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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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第48章 増やさない勇気

二件目の記事が公開されてから二週間が過ぎた頃、紡の生活は見た目だけならほとんど変わっていなかった。会社へ行き、夕飯を作り、眠る。それでも、会社の仕事以外に考える場所が増えていた。活動用の受信箱、原稿料の記録、契約書、取材の支出、次に書きたい題材。何も依頼がない日は、次のために何かしなければと思ってしまう。仕事がある日だけ忙しいのではない。仕事を得ようとする時間も増える。それが、紡にとって新しい問題になっていた。

夜、深い青色のノートを見返すと、この二週間、毎日のように「次は何を書こうか」という走り書きが残っていた。書く仕事がないときにまで、書くことについて考え続けている。それ自体は悪いことではないはずなのに、紡はふと、休むことを忘れていないかと自分に問いかけた。

ノートのページをめくり返しながら、紡は自分の思考の癖に気づいた。空白の時間があると、無意識に埋めようとしてしまう。それは、副業を始める前、会社の仕事だけをしていた頃から変わらない癖なのかもしれない。書く仕事を始めたことで、紡は新しい自由を手に入れたはずだった。それなのに、その自由の中でも、休むことへの後ろめたさを完全には手放せずにいた。

月曜の朝、活動用の受信箱に「執筆に関するご相談」という通知があった。川辺からではない、見覚えのない媒体名。すぐ開きたい気持ちを抑え、昼休みまで待つと決めた。会社では美咲の空いた席が目に入る。異動から日が経ち、机は別の担当者が使っている。真帆の作業量は増え、紡の会社での作業は減っていた。その分、全体を見る責任が増えている。

美咲の空いた席を見るたび、紡の中には少しだけ寂しさが残る。毎日顔を合わせていた同僚が、フロアの別の場所へ移っただけなのに、その距離は思っていたより大きく感じられた。それでも、時々ランチで会える関係が続いていることに、紡は静かな安堵を覚えていた。

昼休み、旅行や地域の情報を扱う小さなウェブ媒体から、紡の記事二本を読んで声をかけられたことを知った。企画は「働く女性の週末旅」。日帰り取材、写真十枚以上、店や施設を二、三か所紹介、四千字、報酬は一件目・二件目のほぼ二倍だが交通費・経費込み。胸の高鳴りは、金額の内訳を見て少し静まった。想定作業時間を計算すると二十三から二十五時間、報酬から経費を引くと時給換算では低い。それでも、旅・土地・店・文化——二十七歳から考えてきた夢に近い仕事だった。

メールを読み終えた瞬間の高揚と、数字を計算し終えたあとの冷静さ。そのわずか数分の間に、紡は自分の中で感情が段階を経て変化していくのを感じていた。飛びつきたい気持ちは今も消えていない。ただ、その気持ちだけで動かなくなった自分を、紡は少しだけ誇らしく思った。夢に近づく話ほど、慎重になれる自分。それは臆病になったということではなく、大切なものほど丁寧に扱えるようになったということかもしれない。

美咲が紡の様子に気づいて声をかけた。「何かいいことあった?」「大きい依頼が来た」「見せて」画面を覗き込んだ美咲は、少し驚いた顔をした。「これ、紡が最初にやりたいって言ってた感じの仕事じゃない?」「そう、たぶん」「なのに、なんでそんな複雑な顔してるの」紡は正直に答えた。「時給換算だと低いから」「夢の仕事でも、そこ計算するんだ」「するようになった」美咲は少し笑ってから、「それ、成長だと思う」と言った。

紡は自分のデスクへ戻りながら、依頼メールをもう一度読み返した。旅、土地、店、文化。二十七歳の紡がノートに書いた「怖いことのリスト」の中で、いつか挑戦したいと願っていた分野そのものだった。あの頃、こんな依頼が来ることを想像していただろうか。想像もしていなかった。それなのに今、目の前にその依頼がある。夢が叶うというのは、こんなふうに、思っていたよりずっと事務的な形でやってくるものなのかもしれない。派手な祝福も、劇的な瞬間もない。ただ、一通のメールが届くだけだった。それでも、紡の胸の奥には、確かな熱が灯っていた。

