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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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第46章 依頼のない受信箱

新しい靴を履き始めてから一週間が過ぎた。記事が読まれ、原稿料の見込みも立った。それでも、次の仕事は来なかった。「後日改めてご案内いたします」——後日が一週間後なのか一か月後なのかはわからない。受信箱を開くたび、胸の奥に小さな期待が生まれては、目的のものがないとわかる。

その落差に、紡は自分でも戸惑っていた。何かを失ったわけではない。一件目の仕事は、きちんと形になって終わった。それなのに、朝起きるたびに感じる小さな沈み込みは、何かを失ったときの感覚によく似ている。手に入れたはずの自信が、次の仕事が来ないというだけで、また揺らいでしまう。紡はその揺らぎを、ノートに書くこともできずにいた。書けば、揺らいでいることを認めることになる気がした。

出勤前の身支度をしながら、紡は鏡の中の自分と向き合った。記事が公開され、報酬も得た。客観的に見れば、紡は確かに一歩前進している。それなのに、心の中では「次」がないことばかりが大きく響く。手に入れたものを数えるより、まだ手にしていないものを数える癖は、副業を始める前から変わっていないのかもしれない。紡はその癖に気づきながらも、すぐには直せない自分を、そのまま受け入れることにした。

「紡は、次の依頼待ってるの?」美咲が尋ねた。「まだ一週間くらいでしょう」「でも、可能性があるって言われたから」「わかってる顔じゃない」——紡はむっとしたが、美咲の「紡も今の仕事あるじゃん。記事の依頼が来ないと、仕事がない人みたいに思ってない?」という一言が痛いところを突いた。会社の仕事を、書く仕事が始まるまでの待ち時間のように扱っていないか。

「そんなつもりはないんだけど」紡は少し言い訳するように言った。

「つもりがなくても、態度に出るんだよ。紡、最近、会社の話するとき、心ここにあらずって感じのときあるし」

「そんなに?」

「そんなに。新しい記事の話するときは目が輝くのに、会社の日常業務の話するときは、なんか一段階トーンが低い」

紡は返す言葉がなかった。無意識のうちに、二つの仕事へ向ける熱量に差をつけていたのかもしれない。それは、会社の仕事を軽んじているという意味ではない。それでも、美咲の観察は、紡が自分でも気づいていなかった心の傾きを、正確に言い当てていた。

昼休み、活動用アカウントに「次の記事も楽しみにしています」という反応が届いていた。嬉しさと同時に焦りが生まれる。約束はしない。でも書くことをやめるつもりもない、と短く返信した。

返信を送ったあと、紡はその一文を何度も読み返した。「約束はしない、でもやめるつもりもない」——短い言葉の中に、紡がこの数か月で学んできた距離感が凝縮されている気がした。以前なら、期待に応えなければという焦りだけで、無理な約束をしていたかもしれない。今は、期待に応えたい気持ちと、自分を守りたい気持ちの両方を、同じ文章の中に共存させられるようになっていた。

午後、上司との面談で「次の依頼はあるの?」と聞かれ、「今はありません」と答えると、少し恥ずかしかった。上司は否定せず、「来ないことを、前の記事の評価にしない方がいい」と言った。まさにそうしていた。依頼は、評価だけで生まれるのではない。必要がある、予算がある、時期が合う。「待つだけでいいかは、自分で決めることだね」「その媒体だけが、書く場所なの?」

上司の最後の一言が、紡の頭に引っかかった。その媒体だけが書く場所なのか。考えてみれば、依頼が来る場所を一つに絞っていたわけではないのに、心のどこかで「あの媒体からまた声がかかること」だけを待っていた。選ぶ側になったつもりで、実際には一つの窓口だけを見つめて座り込んでいたのかもしれない。

紡は受信箱の確認を一日一回、夜だけに決め、旅や地域を扱う媒体を検索した。多くは条件が曖昧で、報酬も書かれていない。以前なら実績づくりのために応募したかもしれない。今は確認できるまで受けない。気になった媒体を三つだけ記録し、「調べるだけ、応募しない」と決めた。深い青色のノートに「仕事がないとき、選択肢の多さは安心ではなく焦りにもなる」と書いた。

