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一章 知識の果実

 インジュは、どこもかしこも真っ白な、太陽の城に来ていた。

風の城の応接間から大鏡のゲートを抜けて、立った場所は、高い高い階段の上だった。玉座の間と言われているが、ここに王が座る豪奢な椅子はない。あるのはこの、姿見だけだ。

インジュは金色のオウギワシの翼を広げると、階段を一気に飛び降りた。

「渡したか?」

銀の糸で伸びる蔓草の描かれた、オレンジ色の細長い絨毯の上に、波打つ緑色の髪の、甘く華やかで、優しい面立ちをした男性が立っていた。彼の背には、キシタアゲハの美しい蝶の羽根があった。

花の王・ジュール。智の精霊・リャリスの父親だ。

「渡しましたよぉ?でも、明日には、もう捨てちゃってるかもですよぉ?」

出迎えるほど、待ちわびていたのか?とインジュは苦笑した。ジュールは、フフと甘く微笑んだ。

「リャリスが、おまえからの贈り物を、婚姻の証になり得る品だとしても、壊すことはできんぞ?」

「それって、いえ、何でもないです」

「それほど、おまえの事が好きだからな!それはもう幼い頃から一途で一途でわたしが仕向けたことだが何度おまえを絞め殺そうかと思ったかしれんな!ということだ、インジュ、きちんと口説いたのだろうなぁ?ん?」

「言わなくていいです!ホントあんたって人は容赦ないです!バラします?本人にぃ!もう知ってますけど、リャリスに嫌われちゃいますよぉ?」

「父親とは、娘に嫌われるものだ。それで、娘が幸せになれるのならば、痛くも痒くもないな」

「くっ……いいこと言いますねぇ。お父さんの鏡です」

「フフフフ、しかし、これで大丈夫だ。ご苦労だったな、インジュ」

「リャリスの事は、もらうんでいいんですけど、あの感じだと、魂くれないと思いますよぉ?」

「強気だな。先代の手を掴み損なったヤツの言葉とは思えんな」

「だからですよぉ。今度は逃がしませんよぉ。ジュールさん、リャリス、何隠してるんです?2人とも、同じ問題抱えてません?」

「……娘の事を、見ていてくれたのだな……」

「はい?」

「リャリスのというよりも、リャリスの持つ、至宝・蛇のイチジクの問題だな」

「この世のすべての知識が、入ってるだけじゃないんです?」

ジュールはこっちへ来いと絨毯の上を歩き始めた。この城は無駄に天井が高い。先端の尖った聳えるような扉だが、ドアノブはずっと下についている。ジュールは扉を開き、廊下に出た。

 シンと静まり返った廊下は、夜の闇の中にあった。ジュールは持っていたロウソクに火を灯すと、廊下を進む。陶器のような質感の白い円柱が等間隔に並び、白い床から這うように描かれた植物が色彩豊かに登っている。

「……ジュールさん、ルディルの城に落書きしちゃダメじゃないですかぁ」

この植物の絵は、ジュールが居候する以前はなかったモノだった。

「殺風景だったのだ。美しくなっただろう?」

殺風景?太陽の城は、真っ白で光に満ちていて温かい。対する風の城はこの城と負けず劣らない豪華な城ではあるが、皆の集う応接間は煌びやかの欠片もない無骨な作りとなっている。天井も床面積ももの凄く広いのだが、家具が少なく、ただただ広い床が広がっている。殺風景とは、あれのことを言うのではないだろうか?とインジュはか細い月の光では闇に沈むしかない廊下を見回した。

「それは、まあ、そうですけどぉ。……ルディル、鳥描こうとして失敗したみたいです」

インジュはそう言いながら、遙か霞むように高い天井を見上げた。とんがっているらしい天井に鳥の絵を描いても、見えるのはたぶん、イヌワシの雷帝・インファだけだろうなーと、インジュは美しすぎる父の事を思い浮かべた。

「風の城から、スズメを連れてこいと言ってやるか?」

 ジュールはフフと甘く笑いながら、サロンと呼ばれている部屋の扉を開いた。ここだけは、なぜか扉がインジュの知っているサイズだ。格子に磨りガラスの嵌まった扉だった。

「オレの召使い精霊の貸し出しは、やってないぜ?」

知った声に、インジュはえ?と目を丸くした。サロンに火は灯っていなかったが、所狭しと並べられた、1人がけと2人がけの籐の椅子と丸いテーブルの1つに、ロウソクが置かれていた。

「リティル?」

インジュはジュールを置いて、そのロウソク目掛けて飛んでいた。ロウソクの淡い光に照らされた、小柄な影。淡い光だが、その火を受けて彼の背に生えた、オオタカの翼が金色に輝いていた。

「遅かったな、インジュ」

インジュを見上げてくる、金色の半端な髪を黒いリボンで無造作に束ねた、童顔な青年。

勝ち気な金色の瞳には、生き生きと立ち上るような光があった。

15代目風の王・リティルだ。

「リャリスの監視が、なかなか解けなかったんですぅ。その……ジュールさんと会うんじゃないかって」

へえ?とリティルは遠慮なく含んだ笑みを浮かべた。

「口説けたか?」

「振られましたけど」

「渡せなかったのかよ?」

インジュはフフンッと得意げに微笑んだ。

「渡せましたよぉ!でも、それ止まりっぽいです。どうしてですかぁ!」

両思いなのにぃ!とインジュは大げさに嘆いた。

「そりゃ、相性がよすぎるからじゃねぇの?」

「あ、ルディル、いたんです?」

1人がけの籐の椅子に座っていたのは、この城の主、夕暮れの太陽王・ルディルだった。

V字にはだけた胸元から覗く厚い胸板。オレンジ色の髪を伸ばしたい放題伸ばした、逞しい体躯の美丈夫だ。彼の背には、燃えるようなオレンジ色のオオタカの翼が生えていた。

「ここは、このオレの城だ!まったく口が減らねぇわ!」

と言いながら、ルディルはガハハハと豪快に笑った。

「おう、インジュ、インファは来られねぇのか?」

「お父さんは、秘密会議の番人で忙しいです」

「勘づいているのは誰だ?」

籐の2人がけの椅子に腰を下ろしながら、ジュールが問うた。彼の隣に、リティルも腰を下ろす。

「何も言いませんけど、ケルゥと……たぶんノインは、ジュールさんを不審者だと思ってます」

ジュールは風の城に入り浸るほど、リティルを構い倒す。その彼が、最近はめっきり風の城を訪れていなかった。インジュは、風の精霊ではないが、存在的にリティルの兄であり、将軍という位にいる力の精霊・ノインが、ジュールの実の娘であるリャリスに、探りをいれているのを小耳に挟んでいた。リャリスは「父の事はわかりかねますわ」と躱していた。

それは、その通りだ。リャリスとジュールは通じていない。ジュールと通じているのは、この秘密会議のメンバー、風の王・リティル、煌帝・インジュ、雷帝・インファ、夕暮れの太陽王・ルディルだ。

「ほほう?わたしを不審者扱いとは、ノインの奴めどっちが上か、ハッキリさせてやらねばなぁ!」

似非次男には負けんぞ!とジュールは、甘い目元に魔王の様な凄みを加えて微笑んだ。

現在の精霊の世界・イシュラースには、代わった経歴の精霊がいる。

それは、転成精霊と呼ばれる精霊達だ。

転成精霊とは、存在を保持したままその精霊たる所以の力を、別の種族、例えば人間、もしくは精霊が継承し精霊となった者のことを指す。

夕暮れの太陽王・ルディル、花の王・ジュール、そして、力の精霊・ノインも転成精霊だった。しかも、彼等は3人とも元風の王だ。ルディルは初代、ジュールは5代目、ノインはインという名の14代目風の王だ。15代目の現在の風の王・リティルが「どこか繋がってるオレ達は、兄弟みたいだな」と言ったことがきっかけで、ジュールが風の王兄弟と悪ノリしたのだった。

「はは、それも楽しそうだけどな。兄貴は風の王だった記憶がねーからな。話しても理解されねーよ。ルディルも一枚噛んでることバレちまうと、またオレと大喧嘩だな。あとは……リャリスか」

「娘はわたしには何も聞いてこないぞ。だが、インジュが動いたことで、インファが被害に遭うだろう。早めにインファとは話しがしたいな」

リャリスは、ジュール達が何かしていることは知っているが、詮索しないでいてくれていた。時期がくれば話すと、ジュールが釘を刺したからだ。

「リャリス、まだ蚊帳の外かよ?最後のピースはリャリスしかわからねーんだろ?」

「今はまだ、対価が大きすぎる。蛇のイチジクは知識を与えたがる。リャリスがそれに抗えば、また命を賭けかねないぞ」

「ボクでも防げないレベルです?」

「夫婦となっていれば、問題ないのだがな」

「婚姻の証、もらうにはどうしたらいいです?」

「ないな」

キッパリと言い切られ、インジュは腑に落ちない顔をした。

「ボク、好かれてるんですよねぇ?ボクは……その、問題アリですけど……」

「好きだからだろ?利用したくねーんだよ、おまえの事」

「生まれ変わっても、同じ事思っちゃうんですねぇ。ジュールさん、リャリス、前世の記憶持ってたりしません?」

「さてな。だが、媒介となったモノは同じだ。何かしら残っているモノがあるのかもしれんな。インジュ、前のリャリスの方がよかったか?」

「今のリャリスも同じ事言ってましたよぉ?あなたの愛したリャリスじゃないって。それ、関係ありますぅ?前のリャリスが好きだと、今のリャリスを好きになっちゃいけないんです?」

インジュに後ろめたさのない真っ直ぐな瞳を向けられ、ジュールは僅かに怯んだ。

「……恋愛感情が希薄で、不能のおまえに、このわたしが諭される日が来るとはな。だがインジュ、リャリスが我々の行おうとしていることを知れば、おまえの想いは打算だと結論づけられてしまうことだろう」

「ですねぇ。本気ほど伝わらないって、なんか複雑です」

そう言って、物言いたげな視線をインジュはジュールに送った。彼は風の王時代、色欲魔と呼ばれていた。異種族の女性食いたい放題だったという。

「わたしは常に本気だったぞ?子を産んでくれと希うのだ。心がなければ失礼だろう?」

5又かけて本気と言われても、説得力はまるでない。だが、ジュールなら許されそうな気がしてしまった。5代目風の王の死因は、女性に刺されてとか、女性に毒殺されてとかではないのだから。

「未だにそうなのかよ?」

意味ありげにリティルに見られ、ジュールは未だに軽薄だと疑われていることに憤慨したようだったが、自分のしたことだと小さく息を吐いた。

「最長の片思いを成就させて、満足しているのだがなぁ。シレラの方が、1人でいいのか?と言ってくるのだ。まあ、浮気な過去は消えん。彼女の嫌みは、甘んじて受けるさ」

色欲魔の5代目風の王・インラジュール。彼が、生涯ただ1人を愛していたことを知る者は、誰もいない。

花の王の証を奪った際、たまたま行動を共にしていた、5代目花の姫・シレラの魂も共に転成した。シレラとは彼が風の王をしていた時代から両思いだったのだが、ジュールは私的な理由から彼女を振った過去があった。2人は結ばれないまま、ジュールが崩御してしまい、番という関係だったシレラも道連れとなり生涯を閉じた。

巡り巡って、15代目風の王・リティルが、ある精霊の固有魔法・死者召喚でジュールの心を呼び出して助力を求めた際、件の花の王を討たねばならなくなり、力及ばなかったジュールを助ける為、2代目智の精霊・リャリスが、シレラとジュールに花の王の力を導き転成はなったのだった。

