過去の国
「お疲れ様、中佐」
姫の部屋から出た途端、エドワード少佐に出くわした。
「ところで、大佐を見かけなかったか? この書類に判子を押してもらわなければならないんだ」
「大佐は王室にいたと思うが」
「ありがとう。―――いつも思うんだが、あんたは部下に対等な口を聞かれても何も言わないな」
「いつも思うんだが、あんたは俺と対等な口を聞くね」
「変わってるな、あんた。あんたの立場が中佐だなんて、とても思えない」
そう言って、エドワードは笑った。「俺は、ただ破壊を楽しむ奴にはなりたくない。あんたが陛下だったら、この国も少しはマシになっていたのかもしれないな」
「少佐。あんたは自分がどうしてここにいるのか、考えたことはあるか?」
「何だそれ? 何かのクイズか? ……そうだな。俺は、平和な世界を作りたいんだ。今はまだ、どうすれば世界が平和を取り戻すのか分からない。戦いの中でその理由を見つけられれば良いなと思っている」
「そうか。……悪い、時間を取らせた」
「それくらい構わないさ。じゃあな」
「ああ」
奴は、俺とは違う。戦う理由を持っている。
お前は何のために戦うんだ。
誰が言っていたのかを覚えていないくせに、その言葉がなぜだか頭から離れない。俺は何のために戦うのか、何のために戦っているのか。分からない。
どうして俺はここにいるのか。今までは、何をしていた?
思いだせない、自分のことなのに。俺は今まで何をしていたんだ?
様々な映像が頭の中でフラッシュバックする。それはあまりにも断片的な記憶だった。一つ一つの断片は鮮明に覚えているのに、前後の出来事はまるで思い出せない。
都合の良いことばかりだな。
誰かがそう言った気がした。
お前は忘れているんだ、思い出せ。
時折聞こえてくる声。思い出すって、一体何を? だが、声はそれ以上答えてくれなかった。それは自分自身で探すことだと言うかのように。
「大丈夫?」
その声に俺ははっとした。
「顔、真っ青だよ」
彼女は不安げに俺の顔を覗きこんだ。
「大丈夫だ。気にするな」
「ふふっ。ゼロは、本当は無愛想だったのね」
体中がだるくなるような生温かい夢幻から俺を現実に引き戻してくれたのは、なんと姫だった。気配を感じ取れなかったことに、今更ながらぞっとする。俺が集中していたからか? それとも―――。
「……すみません。まさか、姫様がいらっしゃるとは思わなくて」
「大丈夫、別に気にしてないよ。あなたはやっぱりあの子に似てる。特に似てるのは、無愛想だけど優しいところ」
「そうですか」
本当に、お前の記憶はお前に都合の良いことばかりだな。今まで何をしていたのかはっきりと思い出せないことに、なぜ疑問を持たない?
「くっ……!」
「ゼロっ」
お前のそのあやふやな記憶を一体誰が保障すると言うんだ。
「大丈夫です。気にしないでください」
「ううん、全然大丈夫そうじゃない。今日は休んでいた方がいいわね」
「少し頭痛がしただけです。大したことじゃない……」
遠くで姫が俺の名を呼んでいるような気がした―――。
「奴の記憶が戻り始めているそうだな」
デスペラード王国の王室。そこではデスぺラード王とマルス大佐が何やら怪しげなことを話していた。
「はい。いかがなさいましょうか」
マルスはデスぺラード王に尋ねる。一拍置いた後、デスぺラード王はけだるそうに答えた。
「放っておけ」
「しかし……」
「お主の洗脳であれだけの効果じゃ。わしが出る幕もない。記憶を取り戻したところで、あ奴にできることなどなかろう」
「仰るとおりです。ですが、万が一のことがあれば陛下の立場は悪くなるかと……」
「フン。お主の真の気がかりは、わしの立場ではなかろう。悩むまでもない簡単な話よ。もう一度洗脳し直せば、奴とて何もできぬ」
目を覚ますと、そこには安堵の色を浮かべた姫がいた。同時に、天井が見える。
「三十八度七分。風邪ではないようだし、きっと疲労ね」
姫は呆れたような口調で告げた。そこで俺は何が起きたのかを理解し、即座に飛び起きた。
そこは、全てが白に統一されている簡素な部屋だった。どうやら近くの部屋に運び込まれたらしい。
「失礼しました。姫の目前で、とんだ失態を……」
疲れてなどいないと俺は言い返そうとしたが、軽口を叩く気にもなれず、結局何も言えなかった。その沈黙を黙認だと思ったのか、彼女は話を続ける。
「疲労って言うのはね、知らないうちに気づかないうちに溜まっていくものなのよ。たまにはリラックスしなきゃ、身体がもたないわ」
身体がもたない。その言葉に疑問を感じた。俺は今までに一度だって病気になったことがない。だが、それは思い違いかもしれなかった。記憶に自信がないのは確かだ。
いつもは何かを考えようとするたび、頭が割れそうなほど痛くなる。だが、今はただ全身が熱かった。このまま死んでもいいかなと思いさえした。
覚悟を決めることなら誰だってできる。問題は、それを実行するかしないかだ。
お前は何のために戦うんだ。
俺の持つ、その問いに対する答えはただ一つ。生きていくためだ。だがそれは生き物としての本能であって、俺自身の答えじゃない。その問いにふさわしい答えを俺は持たない。
―――俺は何のために戦いたかったんだ。
その時、ひやりとしたものが額に当てられた。
「……だから、今日は大人しくしててね」
どこか遠くに行きたかった。何も考えなくていいのなら、俺は何でもできる。
物心つく前から全ての政治は二つの国家に動かされていた。豊かな土地は絶大な権力を持つ政府軍に占領されてしまった。そのせいで、地域によって貧富の差が激しい。
総ては政府の責任だ。そして俺は、政府側の人間だ。
生き延びるためには仕方のないことなんだ―――。
「すみませんでした。……失礼します」
「『馴れ合うつもりなど毛頭ない。俺は、あんたの友達なんかじゃない』」
「え?」
俺はギクリとし、部屋を出てすぐのところで思わず立ち止まった。
「仕事だから仕方がない。生きていくためには従わなければならないものがある。―――そんな風に思っているんでしょ?」
確かに俺は、彼女の言うとおり一人でいることが好きなのかもしれない。騒がしいのははっきり言って嫌いだ。
だが、それだけじゃない。自分でも自覚している。
俺はただ―――。
「あんたは何を望んでいるんだ」
「別に何も。でも、そう見えるってことは、私は何かを望んでいるのかもしれないね」
「……変わったお人だ」
「あ、笑った!」
ただ流されるままに生きてきた。
彼女と出会ったことで、運命が大きく変わってしまったという事を、俺はまだ知らなかった。
「そうだ、ゼロ。私のことは、これから『レイチェル』って呼んでよ」
「ですが……」
「いいから、呼んでみて。お父様には言わないから」
『レイチェル』。聞き覚えのある名だ。
「もしかして、言いづらい?」
「―――あんたはここにいない方が幸せだったのかもしれないな」