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第一話

 とある大学の掲示板の前で、一人の女が唸っていた。掲示板にはアルバイト募集の張り紙がいくつもあった。

「ガソリンスタンドは臭いがなぁ……。あ、喫茶店あるじゃん。いやでも、ちょっと時給が……」

 女は細い眉を寄せて、ぶつぶつ呟いている。

「カレー屋さんかぁ、カレーは好きだけどあそこのカレー確か不味かったよなー」

 女はそこのカレー屋を思い出す。チェーン店で、ブラックで、インスタントカレーのような味のするカレー屋を。

「ケーキ屋ねー……食べるのは好きだけど作るのはなぁ」

 女は黒曜石のような眼を猫の如く細める。ショートケーキ、チョコレートケーキ、チーズケーキ、どれも自分で作るよりお店で買った方が、費用対効果が高かった。

「コンビニは、先輩がやめとけって言ってたっけ」

 女は胸の前で腕を組む。白いワンピースに少しだけ影ができた。

 上から下へ、右から左へ、靴をカツカツ言わせながら女はバイト募集の張り紙を睨んでいくが、どうにも女好みの条件のバイトは見つからない。

 やはりスタートが遅かった、と女は思った。大学一年生は六月までバイト禁止などというお達しを律儀にも守っていると、条件の良いバイトは皆、掻っ攫われた。正直者は馬鹿を見る、要領の良い人間が勝ち星をあげる、社会の縮図ここに見たり、この世は一切皆苦、南無阿弥陀仏、くそったれ。

 女は罵詈雑言の弾丸を頭の中で弾倉に込め、誰ともなし、漠然とした社会とかいうものに対してむやみやたらにぶっ放す。

 その間、女は少し白目を剥き、薄い桃色の唇は緩まって半開き。しかし、人目を憚るべき顔になっていることに女は気付いてない。

 ――一吹き、風が通った。

 風は女の髪を弄んで、光をちらちらさせて、女の目の前を真っ黒にした。

「わあっ!?」

 女は空想の世界から戻って来て、髪を掴んで、後頭部の方に流して、思い出したかのようにはためくワンピースの裾を片手で押さえた。

「なんなの……もう」

 女が悪戯な風を憎く思っていると、ふと、一枚の張り紙が目に入った。

「あれ、こんなのあったっけ?」

 掲示板の真ん中の一番下に、見覚えのない張り紙があった。それはまるで原っぱに紛れていた虫がふとした拍子に露わになる様子に似ていた。風が張り紙を捲りあげて、隠れていた張り紙を表出させたのだ。

 女はかがみこんで、見ると、小さく叫んだ。

「超いいじゃん!?」

 そのアルバイトは他のものに比べると、破格の条件だった。

「家のお手伝いを募集。業務内容は買い物、家の雑事、家主の話し相手など。週に一回以上は出勤、長期の休みを取る場合は要相談。時給一五〇〇円。昇給有り。車、バイク通勤可。場所は○○△△……」

 家のお手伝い。そんなものを募集している家があるのか。それにしてもなんという好待遇。残り物にも福があるというのは本当だった。我が世の春来たり。女は先程の悪態も忘れてはしゃいだ。

 こうしてはいられないと、女は携帯電話で写真を撮り、家路を急いだ。

 当然、捲れた張り紙を元に戻すのは忘れなかった。



ムームームームー



「代々木世々(よよぎよよ)さん、ですか……」

 翌日、大学一年生の女、代々木世々はバイト先へと面接に来ていた。

 不思議な家だった。閑静な住宅街から少し離れたところにある立派な青い屋根の家で、いかにも目立つ有様なのに、ふと目を逸らすと消えてしまいそうな雰囲気を纏っていた。住所がわかっていなければ、見つけられないと思わされる。そんな家だった。

 インターホンを押すと女性の声が聞こえ、アルバイトの面接に来たと言うと、少し間があって、門扉が自動で開いた。

 (これがブルジョアか……ッ!)