シレラは蜜月の精霊として、花の王・ジュールの妃となった。

シレラは、2代目智の精霊・リャリスの遺言通り、彼女の母親として、3代目智の精霊・リャリスを産んだのだ。

「シレラ、たぶん嫌みじゃないぜ?本気だぜ?ちょっと前にな、相談されたんだよ。おまえが愛人作らねーって」

「?わたしの何を心配しているというのだ?」

ジュールは本気でわからなかったようで、知的な彼には珍しくキョトンとしていた。

「おまえな、性欲が異常だと思われてるぜ?」

「は?」

ジュールのそんな戸惑った顔、初めて見るな。と、この場の全員が思った。

「一応否定しといたけどな、遠慮して我慢してるって思われてるんだよ。同時に何人も付き合ってたんだろ?」

シレラは、ジュールが平気で5又かけている時に「何番目でもかまいません」と突撃した猛者だ。その愛情は転成した今も、海より深い。

「ジュールさん……まだそんな誤解されてるんです?もしかして、シレラさんがいっぱい子供産んでくれるのって、ジュールさんを繋ぎ止めるためだったりして……」

花の王夫妻の子供は、智の精霊・リャリスだけではない。華やかな花の精霊達が男女含めて7人いた。そして、シレラは現在8人目を妊娠中だった。

子供達も風の城には気軽に出入りする。産む力を司る彼女達は常に恋を探していて、愛し合って婚姻を結んでいる風の城の住人は尊敬されていた。

「花の精霊は作ろうと思えば、無限に近い人数作れるわなぁ。ジュール、おまえさん、子だくさんだったんだろう?その全員失ったおまえさんの為に、健気だねぇ」

ルディルが丸太のような腕を組んで、ニヤニヤと笑った。

「なんと……わたしとしたことが、気がつかなかった。シレラが子を作ろうと誘ってくるのは、寂しいからだと思っていた。わたしはどうにもジッとしていられないからな。どうやら、意思疎通が足りなかったようだな」

「意外ですねぇ。何股かけても刺されなかった人が、大本命とすれ違ってるなんて」

「そんなもんだぜ?オレだって、シェラといつでも通じてるわけじゃねーんだぜ?」

「あ、シェラ、いつまでそのままなんです?一家のみんなが気にしてますよぉ?」

花の姫・シェラ。リティルの妻である美姫だが、現在意識が体がから抜けて、一心同体ゲートという、リティルと念話や力をやり取りできる特別な固有魔法を通して、リティルの心の間借りしている。

「シェラはもう少しこのままだな。大丈夫だ。この案件が片づいたら、体に戻してやるよ」

「大丈夫なんです?ボク、今更ですけど、怖くなってきちゃいましたよ。リティル、代わりに死んだりしないですよねぇ?」

「それは、ここにいる全員が許してくれねーよ。そのために、こうやって秘密会議して、準備してるんだろ?」

今更かよ?リティルはまったく危機感なく苦笑した。

「そうですけど……。……」

 インジュは不安げな顔のまま、ふとサロンの出入り口の扉に視線を向けた。

「インジュ、今更降りるなどと言ってくれるなよ?」

すぐさまジュールに釘を刺されたインジュは、機敏に視線を戻してきた。

「降りませんよぉ!いざとなったら、ここにいる全員の盾になるのがボクですよぉ?違います。誰かここに近づいてるんですよねぇ」

「おいおい!早く言えよ!」

「警戒の必要はねぇわ。インファだ」

 ドッシリ座ったままのルディルが言い終わると、サロンの扉が開いた。

そして入ってきた精霊は、男性寄りの中性的な容姿の眉目秀麗な風の精霊だった。金色のイヌワシの翼の間に、肩甲骨のあたりから緩く結った三つ編みを垂らしている。

「すみません。止めきれませんでした」

申し訳なさそうに、風の王の副官は頭を下げた。

「皆様共犯なのですわね?」

インファの影からズイッと姿を現したのは、リャリスだった。

「……おい、ルディル、インファだけじゃねーじゃねーか」

リティルが、ため息交じりにジロリとルディルを見やると、彼は「すまん」とガクリと頭を垂れた。

 リャリスは、現風の王を含む元風の王2人が何かしようとしていることは知っていた。が、そこに、インジュが巻き込まれていることは見過ごせなかった。

精霊の婚姻は、相手の霊力を得るためのただの儀式にすぎないとしても、インジュにも心があるのだ。思惑で使っていいモノではない。

煌帝・インジュは、この世の尊き宝だ。そんな精霊を、一個人の思惑で誰かの物にしてはいけないのだ!

リャリスは、ツカツカと皆がいるテーブルに近づいた。

「お父様の差し金ですわよね?インジュの人権を無視するのはやめてくださいまし!」

「リャリス、違いますよぉ?」

ジュールが口を開くより早く、インジュが立ち上がっていた。リャリスはほぼ同じ目線のインジュを見たが、彼は僅かに微笑みを浮かべるのみだった。

「リティル、話していいですよねぇ?」

インジュはあっさりリャリスから視線を外すと、リティルに伺いを立てた。

「ああ。こうなったら、隠しててもしょうがねーからな」

「じゃあ、進展あったら教えてくださいよぉ?」

インジュはフワリと笑うと、ジュールを睨むリャリスを促してサロンを後にした。

「……インファ、おまえ、ホントに押し切られたのかよ?」

まるで悲壮感や危機感のないインジュの背中を見送りながら、リティルはインジュと入れ替わるように椅子に腰を下ろした息子に問うた。

「インジュが迫ってきたと、泣かれまして。ジュールに何か魔法でもかけられたのではないかと、心配していましたよ。ジュール、娘を心配する気持ちはわかりますが、智の精霊を欺き続けるのは無理があります。ノインと連携されれば、事が事なだけに実行は不可能でしょう」

ジュールは苦悩するように腕を組むと、籐の椅子に背を預けた。

「ノイン……今、あいつと互角にやり合えるのは、インジュとリャリスだけだな。しかし、ヤツのことも避けては通れん。インファ、おまえがここへリャリスを通したということは、現段階で味方になると確信してのことだと、解釈していいか?」

「インジュ次第ですが、息子は退きませんからね。見守ることも、親の役目ですよ」

そう言ってインファは、ニッコリ微笑んだ。その微笑みに、ジュールは負けたと思ったのか、フッと苦笑した。それを間で見ていたリティルは、泣く子も黙る風の城の軍師、雷帝・インファが過保護なことを知っている。ずっと、踏み出すことを躊躇っていた息子が踏み出した一歩が止まらないように、背中を突き飛ばしたいのだ。

今度なんてない。精霊だって、死んでしまったら終わりなのだから。


 インジュは、ロウソクを持つリャリスの前を歩いていた。何も言わずに付き従ってしまったが、このロウソクの明かりは、インジュの前を照らしてはいないのでは?と、リャリスと同じくらいの背で華奢だが、やはり男性の体つきの背中を見た。

「風が流れてくるんで、明かり、なくても大丈夫ですよぉ?」

リャリスが声をかける前に、彼は言った。

「あなた、心まで読めるのですか?」

インジュは振り返らないまま、アハハと小さく笑った。

「魂の声は聞こえますけど、思ってることまでは聞こえないですねぇ。リャリスの視線感じたんで、そう思っただけですよぉ」

「どこへ行くんですの?」

「外です。でないと、気兼ねなく魔法使えませんからねぇ」

魔法?何に対して使うのだろうか?この人は、風に遊ばれる花びらのようで捉えどころがない。常に演じているようで、けれども本音しか言っていないようで、知ろうとすればするほど、不安になる。

――あなたは、何を想っているのですか?

至宝・蛇のイチジクの問題があるが、それを抜きにしてもインジュを受け入れていいのか、わからなくなる。

――私は、この人の何を見ているのでしょうか?

インジュが好きだ。けれどもわからなくなる。この想いが、本当に自分の心なのか確信が持てない。

太古、精霊達は一夜限りの婚姻を結び、霊力を得ては離婚を繰り返してきた。それは、精霊という種が、不老不死故に次代を繋ぐ命を産み育てなくてもいいからだ。

婚姻を結ぶのは、単に、相手から霊力のみを得るためにすぎない。婚姻なく交われば、相手のすべてを喰らい尽くしてしまいかねないからだ。精霊同士の婚姻のない交わりは、風の王の断罪対象となるなど御法度なのだ。

繁栄と衰退の異界・グロウタースの民のような恋愛感情を持ち、その想いに従って婚姻を結び別れない風の城の精霊達は、少し前までは異端だったはずだ。それが、風の王・リティルと花の姫・シェラが、仲睦まじかった為にそうあるべきだという風潮になった。

 サアッと空気が動いた。インジュが玄関の扉を開いたのだ。リャリスが手にしていたロウソクが、頼りなげに揺らめいて、そしてフッと消えた。刹那闇が包んだ。

リャリスは思わず、前にいるはずのインジュの服を摘まんでいた。ほんの少し摘まんだつもりだったのだが、インジュにはバレてしまったようだ。リャリスの手首を、女性のような長い指が掴んだ。

「リャリス、暗いの怖がりますよねぇ。何かありましたぁ?」

体ごと振り返ったインジュの左手には、光を放つ水晶球が乗っていた。

「見えないモノが、怖いのですわ。見えないモノとは未知のモノ。知らないということが、私には怖いのですの」

見つめてくるインジュの視線から逃れるように、リャリスは俯いた。その体が、体温に包まれた。インジュに抱きしめられたのだ。

「ボクのことが、怖いです?」

「……いいえ。けれども、嘘はいけませんわ」

「何が嘘だと思うんです?」

「わからないフリをなさるのね」

「ボクは、リャリスのことが好きですよぉ?」

「あなたの呼ぶその名は、私なのでしょうか?都合が、よろしいですわね」

そう来ます?本当に意地悪だなと、インジュはどう口説こうかと困って、視線を上げた。闇の中、星が見える。この明かりを消せばよく見えるが、リャリスは怖がるだろうか。

そう言えば、”リャリス”とこうやって触れ合うことは結局なかったなと思い出した。いつも健全な距離で、仲はよかったが、恋人なんてそんな関係ではなかった。なりようがなかったのだ。

なぜなら、インジュには、恋愛感情がなかったのだから。

「ボクがあの人を好きだって自覚したのはですねぇ、あの人が死んじゃったその時だったんです」

腕の中のリャリスが、僅かに身動きした。ああ、知らなかったのかと、インジュは小さく笑った。

「ボク、どうも恋愛禁止の魔法を自分自身にかけてたみたいで、ずっと、好きって気持ちがあやふやだったんですよぉ。それをあの人は、解いて逝ったんですよねぇ。気がついてて、解けるんだったら、生きてるうちに解いてくれって話です。その後はしばらく荒れてましたねぇ。ぶつける場所もないですし……ああ、魔物は死ぬ寸前までいたぶっちゃってましたねぇ。それでラスがリティルに相談しちゃったみたいで、しばらく監視されてましたよぉ」

知らなかった。インジュと2代目智の精霊は、完全な恋仲だとリャリスは思っていた。

死んだ後に自覚したなんて、そんなの哀しすぎる。

煌帝・インジュの名は、それこそリャリスが物心つくころにはすでに知っていた。ジュールがよく彼の話をしていたからだ。

 リャリスと同じ、透明な力の使い手。

透明な力は、源の力とも呼ばれ、世界に渦巻く力の素となる力だ。

世界に供給されている力は大まかに、地、風、水、火、光、闇の6つの力に分けられる。源の力はその6つに分かれる前の力だ。インジュはそれを、無から有を産み出す固有魔法・想像の創造として使っている。しかし、現実にあるモノしか作り出せない。

