一端に見えた裏ガワ
―――ここ、トイレじゃねえか。
便座は無いが、俺達と入れ替わったのなら問題はない。しかし便座の無いトイレは単なる個室であり、隠れるのにこれ以上適した空間はないだろう。念の為にもう一度壁に触れるとまた反転した。逃げる時もこの道を使えば一先ず大丈夫か。
個室を出ると、入り口前で待機する蒔凛の姿があった。おしゃべりは禁止なので意思疎通は目配せでやるしかない。彼女の肩に手を置くと、共に足音を殺しながら二人してトイレを出た。ここはどうやら廊下の途中であり、道の選択肢は二つ。右側に伸びた道を進むか正面の道を進むか。内部地図があれば迷わなかっただろうが、そこまでザル警備ではない、という事か。
あまりモタモタしていても誰かに目撃される可能性が高い。しかしだからと言って突き当たりの先に人が居ない保障はない。そもそも俺達は何も変装をしていないので、誰かと遭遇したらその瞬間にジ・エンドだ。
潜入して早々に動き方を悩んでいると、いつの間にかトイレまで退いていた蒔凛がツンツンと俺の背中を突いた。振り返ると、そこには二着の防護服を持った彼女の姿があった。
―――これ着た方が良いんじゃない?
そう言っている気がする。どうしてこんな所に都合よくあるのか不思議でならなかったが、それは恐らくあの二人が原因だ。特別警戒されている状況でも無ければトイレは実質的な安置であり、わざわざ変装する必要も無い。だからここに脱ぎ捨て、ありのままの姿で戻って来たのだろう。
俺はいいとして問題は蒔凛だ。彼女の部下二人は明らかに体格が大きかった。仮に材緣寺の正当な関係者であれば自分の体格にあった防護服を着るのは当然であり、わざわざサイズの合わない服を選ぶ奴は居ない。この手の服はフィットする事が大事なのだから。
―――だからと言ってサイズが合うのも問題かもしれないけどな。
問題なのはどちらかと言えば蒔凛のスタイル。彼女の豊満な胸はこういう時に不便だ。フィットしなければならない都合上胸が幾らか強調されるし、その手の女性は多分こんな所では働いていない。最後のは完全なる偏見だが、何にしても潜入に不向きな体型だ。
様々なリスクが考えられるが、一番リスクを負う羽目になるのは『着ない』という選択肢故に着るしかない。案の定、防護服はサイズが合っておらず、マスクだけがぴったりというのはかえって歪である。
「…………パッと見分かんないし」
お喋りは禁止なので、独り言を呟いた。パッと見でも分かってしまう格好よりはマシに違いないという相対的評価によって改めて俺達は出発した。悩んでいても仕方がないので今度は正面の道を選んだ。
突き当たった先には幾らかの部屋が散見されたが、どれもこれも人が居て迂闊に進入出来ない。通りがかる俺達を窓越しに見る人間も居たが、瞬間的な偽装能力に懸けた思惑は正しく声は掛けられなかった。
運よく見つけられればいいが等と楽観的に考えていると、傍らの蒔凛が裾を引っ張った。その瞳は恐らくこう言わんとしている。
―――何処かで地図を見つけた方がいいんじゃない?
