表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/34

【エピローグ】


 天井が低く感じる部屋の隅。真っ白で穴や(ゆが)みの全くない一室。ベッドの上で目を覚ますと、まずそんなことを思う。以前の家にはあったはずの穴、床のへこみはなく、何よりこの部屋には暗さが感じられない。陰湿で、漂い続けていた煙はもうなくなっていた。


 明るい。そう思えた。


 実際この部屋で生活してみると、以前の生活がどれだけ欠陥だらけだったかがよくわかる。今、毎日外に出て家に帰るという循環を繰り返すと、より際立って感じられる。


 狭い、とは思わなかった。この部屋も、このベッドも。このアパートは築何十年の建物だが、それほどさびれているとは思わない。ベッドが狭く感じないのは、隣で寝息を立てている、今は大衆の薔薇となってしまった彼女のせいだろう。


 昨夜、私が青森から帰って来たときには、彼女はもうすでに寝ていた。ベッドの端で寝ていた彼女を起こす気にはなれず、そっと彼女を跨いで布団に入った。故に私は壁際に寝ていた。そのため、起きて床に降りるためには隣で寝ている彼女を跨がなければならない。慎重にと思うが、もう慣れてしまっていた。比較的簡単に床に降りて、キッチンの横にある冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターを取り出して、透明の何の変哲もないコップに注ぐ。ペットボトルの蓋を閉める前に一口含む。彼女の寝ている姿が見えた。


 貴調は、私の姉は、驚くような速さでこの世界に順応していった。もはや浸透していると言った方がいい。たまに書店に行くと、軍艦に置かれた雑誌が妙に身近なものに感じて手に取ってしまう。華やかで、耳元口元が綾なされた貴調の姿があった。


 よく考えれば、あれだけしきたりや他人を重んじる心を教え込まれてきた存在なのだ。あんなビップ専用の職場に居なくとも、こっちの大衆向けの職場の方が釣り合っているし、言ってしまえば相応しい。勿論それは、前職を経たおかげなので相応しいとは言えないか。どんな職でも上手くやれるだろう。どんなときも奢らず、謙遜を身に纏って、誰にでも同じように接することができる。そう思っていたのだが、つい先日、


「歪は別だよ。特別」


 そんなことを言われてしまった。


 彼女はこの一般の世界に出てきて、見えない空気感やたくさんのことを学んだだろう。家族、それもその一つだ。帰ってくる家がある。待っていてくれる人がいる。おかえり、と声を掛けてくれる存在。一緒に食卓を交わすたびに、そんなことを私自身も感じていたということは、正直否めない。


 家族という小さな集団。本当の意味で知った気がした。今まで揺るぎ無かった自己が揺らいだのだ。虐待を受けていた子どもが大人になって加害者になりがちだと聞いたときは、あり得ないと思えた位、同じ屋根の下で暮らす姉という存在は貴重で偉大だった。


 この家賃四万円のボロアパートも、生活する分には快適だった。とはいえ、テレビに映る人間が自分の生活の傍らにいるとなると、どうも不思議な感覚だった。


 そんな普通の生活。私もバイトはしているものの、金の管理は姉がしていた。そのときに思ったのが、以前の父との生活のことだ。あの頃の生活費はどこから入って来ていたのか。言わずもがな、父の給料だろう。


 一度だけ大金が入ったことがあった。いつも通り学校の帰りにスーパーで食材を買おうとしたとき、ATMの前で思わず素っ頓狂な声を上げてしまったことを覚えている。明らかにゼロの数がおかしいのだ。どうしたものかと思ったが、減ったわけでもない。当時父に話しかけることもタブーとされていたのでそのままにしたが、今思うとそれも不思議ではなかったと顧みている。


 姉がこの業界に入ろうとしたとき、「遊郭出身だってバレたら大変じゃない?」なんてことを私は告げ口した。しかし姉は、「いいのよ。そうなったらそうなったで。あの仕事も私の人生だから」なんて誇らしげに言う。