その魔法を知ったリャリスは、器用だなと思うと同時に、それを再現できないかと成人前研究していた時期もあった。限定的とはいえ、同じ力の使い手というだけでも、ジュールの洗脳がなくても、インジュに惹かれただろうとリャリスは思っている。

対等に話しがしたくて、インジュと出会った2年目からずっと、勉強と研究に明け暮れた。

ずっと好きだ。インジュという人を、知った今も。

「見かねたんですよね。あるとき、ジュールさんに魔法で叩きのめされました」

「え?でも、反属性返しがありますわよね?」

思わず、リャリスは顔を上げていた。至近距離にあるインジュの瞳が、困ったように笑った。

 ジュールは魔物狩りに出ていたその場所に乱入してきて、鮮やかに魔物を屠ると問答無用で魔法を乱発してきた。

インジュは手の平に反属性を返す魔法を纏い、触れるモノに的確に反属性を返すことで、力そのものを消し去ったり、反発を利用して攻撃したりできる。ジュールが操る魔法は、魔方陣魔法。紋章を描くことで発動する高度な魔術だが、反属性返しで十分壊すことができるはずだ。

「ボクの反属性返し、単発なんで、複合魔法には弱いんですよねぇ。それに、ジュールさんの魔方陣、自己修復とか織り交ぜられてて、一部を壊して逃げるのが精一杯ですよぉ」

鬼畜な上にえげつないと、インジュは苦笑した。

「そうだったんですの……。インジュ、その魔法改良させてくださいませんこと?あなたの理解度なら、お父様の魔方陣、壊すことができましてよ?」

「あはは。同じようなこと、ジュールさんにも言われてますよぉ?あの時も、なんだその体たらくは!ってガンガン叱られましたねぇ。それでそのあと、リャリスの研究所に連れて行かれたんです」

私の研究所?成人まで太陽の城に住んでいたリャリスには、太陽の城にも自室があった。ルディルにおどろおどろしいと称されたその部屋に籠もり、リャリスは研究に明け暮れていた。

「いつですの?嫌ですわ……私、あの頃、身だしなみもきちんとしていませんでしたのよ?」

「昔から綺麗なんで、問題ありませんよぉ。コッソリ覗いた時は、なんか大きな釜を掻き混ぜてましたねぇ。その姿は、おとぎ話に出てくる魔女その者!ってすみません。そんな顔しないでくださいよぉ」

見る間に赤くなった顔を至近距離で見せられて、思わずキスしたくなったがインジュは何とか堪えた。リャリスはいたたまれなくなって、インジュの腕を解くと闇夜にやっと慣れた目を頼りに、野っ原にしか見えない城前庭園に足を進めていた。

あのころは、寝ることも忘れていて、湯浴みすら怠っていた。そんな姿をインジュに見られていたなんて、恥ずかしくてたまらなかったのだ。

 インジュは、リャリスの後をついて行かずに、その背を見つめていた。

成人前のリャリスが、智の精霊になろうと頑張る後ろ姿を見たとき、産まれて2年目の彼女の事を唐突に思い出した。

まだ、3、4才の幼子だったリャリスは、インジュに「好きだ」と言いまくってきた。その頃はまだ、2代目のことが忘れられずに、無邪気なリャリスの言葉を素直に受け取れなかった。けれども、幼い彼女が安らぎだった。あれから1度も会えなかったリャリスは、14、5才にまで成長し、うねりの一切ない綺麗な髪を無造作に束ねて、飾りっ気がなかった。一心不乱に釜を掻き混ぜる彼女が、たぶん無意識なのだろう、呟いた名があった。

「インジュに、認めて、もらうんですわ」前だけを見ている彼女の姿に、恥ずかしくなった。彼女に恋ができる自信はまだなかったが、ジュールから成人したら風の城の住人になると聞いて、数年後に再会したら、できるかぎり向き合おうと思った。

そして、再会したリャリスは、見違えるように妖艶に、あの人の面影を持った知的美人に成長していた。妖艶で隙のない大人の女性を演じているのは、割とすぐに見破った。インジュが身柄を預かっている13代目花の姫・シェレラを、なぜかライバル視しているようで、経験不足からたまに見える幼さが可愛かった。この人可愛いなと思ったら、好きになっていた。ボクってチョロいですねぇと思ったが、自覚したら、もう止まれなかった。

「好きです!ボクは、魔女なリャリスが好きですよ!」

後ろから叫ばれた言葉に、リャリスは振り返っていた。そういえば、インジュはリャリスが風の城に居場所を定めてから、アトリエと呼ばれているリャリスの自室に、入り浸っていた。そして、リャリスが薬の調合をしたり、魔法を構築したりするのを眺めていた。楽しそうに。しかし、インジュがいると集中できないリャリスは、10分足らずで毎回追い出していた。

「どうやって口説こうか、ずっと考えてたんですよねぇ。そしたら、ジュールさんに婚姻の証を押しつけてくれって頼まれたんです。お父さんの許しが出たらもう、我慢することないですよねぇ?ってことで、プロポーズしたんですけど、そんなに不審でしたぁ?」

リャリスはハアとため息を付いた。

「絶対に裏があると思っていましたわ……。わかりましたわ。あなたの気持ちに嘘はないと信じますわ。けれども、私からはお返しできかねますわ」

「いいですよぉ?」

インジュはフンワリと女性的な顔に、笑みを浮かべたまま首を傾げた。

「ボクは、霊力の交換ができません。だから、いいんですけど――」

夜の闇を裂くように風がリャリスを包む。

「ボクのこと、1度だけでいいんで、好きだって言ってくれません?」

一瞬で距離を詰められて、リャリスはインジュの柔らかく笑う瞳に射貫かれていた。

言葉は心を縛る。この2文字を告げれば、もう彼を止めることはできないだろう。

ずっと、恋してきた。この人に。婚姻の証も「好きだ」という言葉も、本当は心臓がどうにかなるほど嬉しかった。

「…………できませんわ……私……あなたを、利用することは……できません」

今、真っ直ぐに笑いかけてくれるその笑顔が、背けられることが怖い。

苦しそうに視線をそらすリャリスの様子に、インジュはああボクは、この人に愛されてるんだな?と唐突に感じた。

「精霊も、永遠じゃないです。あの人が死んだとき、わかったんです。あの人が魔法を解いてくれたおかげで、ボクは胸を張って言えるんです。リャリス、ボクはあなたが好きです」

「待ってくださいまし」

流されそうになったリャリスは、ふと我に返った。

「お父様に頼まれた……インジュ、夜な夜なお父様達は何をしていらしたの?」

うーん。一筋縄ではいかないですねぇ。インジュはガッカリした。

 これはもう、潔く話題を変えるしかない。智の精霊を煙に巻くことはインジュにはできないのだから。

「インティーガを救う方法を、話し合ってたんです」

13代目風の王・インティーガ。風の王を殺す為にある剣・黄昏の大剣で殺された唯一の王。インティーガは誤解で、至宝・黄昏の大剣を操れる初代力の精霊・有限の星の手によって殺されてしまった。その魂は砕かれ、輪廻の輪に還ることができず、塵となってこのイシュラースに降った。

彼を救う方法を、リティルが模索していることは知っていた。だが、彼はリャリスを頼ろうとはしなかった。対価が発生すると思っているのだな?と遠慮を感じたリャリスは、砕かれた魂を再構築する方法を、1人で探していた。リティルが頼ってきたとき、最小限の対価で済むように、知識を自分のモノにするために。

「インティーガの魂を再構築するには、今のところ、反魂しかありません。でも、反魂は、魂に唯一触れることができる風の王にも御法度の邪法ですよねぇ?」

そこにたどり着いていますのね?リャリスは思った。リャリスも研究してきたが、この、避けて通りたい邪法以外に方法はないとそればかりが証明された。

「おじ様は、その方法を知っていますわね?」

あれは、この世界に遺ってしまった、滅んだ旧時代の負の遺産の1つ。風の王が守護者に選ばれてしまった。いや、押しつけられた代物だ。

――旧時代……私は、逃げられないのですわね?

マントの下、リャリスは自分の身を抱いた。インジュの前で震えるわけにはいかない。

「はい。でも、リティルが知ってる方法を使っても、インティーガは蘇りません。化け物が生まれるだけですよねぇ?」

「お父様は知っているのではなくって?」

父なら。リャリスは藁にも縋る思いだったが、思いを打ち消した。ジュールが付いていながら、これだけの時間を要したのだ。回避する方法は、見つからなかったのだろう。

「知ってるみたいですねぇ。でも、教えてくれないんですよぉ。最後のピースはリャリスだって言って」

インジュは、リャリスを伺った。リャリスはやはり、その言葉の意味がわかるようだった。真っ直ぐに見つめていた視線を落とした。

「……その為にインジュに……」

ジュールが、リャリスに婚姻の証を贈れと許したのは、この邪法のせいなんだと、インジュは察した。そうでなければ、こんな霊力の交換の行えない不能の精霊と、夫婦になれだなんて、あの子煩悩なジュールが言い出すはずがない。

たぶん、この邪法、リャリスにとって危険なのだ。彼女を守るため、ボクは選ばれたんだと、インジュは確信した。初めは、対価の支払いを軽くするためかとも思っていたが、それだけではない何かを、ヒシヒシと感じている。

「あのぉ、期間限定とか、ダメです?」

「え?」

「リャリスがどうしても嫌だって言うんならですねぇ、反魂の儀式の間だけでも婚姻結びません?ジュールさんが渋るってことは、智の精霊に何かあるんですよねぇ?ボクが頼まれたってことは、ボクの力があればそれ、防げるってことなんじゃないんです?」

察しがいい。というか、それくらいのことすぐにわかりますわね。とリャリスはインジュを見返した。

 彼が、もう少し頭がよくなかったなら、気兼ねなく利用できた。婚姻の証を贈り返して、夫婦になれたかもしれない。

この人は、優しくて、自分の立ち位置をよくわかっている。ジュールやルディルまでとはいかなくても、せめてインファと同等くらい、いやあと少しの思慮深さがあってくれれば、また違っただろう。ようは詰めが甘い。危うすぎて、こんな人を、隣になど置いておけない。気をつけなければ、すべて暴かれる。暴かれて踏み込まれたら、リャリスはまだ、インジュをどう守ればいいのか方法を見つけてはいなかった。

まだ。まだ守ることができる。婚姻の証を、贈らなければ。

「反魂の構築式、それから材料、説明受けまして?この方法、理論上は成功するはずなのですわ。けれども、成功例は1つもありませんのよ。なぜか、おわかりになりまして?」

反魂という、死者を蘇らせる邪法は、風の王の記憶に刻まれている。

風の王は、魂の流れを見守る輪廻の輪の守護者だ。それが、生き死にを繰り返す異界・グロウタースでの役割だった。

反魂は、その輪廻の輪の流れを乱す行為だ。それゆえ、それを行った者は否応なく風の王に狩られる運命にあった。しかし、それは成功することのない魔法としても知られていた。けれども、反魂を行う者は後を絶たない。