それはそうなのだが、地図を常備している人間が居るとも思えないし、観光スポットでもないだろうからパンフレットもあるまい。RPGさながらに宝箱から入手出来たら……それはむしろ都合が良いが。
いやいや、希望を捨てる必要はない。ここまで無駄に入り組んだ施設、正規の人間だとしても迷う人間は必ず出てくる。そういう人の為には大抵何処かの壁に案内板らしきものがある筈だ。書類片手にながら歩きをする職員とすれ違ったときは生きた心地がしなかった。少しでも変な音を出せば彼の関心は書類から俺達に切り替わっていただろう。
続いてすれ違った人間はながら歩きなどしていなかったがトイレに急いでいるらしい。お腹を抑えながら決死の形相で横を駆け抜けた。時々仰け反っているので多分漏れかけている。
―――簡易的でも良いからねえかなあ。
闇雲に歩いて数十分。廊下には無いのかもと考え始めた頃、開けた廊下に複数の部屋が隣接しているのを発見した。それは『薬品保管室』であったり『薬品実験室』であったり。或は『薬品分析室』であったり。とにかく薬品に絡んだ部屋が並んでいる。材緣寺の生業は『治安維持』の筈だが薬品……? 死体処理に使うのか。
それにしては革新的すぎないだろうか。構造ではなく密集している部屋が。まるで新しい薬を開発しようとしているみたい……それはどう言い訳しても『治安維持』には含まれない行動だ。どちらかと言わずとも『治療』を生業とする邦条の管轄である。
無関係な俺でさえそう思うのに、令嬢である蒔凛が惹かれない道理はない。マスク越しにも最早扉に張り付いているレベルで中の様子を覗き見ていた。怪しすぎる。首根っこを掴んででもやめさせようと考えた―――その刹那。蒔凛が手話を使って俺に何かを言おうとしていた。
生憎手話は習った事がないので何も分からない。
耳が聞こえなかったら話は違ったが、健常者は存外その手の事に興味が薄いものだ。何不自由なく遅れる日常生活の中で手話や点字を使う場面が何処にあろう。どうせ碌すっぽ使わないと分かっているなら習いたくない。学校の授業と一緒だ。数学に出てくる数式の、一体どれがどう日常生活に関わってくるのか。
どうせ伝えてくれるなら耳打ちの方がまだ良かったが、防護マスク越しに耳打ちは中々どうして難しい。結局目配せで解決するしかない。
―――ち、ず……を? みつけた……わ、よ?
マジか!
決して口には出さなかったのに何故か視線で煩いと怒られた。心の声をどうやって聴いたのだろう。案内してくれと先頭に押しやると、蒔凛は自信満々に歩き出した。この自信過剰ぶりはハッタリではない。本当に地図があったのだ。多分実験室の中。
何故わざわざそこにだけとも考えたが、人との接触を気にして俺達は極力部屋に入っていないので、見つけられなかっただけで部屋ごとにあるのかもしれない。その方が利便性は向上するし。途中で『関係者以外立ち入り禁止』の案内を見かけたが、関係者と言わんばかりに躊躇なく進み続ける人間は彼女くらいだ。いっそその立ち振る舞いには尊敬の念すら覚える。
その時だった。地震とも雷とも見紛う重低音が耳に届き始めたのは。
絶え間なく続く音は聞く人によっては不愉快かもしれない。耳を澄まして聞いてみると微かな金属音が混じっているではないか。この先で何が行われているのだろう、ここまで来たら後は音を頼りに進めば間違いないので先頭を交代(道を間違えたら彼女が修正してくれるだろう)。蒔凛の身を守る様に手を広げて進んで行く。たった一歩を踏みしめる度に重低音が俺の足元を不安定に揺らす錯覚に陥りつつも壁を伝って何とか進み続ける。
遂に音の発信源にまで辿り着いた。残す壁は後一枚。目前の扉を開けば音の正体は判明するだろう。ドアノブに手を掛けようとしたら背後からマスクを外した蒔凛が声をかけてきた。
「ねえ」
会話など迂闊な行為。そう思われるだろうが、この重低音がカモフラージュとして役立っている。こんな掠れ声はまず耳に届かない。
「…………ん」
「一応この先が死体安置所って事になってる。でも凄い音がしてるわよね。普通じゃ考えられないくらいの……死者を休ませる気が無いのかしら」
「こんな時に冗談言ってる場合か?」
「あら、ごめんあそばせ。じゃあ気を取り直して行きましょうか。龍斗君が死体を回収してまで何をしたかったのか、これでハッキリすると思うわ」
今までの部屋から推察するに、死体を使って実験を行いたいとかだろうか。わざわざ校長先生の死体を使う意味は思いつかないし、そもそも確実に有益な実験をしたいなら生体で行うべきだと思うのだが……
素人頭で考えても仕方がない。虚空を握るかの如く優しくドアノブを掴み、ゆっくりと開け放した―――
―――重低音の正体。それは巨大なトロッコだった。
ただし、中には大量の死体を乗せている。




