第三百九十四節 『落日の絆』
陽が落ちかけ、周囲は茜色に染まり始めている。
夕焼けを眺めながら、オメガはミツキに問いかける。
「人間とかかわらねえってことは、どっか人里から離れて隠遁でもするつもりか?」
「隠遁っていうか、旅でもしようかなって考えてる」
「旅? それだと結局人とかかわることになるんじゃ――」
「ああ、人里の旅じゃなくて、闇地をさ。旅ってよりは探検って言った方が妥当かな」
オメガはミツキの顔を窺う。
「なるほどな。それならたしかに、人とかかわるこたぁそうそうねえだろうな。むしろ人を避けるんなら、闇地程適した場所もねえ。今のおめえなら、最深域だって大して危険でもねえだろうしな」
「ああ」
「ひとりで行くのか?」
「それだとちょっと寂しいかな。ひとりかふたり、連れがいるといいんだけど。なんならおまえ、一緒に来るか? ミラに会った後でもいいからさ」
「それも面白そうだが……いや、やっぱ遠慮しとくぜ。ミューには過酷な旅になりそうだからな」
「それもそうか」
ミツキは俯いて小さく溜息を吐く。
「じゃあ戦いが終ったら、今度こそお別れだな」
「そういうことになんのか」
「……寂しくなる」
しばしの沈黙の後、オメガが無理やり気味に笑い飛ばす。
「はっ! なぁにシケたツラしてやがんだ! 側壁塔以来の腐れ縁がようやく切れるっつぅだけの話じゃねえか!」
オメガはミツキに背を向ける。
「オレぁミューを幸せにしてやるって決めてんだよ。それ以外は全部二の次、三の次だ」
そう言って今一度ミツキに首だけで振り向く。
「おめえもそうだろ。やるべきことがあるから戦ってきた。だったら今は余計なことを考えてんじゃねえ。本当に大切なもんにだけ目ぇ向けてろ」
「……オメガ」
一瞬、口の端を釣り上げほほ笑んだオメガは、前を向くとミツキに背を向けたまま歩き出す。
「最後に腹割って話せてよかったぜ。ただフィオーレから走って来てちっとばかし疲れてんだ。先に空中要塞に乗り込んで休ませてもらうからよ」
城壁の上を、空中要塞の方へと歩いていくオメガをミツキは見送る。
その姿が見えなくなると、沈みかけの夕陽に目を向ける。
今日オメガと会ったのは、雑談をするためではなかった。
ドラッジから去ろうとしたオメガを決闘で引き留めた時以来、胸の内に秘めた想いに変わりはないか、互いに確認するためだ。
ただし、それを言葉にして確かめ合ったりはしなかった。
自分たちが、もうひとりの仲間から視られていると、ふたりとも知っているからだ。
だから、ミツキとオメガは、言葉を交わす合間に、視線を交わすことで互いの心の内を確かめ合った。
「奴は行ったか」
唐突に背後から声をかけられるも、ミツキは驚きもせず振り返る。
「サクヤ」
己の影の上に、小柄な妖女が立っていた。
全身白づくめの彼女は、沈む寸前の陽に照らされ、薄桃色に染まっている。
「居たんなら顔ぐらい出せばいいだろ。オメガとはしばらく会ってないだろうに」
「おまえと一緒に奴のノロケ話でも聞けというのか? サカった犬の相手などしていられんな」
サクヤはミツキの隣に移動して城壁の縁に寄り掛かる。
「全部片付いたら闇地を旅する、か」
「やっぱ聞いてたのか。覗きとか盗聴とか、おまえの悪趣味も変わらないよな」
「趣味ではない。単に情報収集のための手段だ」
「趣味だろうとそうじゃなかろうと、やられる方は不愉快なんだよ」
「ほう?」
襟首を引っ張り、サクヤは強引にミツキを引き寄せる。
いつの間にか額の目が開かれ、至近距離でミツキを凝視する。
「お、おい! なにすん――」