真帆に「受けるんじゃないんですか」と単純に聞かれ、「時間と条件を見ないと」と紡は答えた。

「条件次第で断ることもあるんですか」真帆が意外そうに聞いた。

「もちろん。夢に近いからって、無条件で受けるわけじゃない」

「私、藤沢さんならすぐ飛びつくと思ってました」

「前の私ならそうしてたと思う」

真帆はその答えに、何か納得したような顔をした。

上司に相談すると、「なら、受けない理由を探すんじゃなくて、受けられる条件を確認すればいい。ただし、無理な条件なら断ることも含めてね」と言われた。「藤沢さんはこの一年で、交渉するということを覚えたね」「そうでしょうか」「前は、条件を提示されたら、それをそのまま受け入れるしかないと思ってたんじゃない?」紡は否定できなかった。

母に電話で相談すると、「やめたら?」とすぐに言われ紡は少し腹が立ったが、母は続けた。「やりたいなら受ける。無理ならやめる。それだけでしょう」「また初めてなの?前も最初の記事だったでしょう」「何回まで初めての値段でやるか、自分で決めたらって言ってるの」——黒いノートに書いたことと同じだった。母まで交渉を勧めた。怖がっているのは紡だけかもしれない。

「お母さんは、私が交渉するの見たことないのに、よくそんなこと言えるね」紡が言うと、母は笑った。

「見たことなくても、あんたが誰の娘か知ってるから」

「それ、どういう意味」

「私も、若い頃はけっこう強気だったのよ」

「強気って、具体的にどんな風に?」紡が興味を惹かれて尋ねると、母は少し得意げな顔をした。

「昔勤めてた会社で、給料の交渉をしたことがあるの。周りは誰もやらなかったけど、私は納得いかなかったから」

「それで、どうなったの」

「半分くらいは通ったわよ。全部は無理だったけど」

母がそんな交渉をしていたとは、紡は想像もしていなかった。強気で行動したという記憶を、母は誇らしげに語っていた。

初耳だった。紡は母の若い頃を、あまり想像したことがなかった。

「なんで今まで言わなかったの」紡が聞くと、母は少し照れたように答えた。

「聞かれなかったから」

「今度、その話も聞かせて」

「気が向いたらね」

短いやり取りだったが、紡はその中に、母がまだ話していないことがたくさんあるのだろうと感じた。娘として知っているつもりの母にも、紡の知らない時間が積み重なっている。それは、これから少しずつ聞いていけばいい。今はまだ、その扉を見つけただけで十分だった。

紡は詳細条件の確認と、取材先を二か所に絞ること、初稿を十二日へ延ばすこと、写真利用のクレジット表示、飲食費の上限について相談するメールを送った。翌日、希望はほとんど受け入れられた。仕事を失わなかった。条件を尋ねることは拒否ではなかった。

返信を読みながら、紡は自分の中で何かが確かに変わったことを実感していた。条件を尋ねるという行為を、以前は「わがまま」や「面倒な相手」として受け取られることだと思い込んでいた。実際には、相手も紡の状況を理解した上で、対応できる範囲を示してくれる。交渉とは、対立ではなく、互いの状況をすり合わせる作業だった。紡はその実感を、黒いノートへ「条件を尋ねることは、信頼を壊すことではなく、信頼を築く準備」と書き留めた。

会社へ相談し、取材日を説明会の翌週の土曜、翌日曜は休養、月曜から初稿という予定を組んだ。人事へ新規申請し、条件付き許可を得て、正式受諾。取材当日、資料館の担当者は「町らしさは、一つに決めない方がいい。観光で来る方は古い町並みや食べ物を見ますが、暮らしている人にとってはスーパーや学校や病院も町ですから」と言い、食堂の店主は「特別なものを食べに来たと思わなくていいです。ここの人が普段食べているものを、普通に食べてもらえたら」と言った。町を一つの意味へまとめない――紡がこれまでの記事で辿り着いた場所と、二人の言葉が重なった。

その二つの言葉を聞きながら、紡は胸の奥が静かに震えるのを感じた。町の記事を書く仕事に就いたことのない人が、紡がこれまで何度も試行錯誤して辿り着いた考え方と、同じ結論に自然とたどり着いている。それはきっと、紡だけの特別な発見ではなく、町や暮らしを丁寧に見つめれば誰もが行き着く、普遍的な気づきなのだろう。紡はノートにその言葉をそのまま書き写しながら、自分の視点が独りよがりではなかったことに、静かな安堵を覚えていた。