「風の王兄弟は、最後のピースが足りないって言ってましたねぇ。一応、材料と構築式は見たんですけど」

そう言いながら、インジュは地面に手の平を向け引き揚げるような仕草をした。すると、地面からテーブルのような木が生えた。そのテーブルには、光を放つ水晶球を乗せるスタンドまでついていた。そのテーブルの上に、筒状に丸まった紙を広げる。紙には、複雑な魔方陣が描かれていた。

「これだと、体はできますけど、心は不完全、魂は存在まるで無視状態じゃないんです?」

よく、勉強なさいましたわね。リャリスは、そんなインジュに感心するとともに、悲しく思った。

「いいえ。これで完璧でしてよ?これは、材料を置く場所にも意味があるのですわ」

そう言ってリャリスは、陽炎のような透明な光を手の平に集め、数十個の歪な透明な石を作り出した。それを、魔方陣の上に置いていく。その石には、抽象的な絵が描かれていた。ああ、材料の代わりかと、インジュは理解した。インジュは石を置いていくリャリスが置きやすいようにと、石を分類別に仕分けた。

「……へえー。材料でも魔方陣を描くんです?んん?でも、まだ何か足らないような?」

本当にこの人は……そう思って、ジュールが彼を高く評価していることを思い出した。

「接着剤ですわ。体、心、魂は、絶妙なバランスで繋がっているのですの。けれどもその記述はありませんのよ」

「ないとどうなるんです?」

「失敗はすべて化け物一直線ですのよ。接着剤は、透明な力ですわ」

「透明な力?ああ、生命の源ですもんねぇ。それなら、ボクでも何とかなりますねぇ。花の姫でもいけますかねぇ。シェレラ、やるって言いそうです」

インティーガには、恋人がいた。13代目花の姫・シェレラだ。彼女もまた、インティーガの死と共に死んだが、その魂は現在風の城にいる。

 インティーガを蘇らせる計画の発端を作ったのは、シェレラだった。彼女は、インティーガを殺された復讐のため、ある事件を起こしたのだ。それを、世界の刃として風の王・リティルは止めた。しかし、無傷とはいかなかった。

風の王妃・シェラは、心が体から出ていた状態で力を根こそぎ奪われた為に、今現在も意識を取り戻すだけの力が戻らず、リティルの心に間借り状態だ。

そして、2代目智の精霊・リャリスが、犠牲となった。

それでもリティルは、シェレラを断罪しなかった。そして、インティーガの魂を再構築し、シェレラと共に輪廻の輪に還すことを決めたのだった。

そのリティルの決定に、風の城は大きく揺れた。普段は寛大すぎるほど寛大な一家の殆どの者が、シェレラを受け入れなかった。中には、彼女の暗殺を企てた者もいたほどだ。それが今は、完全にわだかまりは解けてはいないものの、一家は彼女を受け入れていた。それは、インジュの功績だ。

「私としては、インティーガを早く蘇らせて、シェレラには離れてほしいですわ」

「あ、もしかしてヤキモチです?ボクのこと、好きって言ってください!」

インジュにしてみれば、恋人をシェレラに殺されたようなものだった。だが、そのインジュがシェレラを受け入れ、始終共にいる姿を見て、一家の心は徐々に落ち着いていった。その、花の乱と名付けられた案件から12年後、リャリスが風の城に来たことで、皆の心はほぼ収まったのだった。

「嫌ですわ」

「強情ですねぇ。そんなリャリスも好きです!……これで完成です?」

「いいえ。死は、覆ることのない力なのですわ。許されることではなくってよ」

言えない。どんなに望んでも、完璧に構築しても、この魔法ではこの世界の死者は生き返ることはないのだ。この魔法でできることは、ある門を開くことだけ。

今回は、その門に用があるのだ。黄昏の大剣で殺されたインティーガを蘇らせるには、それしかない。輪廻の輪に乗れなかったインティーガは、そこにいるのだから。

「今回は、インティーガの魂を再構築するためですけど、それでもダメなんです?」

「死に抗う行為なのは、同じですわ。これ以上は、対価が必要になってしまいますわ。それが、皆様の言う、最後のピースですのよ。それを知っているのは、私だけですの」

 リャリスは、テーブルの上を片付け始めた。その表情が硬い。

「本当に、反魂しかないんです?」

インジュは、リャリスから反魂の魔方陣が描かれた羊皮紙を受け取りながら問うた。ジュールほどの精霊が、いや、賢魔王の異名を持つ彼だからかもしれないが、慎重に慎重を重ねている。豪快でがさつなルディルも、魔法の構築式を読み解くのが苦手なリティルも、反魂の話になると雰囲気が怖くなる。風の王にのみ受け継がれる反魂の魔方陣。魂の流れを見守り守護する風の王の理を否定する邪法だ。王ではないインジュには、ただの魔法でしかないが、それでも、風の王がこの邪法を行っていいのだろうかという不安が消えない。

「……力の精霊の……いいえ、なんでもありませんわ」

リャリスが対価の発生することを言いかけたことを、インジュは察した。2代目も、知識を持っているのに対価を要求せねばならないために、口を閉ざしていなければならず、歯痒い思いをしていた。彼女固有の知識を与えるぶんには対価は発生しないが、重要なことには、相応の対価が発生するらしい。

「リャリス、ボクが夫になれば、辛いの、少しは軽くなるんじゃないんです?あの人もそうでした。ボクを利用することになるからって遠慮してました。そんな、気にするものです?ボクだけが取られるわけじゃないですよぉ?ボクは、リャリスを手に入れられるんですよぉ?それでも、ダメなんですかぁ?」

リャリスと夫婦になってくれとジュールが言ってきたとき、いつもは高飛車で上から目線な彼が神妙だった。言われたインジュはというと「あ、魂分け合っちゃっていいんです?」と目から鱗な気分だった。

 霊力は、その精霊固有のモノであるため、霊力で作ったアクセサリーを贈り合うことで成立する精霊の婚姻は、魂を分け合うという言い方もされた。

婚姻を結ぶことで行えるようになる霊力の交換。それは、情交によって相手の霊力を取り込む特別な儀式だ。不能のインジュは、その儀式を行えない。故に、インジュはリャリスをどう口説けばいいのかわからなかった。リャリスの父であるジュールに許されたことで、インジュは心的にも気兼ねがなくなったのだ。

リャリスがインジュが好きなことは周知の事実で、あとはインジュの心次第だなと風の城の誰もが思っていたのだから。

「インジュ、あなたはあなたが思う以上に特別な精霊ですわ。あなたがくれたこのチョーカーだけで、私は十分に守られますわ。ごめんなさい……私が……あなたを手に入れるわけにはいかないのですのよ」

「ボクが原初の風の精霊だからです?受精させる力っていいますけど、ボクは4分の1の欠片でしかないですよぉ?リティルが半分持って守ってくれてます。ボクは特別でも、そんな理由になるくらいですかぁ?」

リャリスは、物言いたげに恨めしげにインジュを見たが、小さく息を吐くとその場から離れてしまった。インジュは、その後をついて行く。

「私が……智の精霊でなければよかった……」

兄弟達のような花の精霊だったなら、気兼ねなくインジュと婚姻を結べた。知識が邪魔をする。知っているが為に、大好きなこの人の手を取れない。

インジュはおそらく、不能ではない。受精させる力を守るため、自ら封印をかけているのだ。それを、リャリスでさえどんな封印なのかその片鱗も見えない。彼は、彼が思う以上に強力な精霊だ。それを自分自身でさえわかっていない。危うい人。

リャリスは智の精霊だ。知識は尽きることのない探求。インジュと婚姻を結べば、貪り喰らうこの蛇は、インジュの守るその力に及ぶだろう。彼の不能を解いてしまう。彼を好きだった2代目智の精霊が、封じられた恋愛感情を呼び覚ましてしまったように。

インジュは、恋愛感情さえない精霊だったと言った。それもおそらく、受精させる力を守るためだったのだろう。2代目は、智の精霊になりきれない無知の精霊だった。それでも、インジュを拒み彼を守っていたが、彼女の感情が心を裏切ったのだ。

彼女が無知?

リャリスはフッと自分をあざ笑った。今、インジュの守り方がわからない自分もまた、無知ではないか?

「すみません。ボクに言えないことがあるんですよねぇ?それがリャリスのボクへの気持ちの形なら、もう好きだって言えって言いませんから、泣かないでくださいよぉ」

後ろから抱きすくめられたリャリスは、やっと自分が泣いていることに気がついた。

「その分ボクが言いますから、嫌いになったらそう言ってくださいよぉ」

そう言った途端、インジュは腕を振り払われていた。泣きながら睨む、彼女には珍しいその目と目が合った。

「私だって!」

好きですわよ!聞こえた気がした。

「嫌だったら、突き飛ばしてくださいよぉ?」

腕の中に捕らえたリャリスの顔に、インジュは顔を近づけた。証も言葉も得られないなら、別の方法で繋ぎ止めるしかない。なんて、そんな冷静だったわけではなかった。言葉はなくても、こんな、態度で好きだと言ってくれたら、嬉しくて触れたくなるのはしかたがないと思う。

一瞬の躊躇いは感じたが、リャリスは瞳を閉じてくれた。

唇が触れる。それだけでは物足りなくて、インジュはリャリスの上唇を啄むように吸った。驚いたのか、腕の中でリャリスは僅かに身動きしたが、拒まなかった。

触れられる幸せ。気がつけば、インジュはゆっくりと深く、時間をかけて、リャリスに口づけていた。

「インジュ……私――」

浅く息をつくリャリスは、夢心地のような顔をしていた。その顔を見たインジュは、ハッと我に返った。

「あ、やりすぎちゃいましたぁ?あわわ、ジュールさんに怒られちゃいますぅ!も、戻れます?今夜はその、ここに泊まっていきます?」

「私、そんな見せられないような顔、していますの?」

「はい。い、いや、そのぉ……食べられたような顔、してます」

リャリスは、トロンとした瞳のまま、フフと微笑んだ。

「私としたことが、流されてしまいましたわ……でも――」

リャリスはきっと、半分寝ていたのだと思う。そうでなければ、彼女自らしな垂れかかるように抱きついてきて、こんなこと、口にしない。

「幸せでしてよ?」

「聞かなかったことに、したほうがいいんです?」

インジュはちゃっかり抱きしめ返しながら、心にもないことを言っていた。

「そうですわね。忘れてくださいまし」

忘れられないですよ……。こんな風に触れ合えるのは、たぶん、今だけだ。彼女の拒む理由にたどり着かなければ、2度と、リャリスは触れさせてくれないだろう。

戯れるように冗談のように「好きです!」と言って追いかけて、リャリスはそんなインジュを冷たくあしらう。そんなことを続けていくのだ。

「わかりましたよぉ。忘れます」

拗ねたような芝居がかった口調で言いながら、この背を腕で包んでくれるインジュに甘えながら、悪い女だなとリャリスは思った。


 風の城。

主が15人も変わった、不老不死の精霊という種族の中にあって、短命な風の王の居城だ。風の王が短命なのは、戦う事を宿命づけられているからだ。

現在の風の王・リティルも、幾度となく危うい橋を渡ってきた。

「おはよう、シェレラ、インジュ早いな」

この応接間という部屋は、一家の団らんの場所でもあるが、仕事場でもあり、来客の相手をする場所でもあった。

どんな図体の者が来ても入れるようにか、天井が恐ろしく高く、床面積も恐ろしく広い。家具は、中庭に面した聳えるような吐き出し窓のそばに、机を中心にコの字型に置かれたソファーと、暮らす住人が多いために、部屋の奥側に増設されたソファー、暖炉のそばの肘掛け椅子と少ない。あとは、だだっ広いホールのような空間が広がっていた。しかし、その床は、風の王の翼の鳥である、クジャクのインサーリーズと、フクロウのインスレイズがそこかしこに戯れる様が描かれた、見事な象眼細工だった。