三つの媒体を、紡はそれぞれ丁寧に読み込んだ。一つは旅行雑誌のウェブ版で、プロのライターが中心のようだった。もう一つは地域おこし協力隊の情報発信を手伝う団体で、報酬はごくわずかだが地域との関わりが深そうだった。三つ目は、紡が公開した記事と近いトーンの、働く女性向けのライフスタイルメディアだった。三つとも読み比べるうちに、紡は自分がどんな媒体に自分の文章を託したいのか、少しずつ輪郭が見えてくるのを感じた。今すぐ応募する必要はない。まず、自分の希望を言葉にできることの方が大事だった。

画面をスクロールしながら、紡は自分の中の焦りが少しずつ形を変えていくのを感じていた。最初は「早く次の仕事が欲しい」という焦り。それが「探せば探すほど、どれも自分に合わない気がする」という焦りに変わり、最後には「探すこと自体をやめられない」という焦りになっていた。焦りは、消えるのではなく、姿を変えて居座り続ける。紡はブラウザを閉じ、深呼吸をした。今夜はここまで。

会社では、真帆の作った手順書に「補足資料が別ページにあることに気づきにくい」という意見が届き、真帆が少し落ち込んだ。「使ってもらったから見えたことだよ」——記事の初稿へ修正が来たときの自分と同じだった。一件の仕事を終えた経験は、次の依頼がなくても誰かへ渡せる。

肩を落とす真帆を見ながら、紡は自分自身にも同じ言葉をかけているような気がした。指摘は失敗の証明ではない。使われた証拠。誰にも読まれない記事なら、誰からも指摘は来ない。真帆の落ち込んだ顔の向こうに、紡は「まだ誰にも読まれていない自分の焦り」を重ねていた。

「藤沢さんも、こういうとき落ち込みました?」真帆が尋ねた。

「落ち込んだよ。今も、落ち込むこと自体はなくならない」

「じゃあ、何が変わったんですか」

「落ち込んだあとに、立ち直る時間が短くなった気がする。前は一日中引きずってたけど、今は半日くらいで、次にできることを考え始められる」

真帆はその言葉を、少し安心したように聞いていた。落ち込まなくなることを目指さなくていい。立ち直る速さが、少しずつ変わっていけばいい。紡はその考えを、自分自身にも言い聞かせるように伝えていた。

土曜日、母の家で「原稿料で買った靴」を見せると、母は商店街の会報を探していた。「昔の店のことが載ってたから」。閉店した店、新しく入った店、店主への聞き取りが残る古い会報。「これ、借りてもいい?」「勝手に載せないで」——母は以前より書くことへ敏感になっている。

玄関で靴を脱ぎながら、紡は母の家特有の匂いに包まれた。この匂いを嗅ぐと、いつも肩の力が少し抜ける。仕事のことも、受信箱のことも、この家の中では一旦脇に置いておける。紡はその感覚を、大切にしたいと思った。

靴を見せたときの母の反応は、紡が想像していたものと少し違った。「へえ」とだけ言って、すぐに会報のページをめくり始めた。もっと喜んでくれると思っていた紡は、少しだけ拍子抜けした。それでも、母がすぐに別の話題——昔の商店街のこと——に興味を移したことは、母にとって靴よりも今、紡と一緒に何かを調べることの方が楽しいのかもしれないと、紡は思い直した。

「お母さん、最近私の記事のこと気にしてる?」

「気にしてるっていうか、うっかり変なこと言ったら書かれるんじゃないかって思うようになった」

「そんなに勝手に書かないよ」

「わかってるけど、癖みたいなものよ」

母はそう言いながらも、古い会報のページをめくる手を止めなかった。紡は、母が本当に嫌がっているわけではないことを、その手の動きから感じ取っていた。

「癖みたいなものって、いつからついたの」紡が尋ねると、母は少し考えた。

「最初の記事が出たときから、かな。あんたの文章に、私も少し出てたでしょう」

「気になった?」

「気になったというより、こんな風に見られてるんだって、初めて知った感じ」

母のその言葉に、紡は胸の奥が少し重くなった。記事を書くという行為は、紡一人の表現ではなく、そこに関わる人の生活にも、静かに影響を与えている。紡はそのことを、忘れないようにしたいと思った。