取材の合間、紡は資料館の担当者にもう一つ質問した。「町の紹介記事を書くとき、一番気をつけていることは何ですか」担当者はしばらく考えてから答えた。「その町に住んでいない人が読んでも、住んでいる人が読んでも、嘘だと思われない書き方を心がけています」その言葉は、紡がこれまでの記事作りで探り当ててきた感覚と、驚くほど近かった。誰かの目には美化に見え、誰かの目には冷淡に見える。その間のどこかに、正直な言葉があるはずだった。

取材は楽しかったが、ずっと考えていた。料理が冷める前に撮る、言葉を記録する、電車に間に合わせる、費用を分ける。「旅が仕事になる」という言葉を以前は美しく考えていたが、実際には確認事項の連続だった。それでも後悔はなかった。

旅の景色を純粋に楽しむ自分と、それを記録し記事へ変える自分が、常に同時に存在していた。以前は、その二つが対立するものだと思っていた。今回の取材を通じて、紡は少しずつその考えを改めていた。楽しむことと記録することは、対立するのではなく、互いを深める関係になれるのかもしれない。景色を丁寧に見ようとする姿勢が、そのまま良い記録につながることもあった。

取材翌日は休み、母へ土産を渡すと「仕事ってそういうものでしょう」と言われた。

「思ってたのと違った?」母に聞かれ、紡は少し考えた。

「違った。でも、悪い意味じゃない」

「どう違ったの」

「もっとロマンチックなものだと思ってた。実際は、時間管理とお金の計算ばっかりだった」

母は笑いながら「それが仕事ってものよ」と言った。何度も聞いてきた言葉だったが、今日は素直に頷けた。

「お母さんも、若い頃そう思った?」

「思ったわよ。何の仕事でも、外から見るのと実際にやるのとじゃ全然違う」

「今も覚えてる、最初にそう感じた瞬間?」

母は少し遠くを見るような顔をした。「覚えてる。でも、それはまた今度話すわ」

紡はそれ以上聞かなかった。母にもまだ話していない引き出しがいくつもある。それを無理に開けようとせず、母が話したくなったときを待つことも、紡が覚えつつある距離の取り方だった。

初稿は構成から書き上げ、合計作業時間二十一時間、上限の二十四時間以内に収まった。修正は五点、旅行情報の確認や資料館の説明を短くする指摘だった。

ちょうどその頃、川辺から新しい特集案内が届き、同時に旅媒体からも「次回、別の町の記事をご相談したい」と連絡が来た。二つの依頼が重なった。以前は依頼のない受信箱を見ていた。今は選ばなければならない。地域メディアは短く作業十時間前後、報酬は低めだが続けやすい。旅媒体の次回は一泊、取材先三か所、作業量はさらに増える。

美咲に「両方やれば?」と聞かれ、「どっちを断ったら、今の自分を守れる?」と問い直された。異動直後に何でも引き受けて残業していた美咲自身の経験からの言葉だった。

「私、あのとき体壊しかけたからね」美咲が続けた。「全部引き受けて、全部中途半端になって、結局誰の役にも立てなかった」

「今はどうしてるの」

「今は、無理そうなときは早めに言うようにしてる。紡ほど上手じゃないけど」

「上手じゃないって、ちゃんと言えてるならそれで十分だよ」

上司にも「無理なくは、難しいです」と正直に伝えると、「なら、一件にした方がいいと思う」と言われた。

紡は数日考え、旅媒体の一泊三か所という条件は今の生活には重いと判断した。断る。せっかくつながった媒体、次が来なくなるかもしれない。それでも、受けて生活を崩せば、旅を書くこと自体が苦しくなる。

メールの文面を書いている間、紡の指は何度も止まった。断るという行為が、これほど体力を使うものだとは思わなかった。相手を否定しているわけではない。それでも、期待に応えられないことへの申し訳なさが、文章の端々に滲み出そうになる。紡はその感情を、事実と切り離して書くよう、何度も文面を整えた。

丁寧に辞退の意思を伝え、今後日帰りの企画があれば相談したいと書いて送った。手が冷たかった。仕事を断ることは、意見を言うより怖かった。

返信は、理解した、前回の記事を高く評価している、今回は別の執筆者へ依頼する、今後日帰り企画があれば相談する、というものだった。関係は切れなかった。

その返信を読んだとき、紡は自分がどれほど身構えていたかに気づいた。断れば関係が終わるかもしれない、次から声がかからなくなるかもしれない——そんな想像を、無意識のうちに膨らませていた。実際には、丁寧に理由を伝えれば、相手も丁寧に受け止めてくれる。当たり前のことのはずなのに、紡はその当たり前を、実際に経験するまで信じきれずにいた。

