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23-26

第二十三章:放蕩息子の「初恋」


ヴィンセントにとって、女性とは「攻略する対象」か「華やかに場を彩る飾り」のどちらかだった。しかし、あの図書館での出来事以来、彼の世界は一変してしまった。


「……信じられるか? あのヴィンセントが、夜会を欠席して図書館に通い詰めているんだぞ」


「いよいよ頭が狂ったか、あるいはよっぽど手強い令嬢でも追いかけているのか」


友人たちの噂をよそに、ヴィンセントは今日も、慣れない静寂が支配する王立図書館の重い扉を叩いていた。

目的は、ただ一人。かつて自分が「地味で退屈な女」と断じた、エラ・バーネットだ。


彼は、エラがよく利用する窓際の席に、彼女が座っているのを見つけた。

窓から差し込む午後の柔らかな光が、彼女のくすんだ亜麻色の髪を透かし、まるで繊細な金糸のように煌めかせている。ページを捲る指先、睫毛が落とす影、考え込むように微かに動く唇。


そのすべてが、今のヴィンセントには、どんな豪奢な宝石よりも美しく、聖なる天使の煌めきのように見えていた。




第二十四章:ノートを巡る秘密の対話


ヴィンセントは音を立てないよう、細心の注意を払って彼女の隣の席に座った。

エラは、数冊の専門書を広げ、真剣な表情でノートに何かを書き込んでいた。ペンを走らせるその手元には、複雑な化学式や、農作物の連作障害に関する考察が並んでいる。


彼女の瞳は、知的好奇心と一生懸命さで澄み切っていた。

ヴィンセントは本を開くふりをして、横顔を盗み見た。


(邪魔をしたくない……。この真っ直ぐな眼差しが、僕の方を向いて消えてしまうのが、もったいないほどだ)


あんなに軽薄だった男が、初めて「見つめているだけで満たされる」という感情を知った。それは、彼にとってあまりにも遅すぎた、けれどあまりに鮮烈な「初恋」だった。


不意に、エラがふっと息を吐き、隣の気配に気づいて顔を上げた。


「……っ!」


ヴィンセントの姿を認め、彼女は驚きのあまり声を上げそうになる。

その瞬間、遠くで司書が鋭い視線をこちらに向け、咳払いをした。ヴィンセントという「要注意人物」のせいで、エラまで厳しく監視されていたのだ。


「……あ」


エラは慌てて口を押さえると、顔を真っ赤にして肩を竦めた。

そして、司書に怒られないようにと、広げていたノートの端に、丸っこくて可愛らしい字でさらさらと書き込んだ。


『こんにちは、ヴィンセント様。またお会いしましたね』


それを見せられた瞬間、ヴィンセントの胸は、物理的に締め付けられたような衝撃を受けた。


(……なんだ、この愛らしさは)


華やかな令嬢たちのような、計算された媚態ではない。

ただ「音を立ててはいけないから」という理由で、密やかに、懸命に、自分に意思を伝えようとしてくれる。その健気さが、ヴィンセントの心を激しく揺さぶった。




第二十五章:指先から伝わる熱


ヴィンセントは、エラが握っていたペンを、指先が触れるか触れないかの距離でそっと借り受けた。

彼女の手の温もりが残るペン先を使い、彼は彼女の字の隣に、流麗な筆致で書き加える。


『こんにちは、お嬢さん。邪魔をしてしまったかな?』


ノートを返すと、エラはそれを見て、声を押し殺すように「ふふっ」と笑った。

その、喉の奥で転がるような鈴の音にも似た笑い声。

それだけで、ヴィンセントの頭の中は真っ白になった。


(……ああ、だめだ。笑わないでくれ。これ以上、僕を狂わせないでくれ)


彼はエラが、アルリックの色気に惑わされて婚約したのだと思っていた。自分も男としての魅力なら負けていない、彼女を落としてアルリックを見返してやろう、と。

だが、事実は全く逆だった。

惑わされているのは、自分の方だ。

彼女の何気ない仕草、素朴な優しさ、そして時折混ざる「上品な毒気」。

そのすべてに、ヴィンセントは完膚なきまでに敗北していた。

エラは再びペンを走らせる。


『アルリック様から、ヴィンセント様はとてもお忙しい方だと伺っておりましたのに。……最近は、こちらでよくお会いしますね。何か、特別な研究でも?』


(研究……。ああ、そうだ。君という名の、底なしの迷宮を研究しているところだよ)


ヴィンセントはそう書きたい衝動を、必死に抑え込んだ。

今の自分には、彼女にそんな言葉を贈る資格はない。彼女は親友の最愛の婚約者であり、そして何より、彼女自身がアルリックを深く、純粋に愛していることを知ってしまったからだ。




第二十六章:実らぬ恋の、甘い香り


「……いえ。ただ、この場所の空気が、今の私には一番必要なだけですよ」


ヴィンセントは、ノートではなく、つい口から言葉を漏らしてしまった。

司書が再びこちらを睨んだが、彼は構わなかった。

エラは少し不思議そうに、けれど優しく微笑んで、また書き込んだ。


『それは良かったです。……もしお疲れでしたら、私が勉強している「ラベンダーの効能」についても、今度お話ししますね。とても心が休まるそうですわ』


(……君と話しているだけで、僕の心は一生休まりそうにないけれどね)


ヴィンセントは、胸の奥に芽生えた、切なくて、ひどく甘い「初恋の痛み」を噛み締めた。

エラは、自分がアルリック以外の男の心を、これほどまでにかき乱していることに、相変わらず全く気づいていない。


「……楽しみにしているよ、お嬢さん」


ヴィンセントは、もう一度彼女のノートに短く記すと、彼女の邪魔をしないように、けれど名残惜しそうにその場を立った。

背後で、エラがまた「ふふっ」と小さく笑う気配がした。


地味で、素朴で、けれど誰よりも妖艶な少女。

彼女を巡る男たちの戦いに、また一人、誇り高き敗北者が生まれた瞬間だった。


ヴィンセントは図書館の出口へ向かいながら、心の中で、親友への激しい嫉妬と、彼女への消えない恋情を、冷たい春の風の中で溶かしていくのだった。


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