昼食後、母と商店街を歩くと、開店準備中の店の前で母が「ここ、昔は靴屋だったのよ」と言った。文房具店、喫茶店と変わり、今度は子ども向け教室になるらしい。一つの場所に、いくつもの時間が重なっている。紡は記事にしたい気持ちが生まれたが、すぐには書き始めなかった。母一人の記憶だけでは書けない内容だった。

商店街をさらに歩きながら、母は次々と昔の記憶を語り始めた。今は駐輪場になっている場所にあった駄菓子屋、今のドラッグストアの前身だった呉服店。紡が知らない町の姿が、母の言葉を通して少しずつ立ち上がってくる。紡はメモを取らなかった。今日はただ聞く日だと決めていた。記録は、企画が形になってからでいい。

紡は候補媒体の一つ、地域の暮らしを扱うウェブメディアの持ち込み窓口へ企画を出すことを考え始めた。まず事実確認。図書館で、司書に手伝ってもらいながら周年記念冊子や古い電話帳を調べると、母が言った靴店の名前が実在の記録として見つかった。母の記憶だけではなく、記録に残っている。胸が高鳴った。

その瞬間、紡は自分の胸の高鳴りが、単に企画の材料が見つかったことへの喜びだけではないと気づいた。母の話してきたことが、単なる思い出話ではなく、確かにこの町にあった記録として裏付けられた。それは、母の記憶そのものが、これまで以上に確かな重みを持って紡の中に残ることを意味していた。記事になるかどうかとは関係なく、この確認作業自体が、紡にとって大切な時間になっていた。

司書は年配の女性で、紡が探している内容を聞くと、思いのほか丁寧に付き合ってくれた。「商店街の歴史を調べる方、たまにいらっしゃいますよ」と言いながら、書庫の奥から色あせた冊子を何冊も出してきてくれた。紡はその一冊ずつを丁寧にめくりながら、母の記憶と記録を照らし合わせていった。靴屋の次に入った店、その次の店。閉店した理由まではわからないものもあったが、少なくとも「そこに何があったか」という事実だけは、一つずつ確認できた。

「こういう調べ物、好きなんです」司書がふと漏らした一言に、紡は手を止めた。「みなさん、覚えていることと、実際に残っている記録が、少し違うことが多いんですよ。でも、その少しの違いが、面白かったりします」

「違いがあると、困りませんか」紡が尋ねると、司書は首を振った。

「困らないですよ。記憶の方が正しいこともありますから。記録に残らなかった小さな出来事、記憶にしか残っていないものもたくさんあります」

その言葉は、紡が母の話を扱う上での不安を、少し軽くしてくれた。記録と記憶、どちらか一方だけが正しいわけではない。両方を丁寧に扱うことが、紡にできることだった。

紡はその言葉をノートへ書き留めた。母の記憶と記録の違いも、否定するべきものではなく、記事の中で扱ってもいい部分なのかもしれない。図書館を出ると、外はすでに夕方になっていた。街灯が一つずつ灯り始める中を歩きながら、紡は今日集めた事実を頭の中で整理した。まだ企画にすらなっていない材料が、少しずつ形を持ち始めている。

紡は企画案を練った。過去だけを懐かしむのではなく、新しく店を始める人の未来も描く。母だけを昔の代表にせず、新しい店主も町の代表にしない。仮タイトルは「母と歩いた商店街で、同じ場所に残る店の記憶をたどる」。最初の原稿料で買った靴と昔の靴屋を結びつけたい誘惑もあったが、それは自分の物語のために場所を使うことになると考え、企画には入れなかった。

構成を考える段階で、紡は一つの壁にぶつかった。母の記憶と、図書館で確認した記録と、これから聞くかもしれない新しい店主の言葉。三つの時間軸をどう並べれば、読む人に伝わりやすいか。時系列に沿って古い順から並べるか、それとも現在の店から始めて過去へ遡るか。何度か構成案を書いては消した。最終的に、現在の商店街を歩く場面から始め、母の記憶を挟みながら、新しい店の開店準備で締める形にした。過去から未来への一方通行ではなく、現在という場所に何層もの時間が重なっている構造を見せたかった。