紡は川辺の企画へ応募し、採用され、三件目として作業量十時間以内の記事を書き始めた。

「仕事が二つ来た」「一つ断った」「増やせるのに、増やさなかった」——深い青色のノートに書く。これまで、増えることが前進だった。依頼、記事、収入、実績。でも、増えたものをすべて抱えれば、自分の時間はなくなる。選べる状態とは、受ける自由だけではない。断る自由、延期する自由、条件を伝える自由、収入が減る可能性を受け入れる自由も含まれる。

ノートに書いたその一文を、紡はもう一度声に出して読んでみた。「選べる状態」という言葉が、以前よりずっと具体的な重みを持って響いた。副業を始めたばかりの頃、紡が求めていたのは「仕事が来ること」だった。今、紡が本当に大切にしたいのは「選べること」だった。求めるものの中心が、いつの間にか静かに移り変わっている。その変化に気づけたことも、この半年の収穫の一つだった。

三件目は平均的な結果だった。修正も二点、報酬も作業時間も想定内。地味だが、終えたあとに疲れ切っていない。黒いノートに「回復に必要な日数」という項目を加えた。一件目は二日、文章を見たくなかった。旅記事は取材翌日の休養が要った。三件目は大きな疲れなし。報酬や閲覧数だけでなく、仕事を終えたあと生活へ戻るまでの時間も、続けるためには重要だった。

真帆にこの「回復に必要な日数」の話をすると、「会社の仕事でも同じですね」と言われた。「大きなプロジェクトが終わったあとって、達成感はあるけど、しばらく何もしたくなくなります」「そうそう、それ」「藤沢さんも、そういう時期あったんですか」「あったよ。改善企画が一段落したときとか」二人で頷き合った。仕事の疲れは、成果の大きさだけでは測れない。

「回復に必要な日数を数えるって、なんだか変わった発想ですね」真帆が言った。「変わってるかな」「はい。普通は、成果とか報酬とかで振り返ると思うので」「私も、最初はそうだった。でも、報酬だけ見てると、無理してでも続けたくなるから」真帆はその言葉に深く頷いた。「私も、覚えておきます」小さなやり取りだったが、紡が身をもって学んだことが、また一つ、次の世代へと受け渡されていくようだった。

セリに旅記事を断ったことを伝えると、「後悔していますか」と聞かれた。『少し後悔しています。でも、今の生活には一件が合っていたと思います』と送ると、『後悔しない選択より、引き受けたあとに自分を嫌いにならない選択の方が、私は大切だと思っています』と返ってきた。

その言葉を、紡は深い青色のノートへ書き写した。後悔がゼロになる選択は、たぶんどこにもない。それでも、引き受けたあとの自分を想像し、その自分を嫌いにならない方を選ぶこと。その基準は、これから何度も紡の判断を支えてくれそうな気がした。

ある土曜日、紡は新しい靴で近所を歩いた。取材でも記事のためでもない。何もしない時間。以前なら空いた時間を怖がっただろう。今は、空白があるから選べると感じる。急な会社の予定、体調、母、新しい依頼、休む——どれかが入る場所として、予定を埋め尽くさない。

歩きながら、紡はこの半年で自分が手放したものを数えてみた。すべてを引き受ける自分。誰の期待にも応えようとする自分。忙しさを誇りのように扱う自分。手放したものは、失ったものではなかった。むしろ、そのぶん新しく手に入れたものの方が多い気がした。断る力。条件を伝える力。自分の時間を守る力。どれも、目に見える成果としては数えにくいものばかりだったが、確かに紡の中に積み重なっていた。

帰宅後、ノートに「断った仕事は、できなかった仕事ではない。今の条件では、選ばなかった仕事」と書いた。今後、条件が変われば受ける可能性はある。今の判断を、未来の自分へ固定しない。受けたことだけが前進ではなかった。断ったことで、初めて守れた働き方があった。

灯りを消す前、紡は今日一日を振り返った。大きな依頼、条件の交渉、旅先での取材、そして断るという選択。どれも、半年前の紡には想像もつかなかった一日の中身だった。それでも、今の紡には、この一つひとつが自然な流れとして受け止められる。積み重ねてきた経験が、いつの間にか紡自身の一部になっていた。


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