 姉が楽しそうに生きて欲しいと願う一方で、マスメディアやSNSで叩かれることを想像して引き留めたい気持ちもあった。が、彼女自身が遊郭のことを「私の人生」と言った。言い切ったのだ。人生の一部ではない。人生だと。いかがわしいことなんて何もないと、そんな風に聞こえた。


 私も大学生になり、その学費のいくらかも担ってもらっている。当初の私は大学に行くつもりがなかったのだが、「行きなさい」と半ば強制だった。そのときぐらいは姉と喧嘩した気もする。「俺は働く!」「私が稼ぐからいい! そんなこと気にすんな!」「姉ちゃん人気あんの?」「そんなの周りの友達に聞いてみろよ!!」


 だんだん口調が荒くなり、表情からも受け取れる威嚇が私には少し嬉しかった。こんな顔もする、これが姉弟喧嘩、だなんて思っていた。


 私が高三の頃、姉はスカウトされた。偶々、「東京に言ってみたい」と言って、偶々歩いていた池袋で、偶々声を掛けられる。それもそのはず。体型を常に意識してきた姉だ。美貌は言わずもがな、田舎出身だとは思えないほど異彩を放っていた。


 私はスカウト詐欺ではないかと疑ったのだが、姉はすでにスカウトマンらしき人に諭されていて、その気になっていた。ファミレスでゆっくりということもなく、そこで強面の黒服が現れる訳でもなく、その場で事が終わっていた。話が終わってこちらに走ってくるときの貴調の表情と言ったらもう……ね。姉からもう何も奪いたくなかった。


「ねえ! 私、新しい仕事見つかったよ!」


 そんなこと興奮して語りかけられれば、「詐欺かもしれないよ」なんて言えるわけがない。結果、姉はその事務所に行き、私の余念が叶うこともなかった。


 姉は、どんどん遠くの存在になっていった。家に帰ってきても、親近感が薄れるときもあった。それでも一緒に居られて、一緒に寝ることが、私の懐に入り込んできて冷え切った体を温めてくれる。


 時が経つにつれ、知らなくてよかったことでも知ってしまった。父も母も。父が手放した娘のように、貴調もまた息子を手放した。でもそれは、私に見えていた視覚証拠にすぎなかった。実際は手放したに過ぎなくて、どこまで行っても繋がっている。だが、どこまで行っても細長い鎖の連なりは止まないのだ。それだけは覚えておきたい。


 私たちの両親は、今どこで何をしているだろうか。大学に行く傍ら、そう考えることも少なくはなかったのだ。


 青森に行ってわかった。今、ここで彼女の寝顔を眺めてわかった。


 姉はやっと、真っ赤な薔薇になったのだ。



 思い出す、あの星原霊園で見た異世界。真っ白な赤ん坊。


 真っ白な赤子が真っ黒に染まる過程。そこから真っ赤な薔薇になる。


 あのときの赤子は、最初から咲いていた。


 性善説とやらはどこへ行ったのだ。きっとあの赤子はこの後社会に染まっていく。


 性悪説は現実となり、赤子には消えない煙草が心臓に突きさされていて、煙を永遠に吸って漂ってやまない。それを壊す存在。そのどちらかのはず。


 だが、この世の中には稀に特異な存在が紛れ込む。それはきっと、性善説と性悪説の狭間を破り割いて生まれてくる。この世の狭間を瞼が開くようにメリメリっと破いて、そこに現れたのはやっぱり目玉。


 その目玉には赤も黒も宿らない。赤と黒に染まらぬ、例えるなら真っ白な蓮だ。きっとそいつはどこまでも稀薄で、家族にも、友達にも、惰性で生まれるだろう子どもにも頓着がない。持ち前の染まらない真っ白さを使って善のようなふりをし、善のように根っこを使って人の心を弄んでいる悪。おちょくって自分勝手に咲き誇る。


 勝手だ。


 私は見紛ったのかもしれない。


 今日もどこかで咲いているのだろう。日常を自分の捌け口にし、暇つぶし程度のシミュレーションゲーム。不敵な薄気味悪い笑み。頬で乾いた涙。


 殺されるのは私ではなく、赤ん坊だったのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