紡は真帆にも、構成で悩んでいることを話してみた。「時系列って、そんなに悩むものなんですね」「悩むよ。何をどこに置くかで、読んだ人が受け取る印象が全然変わるから」「会社の資料も同じですか」「同じだと思う。結論を先に言うか、経緯から話すかで、聞く人の心構えが変わるでしょう」真帆は少し考えてから、「今度、資料作るとき意識してみます」と言った。何気ない会話の中にも、紡が記事作りで培った視点が、少しずつ会社の仕事へ染み出しているようだった。

真帆との会話を終えたあと、紡はデスクに戻りながら、自分の中で言葉にできたことの意外さを噛みしめていた。感覚として持っていたことを、誰かに説明しようとして初めて、その輪郭がはっきりする。真帆に教えるつもりが、紡自身の理解が一段深まっていた。教えることは、教わることでもあるのかもしれない。

企画書には、取材候補として、現在営業している店の店主数名への聞き取りも入れた。母の記憶だけに頼らず、複数の視点を重ねる。一人の思い出話ではなく、町の記録として立体的に描きたかった。

紡は実際に商店街へ足を運び、子ども向け教室を始めるという店の前で立ち止まった。まだ工事中の店内から、若い夫婦らしき二人が資材を運んでいるのが見えた。声をかけようか迷ったが、企画がまだ通っていない段階で取材を持ちかけるのは筋が違うと思い直した。順番を守る。焦って動けば、丁寧に積み上げてきたものが崩れる。

工事中の店先を眺めながら、紡はふと、あの若い夫婦にもきっと物語があるのだろうと思った。なぜこの場所を選んだのか。どんな教室にしたいのか。紡がまだ知らないその物語も、いつか企画が通れば聞けるかもしれない。母の記憶、閉店した靴屋、そして今始まろうとしている新しい店。一つの場所に、いくつもの時間が層のように重なっている。その重なりを丁寧に描くことこそ、この企画の核心なのだと、紡は改めて実感した。

母には電話で内容を説明した。「私の記憶、間違ってるかもしれないわよ」「だから確認する」「私が言ったって書かないで」「名前は出さない、写真も顔は出さない」——母は具体的な条件を示した。その方がよかった。

「お母さんは、この企画嫌?」紡が尋ねると、母は少し黙ってから答えた。

「嫌じゃない。ただ、自分の話が誰かに読まれるって、変な感じがするだけ」

「怖い?」

「怖いっていうか、恥ずかしい。若い頃の話だから」

「若い頃のお母さんって、どんな人だったの」紡が思わず尋ねると、母は少し遠い目をした。

「今よりずっと、失敗ばかりしてたわよ。あんたと同じくらいの歳の頃は、何も決められなくて」

「決められなかったの?意外」

「意外でしょう。でも本当よ。だから、あんたが自分で決めて、自分で確かめながら進んでるのを見ると、正直、少し羨ましいの」

母のその言葉は、紡が初めて聞く種類の告白だった。いつも迷いなく物事を決めているように見えた母にも、かつて迷いだらけの時期があった。紡はその事実を、大切に胸へしまった。

紡はその「恥ずかしい」という言葉を、大切に受け取った。母がこの企画に協力してくれるのは、当たり前のことではない。

電話を切ったあと、紡はしばらく考えていた。母の若い頃の話を、記事という形で残せるかもしれない。それは、紡がずっと知りたかったのに、聞くきっかけを持てなかった母の一面だった。企画がどうなるかはまだわからない。それでも、この機会がなければ、母の若い頃について尋ねようとも思わなかったかもしれない。書くことは、紡自身の生活だけでなく、周りの人との関係にも、新しい扉を開くことがあるのだと、紡は改めて気づいた。

送信前、紡はノートに「なぜ、今これを送るのか」と書いた。不安を消すためだけではない。書きたい理由がある。土曜日午前十一時二十二分、企画案を送信した。一件目は依頼されたから書けた。今回は、まだ相手が欲しいかもわからないものを自分から差し出した。