「リティル、おはよう。聞いて、インジュったらリャリスが太陽の城から帰ってこないって、凹んでるのよ?」

長い緑色の髪を揺らして、モルフォ蝶の羽根は生やしたシェレラが、遠慮なく鬱陶しいと言いたげにリティルに苦情を言った。

「迎えに行けばいいでしょう?それに、たった2晩帰ってこないだけでしょう?どうしてそんな風になってるのよ?」

インジュは自分の膝に突っ伏して、明らかに項垂れていた。

「まだ朝早いぜ?寝てるんじゃねーのかよ?」

ソファーまで飛んできたリティルは、まだうちの奴らも寝てると首を傾げた。

「あのですねぇ……キス、しちゃったんですよねぇ……」

え?とシェレラは眉根を潜めた。ん?とリティルはもう一度言ってみ?とソファーの背越しに身を乗り出した。

「そのこと後悔してて、それで、実家に帰っちゃったとかないですよねぇ?」

インジュは情けない顔を上げた。

「……よくあの娘が許したわね……。あなたのこと好きってにじみ出てるくせに、くっつく素振りみせなかったのに。それとも無理矢理?」

それちょっと退くわ。とシェレラは心底嫌そうだった。

「違いますよぉ!ちゃんと、嫌だったら突き飛ばしてって言いましたよぉ!……ちょっと、暴走しちゃいましたけど……」

「幻想、壊しちゃだめじゃない。あなたって害なさそうだから、ビックリさせたんじゃないの?」

どんだけがっついたのよ?とシェレラはますます呆れていた。

「うう……だって、好きな人にやっとキスできたんですよぉ?舞い上がりません?」

それは、その気持ちはよくわかる。と、シェレラとリティルはインジュに同意した。

「それより、おまえ、リャリス完全に落としたのかよ?」

「振られましたよぉ?」

「振られてキスって、どういう状況?」

やっぱり無理矢理?と、シェレラは眉根を潜めた。

「両思いなのはわかったんですけど、婚姻はやっぱりダメでした。あのぉ、太陽の城、行ってもいいと思いますぅ?」

情けない顔で、インジュが助けを求めてきた。

「リャリスの状態次第じゃ、魔王・ジュールが降臨しそうだな」

「ジュール様、インジュには容赦ないものね」

インジュは何を想像したのか、身震いした。

「ねえ、リティル、どうしてこの人振られてるの?インジュよりもリャリスの方が好きって感じに見えてたわよ?」

シェレラの素朴な疑問を受けて、リティルは困った。オレが知りたい。だったからだ。

「うーん。オレも両思いならいいじゃねーかと思ってるぜ?けど、リャリスのヤツ、消極的なんだよな」

リティルの様子に、シェレラは言うことを躊躇うような素振りをしたが、言葉にしてきた。

「……ねえ、リティル、インティーガ様のことなんだけど……わたしが諦めるって言ったら、どうする?」

「はあ?おまえ、って、例えばの話だよな?おまえが諦めても、オレはやるぜ?魂を砕くってな、オレでも滅多にやらねーんだ。それすると、輪廻の輪に還れなくなっちまうからな。あいつは、無実なんだろ?だったら、助けてやりてーんだよ」

リティルの態度は変わらない。彼の笑顔に、大丈夫だと思い込まされて、ここまで来てしまった。

いいのだろうか?リティルに甘えて。大きな心の傷を負わせたのに、しでかしたことと向き合ったシェレラは、表向きはふてぶてしい魔女を演じてはいるが、リティル達を案じていた。

「その方法、禁忌よね?リャリスがまた犠牲になったりしない?このことが本格始動してから、ジュール様来なくなったわよね?」

「それは、あいつも話してくれねーことは多いけどな、娘を犠牲になんて、しねーだろ?現に、リャリスにこのことが伝わったのは、2日前の夜だぜ?」

2日前の夜……とシェレラはしばし考え込んだ。

「インジュ、今すぐ太陽の城行きなさい。リャリス、1人にしないほうがいいかもしれないわよ?ジュール様もわたしからしたら、不穏だし。対価払ってでも、リャリスがあなたを受け入れられない理由、聞き出した方がいいかも」

「なんだよ?不安にさせるなよ。根拠あるのかよ?」

「女の勘よ。あの娘、ずっとインジュの事好きでしょう?子供の頃、あんなに積極的だったのに、大人になったら秘めちゃうし、インジュが迫ったら退いちゃうし。変よ」

「ボクも、その理由には興味あるんですよねぇ」

うーんと、少し俯き物思いにふける横顔は、誰が見ても見目麗しい。さすがは、超絶美形と名高い雷帝・インファと、儚げだが意志ある瞳の正統派美人の宝石の精霊・セリアの息子だ。今更この顔が嫌いということもないだろう。

性格?たまに狂気じみているけれど、そんなこと、戦う為に生まれてきているような風の精霊なのだから当たり前だ。

風の城に来てから、しょっちゅう魔物に襲われ、自身でも撃退しているリャリスが、インジュの事が怖いということもないだろう。

では、他の所?優しくて、明るくて、紳士的。典型的にいい男だと思う。嘘くさくはあるが。リャリスに対しては、嘘はなさそうに見える。

頭脳?確かに、智の精霊と渡り合うには足りないとは思うが、彼女に渡り合えるのは、この城では魔導書の賢者という異名を持つ、時の魔道書・ゾナと、聡明だと定評のあった14代目風の王の知識を持っているノイン、辛うじて雷帝・インファだけだ。ゾナは、イシュラースの三賢者に名を連ねる正真正銘の賢者だし、インファはこの城を知略で守り続けてきた軍師だ。そんな彼等と比べるのは、酷と言える。

一般的に見て、インジュはバカではない。むしろ、いい方だと思う。本気か?でも使えると、インファでさえ舌を巻く策をたまにひねり出す天才肌のリティルとは違い、インジュは秀才だ。隠れて、反魂の儀式のことを読み解いていたことを、シェレラは知っている。

「不能だから嫌とか?」

シェレラの言葉が、インジュの頭の上に鉄球のように落っこちてきた。

「おまえ、直球だな」

明らかにショックを受けて、動かなくなったインジュを「生きてるか?」と気遣いながら、リティルが苦笑した。だが、本当にそんなことならいいと、リティルは思っていた。

 リティルは今回、ジュールの頭脳を借りるより他なかった。魔法が苦手なリティルでは、ただ化け物を産み出して精神を壊されておしまいだからだ。反魂がどんなに危険な邪法なのかは知っているが、どう危険なのかは知らないくらいに無知だ。あのルディルでさえ、最終的な部分の知識はなかった。あれは、触れてはいけない術だと、ルディルの話を聞いたときに悟ったが、もう、後には退けなかった。

反魂が理由なら、それにインジュとリャリスを巻き込んでしまったリティルの責任だ。いや、責任などそんなもので片付けたくない。

「蛇って、グロウタースじゃなにかと色っぽい話しが多いわよね?あなたとしたいけど、できないから、婚姻結ぶと歯止めがきかなくなりそう。とか?」

ツラツラと流れるように際どいことを並べるシェレラに、インジュは瞳を見開いて固まっていた。

「……」

「おい、インジュ、真に受けるなよ?リャリス、見た目妖艶だけどな、純情だぜ?」

 蛇……。2代目智の精霊も蛇の姿をしていた。そして、3代目のリャリスも2匹の蛇が生えていたり、鱗が生えていたりして、蛇に由来している。たぶん、智の精霊は蛇なのだろう。だが、なぜ蛇なんだ?とリティルは疑問を持っていた。

智の精霊の力は、透明な力。母なる大樹・神樹が濾過したばかりの、何色にも染まっていない力だ。その力は、神樹に由来する精霊にしか使えない力だったはずだ。

神樹の精霊・ナーガニア。鹿の角を持つ熟女。彼女の鹿の角は、大樹が枝葉を広げたように見える。

神樹の花の精霊である、花の姫。モルフォ蝶の羽根を持つ、花の精霊の特色を持った精霊。

産まれた命に縁を結ぶ花の王・ジュールと、王の妃として転成した蜜月の精霊・シレラ。共に花の精霊で蝶に化身する。

創世の時代、神樹に咲いた花を風が受粉させたことで生まれた至宝・原初の風。その精霊である煌帝・インジュ。風の精霊のため猛禽の翼を持っている。

大樹の枝葉のような角、大樹の花から蜜を吸う蝶。そして、風の力で受粉させたという伝説を持つ原初の風。彼女らの化身の姿は、神樹という大樹にこじつけられるが、智の精霊は?蛇というその姿からも、こじつけるのは難しいように思われた。

リティルの知る限り、智の精霊は、神樹には由来していない。調べようにも、精霊の至宝についての情報は秘匿され、その所有者しかそれのことを知らない。

「……できないけど、悦ばせることはできるかもです!」

ガバッと顔を上げたインジュが、いらない方向へ頑張りそうになり、リティルは一旦、智の精霊のことは置いておくことにした。一旦置いておいても、その答えにたどり着くことはできはしない。至宝の知識は、選ばれた者にしかもたらされないのだ。リティルは、オレが知ることはねーんだろうなと、薄々思っている。

「待て待て待て!精霊の婚姻が霊力の交換ありきなのは認めるけどな、絶対違うぜ?」

「ねえ、インジュ、ホントにできないの?」

えい!とシェレラは、隣のインジュの股間を掴んだ。

「ひえっ!」

「バ、バカ!おまえってヤツは!」

固まるインジュに代わって、リティルがシェレラの手を慌てて引き離した。

「これって、触るだけで反応するの?」

手はリティルに引き剥がされたが、シェレラはジッとインジュの股間に視線を注いでいた。

「へ?……おまえなぁ、そんなこと聞くなよ!」

 子供みてーだな。多くの精霊は、男女の体の違いを知らない。子を成し命を繋ぐ必要のない精霊という種族には、必ずしも必要な知識ではないからだ。だが、恋愛感情のある精霊くらい、常識として持っていてほしいよなぁと、リティルは常々思っていた。

まして、花の姫は、風の王の番として用意された精霊だ。せめて、グロウタースの民の、年頃の女性くらいの恥じらいは持っていてほしい。

こんな子供では、押しかけられて恋人にしてしまったインティーガも、手を出しずらかっただろう。英雄王と呼ばれたインティーガは、ジュールのように「何?知らない?では、わたしが手取り足取り教えてやろう!」というタイプではなかっただろうからだ。

ただでさえ、死を導く風の王に、産む力を持つ花の姫は触れがたい。リティルも、人間からの転成精霊であるシェラが王妃でなかったら、手が出せなかったかもしれない。

はは、なんか懐かしいこと、思い出したな。とリティルは苦笑してしまった。シェラと同じ、グロウタースで風の王として生まれたリティルは、シェラを娶る前から女性の体を知っていた。だが、シェラが意を決して手を導いてくれるまで、踏ん切れなかった。

インティーガ――シェレラをちゃんと娶っていたら、今も風の王でいられたんだろうか?奔放なシェレラを見ていると、つい、そんなことを考えてしまう。

「いいじゃない。減るものじゃなし。ねえ、インジュも聞きたいわよね?これのこと」

――わかってるのか?オレはおまえを、殺すために今こうして一緒にいるんだぜ?

