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鼓動

 夜会の件で翡翠の間を訪れたレナードは、その重苦しすぎる空気に固まっていた。


 なんとまあ…、これは一体どういうことですかねえ。状況が悪化している気がするのは、気のせいでしょうか?

 …いえ、どう見ても悪化しています。気のせいではないですね。

 何がどうしてこうなったのでしょうか。私の方向性が間違っていると?



「レオ?何か用事なんじゃなかった?」

 いつまでも固まったままのレナードに、美月が声をかける。


「そう、です。用事があって来たのですが…」


 ちらりとルーカスに目を向けると、眉根を寄せたまま俯いている。いや、項垂れていると言った方が正しいだろう。前髪を掴んだままの右手は、その肘を、組んだ膝の上に乗せている。何人たりとも触れてくれるな、というオーラを身に纏っていた。

 この前髪を掴む仕草は、ルーカスが子どもの時によくしていたなとレナードは思い起こす。何か思うようにいかないとき、我慢している時によく見られた。だが、王太子としての自覚が垣間見えるようになってから、めっきり見なくなっていた。それが、美月が来てからは頻繁に見られるようになっている。先日は揶揄して、“思春期のようだ”と言ったが、あながち間違いではなかったのかもしれない。

 レナードは短く息を吐き、自分の体の緊張を解いた。


「ひとつ確認したかったのですが、ミツキは、踊れますか?」

「んん?」

「ワルツとか…、…あ、いや、結構です。分かりました」

 踊れないと、顔に書いてあったのを読み取ってもらえたようだ。

「夜会は10日後ですが、それまでにワルツくらいは踊れるようになっていただきますよ」

 ニッコリとレナードが微笑んだ。


「え、あれって、踊れなかったら踊らなくてもいいんじゃないの?」

「いや、まあ、今回は主役ですからねぇ、踊らないというわけにはいかないでしょう」

「む、無理でしょ!ルーク!ねえ、これって魔法でなんとかならないの?」

「えっ、魔法でか?!」

 突然話を振られて狼狽えるルーカス。


「駄目ですよミツキ。こんな事に魔法を使うものではありません」


 逃げることは許さないと柳眉を上げ、目を細めるレナードに、美月は両手を組んで懇願する。


「ズボンならまだしも、こんなひらひらのドレス着て踊れそうにないわよ」

「大丈夫ですよ、教師をつけて特訓すれば、何とかなるでしょう。10日もありますからね」

「特訓って…」

「ええ、うちの騎士団にサッカーの特訓をしてくださっているでしょう?お礼にこちらからもお返しをさせてください。そうそう、夕の刻には、特訓の成果を見せていただきましょう。ルークの時間を調整しますので、ルークは毎日確認してくださいね」


「えっ」

 美月とルーカスは同時に顔を見合わせ、互いに頬を染め、俯いた。


 うん?何なんですかね、このふたりは。

 見ている方が恥ずかしくなりますが…。

 意外とうまくいっているのでしょうかね?

 レナードの口角が微かに上がる。


「当日までに、呼吸を合わせておいてくださいね。では、私はこれで」


「困ったな…」

 レナードが去っていったドアを見つめたまま、ルーカスが呟いた。

 美月は慌てて詫びる。

「ごめん、ルーク。忙しいのに時間を取らせてしまうね。…レオは、ああ言うけどわざわざ時間取らなくてもいいから、お仕事して?」

 肩を竦めながら上目遣いをする美月に、ルーカスは一瞬言葉に詰まった。


「…、いや、そういう意味では、ない…」

 美月を見つめたまま、眉尻を下げ、切なげに呟く。

「ミツキこそ、大丈夫か?その、俺の…手を取ると言うのは…」

「えっ、…ああ、…うん。どう、だろう…」

 言ってしまってから気づく。最後のは余計だった、と。


「分かった、無理はさせない。レオには俺から断っておこう」

 立ち上がるルーカスの腕を思わず掴む。

「待って、ごめん、そういう事ではなくて…」

 腕を掴まれたことに驚いて振り向くルーカスと、思いがけず顔が近づいた。


「ひゃあっ」

 真っ赤な顔をして両手を離す美月に、呆気にとられるルーカス。


「…なんだ?!」


 今のは俺のせいではないと言いそうになったルーカスの上衣の袖口を、美月がそっと摘んで引いた。


「いえ、その…、頑張りますので、よろしくお願いします」


 思いがけない美月の言動にルーカスは目を瞬かせた。

 赤い顔をして俯く美月と袖口を掴んだ手を交互に見直す。

 そのうちに、赤い顔をおずおずと上げ、不安げにルーカスの目を見つめてきた。

 ルーカスは、そこに自分に向けられた好意を見つけ、安心したようにフッと微笑んだ。

「わかった。よろしくな」

 美月の頭にポンッと手を乗せ、ルーカスは出ていった。


 うっわぁ…、どうしよう、これってマズイ!いろいろとマズ過ぎる!さっきまであんなに悩んでたのに、今、普通に、喜んじゃった。

 旋毛にそっと手を乗せ、ルーカスの触れたところに自分の手を合わせてみる。髪の毛すら熱いと感じるその熱は、やがて全身に拡がっていった。


 赤くなったまま熱の引かない頬を両手で包む。ドクドクとひときわ大きく感じる胸の鼓動が、今しがた気づいたルーカスへの思いを、嫌というほど教えてくれた。




「参った…」

 執務室に戻ってきたルーカスは、大きなため息をついた。

 自分に触られるのも嫌なのではないかと、心配していた美月から、思わぬ反応が返ってきた。

 国に帰ったあとの事を話す美月に、苛立ち、恨み言をぶつけてしまいそうになっていた。美月が来てからというもの、こんなふうに心を揺さぶられることばかりだ。俺は一体どうなってしまったのだと自制できない思いに苦しんだことが、何度あったことか。

 それが…、先ほどの見上げてきた美月の顔を思い出すだけで、恨み節はどこかへ飛んでいく。高鳴る胸の鼓動に、レナードの言っていた思春期という言葉を思い出し、ルーカスは苦笑した。


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