数日後、川辺から「企画案募集のご案内」が届いた。次の特集は「働く人と、短い寄り道」——まとまった時間ではなく、通勤や買い物の途中にある短い時間を扱うという。紡が記事公開後の反応から考えていたことに近い。すぐに応募したい気持ちを抑え、まず自分が本当に書きたいことがあるか考えた。

案内を読み返しながら、紡は商店街企画の不採用をまだ完全には消化できていないことに気づいた。それでも、次の案内が来たことは、紡と川辺の関係が一度の不採用で終わっていない証拠でもあった。一つの企画がだめでも、次の機会はちゃんと巡ってくる。その事実だけで、少しだけ前を向けそうな気がした。

夜、紡はノートを開き、これまで「いつか入ろう」と思いながら通り過ぎてきた店を思い出せるだけ書き出した。カフェ、古本屋、雑貨店、そして信号待ちのたびに目に入る小さな菓子店。どれも、入らない理由は特になかった。ただ、いつも急いでいたか、一人で入る勇気が出なかったか、それだけだった。紙に並べてみると、紡の生活には「入らなかった店」がこんなにたくさんあったのかと、少し驚いた。

土曜日の朝、日用品の買い物へ出た紡は、信号待ちで前から気になっていた小さな菓子店に初めて入った。季節の焼き菓子を一つ買う。滞在は十分ほど。人生が変わったわけではない。ただ、いつも見ていた店へ初めて入った。

ガラス戸を押すとき、紡の心臓は少しだけ速く鳴っていた。たかが菓子店に入るだけなのに、と自分でもおかしくなる。それでも、知らない場所の扉を開ける瞬間の小さな緊張は、大きな旅先でも近所の店でも、同じ質のものなのかもしれないと思った。

店内には、老齢の店主が一人で立っていた。「いらっしゃい」という短い挨拶と、焼き菓子を紙に包む丁寧な手つき。紡はそれを見ながら、記事にするためではなく、ただその場に居合わせられたことを嬉しく思った。店を出るとき、店主が「また来てくださいね」と言った。社交辞令かもしれない。それでも、その一言だけで、次にこの道を通るときの気持ちが変わる気がした。

「帰り道に、店が一つ増えた」——その静かな変化を、成果や成長の物語にせず書きたいと思った。仮タイトルは「十分の寄り道で、帰り道に店が一つ増えた」。前回とのつながりはありながら、読者へ勧めず、体験だけを描く企画にした。会社の予定を確認し、日曜日の朝、紡は川辺へこの企画も送信した。一週間のうちに、自分から二つの企画を送ったことになる。

月曜日、川辺から受領のメールが届いた。検討には一週間程度。商店街企画の返事もまだない。「二つ出したの?」美咲に驚かれ、「採用されるかわからないよ」「出したことが」——結果がなくても、自分で考え、調べ、送ったことは事実として残った。

会社では、来週の会議資料を準備しながら、紡は自分の中に奇妙な感覚があることに気づいていた。会社の仕事は、締め切りまでにやることが決まっている。副業の企画は、送った先で誰かが判断するまで、結果がまったく見えない。同じ「仕事」という言葉でくくっていても、待ち方の質が違う。会社の仕事なら、進捗を自分で確認できる。企画の結果は、自分の手を離れた場所で決まる。その落差に、紡はまだ完全には慣れていなかった。

火曜日、紡は真帆にも二つの企画のことを話した。「両方通るといいですね」「両方は難しいと思う」「どうしてですか」「一つの媒体に、似た内容を二つ持ち込んでるわけじゃないけど、自分の中では、どっちも大事な企画だから、比べたくないの」真帆は少し考えてから、「比べないって、難しくないですか」と聞いた。「難しいよ。今もまだ、比べそうになる」

「私だったら、絶対比べちゃいます」真帆が正直に言った。

「比べたくなる気持ちも、わかるよ。でも、比べ始めると、片方が『負けた方』になる。そう思いたくないの」

「じゃあ、どっちが採用されても?」

「どっちが採用されても、もう片方が劣ってたわけじゃない。ただ、必要とされる場所とタイミングが違っただけ」

真帆はその言葉を、静かに頷きながら聞いていた。会社の仕事でも、似たようなことがあるのかもしれないと、紡はふと思った。ある企画が通り、別の企画が通らなくても、通らなかった方が劣っているとは限らない。ただ、今、その場所が必要としていたものと違っただけだ。