 世々はかつてない経済格差を感じた。いつの日か一家に一つ自動門扉、格差是正を求めたい。

 女性の声が中に入れと言うので、世々はそれに従った。

 自動門扉から中に入ると見事な洋風の庭が現れ、これでもかと中流家庭人世々に絶対的な隔絶を示した。

 玄関扉の前まで来ると、家政婦の格好をした女性が一人立っていた。

「ようこそいらっしゃいました、私はこの家で家政婦をしております河本と申します。では、どうぞこちらに」

 家政婦だった。本物だった。しかも、二十代後半くらいの美しい切れ長の目をした女性だった。金があると美人の家政婦しか雇わないのかもしれない。世々はここでもブルジョアの片鱗を感じた。

 しかし、家の中はそれ以上のブルジョアで満ち満ちていた。

 まず、下駄箱がない。靴は脱がないのである。にわかではない圧倒的外国感を世々は味わった。

 次に、床はなんだかわからない白い綺麗な石だった。何だか高そうと世々は思った。

 そして、天井までの吹き抜け構造で、突き当りに木製の螺旋階段、上を見るとシャンデリア。古典映画に出てきそうな様相だった。

「こちらです」

 そうして世々は家政婦の河本に応接室に案内され、面接に至る。

「は、はい、上から読んでも下から読んでもよよぎよよです。よろしくお願いします」

「そうですか」

 …………。

 静寂である。

 世々の自己紹介鉄板ネタは家政婦河本の鉄面皮の前ではそよ風以下だった。

 気まずい。世々は心底この鉄面皮家政婦河本の前から逃げ出したくてたまらなかった。もうどうせ落ちるのだろうから、さっさとブルジョアの権化のようなこの家から唾でも吐いて走り去って、帰りはパフェでも食べてこのどうしようもなく胸の中に渦巻く感情を爆散させたく思った。

 しかし、それでも面接は続く。

 ほとんど簡単な質問だった。世々はそれに、少し俯き気味で答えた。

 河本はいくつか質問をした後、少しだけ間をとって、最後に、と言って、

「ここでの業務で難しいものはあまりないと思います。ですが、――」

 ――守秘義務だけは、必ず守っていただかなくてはなりません――

 と、言った。

 その様子は、今日一番重々しく、世々は視界が暗くなって、腰から下が石のように固く重くなってしまったように感じた。

「それさえ守っていただけるなら、この契約書にサインしてください。これをもって世々さんを雇いたいと思います」

 河本は机に置いてあったファイルから契約書を取り出し、ペンと一緒に世々の前に置いた。

 思ってもいなかった採用の可能性が世々の前には示されたものの、世々は喜ぶどころではなかった。世々には河本の切れ長の目が物理的な鋭さを伴っているように思えた。あの鋭い目で自身の胸を切り裂き、肉を分け、心臓の向こう側まで見透かしてしまうのではないかと、胆の潰れる思いだった。

 しかし、世々の胸に少しだけ燻るものがあった。それは小さな火種だったが、しかし世々にこのアルバイトを断らせることを躊躇わせるだけの火種だった。

 本当にいいのか。このまま引き下がっていいのか。

 (……ブルジョア、ジーーーーーーーーーーー!)

 それは魂の叫びだった。中流家庭人世々の反骨精神の表れだった。このままではブルジョアに惨めに負けた、敗残兵になってしまう。それだけは許容できない。今こそ中流家庭、プロレタリアートの底力を見せる時、と世々は意気込んだ。

「なんか、違法なこととか、ないですよね……?」

 しかし、違法かどうかは気になる世々。なんとなく法律破っちゃいけない精神が働き、思わず確認する。気が小さいわけではない。ただ、小市民は法令に従順なのである。

「?……勿論、ありませんが?」

 その河本の返答を聞いて、「……本当ですよね?」と何度か確認した後、世々は契約書にサインしたのだった。

「では、早速この家の主人に挨拶に行きましょう」

 世々がサインした後、雇用条件を諸々話し合うと、河本はそう言って世々を連れ立って二階へ上がった。

 螺旋階段を上がって、奥へ奥へと進み、一番奥の部屋のドアを河本はノックした。

 この大きな家の主人である。多分肥った中年のおっさん。二番手で神経質なおばさん。大穴でイケメン中年紳士、と世々は予想した。

 (好い人だったらいいなぁ、どうしよう、もしキモくてエロイくそジジイだったら……。私、エロいこととか言われたりしないよね、業務上の命令ですとか言われないよね……?)

 世々は様々思ったが、世々の心が決まる前に、河本は失礼しますと言ってドアを開いた。

 広くて奇麗な部屋だった。部屋の中央の床には深海を思わせるカーペットが敷かれ、その上にブラウンの木製の長方形のテーブルと華麗な椅子が置かれ、テーブルの真ん中では花瓶から花が咲いている。更に壁沿いには大きな本棚が並び、中にはぎっしりと本が詰まっている。天井からは丸い照明がいくつか下がっていて、壁には湖畔を思わせる絵画が飾ってある。

 しかし、そんな美しい部屋を見て、世々の心にブルジョアに対する敵愾心が湧くことはなかった。世々の目は一点しか見ていなかった。

この部屋の一番奥。

重厚な執務机の奥に、何よりも美しい少年が座っていた。


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