ほおずきに、
「…新を、奉行所に?」
夜更けのたけや。新之助の付き添いをみつにまかせ、竹次は勘右衛門に「話がある」と切り出されていた。
「正確には、私の個人的な預かりとなりますが」
「どういうことだ?」
「竹次先生はご存じなのでしょう? 新之助が特殊な力を持っていることを」
勘右衛門は竹次を「先生」と呼ぶ。かつて道場で竹次に剣術を学んでいたからだ。二人が会うのは15年ぶり近い。
「お前は何を知ってる?」
「さっき新のやつ、何もない宙のひずみから出てきたでしょう。あれは、時間を超えて来たんではないですか?」
「…百年以上先、らしい」
やはり、とつぶやく勘右衛門に、竹次は再び問う。なぜ知っているのか、と。
「…その力を持っているのは新之助だけではないんです」
「なに…?」
「初めてそれを知ったのは、私の甥の身に起きたときでした」
「甥…? 新が道場で教えてるっていう?」
うなずいて、一度酒を口に運ぶ。そして、勘右衛門は語り出した。
「しょっちゅう神隠しに遭うんだと思っていたんです。いつの間にか消えて、いつの間にか戻っている。それが、自分の意志で行ったり来たりしてんだってことに気づいたのは、あいつが八つのときでした」
それが原因で「気味が悪い」と勘当されてしまった甥を、勘右衛門が手元に引き取ったのだという。
「その力をうまく使えれば、本当に神隠しに遭った人たちを、あいつが助けてやれるんじゃないかと思ったんです。元服したら俺の仕事を手伝わせようかと考えてたんですがね。そうのんびりもしていられなくなりました」
「というと…?」
「どうやら同じような力を持つものが稀にいるらしい。そしてそいつらが、力を悪用しているらしいことがわかったんです。あろうことか、罪人を逃がしたり、意図的に人を神隠しに遭わせたりする。そんな生業のやつらがいたんですよ」
「なんてこった…」
「それで私は、時間のひずみを超える能力を持つ者を探し始めました。奉行所の配下に置いて、その力を世のために使わせたいのがひとつ。もうひとつは、そういった阿漕なやつらに利用されないよう、保護したいというのも理由でした」
竹次がずっと懸念してきたのも、新之助のその力が悪用されないかというところだった。今回、恐れていたことが起きてしまった、と思っていた。しかし、組織的に悪事を働いているようなところへ連れて行かれ、無理矢理協力させられ続ける、などということもあり得るということだ。それは竹次が抱いていた懸念の比ではない。
「あいつを…新を守ってくれるか」
「そのつもりです。今のところ、甥を含めて三人見つけています。ほかに見当をつけている者が一人。新が加われば全部で五人の体制を組める。表立って発表できる組織ではありませんから、奉行所の正式な一員、というわけにはいきませんが。内々に上の承諾は得ています。禄も出る。私の元で普段は奉行所の仕事を手伝いながら、依頼があれば行方不明者の探索をする──どうです? 先生から新を説得していただけませんか」
「そいつぁ…そりゃあ願ってもない話だ。俺はずっと、新にあんな商売は止めさせたかった。しかし新は、自分が止めてしまったら神隠しに遭った人たちはどうなるかと、手の引き時を見失ってたんだ。それが、お役人としてその力を生かすことができるとくれば、こんなありがたいことはねえ…新に、その話をしてやってくんな。俺が説得するまでもない」
勘右衛門はようやく緊張の表情をほどいた。途端にこの男独特の軽い空気をまとい直す。
「私が長々と説明するより、先生がひとこと言ってくだされば早いんですがね」
「…何と?」
「浪人者のところへ嫁にやる気はねえ、とね」
竹次はため息をつき、酒をあおった。
「あいつら…やっぱりそうなるかねえ」
「そうなるでしょう」
「新は…お武家だ。どのみち、みつが嫁に行ける先じゃねえよ」
「なんの。前例ならお父上がお持ちでしょう」
「お前…それを」
「惚れた娘の家業を継ぐために、十手を包丁に持ち替えた男。今でも伝説ですよ」
チッ、と舌打ちが返る。
「…新が起き上がれるようになったら話すよ。お前も時間が合えば来てやってくれ。みつのことは、俺がどうこうする話じゃねえ。二人が考えりゃいいことだ」
勘右衛門がニヤリとし、あとは静かに酒を酌み交わす。口数の少ない竹次を相手に、ぽつりぽつりと語る勘右衛門の声が、この夜のたけやに遅くまで続いた。
みつは、まだ知らなかった。目の前にある、この男の寝顔を見られるのは今だけだと思っていたから、焼きつけるのに必死だった。
初めて好きになった人。初恋の相手のこの人は、そう遠くないうちに、元いた場所へ戻ってしまうだろう。そこがどこなのかすらわからないみつにとっては、もう手の届かない人になってしまう。
看病という名を借りてそばにいられるこの時間を、ありがたく思ってしまうのは、痛みに苦しむ新之助に申し訳ないのだけれど。
=====