水曜日の夜、商店街企画を送った媒体からメールが届いた。「今回は掲載企画としての採用を見送らせていただくこととなりました」。着眼点は興味深いが、過去の店舗関係者への取材可否が不明で、個人的な記憶に偏る可能性が高く、媒体が求める複数の声を含む構成が描けないこと、同様の企画がすでに予定されていることが理由だった。理由は具体的だったが、胸の奥に遅れて痛みが広がった。自分から出した初めての企画が、選ばれなかった。

画面を閉じたあと、紡はしばらく動けなかった。図書館で調べた古い記録、母との電話、条件を確認したやり取り。その一つひとつが、無駄になったわけではないとわかっていても、今はまだ、そう簡単には割り切れなかった。

依頼された記事なら、断られても「求められていたものが違った」で済ませられる。今回は違う。誰にも頼まれていないのに、自分から「これを書きたい」と差し出したものだった。その分、拒まれたときの痛みも、まっすぐ自分へ返ってくる。紡は椅子に座ったまま、しばらく画面の消えたパソコンを見つめていた。涙は出なかった。ただ、体の中心に、小さな石を飲み込んだような重さが残った。

これまでの依頼された仕事なら、修正が来ても「相手の基準に合わせる」という言い訳ができた。今回はその言い訳ができない。自分が「これでいい」と思って送ったものを、まるごと拒まれた。それは、記事の出来を否定されたのとも、少し違う痛みだった。自分の目、自分の判断そのものを疑いたくなる痛みだった。

会社では、不採用メールの言葉が仕事にまで入り込んだ。給湯室で水を飲み、目の前の仕事へ戻る。集中しようとしても、頭の片隅で「取材可否が不明」「個人的な記憶に偏る」という言葉が何度も繰り返された。事実として受け止めたはずなのに、感情はまだ追いついていなかった。

昼休み、美咲に「自分から出した企画で選ばれたかった」と言うと、涙が出そうになった。「無駄じゃないって、すぐ思えなくてもいいんじゃない?」美咲の言葉に少し安心した。悔しい。それでいい。

夜、母へ電話で伝えると、「残念だったね」と柔らかい言葉が返ってきた。「私のせい?」「違うよ。母と歩いたことがきっかけになったのは本当。でも、記事にするなら、ほかの人の話も必要だった」。会報はまだ借りたままにしてもらった。企画がなくなっても、商店街への興味そのものは残っていた。「また別のところに出すの?」「今は出さない。断られた直後に直すと、採用されるためだけに話を変えそうだから」。

「そう考えられるようになったのね」母がしみじみと言った。

「そう考えられなかったら、どうなってた?」

「昔のあんたなら、すぐ書き直して、別のところへ送ってたと思う」

「それは、だめなこと?」

「だめじゃないけど、今の方が、あんたらしいと思う」

「あんたらしいって、どんな感じ?」紡が聞き返すと、母は少し考えてから答えた。

「前は、何でも早く形にしたがってた。今は、形にする前に、ちゃんと考えてる感じがする」

「それ、いいこと?」

「いいことよ。時間はかかるかもしれないけど、あんたが選んだものの方が、長く続く気がする」

母の言葉は、紡がまだ自分でも言葉にできていなかったことを、代わりに言い当てているようだった。

電話を切ったあと、紡はしばらくベッドに横になったまま、天井を見つめていた。悔しさはまだ胸の底に残っている。それでも、その悔しさに急かされて動かなかったことを、紡は自分で認めてあげたかった。感情のままに動くことも、感情を抱えたまま立ち止まることも、どちらも紡にできることだった。今回は、後者を選んだ。それだけのことだった。

翌日、会社で真帆に不採用のことを話すと、真帆は少し驚いた顔をした。「藤沢さんでも、そういうことあるんですね」「あるよ、たくさん」「なんか、意外です」「意外?」「藤沢さんの仕事、いつもうまくいってるように見えるので」紡は苦笑した。「見えてる部分だけだよ。断られた話とか、うまくいかなかった話は、あんまりしないから」真帆はその言葉を、何かに気づいたような顔で聞いていた。うまくいっている人の裏側には、見えていないだけの失敗が積み重なっている。それは、真帆自身もいつか実感することになるのだろう。

