第三百五十二節 『夜明け』
丘の上の岩に腰をおろし、アニエル・ブロンズヴィーは戦場を見下ろしていた。
眼下に広がるのはどこまでも広がる泥の海だ。
そこに、武装した大量の敵兵の亡骸が、半分以上埋没して浮かんでいる。
「まさか本当にひとりで敵の増援を壊滅させてしまうとはね」
背後から声をかけられ、アニエルは振り返る。
「……アキヒトか。ペーアはどうなった?」
「先程、陥落させたと報せが届いた。キミがここで敵を食い止めてくれたおかげだ」
そう言ってアキヒトは、丘の下を覗き込む。
「これが祝福魔法の威力か。すごいな」
「……すごいのは貴殿の方だ。このオレが長年かけて成し遂げられなかった体制の打倒という悲願をこの短期間で実現してみせた。今となっては魔法すら使えぬと侮ったことを恥じ入るばかりだ」
「ボクには自分の世界の知識があるからね。ボク自身が優れているわけではないよ。それより――」
アキヒトはアニエルに向きなおり表情を引き締める。
「マキアスの宰相、つまりキミの父君とその息子たち、キミにとっての御兄弟らを捕縛したそうだ。約束通りそちらに引き渡す用意がある」
「そうか。よくやってくれた」
「彼らをどうするつもりだ?」
「解放奴隷たちを集めて石打ちにさせる」
「そ、それは……」
こともなげに言うアニエルに、アキヒトは表情を歪める。
「一応キミの肉親だろう?」
「肉親、か」
苦笑しつつアニエルは顔を上げる。
「このオレの母は、父親が買った奴隷だ」
「そ、そうなのか」
反応に困り、アキヒトは視線を彷徨わせる。
「まあ、それはいい。妻や夫を金で買うなどということは、この国では珍しくもない。問題は、あの男が、このオレを生んでしばらくして、母を配下に下賜したことだ」
「下賜、って」
「それも、妻としてではない。ただ好きにせよ、とな……それから三年と経たずに母が死んだらしいと知ったのは、大分時が経ってからだ。なにがあったかまでは知らん。ただその配下の男は、なにかと悪評の絶えぬことで知られていた」
アキヒトは、なんと声をかけるべきかわからないのか、口をきつく結ぶばかりだった。
アニエルはかまわず続ける。
「そんな真似を、あの男は七度も繰り返した。ゆえに、このオレの兄弟は皆、母が違う」
「なんで……そんなことを」
「連邦を支配しているのが奴隷商だというのは貴殿も知っていよう。連中の感心事のひとつに、ブリーディングというものがある。優れた血統を掛け合わせることにで、より優れた奴隷を創り出す。そんなことに、奴らは血道を上げて来た。そしてそれは、己の後継をこさえるのにも使えると、あの男は考えたのだ」
「……つまり、我が子に異なる血を入れ、もっとも優れた者を後継者に選ぶということかな」
「そうだ。子を産んだ母体は用済みというわけだ」
吐き捨てるように言ってから、アニエルはアキヒトを見上げる。
「今の話を聞いて、貴殿はどう思った?」
渋面のアキヒトは、苦しげに言葉を絞り出す。
「狂ってる……悍ましいよ」
「同感だ……だがな、あの男や兄弟たちは、そう思っていない。連邦の支配者層の大多数も同じだ。このオレや貴殿のような感覚の方が、異端なのだ」
アニエルは岩から腰を上げる。
「そんな常識が許せず、このオレは貴殿の言う肉親と袂を分かち、地下組織の長として体制と戦ってきたのだ。それがようやく、貴殿らのおかげで実を結ぶ。あの男たちの呪われた血を最後に余さず流しきることで、マキアスの民を解放する」
目の前に立ったアニエルの視線を、アキヒトは怯みながらも受け止める。
「革命には血が必要だ。貴殿も連邦すべての革命を成し遂げようというのなら、血を流すことを躊躇うな」
「……憶えとくよ」
そう答えつつ苦し気な表情のアキヒトの肩に手を置き、アニエルは表情を緩める。
「革命が済んだら、新しい国作りだ。そこで参考までに、貴殿の世界のことを教えてはくれまいか」
「ボクの世界って、政治の話?」
「政ばかりではない。外交や経済、国家の理念までいろいろだ。そうだな……このオレは自由で強い国を作りたい。そんな国は、貴殿の世界にあるか?」
努めて明るく訊ねると、ようやくアキヒトの表情が和らいだ。