砕かれたインティーガの魂を再構築して、そして、2人とも輪廻の輪に還す。それは、13代目花の姫・シェレラと13代目風の王・インティーガの死を意味する。とっくに死んでいると言われればそうだが、今、仮初めとはいえ肉体があって動いているシェレラを見ていると、死んでいるからいいんだと、そんなふうには割り切れない心があった。

「リティル、反応って、どうなること言うんです?」

「おーい、しっかりしろー。シェレラに流されてんなよ!」

 真面目な顔で変なことを言い出したインジュを振り切り、立ち上がったリティルはやっと注がれている視線に気がついた。

「?………………!リャリス……!」

青ざめるリティルの声に、インジュは我に返り、シェレラは顔を上げた。

「ごきげんよう。お邪魔でしたかしら?」

ニッコリとリャリスは妖艶に微笑んだ。その顔を見たリティルは、これは弁解せねば!と焦った。そんなリティルの隣から、風が飛び出した。

「リャリス!」

「きゃあ!」

リャリスの悲鳴、初めて聞いたな。とリティルとシェレラは同時に思った。2人の視界から、リャリスの姿が消え、シェレラもこれには慌てたらしい、リティルと共にソファーを飛び越えていた。

太陽の城直通のゲートである大鏡の前で、インジュに押し倒されたリャリスが固まっていた。何事と戸惑いと驚きの表情を浮かべていたリャリスは、リティルとシェレラの姿を認めて、我に返った。

「は、放してくださいまし!」

抱きついて離れないインジュの下でリャリスは藻掻いたが、彼は離さなかった。

「戻ってこないかと思いましたよぉ!」

「え?なぜですの?このお城が、私の居場所ですのよ?どこへ行けるというのですの?」

「ホントに、どこにも行きません?」

不安そうな顔でインジュに覗き込まれ、リャリスは苦笑した。

「行きませんわよ?」

「はあ~よかったー。あ、リャリス、いい匂いですねぇ。なんの花ですかぁ?」

パタッと再びリャリスの胸の上に顔を置いたインジュは、ふと鼻孔をくすぐった香りに、鼻をひくつかせた。

「フフ、くすぐったいですわ。インジュ、そろそろお離れになって」

「えー?嫌ですよぉ」

「お兄様、笑顔が怖いですわ」

「えっ!?」

インジュは機敏にリャリスの上から退いていた。いつからいたのか、インジュと入れ替わるように膝を折ったインファは、床から起きあがろうとしているリャリスに手を差し伸べた。

「大丈夫ですか?リャリス。インジュが朝からすみません」

インファはインジュをギロッと一瞥した後、リャリスにはとても優しい顔で微笑んだ。

「少し驚きましたけれど。もっと早く帰って来るつもりでしたのよ?久しぶりに太陽の城に泊まったものですから、兄弟達になかなか離してもらえませんでしたの。あの、少しお話があるのですわ、お兄様」

リャリスは、インジュの父であるインファを兄と呼んでいた。それは、面倒見のいいインファを自然とそう呼んでしまったからだ。けれども、それはリャリスに限ったことではない。インファはしばしば自分よりも年下の容姿の精霊から、兄と呼ばれているのだった。といっても、インファとリャリスの精霊的年齢は25で、同い年だったが。

 リャリスを立たせて、ソファーにエスコートしながら「話しとはなんでしょう?」とインファは問うた。

「お姉様も一緒に聞いてほしいのですけれど……あと、ラスも」

お姉様とは、インファの妻である宝石の精霊・蛍石のセリアのことだ。インジュを産んだ、インジュの母でもある。インファは「呼んできましょう」と、入ってきたばかりの扉に向かって床を蹴った。

「あのぉ、何がはじまるんです?」

インファに睨まれた衝撃から立ち直ったインジュが、リャリスの隣に座りながら問うた。

「煌帝妃になることを、正式に認めていただこうと思ったのですわ」

「えっ!」

寝耳に水だ。リャリスは、婚姻は結ばないと言ったはずなのだから。

「けれども、言った通り、私からは婚姻の証をお贈りできませんの」

反応したインジュに、リャリスは断ってきた。

「頑なですねぇ。いいですけど。でも、それならどうしてです?」

「ラスには、噂を流していただきたいのですわ。地の果てへも届くように」

リャリスの瞳には、ある決意のような光があった。リティルは、不穏なモノを感じた。だが、今ここで迷うわけにはいかない。

「インティーガの件と関係あるのかよ?」

「はい。詳しくはお教えできませんわ」

インジュは隣のリャリスを伺ったが、視線に気がついているはずの彼女は一向にこちらを向いてはくれなかった。

 胸騒ぎがする。ボク達は、触れちゃいけないものに、触れようとしてるんじゃないんです?反魂しようとしてるんだから、それはそうなんですけど……インジュの不安は、リャリスに無視されたまま、応接間に現れた雷帝妃・セリアと、風の城の執事、旋律の精霊・ラスは、リャリスからの申し出に、眠気が吹き飛ぶほど驚いたのだった。


 インジュは、太陽の城にジュールを尋ねていた。

「ジュールさん、このまま突き進んで、リャリス、傷ついたりしないですよねぇ?」

ジュールは大きな机に広げたイシュラースの世界地図に、何やら書かれたメモを貼り付けていた。

「リャリスは、元気にしているか?」

ジュールは地図から顔を上げないまま、心ここにあらずだった。

「教えてください!ジュールさんから聞く分には、問題ないですよねぇ」

ジュールはやっと顔を上げた。

「聞いてどうする?これは、リャリスにしかできんぞ?」

「だったら、尚更です!形だけですけど、リャリスはボクの妻ですよぉ?形だけですけど!」

ジュールはジッとインジュを見つめた。退くまいと、インジュは彼の隙のない知的な瞳を見返した。

「……おまえが不能でなければ。いや、だとしても、同じ性質の力では助けにはならんか。知るな。インジュ、知ればリャリスが傷つく」

ジュールはクルリとインジュに背を向けて、地図に向かい合った。

「リャリス、泣いてました。ボクと婚姻が結べない理由、それなんじゃないんです?インティーガを蘇らせる方法、ホントにそれしかないんですかぁ!」

「他に、あるにはあるが、確実に誰かの命が失われてしまうのだ。反魂を用い、リャリスがヤツを押さえた方が確実なのだ」

「誰です?その、ヤツって」

「我々が死と呼ぶ者だ。インジュ、リャリスのそばにいてやれ。それは、おまえにしかできんことだ」

「……蛇のイチジクです?死と関係があるのは、あの至宝なんですか!」

詰め寄ったインジュは、凪いだようなジュールの瞳に射貫かれていた。

「至宝がどうやって産まれたのか、考えたことがあるか?」

 ジュールは「休憩だ」と言って、大テーブルから離れた。

「おまえは、幸福な生まれだ」

ジュールは白い廊下を歩きながら、おもむろに口を開いた。

「ボクです?原初の風が、ですかぁ?」

「原初の風は、この、神樹という大樹が繋ぐ3つの異世界が作り出した至宝だ。大樹に芽吹いた花を、風が受粉させ産まれた、父と母を持つ至宝なのだ。その至宝を、おまえは歪な方法で守っているな」

「恋愛感情と不能のことです?ボクが封じてる自覚はないですよぉ?」

「それはいいのだ。封じられていようとなかろうと、おまえは役目を果たしているからな。リャリスが相手ならば、霊力の交換は必ずしも必要ではない。おまえとリャリスは、同じ性質の力を持っているからな。多少足しになる程度だな」

「ボクに婚姻の証をリャリスに贈らせたのは、どうしてです?」

「強力な、男の精霊の霊力が必要だったのだ。その役目、おまえが打って付けだった。もう1人、この上ない適任がいるが、ヤツはリャリスと婚姻を結べないからな」

「もう1人、です?」

「聞くな。不愉快になるだけだ。リャリスも望まん」

ジュールは簡潔に言い切った。

「……蛇のイチジクの産まれ、知ってるんです?」

「質問ばかりだな」

ジュールは外へ通じる大扉の前で立ち止まり、インジュを揶揄うような瞳で見やった。

「至宝のことは、知ってる人に聞くしかないじゃないですかぁ」

「フフ、おまえは頭がいいのか悪いのか、よくわからんな。その答え、わたしを倒したら、教えてやろう!」

「ええ?どうしてそんな話になるんです?」

「頭ばかり使って、体が鈍ったのだ。付き合え」

ジュールはフフと甘やかに微笑むと「来い」と言って、太陽の城を出た。

 城前庭園は、ただのだだっ広い野っ原だ。最上級精霊の2人が暴れても、修復も簡単で気兼ねがない。

「あれから何年経ったか?」

ジュールはインジュと距離を取って立った。腰に片手を置いたその姿は、余裕に見えた。

「ジュールさんに半殺しにされてからです?リャリスが成人前でしたよねぇ?」

インジュは足下に違和感を感じて、飛び退いていた。

「10年か。キリがいいな」

緑の光が魔方陣を描いていた。驚異的な速さで描かれたそれから、大きなフクロウが数羽呼び出されていた。あの姿は、色こそ緑色だが風の王の左の片翼・インスレイズだ。彼女の名は、死の風だ。風の導きに従わない魂を狩る、ハンター。猛然と襲いかかってくるフクロウたちを飛んで躱しながら、その1匹の体にインジュの手が触れると、それは途端にただの緑の光となって消え失せた。

「!」

フクロウに気を取られていたインジュは、背後に魔方陣の気配を感じて急降下したが、その先でも魔方陣が展開されていた。魔方陣に挟み撃ちされたインジュの体に、花吹雪が襲いかかった。一見綺麗だが、その花びら1枚1枚が鋭利で、顔を庇ったインジュの体を無数に傷つける。風を放ち、花びらを自身から引き剥がしたインジュは、ジュールに向かって突進した。そんなインジュに、フクロウが追撃する。

「蛇のイチジクは、旧時代の遺産だ」

ニヤリと微笑んだジュールの突き出した手の平に、魔方陣が描かれていた。咄嗟に急浮上したインジュを通り越したフクロウが、ジュールの手の平に描かれた魔方陣から飛び出した、太いトゲに射貫かれて霧散する。

「元は女性だ」

「どうして、生き物が宝石になったんです?あわわ!狡いですよ!ジュールさん」

ジュールの言葉に気取られたインジュは、真上に描かれた魔方陣の対処に一瞬遅れていた。シュルリと伸びた蔓に巻き付かれていた。

「旧時代が滅ぶとき、彼女の蓄えた知識が結晶化して産まれたのがあの至宝だ」

両手を封じられ、身動きの取れなくなったインジュの前に、キシタアゲハの羽根をはためかせ、ジュールは浮かんだ。

「その人は、賢者か何かだったんです?」

「健全に蓄えた知識ならば、対価を要求する至宝にはならなかっただろう。彼女は知識ある者を喰らう化け物だ。初めは蛇に似た姿をしていたようだが、数々食べるうち、知能が芽生えて女性の姿を取るようになったようだ。もう仕舞いか?インジュ」

「そんなわけ、ないじゃないですかぁ!」

ぐぐっとインジュの翼が動き、巻き付いた蔓を剥ぎ取っていた。

殴りかかってきたインジュのこぶしをスイと避け、ジュールはトンッとインジュの体に触れた。ハッと身を強ばらせたインジュの左肩が爆発して、肩の骨を砕かれていた。

「彼女は、知識を与える代わりに、さらなる知識を求めた。それが、対価を要求する蛇のイチジクの理となったのだ」

背後を取ったジュールは、インジュの右腕と首を捕らえて、耳元で囁いた。甘い声。数多の女性を魅了し喰らった、色欲魔。不能のインジュの脳髄も、ゾクゾクと甘い疼きに刺激されていた。