紡は不採用メールへ、悔しさは書かず、検討への感謝だけを丁寧に返信した。

数日後、川辺からもう一つの結果が届いた。「特集企画の選考結果について」。勤務中で開けず、休憩まで二十分を待つ。開くと、「十分の寄り道で、帰り道に店が一つ増えた」の採用が決まっていた。前回の「時間を成果へ変えようとする心情」とつながりながら、日常の移動の途中にある十分を扱う点に新しい広がりを感じたこと、寄り道を改善方法として勧めない構成が特集の方向性に合っていることが書かれていた。

二十分待つ間、紡は何度も時計を見た。商店街企画が不採用だったばかりで、今回もだめなら、しばらく自分から企画を出す勇気を失ってしまうかもしれない。そんな不安を抱えながら開いた画面に「採用」の文字を見つけたとき、紡の中で安堵と喜びが同時にあふれ出した。それでも、その感情の波を、紡はすぐには外へ出さなかった。

胸に温かいものが広がった。それでも、すぐに「受けます」とは返さなかった。条件、日程、会社への申請——一件目の経験で決めた順番を守る。「本当に一晩置けるようになったんだと」美咲に驚かれ、「嬉しい。すごく嬉しい。でも喜びと判断を分ける」と紡は答えた。

「その、喜びと判断を分けるって、どうやるの?」美咲が尋ねた。

「感情はノートに書く。判断は、条件を確認してからにする。分ける場所を決めてるだけ」

「難しそう」

「最初は難しかった。今も完璧にはできてない。でも、一晩置いたら判断が変わるかもしれない、っていう可能性を、いつも残しておきたいの」

美咲は感心したように頷いた。「紡、本当に変わったね」

その夜、紡は採用メールを何度も読み返した。文面には、紡の企画に対する具体的な評価が書かれている。「時間を成果へ変えようとする心情」という言葉が、以前の記事の中心と、今回の企画をつなげてくれている。一つの記事が終わりではなく、次の記事へとつながる糸になっていたのだと、紡は改めて実感した。それは、依頼を待つだけでは得られなかった手応えだった。

母に伝えると「よかったね」のあと「商店街より簡単そうな方が通るのね」と言われ、少し刺さった。「簡単とは限らない」「向こうが欲しい方が違ったんじゃないの」——上司と同じことを母も言った。必要とされる企画は場所によって違う。

母のその一言に、紡は少しむきになって言い返しそうになったが、思いとどまった。母の言葉に悪意はない。ただ、結果だけを見れば、そう見えるのも自然なことだった。紡は代わりに、静かに説明することを選んだ。「簡単に見えるかもしれないけど、これも結構考えたんだよ」「そうなの?」「うん。何を書くか、何を書かないか、けっこう悩んだ」母は「そう」とだけ言ったが、その声には、少し前より柔らかい響きが混じっていた。

翌朝、上司に相談すると、初稿の来月中旬なら大きな予定はないとのことだった。「前回は二十時間以上だったね」「今回は取材負担が少ないので、十二時間以内を目標にします」「目標より増えたら?」「作業を止めて、締め切りか内容を依頼主へ相談します」。上司はその答えに満足そうに頷いた。「前より、見積もりが具体的になったね」「一回経験したので」「経験は裏切らないってことか」

その日の夜、紡は深い青色のノートを開き、この数週間全体を振り返る文章を書いた。依頼のない受信箱を眺めていた日々。図書館での調べ物。母との会話。企画を出すという初めての行動。不採用の痛み。そして、別の企画が採用されるまでの道のり。一つひとつの出来事は、経験しているときには先が見えず、ただ耐えるしかない時間に感じられた。それでも、こうして書き出してみると、すべてが一本の線としてつながっている。

紡は、「依頼のない時間」という言葉についても考え直した。以前はその言葉を、空白や停滞と同じ意味で使っていた。今は違う。依頼がない時間は、何もしていない時間ではなかった。調べ、考え、決め、動く。その積み重ねが、結果として次の依頼を連れてきた。空白に見えた時間の中身を、紡は今、はっきりと思い出すことができる。