「この期に及んでも未だ理解していないようだなミツキ。おまえが人間共の英雄を気取っていられるのは誰のおかげだ? んん? 私が〝神通〟を授けてやったからだろう。あの晩、力を授けてやるという私の誘いに乗った時から、おまえは私のモルモットなのだ。そんなおまえが私に対してプライバシーを主張するというのか? おこがましい。おまえは内臓の裏側まで進んで私に晒すべきなんだよ」
息がかかるほど顔を近付けられ、薄気味悪い笑みを浮かべながら、耳元で滅茶苦茶なことを囁かれ、ミツキはサクヤの手を振りほどきながら後退る。
「ふっざけんな! あの時、オレはたしかにおまえの望みを叶えてやると契約したよ! でも奴隷になると言った覚えはないぞ!」
「奴隷ではなく実験動物だ」
「それも言ってない!」
「私の望みを叶えてくれるのだろう? 今の私がもっとも関心を抱いているのは、ミツキ、おまえの体だよ。未だ謎に包まれたおまえの身を隅々まで調べ尽くすことこそ私の本懐だ。その望みを叶えるために、何度寝込みを襲ってやろうと考えたことか」
艶っぽい話をしているように聞こえるが、こいつの場合は寝ている隙に解剖したいという意味なのだとミツキは理解している。
「おまえに身を任せるなんて絶対にごめんだね」
「臆病者め。ハリストンでは百日以上もの間、脳や心臓を含め全身を凍結させられたという話ではないか。それに比べたら、私に体を開かれるぐらい大した問題ではあるまい」
「ぜんぜん大した問題だよ。たしかにだいぶ人間離れしちゃったけど、オレだって死ぬときは死ぬんだぞ」
「大丈夫だ。肉体は死を迎えようと、私の知識となって私の中でとこしえに生き続けることができる」
「い、いや、本気で怖いっておまえ」
ドン引きするミツキに、サクヤは苦笑する。
「バカめ。冗談だ。一時の好奇心のために、おまえという唯一無二の研究対象を失うなど割に合わんからな。中を観るのは、観察に飽きてからだ」
「結局解剖をするつもりではあるんだな」
サクヤはゆっくりと額の目を閉じると、笑みを消し能面のような顔に戻る。
「まあそれはそれとして……闇地を旅するというのは、おまえにしては悪くないアイディアだ」
「あ、ん?」
「闇地には未だ謎が多い。汚染魔素などはまだまだ調べる余地があるし、未知の魔獣もいくらだって見つけられるだろう。それ以外にも、植生、気候、地質等々、研究対象は枚挙にいとまがない。しがらみ塗れの人の世界に見切りをつけ、旅をするにはうってつけだ」
ミツキは僅かな間思考を巡らせてから問う。
「えっと、一緒に来てくれるってこと?」
「来てくれるもなにも、おまえの観察を続けるのなら、同行する以外の選択肢などあるまい。ありがたく思うがいい。私がおまえの都合に合わせてやるのだからな」
「……そうか」
遠くに聳えるフェノムニラ山脈の上に、僅かに顔を覗かせる落陽を見つめながら、ミツキは微かにほほ笑む。
「オメガと違って、おまえとの腐れ縁はまだ続くってことか」
「あたりまえだ。半身を失い死にかけだったおまえを苦労して生かしたのは何のためだと思っている。そう簡単に手放してなどやるものか」
薄闇の中、仄かに光る紫水晶の瞳が、ミツキを凝っと見つめている。
「……まあそれも、すべては無事に魔王を討伐してからだ。だが安心しろ、何者にもお前を殺させたりはしない。そしてもはや、我らが力を合わせて斃せぬ存在などおるまいよ」
その時、山嶺に僅かに残っていた陽が、完全に沈んだ。
遠方の空は、なおも群青に色付いているが、それも間もなく闇に塗り潰されるだろう。
夜の帳が急速に降りる中、黒いシルエットと化した山を見つめたまま、ミツキはサクヤの声に短く応じた。
「ああ。そうだな」
翌日、ティファニア軍の精鋭を乗せた空中要塞〝小竜のはぐれ雲〟は、正午を前に繋留の鎖を解き、魔王討伐を願う多くの人々に見送られながら、ティファニア王都へ向かうため南へと出発した。