「体内に入る遺伝子情報から、知識を抜き取る蛇女。それが、蛇のイチジクだ」

「知って、たのに、どうして……!」

「なぜ、蛇に由来した姿にリャリスを作ったか。か?それはな、リャリス本人があの姿を選んだのだ」

「そんな……!」

リャリスは、所々に生えた蛇の鱗を気にして、風の城と太陽の城以外の場所では、フード付きのマントを羽織っている。とても、自分で選んだとは思えなかった。

「理解しているのだ。自分自身のことをな。おまえも、あの妖艶さに魅了されただろう?」

リャリスを、美しい人だと思う。けれども、そんな目で見たことは1度もない。いつも暗い色の服を着ているのは、その魅力を弱めるためだったのだろうか。

「あいにくと、ボクに魅了は効かないんですよねぇ」

ジュールはフフと微笑むと、インジュから手は離した。だが、蝶の羽根では逃げられない。鋭く振り返ったインジュの右手が、ついにジュールに届いた。

ああ、勝てないですねぇ。と、インジュはハアハアと息を吐きながら思った。

彼は花の王となった為に、風の王の証だったオオタカの翼と、槍術を失った。魔方陣魔法と蝶の羽根で、ここまで風の城最強精霊を翻弄する彼は、強い。これで手加減されているのだから、本当に及ばないなとインジュは、遠いなと思った。

「蛇のイチジクは、知識を求める。おまえが見初められたのは、彼女の知らない知識だから。と言ったら、おまえはリャリスをどうする?」

「どうもしませんよ!ボクを、食べたいなら食べればいいんです!それで、リャリスが満足するなら、もう、悩まないって言うなら、それでいいですよぉ!」

「呆れた男だな。おまえはもう少し、貪欲になった方がいいと思うぞ?」

ジュールはインジュに右手の平を突きつけられたまま、腕を組んだ。

「十分欲深いですよぉ?」

インジュも手を引いた。

「ジュールさん、考えてますよねぇ?」

ジュールはインジュの左腕を取った。急に腕を引かれたために、インジュは一瞬痛みに顔をしかめた。そんなインジュの様子を無視して、ジュールは左肩に手をかざし、癒やしきれていなかった傷を癒やした。

「ああ。娘をみすみす差し出したくはないからな。リティルが動くと言ったが、相手はノインだ。リティルでは酷だろう」

「ノインを味方に引き入れるんです?でも、死を求める事って、インティーガが殺された原因なんじゃないんです?」

インティーガは、死を求めたと初代力の精霊・有限の星に勘違いされ、そして黄昏の大剣で斬られてしまった。『死』とは何を指すのか、インジュにはいまいちピンとこない。

「その通りだ。今ノインは、我々を見て見ぬ振りをしているだろうよ。そうしなければ、リティルを斬らねばならないとでも思っているだろう」

「実際どうなんです?」

「断罪に値するかか?そんなもの、値するわけなかろう?まったく浅はかな奴め。インと有限の星が聞いたら、さぞ嘆くだろう」

バカな奴め。ジュールは嘲るような笑みを浮かべた。だが、ノインにそのことを教える気がないように見えた。

「2人は、リティルの味方です?」

「当たり前だろう?14代目風の王・インはリティルの実の父親だ。そして、有限の星は、風の王の後見人。初代力の精霊は、風の王の最大の味方だ。フフフ、わたしも、ヤツには世話になった」

ジュールの様子から、関係は悪くなかったようだということだけはわかったが、世話という部分には疑問が残る。インジュが思うに、ジュールはきっと問題風の王だったと思うからだ。

「迷惑の間違いじゃないんです?」

「そうともいうな。インジュ、リャリスのそばに、いてやってくれ。勝手な願いなのは承知しているが、いかにわたしといえども、娘と同じ土俵には立てん」

ジュールは、歯痒そうに自嘲気味に微笑んだ。

「ジュールさん、花の王になったこと、後悔してませんよねぇ?」

インジュの問いに、ジュールは勝ち気な笑みを崩さなかった。

賢魔王と呼ばれた5代目風の王・インラジュール。   

ジュールは死後、蛇のイチジクに魂を喰われ、智の精霊の代替わりの間、代理の守護者をしていた。その間に、暇に任せて引き出せるだけの知識を得たらしい。所詮、次の智の精霊が産まれれば消えてなくなる存在だったが、彼は知識を得ることが好きだ。それが、今、こんな形で役に立つとは、思ってもみなかったことだろう。

現在、イシュラースの三賢者は、花の王・ジュール、智の精霊・リャリス、時の魔道書・ゾナだ。未だに、リャリスは父を抜けずにいた。

「後悔があるとするならば”リャリス”を犠牲にしてしまったことだな。まあ、あまり後悔していては、あいつに申し訳ない」

ジュールは、晴れ渡る空を、眩しそうに見上げた。

「あいつは、わたし達に未来をくれた。忘れはせん。だが、リャリスに背負ってほしいわけではないのだ。今回のことも、わたしができるのならば、わたしが代わってやる気満々なのだがな!」

「リャリス、1人でやらなくちゃダメなんですかぁ?」

「そうだな。ラスの流した噂、少しは働いてくれるといいのだがな」

今、イシュラースは、智の精霊と煌帝・インジュが婚姻を結んだという噂で持ちきりだ。あれは、やはり、ジュールの差し金だったかとインジュは知ったが、あれがなんなのかさっぱりわからない。子を成し、種族を維持する必要のない精霊にとって、婚姻など重要ではない。ようは、誰が誰とどうなろうが、知ったことではないのが精霊だ。

婚姻は、霊力の交換を行うための精霊同士の契約のようなもので、祝福を受けるようなそんなモノではないのだ。風の城には、恋愛感情を持つ精霊達が集まり、まるで、グロウタースの民のように心の有無が重要視されているだけだ。風の城が異端なのだ。

婚姻の噂を流し、得られることと言えば、リャリスが智の精霊の力ほしさに、言い寄られなくなるというくらいのものだ。

「リャリス、誰かに言い寄られてたんです?」

「……おまえは、わたしの娘の美しさを知らんのか?知識を得ようと、有象無象にたかられていたぞ?今まで無事だったのは、ひとえにリャリスが強かったからだぞ?1人でフラフラ出歩くあいつを、リティルが心配していただろう?」

護衛にと、鳥を遣わせていたくらいだと、ジュールは呆れ顔だった。

15代目風の王・リティルの異名は、烈風鳥王。幾多の鳥を操る王だ。リャリスは、数々の鳥達に守られながら、智の精霊を務めていたのだ。

「リャリスの敵は、そんな有象無象だけではない。魔物もだ。あいつが出歩くと、その先でかなりの高確率で大物に出くわしていたな。それを、インファが事前に防いでいたが、気がつかなかったのか?ん?」

そういえば、リャリスが産まれてから、サソリ型と呼ばれる大型の魔物が現れるようになった。サソリと同じく、尾に毒針があり、インジュもあれに刺されたことがある。確か、リャリスが風の城に来る前は、サソリ型は太陽の領域にしか出ていなかった。それが、いつの頃からか、イシュラース中に出没するようになった。

いつから?リャリスが成人し、研究と勉強のためにイシュラース中を出歩くようになったから?

「ジュールさん!風の城に戻ります!」

「ああ、帰れ帰れ。自分の伴侶くらい、おまえの手で守れ。ああ、形だけだったな!」

「くっ!いつか、形だけじゃなくしますから!それまで、大いに笑ってください!」

負け惜しみのようにそう宣言したインジュに、ジュールは遠慮なく高笑いした。

そして、シッシッとジュールは虫でも払うかのように、インジュに手を振った。猛スピードで太陽の城に引き返すインジュを見下ろしながら、ジュールは愛しそうに微笑んだ。

「食べたいなら、食べればいい。か。若いな。だが、そんな淫乱な蛇だったのは旧時代の話だ。今の智の精霊は、見た目に反して純情な、男を知らん1人の恋する女だ」

ジュールは空を見上げた。

「リャリス……今度こそ、幸せになれ。誰かを恨むことは容易い。怒りも憎しみも、おまえの幸せで帳消しにしてやろう」

だがもし、反魂の儀式でおまえが不幸になったとしたら、わたしはインティーガとシェレラを――


惨たらしく殺すだろう


どこまでも青く澄んだ空を睨むジュールの切れ長の瞳は、すべてを切り裂くように鋭かった。花の王・ジュールは、これでも子煩悩なのだ。

こぶしを握ったその手の平は、食い込んだ爪で傷つき、血が、滴り落ちた。


 風の城の応接間の壁に取り付けられた大鏡を抜け、インジュはソファーまで一気に飛んでいた。

「シェレラ!リャリス、リャリスいないです?」

ソファーには午後の暖かな日差しを浴びて寛ぐ、シェレラがいた。彼女は、インジュの剣幕に、驚いて目を丸くしていた。

「何よ、藪から棒に。リャリスならついさっきまでいたわよ?」

「どこ行ったんです?」

「リティルと水の領域よ。あなたを待ってたけど、帰ってこないから諦めたの」

「待ってた……え?ボクをです?」

「そんなに驚くこと?あなた、そんなにリャリスに冷たくされてるの?ちょっと同情するわ。待ってたのは事実よ?水の領域に、採取に行きたかったみたいね。リティルが付き合ってるわ」

「リティルが……そうですかー……」

ハア……と息を吐き、インジュはその場にへたり込んでいた。面倒くさそうにしていたシェレラは驚いて、モルフォ蝶の羽根をはためかせてインジュのいるソファーの裏へ来てくれた。

「シェレラ……お願いがあるんですけど」

顔を上げたインジュは、情けない顔で笑っていた。

 インジュは、この城に来てからずっと、シェレラの味方だった。

今代の花の姫であり、風の王妃であるシェラからありったけの霊力を奪い、死は免れたものの、未だに目覚めることのできない重症を負わせた。そして、リティルの養女であり、インジュの恋人だった智の精霊・リャリスを死に追いやった、魔女。それが、13代目花の姫・シェレラだ。

慕う王妃と家族を奪われ、城の住人は憤った。それが、正しい反応だと思う。1度は、リャリスの死を目の当たりにして、シェレラを斬ろうとしたリティルだったが、彼の下した決断は、シェレラを許すというものだった。

後にインジュから、リティルはそういう人だと聞いた。風一家もお人好しの集まりだとも。だが、家族の死は、そんな一家とリティルとの間に溝を作ってしまった。シェラはリティルから離れる事はできなかったが、水晶球に宿ることで皆と変わらず会話ができた。一家に、シェレラを受け入れるように説得してくれたが、感情はそう簡単に収まるモノではない。そんなシェレラと一家の間に立ち、インジュはずっと守ってくれた。

自身も、リャリスの死を受け止めきれずに、心を病んでいたのに。

「ボクは、シェレラに怒りなんかないんです」

風の城の通常業務、魔物狩り。

殺せない戒めを守る彼は、行き場のない感情を魔物にぶつけるあまり、魔王も裸足で逃げ出すような所業を繰り返していたらしい。

あるとき、風の王夫妻の養子の次男から「おまえのせいだ!」と怒鳴られた。そばにいた一家の皆は表面上彼を止めたが、一家の不満は溢れ出すくらいに膨らんでいた。こうなる前に手を回していた副官のインファの不在もあり、リティル1人ではとても治めきれなかった。