窓の外はすっかり暗くなっていた。紡はノートを閉じ、明日からの十分の寄り道の記事に思いを馳せた。この数週間で学んだことを、次の仕事にもきっと生かせる。そう信じられるだけの手応えが、紡の中に静かに積もっていた。

人事の柏木からは、二件目以降は一件ごとの申請ではなく活動全体の許可へ切り替えられると案内があり、期間三か月、同一媒体で月一件以内という条件で許可が出た。会社も、紡の副業を一時的な例外ではなく続く活動として扱い始めていた。

面談室を出るとき、柏木が「藤沢さんの申請は、いつも過不足がなくて助かります」とさりげなく言った。紡は少し驚いた。人事の担当者から見れば、紡はただの手続きの一件に過ぎないと思っていた。それでも、丁寧に進めてきたことが、こんな形で伝わっていたのだと知り、胸の奥がふっと軽くなった。

紡は正式受諾のメールを送り、契約書に署名した。受信箱を眺めていた日々から、自分で企画を送り、不採用を受け、別の企画が採用され、会社へ申請し、契約を結ぶところまで来た。派手な変化ではない。それでも、依頼を待って受けた一件目とは違う。自分の生活から題材を見つけ、企画にし、相手へ出した。

署名を終えた契約書をスキャンしながら、紡はこれまでの数週間を思い返した。受信箱の空白を眺めていたあの頃、こんな結末を想像できていただろうか。おそらくできていなかった。先の見えない時間の中で、それでも調べ、書き、送り続けたことが、結果として今日につながっている。未来は、待っているだけでは見えてこない。動きながら少しずつ形になっていくものなのだと、紡は改めて実感していた。

真帆にこの一連の流れを話すと、「怖くなかったんですか、自分から出すの」と聞かれた。「怖かったよ、今も怖い」「でも出したんですね」「出さないと、何も始まらないから」

真帆はしばらく黙ってから、小さな声で言った。「私も、いつか自分から何か出せる人になりたいです」

「今も、できてるよ」

「私がですか?」

「手順書の補足案、自分から提案してくれたでしょう。あれも、誰かに言われる前に自分で気づいて動いたことだから」

真帆は少し驚いた顔をしたあと、照れくさそうに笑った。その言葉を、少し眩しそうな顔で聞いていた。まだ自分からは踏み出せていない誰かの目に、紡の一歩がどう映っているのか、紡には想像することしかできなかった。それでも、誰かの背中を押せているとしたら、それだけで今日という日には意味があった。

深い青色のノートに書く。「一つは選ばれなかった。一つは選ばれた」——どちらかだけを美しくまとめない。不採用があったから採用されたわけでも、採用のために不採用が必要だったわけでもない。ただ、二つ送った結果が違った。それが現実だった。「待つことは、相手の返事を待つことだけではなかった。自分が何を書きたいか見えるまで待つ。焦りが静まるまで待つ。その間に、調べる。書く。送る。生活を続ける」

ノートを閉じる前、紡はこの数週間を振り返った。依頼のない受信箱を眺めていた日々から始まり、図書館での調べ物、母との会話、二つの企画、一つの不採用、一つの採用。振り返れば短い期間だったのに、経験した感情の起伏はとても大きかった。それでも、今夜の紡は落ち着いている。この落ち着きこそが、依頼を待っていただけの頃には持てなかったものだった。

明日から、十分の寄り道をどう言葉にするか考える。焼き菓子の味を大きな意味へ変えない。店を自分の気づきの背景にしない。受信箱の空白は、もう消えていた。代わりに、締め切りと責任が置かれている。それでも紡は、待っていた頃より少し落ち着いていた。仕事が来たからだけではない。来ない時間にも、自分で選べることがあると知ったからだった。

灯りを消す前、紡は押し入れの奥にしまってある古い会報のことを思い出した。母から借りたまま、まだ返していない。返すときには、もう一度母と商店街を歩く口実になるかもしれない。仕事にならなかった時間も、こうして次の時間へと静かにつながっていく。紡はその繋がりを大切にしながら、静かに眠りについた。


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