「そうだな……ならまずは――」
アキヒトの口から語られる別世界の知識は、連邦を呪っていたアニエルに未来への希望を抱かせた。
「もうすぐ夜明けです、大統領閣下」
横からかけられた声に、床几に座っていたアニエルはゆっくりと目を開けた。
「ここは……そうか、魔族との戦だったな」
目を瞬かせ、アニエルは顔を撫でおろす。
「どうかなさいましたか?」
そう問うのは、参謀に抜擢したヤネス・フェールマルだ。
「……夢を見ていた」
「夢を?」
「ああ、懐かしい夢だ。おかげで初心にかえれた」
床几から腰を上げ、アニエルは空を見上げる。
夜は明け始めているが、あたりは未だ暗い。
空が曇っているからだ。
今にもふり出しそうな空模様に、アニエルは口の端を釣り上げる。
「天は我らの味方をしたな」
呟くと、ヤネスに命じる。
「攻撃部隊に進軍の準備を。日の出とともに広域迷彩防御魔法を解き、同時に雨を降らさせよ」
「はっ!」
「それとな、参謀」
「なんでしょう?」
「このオレはもう大統領ではない。呼び方を間違えぬようにな」
「失礼いたしました!」
ヤネスが通信機で各部隊に命令を伝達している間に、アニエルは甲冑を身に着ける。
間もなく、朝日が差し込むと同時に、周囲を覆っていた防御魔法が解かれていく。
「第一魔法部隊は後方へ下がれ。第二魔法部隊、降雨魔法を発動せよ」
ヤネスが命じると、見る間に空の雲がその厚みを増し、周囲に生暖かい風が吹き始める。
アニエルとヤネスが将官たちを伴って陣幕を出ると、布陣する平野には既に兵たちが展開していた。
アニエルは引かれて来た馬に乗る。
鳥馬ではなく竜馬だ。
これから向かう先は、木々が多く凹凸も激しい地形のため、鳥馬を駆るのには向かない。
「閣下。兵たちにお言葉を」
ヤネスに促され、アニエルは通信機越しに檄をとばす。
「かつて、我が連邦はヒトデナシどもに支配されていた! その理不尽に抗い、貴君らは人として生きる権利と自由を勝ち取った!」
その言葉に呼応するように、兵たちが槍を振り上げ雄叫びをあげる。
「しかし今、ふたたび我らの生を踏みにじろうとする者たちが現れた! 新たに我らの敵となるのは、本物の人外どもだ! 奴らは人を憎み、人を家畜とし、人を喰らう! 奴らの支配を許せば、我らは過去よりもさらに過酷な奴隷生活を強いられることとなろう!」
兵たちの中から悲鳴のような声があがる。
支配される屈辱を知るからこそ、アニエルの言葉は兵たちの危機意識を強く刺激する。
「それは、あの革命で命を落とした同胞すべての死を無駄にすることでもある! それをこのオレは断じて認められん! 貴君らも同じ気持ちだと思うが、如何にや!」
兵たちは大地を踏み、身を震わせて甲冑を鳴らし、声のかぎりに叫ぶ。
「そうだそれでいい! 我らにふたたび自由を! 今こそそのための戦いを!! 支配よりも誇り高き死を!! そして奴らにこそ滅亡を!!!」
兵たちのボルテージは最高潮となり、見計らったようにヤネスが命じる。
「全軍進め!! 魔族共を根絶やしにしろ!!」
囮作戦とは思えぬ白熱ぶりだとヤネスは思う。
実際、将官より下の兵卒には、これが陽動であるとは伝えられていない。
本気で戦わなければ、魔族たちを引き付けておくことなどできないからだ。
進軍が始まると同時に、雨が降り始める。
パラパラと雨粒を数えられる程度だった雨脚は、あっという間に激しさを増し、視界を真っ白に染めるまでになる。
しかし、兵たちの進軍速度はまるで落ちない。
この雨が、自分たちに味方するとわかっているのだ。
「伝令! 複数の魔族の群れがこちらへ接近中とのこと!」
通信機からの報せを受け、アニエルが呟く。
「早いな」
「敵が動くのはこちらが森林地帯に入ってからだという予想でしたが、どうやら兵たちの気迫に釣られたようですね」
「進軍速度を落とせ。こんなところで兵を消耗するわけにはいかん。このオレが前へ出る。全体の指揮は任せたぞ」
ヤネスに命じると、アニエルは竜馬の腹を蹴って駆け出す。
「さて、先の戦で数え切れぬほどの敵を沈めたこのオレの祝福魔法、果たして魔族に通じるか」
そう独り言ちながら、アニエルは身の内の魔力を練り始めた。