ああ、これ以上は無理だ。そうシェレラは思った。リティルはインティーガを救い、君に逢わせてやる!と曇りなく笑ってくれたが、その情けが、この城を冷たく引き裂くなら、もういいと思った。

そんな、シェレラが首を差し出そうとしたそのとき、ジュールに連れられてインジュが戻ってきた。そして、険悪な空気にすべて察した彼が、言ったのだ。

「ボクは、シェレラに怒りなんかないんです。怒りが止まないのは、ボク自身なんですよ!だって、そうでしょうが!ボクなら、全部、止められたんですよぉ?何を失ったって壊れたって、ボクなら癒やせます。暴走した花の王を反属性返しできてれば、ジュールさんもシレラさんも存在捨てずにすみましたよぉ!リャリスだって……死なず――に……!」

彼が泣くところを、初めて見た。

インジュは、この応接間にいるときは、哀しみなんてないような顔で、明るく笑っていた。城の外で、そんな悲惨な戦いをしているなんて、微塵も感じさせずに。明るく歌って、一家とシェレラの溝がこれ以上広がらないように、ずっとずっと、務めてくれていた。

「3代目智の精霊に会ってきました。いえ、声はかけられなかったんですけどねぇ。あの人と同じ名前の智の精霊です……”リャリス”の姿を見たとき、この人に背負わせちゃいけないって思いました。こんなボクを、未だに好きでいてくれるリャリスに、こんな姿、見せられないって思いました。全力で取り繕いますよ!さあ!シェレラに文句がある人はボクが相手になってあげますよぉ?ああ、手加減できそうにないんで、半身吹っ飛ぶ覚悟で来てくださいねぇ?」

ヒュンッと空気を切り裂いて飛来したインジュは、シェレラを攫い上げ、1人、一家の前に立ちはだかったのだ。

「はは、インジュ、おまえって怖えーなー。なあ、みんな、こいつに免じてオレの我が儘許してくれ。この通りだ」

小柄な体躯で、けれども雄々しくオオタカの翼を広げたリティルが、インジュの前に舞い降り、一家の皆に向かい深々と頭を下げた。

わだかまりはすぐに消えるモノではなかったが、一家は、感情を収め、シェレラに歩み寄る努力をしてくれた。

もういいよ。

何度思ったかしれない。だが、リティルとインジュ、飄々と気遣うインファに守られて、今日まで最愛の人を待ち続けられた。

感謝している。

「なに?わたしにお願いなんて、珍しいわね」

高くつくわよ?シェレラはフフンと上から目線で微笑んだ。

インジュの願いを、どんな困難だったとしても断る選択なんてなかった。この人が死ねというのなら、笑って死んでやる。それくらいの恩がある。

「あのですねぇ――」

この人の幸せを、願う資格なんてないが強く願う。


 漂う湿気に、リティルの金色の前髪から雫が落ちた。

「これ、湿気っていわねーんじゃねーか?霧雨っていわねーか?」

翼が重い!とリティルは濡れた前髪を掻き上げた。

「おじ様、ですから1人でいいと言ったのですわ」

リャリスは、目深にかぶったフードの奥から、そばに立った風の王を見上げた。

「そういうわけにはいかねーだろ?水の領域は、鳥が苦手なんだよ。おまえもわかってるから、インジュ、待ってたんだろ?」

目に見えない水分の漂う、桃色珊瑚の森。水の領域の大半は水の中だが、水の王の趣味で、地上に海の中のような森が広がる場所があった。

珊瑚礁の森と呼ばれる、特別な場所だ。

「それは……そうですけれど……今日に限って、お兄様もいないんですもの」

「ああ、インファはルキルースにちょっとな」

「おじ様、もう隠す必要はなくってよ?ルキルースということは、いよいよ記憶ですのね?」

イシュラースは、太陽王の統治する昼の国・セクルースと、幻夢帝の統治する常夜の国・ルキルースから成る。ルキルースは、夢の国とも言われ、幻夢帝・ルキは悪夢の王などと呼ばれている。

反魂に必要な材料の1つ、蘇らせたい者、縁のモノ。それは、その人の記憶にまつわるモノだ。今回は、インティーガの最後の記憶を使うことに決まっていた。

件の記憶の精霊・レジナリネイは、ルキルースの精霊なのだった。

「ああ。……なあ、リャリス」

見上げるほどの大きな桃色珊瑚の枝を見上げて、リティルが名を呼んだ。リャリスは、珊瑚の根元に生えている、丸い水玉のような実を付けた植物を摘み、かごに入れながらリティルを見上げた。

「おまえって、性欲強い方か?」

カタン……リャリスの手からかごが滑り落ちて、砂浜のような地面に転がった。

「……おじ様……」

「あのな!ごめんな!おまえがインジュとくっつかねーのは、あいつが不能だからじゃねーかって、噂があってな!」

そんな噂が?とリャリスは面食らって立ち上がっていた。

「そ、そんな理由、あるわけないですわ!」

そういえば、インジュの様子がここ数日おかしかった。アトリエに入り浸ろうとするところは変わらないが、何か物言いたげな視線が気になっていた。インジュはことある事に「好きです」と口にするが、あれからキスの1つも迫ってこない。考えてみれば、抱きしめられることすら、あの夜から皆無だ。アトリエでは、2人きりだというのに。

いや、べつに、抱きしめてこないことを不満に思っているとか、そういうのではない。ただ、どうかしたのか?と疑問に思っているだけだ。

「そ、そうだよな!はははは。な、なあ、リャリス、だったらどうして魂返さねーんだよ?」

リャリスは楚々と膝を折ると、倒れてこぼれた草を拾い集め始めた。

「婚姻なんて、結ぶ必要はなくってよ。私とインジュは、同じ属性の精霊ですわ。霊力の交換をしたとしても、メリットは殆どありませんのよ」

リティルには不満の残る返答だったようだ。

「うーん。そういうもんか?オレ、シェラが好きなんだ。もう、いつでも触ってたいくらいにな」

リャリスは、生身のシェラには会ったことがなかった。水晶球の中にいる姿は見ているが、話も殆どしたことがない。イシュラース1仲睦まじい夫婦だと聞いていただけに、今の状況は辛いだろうなと思うくらいだった。

「あいつに触るとな、それだけで満たされるんだ。おまえは、インジュに触りてーって思った事ねーのか?」

――嫌だったら、突き飛ばしてくださいよぉ?

あの夜、初めて触れた彼の唇を思い出した。触れるだけだと思っていたら、初めてのそれは、互いの吐息を混ぜ合わせるようで熱くて息苦しかった。あんなキスを、アトリエでしてしまったら、別の何かが起こってしまう気がして、それ以上想像できない。インジュとでは、起こりようがないのに、何を期待しているのだろうか。

「インジュは、魂を分け合えなくとも構わないと、言いましたわ。この婚姻も、儀式を行う間だけのもので、終わればお返ししようと思っていますのよ」

インジュが知れば、いや、インジュは知ることになる。知られて、それでもインジュの魂を持っている勇気は、リャリスにはなかった。

インジュは不能だ。そんな彼にとっては、当てつけのようにしかならないのだから。

「おまえ、何か隠してるだろ?対価のせいで話せねーとしても、おまえとインジュの為に、できることがあるだろ?」

あるのだろうか。壊れてしまうとわかっている関係を、維持する努力は必要なのだろうか。儀式が終われば、行方をくらます決意をしているリャリスには、インジュとの思い出を持てるだけ持っていくという意味では必要だろう。だが、残されるインジュは?ただそれは、傷となるだけではないのだろうか。

傷つけたくないが、インジュのアクセサリーがなければ、ジュールは、この儀式に臨むことを許してくれない。リャリスも、それで防げるのならば、縋りたい。

リャリスが好きなのは、インジュだけなのだから。他のモノに触れられるなんて、そんなおぞましい目に遭いたくない。

――リャリス、その婚姻の証、壊すなよ?必ずあいつは、おまえを守るぞ!

あの悪名高き賢魔王も、何も知らないインジュに縋るしかない。そこまでして、反魂を?リャリスに拒否の2文字はない。逆らえないのではなく、反魂でしか癒やせない傷を与えられ殺された事実が、許せなかった。それを与えたのが、あの黄昏の大剣だということも。

反魂の儀式は、この世界の知識ではない。旧時代。この身に宿る蛇のイチジクと同じ世界から来た成功不可能な魔法だ。

今の、母なる大樹・神樹の繋ぐ3つの異世界というこの世界の魔法ではないため、成功しない。簡単な話だ。この世界とは理が違うのだ。成功するわけがない。それを成功させるには、同じ、旧時代の知識がいるのだ。ただ、それだけだ。

そしてあれは、旧時代を滅ぼす要因の1つとなった魔法だ。

 私たちは、遺ってしまった負の遺産。だと、リャリスは認識している。これまでも、世界の刃として、3つの異世界を守ってきた風の王に降りかかったいくつかの事案。それに、旧時代が関わっている痕跡を見つけた。これからも、何かを引き起こして、風の王の手を煩わせるのだろう。

「おじ様、私……インジュが好きですわ……触れられなくても、構わないのですわ。私は、醜い蛇。あの方の輝きには、触れがたいのですのよ」

「どうして、原初の風を特別視するんだよ?」

「受精させる力。その力は、とても尊いモノですわ。その力があるから、世界は生命で満たされるのですもの。哀しみも、喜びも、命がなければ感じる事はできませんわ。一時でも、あの方の妻になれたこと、嬉しく思いましてよ」

無知ならよかった。幼い子供だったなら、無邪気に「好き」と言えた。

「関係ねーだろ!」

リャリスは、見上げた視線を下へ戻した。

「おまえら、お互い好きなんだろ?だったら、小難しいこと全部、関係ねーだろ?リャリス、あいつを捨ててやるなよ!インジュは笑ってるけどな、傷つきやすいんだよ。全部諦めたような顔しやがって!ジュールもだ!反魂のせいか?何の為におまえらを頼ったと思ってるんだよ!誰も犠牲にしねーためだよ!それができねーんだったら、やる意味ねーんだぜ?」

リャリスは妖艶に微笑んだ。

「犠牲者は出しませんわ。インティーガを救い、シェレラを輪廻の輪に還すのですわ。誰も、犠牲になどなりませんわ」

この儀式が終わったら、誰の手も届かない所へ行こう。

そして、眠りにつこう。大丈夫。蛇のイチジクから、知識を根こそぎ奪った賢魔王がいる。風の城を脅かすすべてから父・ジュールは守るだろう。

知識を求める無知な者達から、身を隠さなくては奪われてしまう。

インジュの婚姻の証。これがなくては、この先、蛇のイチジクを守ることはできないのだから。

「おまえ、魔物に襲われなくなったよな。前は、出掛けると厄介なのに必ず遭遇してたのにな」

当たり前ですわ。リャリスは付いてきてくれたリティルの言葉に、小さく微笑んだ。

生命を作り出すあの至高の宝石の輝きが、守ってくれているのですもの。すべてを飲み込む魔物の理すら凌駕してしまう、原初の風。彼が完全体でなくてよかったと、リャリスは帰り道を急いだのだった。大好きなあの人のいる、あの場所へ。

 風の城に戻ったリャリスは、応接間への扉を開くなり、突風に襲われた。

もう一緒にひっくり返るようなことはしなかったが、抱きついてきたインジュは、インファがニッコリと笑って引き離すまで、リャリスを離さなかったのだった。


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