新之助の回復は早かった。数日後には起き上がれるようになり、体力回復のためにと、みつを付き添いに近所を歩けるようになるまでは、そう時間はかからなかった。
奉行所の仕事につかないかという話は、早い段階で聞いていた。是非もない。即座に膝をそろえ、手を突いて頭を下げていた。ただ、みつにはまだ、話していない。それは新之助に任せると、竹次に言われている。
他愛もない話をしながら、ゆっくりと歩く。最近の日課を、新之助は気に入っていた。早く回復させて仕事につきたいと焦る新之助に、みつとの時間はやさしく肩をたたく。今はもう少し、ゆっくりすればいい、と。
「新さん、ほらあそこ。猫が寝てる。あのダラッとしたとこなんか新さんそっくりね」
「バカ言え。ここいらのメス猫は大概あいつのお手つきだぜ? 俺はそんなに見境無くねえよ。相手はきっちり選ぶ」
みつを小突けば、バカばっかし、と腕をはたかれる。みつは相変わらずの減らず口だったが、以前のようにきゃんきゃんと突っかかって来ることはなくなった。
あの日。刀で斬られた痛みに朦朧とする中で見た、みつの顔。「大丈夫、なんにも心配いらない」と、新之助に向かって微笑んでみせたみつの顔に。新之助ははっきりと自覚した。
──ああ、こいつはもう“妹”なんかじゃない。
あの日から、新之助にとってみつは一人の女になった。ただ守りたいばかりではなく、自分もまた、彼女に包まれる。
「どうせあたしは、“百合の花”じゃないわよ」
どこからどうつながったのか、そんなことを言って唇を尖らせるみつに、新之助は苦笑する。すべてが解決した今もなお、新之助が妖艶な女性と二人きりで過ごした時間にやきもちを焼いているらしい。
「そうだなあ。おみつは百合ではないわなあ」
また怒り出すかと思いきや、目をくるりと回して新之助を覗き込んでくる。
「ね、じゃああたしはどんな花?」
「だから俺ァ花の名前なんざ知らないって…」
花の名で知っているものなんて、せいぜい桜に紫陽花、たんぽぽくらいのものだ。
「……ああ、たんぽぽか」
「たんぽぽ!?」
みつは、がっかりしたような複雑な顔になるが、構わず続けた。
「あれはお日さんの色してるしなあ。よく見りゃどってことねえが、一番に見つけると、ああ春が来たかとうれしくなる──ま、食って食えないこともなし。実用性もあって、あれで大した力持ってんだぜ」
散々な言い方だが、みつは頬がゆるむのを抑えられない。
「たんぽぽ…」
かみしめるようにつぶやくみつを見る新之助の目が、とても優しいことにみつは気づいていない。
「ああ、もっと似てるのがあったな」
「え、なあに?」
新之助が指さす先には、縁台に置かれた鉢植え。
「…ほおずき?」
「すぐ真っ赤になってふくれるところなんざ、そっくりだ」
「なっ…!」
「そら、ふくれた」
笑ってみつの頬をつつく。もう知らない!と、みつはスタスタと先を行ってしまう。それまでは、新之助の体を気遣ってゆっくり歩いてくれていたのだ。
「みつ」
「何よッ」
「傷がよくなったら、俺はたけやを出る」
みつの足が止まる。
「……そう」
「勘さんの下につくことになったんだ。しばらくは見習いだ」
「あの、お役人さま?」
職につけるのだから、おめでとうございます、と言わなくてはいけないのだろうけれど。なかなか喉から出てこない。
「しばらくは、親父の飯も食えなくなるな……みつ」
みつは何も言えず、ただ見返すだけで精いっぱい。
「お前さんの亭主になるにゃ、包丁は使えなくてもいいんだったな?」
「……!」
ぽろりと落ちた涙を拭ってやると、そのままみつの頬に手を添える。きれいな涙だ、と思った。次から次と止まらないことには困ったけれど。
「あたしは…」
いつもみつの頭を撫でていたその手が頬に置かれ、思っていたよりも大きな手であることにみつは気づく。
「あたしは、たけやをずっと手伝えたらそれでいいの…」
けど。いつか、たけやよりも、父親よりも、大切に思う人に出会うような気もしていた。
「そうか…」
頬に手を添えたまま、親指が頬で遊ぶ。その肌触りを楽しみながら、しかし、と新之助は思案する。
うまく行って、このまま役人の身分になれたとして。その内儀が食堂の手伝いというのはマズいだろうか。いや、実家の父親を助けるためといえば問題ないだろうか──新之助が早くもそんな心配をしていることを、みつは知らない。ただただ、真っ赤になって新之助を見上げるだけ。
みつは知らない。あと数年のうちに、その夢が叶うことを。
新之助が出て行ってしまったら、かわりにほおずきの鉢を買ってこようかな、などとぼんやり考える。その唇に、もうすぐ新之助の唇が重なることも。みつはまだ知らなかった。
これからも、みつの毎日は小気味よく続いていくに違いない。
おしまいです。お読みくださってありがとうございました。
最後のほおずきのくだりを書くためだけに作ったような話でした。