんが出した案が全部通ったわけじゃないでしょう」「違いは何でしょう」「会社では、仕事自体が続くからじゃない?外では、企画が通らないと、その仕事がない」と言われ、紡は腑に落ちた。

「その違いを知ってから、何か変わりました?」上司が尋ねた。

「不採用になっても、そこで終わりじゃないって思えるようになりました。会社の仕事みたいに、続く場所が別にあるから」

「それ、いい発見だね」

「案が通らなかった経験は、どちらも次に使える。ただし、外の仕事は無償の時間になるから、出し続ける量には気をつけた方がいいね」——紡は「自分から出す企画は、無報酬提案の上限を月四時間まで」と黒いノートに決めた。

翌週、川辺から通常記事の相談が届いた。テーマは「家へ持ち帰らなかった仕事」。紡は、美咲がかつて言った「社内メールは夜に見られないから諦める。紡の個人メールはいつでも見られる」という言葉を思い出し、「持ち帰れない仕事と、いつでも持ち帰れる仕事の間」を書くことにした。受諾し、新条件での初めての契約として書き上げた。作業八時間、修正二点、公開。実質時給は以前より上がった。

紡は母へ『来週、泊まっていい?』と送った。『また記事?』『違う』『じゃあ、朝はパンにする』。二度目の宿泊は、前回より慣れていた。「ご飯の方がよかった?」「どっちでもいい」「私みたいなこと言う」——特別な気づきはなかった。一度目に見えた違いが、二度目には薄くなっていた。それも大切なことだった。紡が求めていたのは、採用される一度の体験ではなく、また泊まれる関係だったのかもしれない。深い青色のノートに「二度目の朝食」「記事にしない」と書いた。不採用になったから書かないのではなく、今は生活として置いておく。

選ばれなかった企画には、行き先がいくつもある。直して出す。別媒体へ出す。時間を置く。自分だけの文章にする。何も書かない。経験へ戻す。商店街企画は私的記録になった。朝食企画は、今のところ生活へ戻った。どちらも、採用されなかった瞬間に消えたわけではない。

母の家へ泊まった朝、新聞の旅行欄を見て「ここ、行ってみたい」と母が言った海沿いの町のことを、紡は思い出す。「そのうち」と答えると、母は「そのうちって、いつ」と笑った。記事のためではない旅。親孝行のためだけでもない。二人が行きたい場所。まだ決めない。

「そのうち」という言葉を、紡はこれまで何度も便利に使ってきた気がした。今回だけは、その言葉に少し違う響きを込めたかった。先延ばしにするための「そのうち」ではなく、まだ準備ができていないだけの「そのうち」。いつか本当に、母と二人でその海沿いの町を歩く日が来る。紡はその日を、心のどこかで静かに待つことにした。

紡は机の灯りを消した。受信箱には新しい依頼はない。六件目は終わった。母との朝食は記事にならなかった。それでも、次に泊まる日を考えている。選ばれなかった企画は、行き場を失ったのではない。仕事の外へ戻り、紡の生活の中で、まだ名前のつかない時間として続いていた。


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