【鉛を降ろせない】
縁側に座り、早朝特有の透き通った風景を眺める。白くて、青くて、薄くて、暑くもなく、寒くもなく、風呂に入ったときのような温みもなく、誰にも気づかれず、ただそこを吹き抜けていく凪のような。夜に玄関先に出ることはあるが、朝となるとあまり外には出ない。光を通すのと通さないのとでは全く違う雰囲気のように感じた。
縁側に座るのは初めてではなかった。夜、お客様を部屋にお通しする際に何度かそこで女傑と座ったことがある。すぐ隣の障子から楽しげな声と光が漏れていて、私は足元をすくわれているような気分になる。
そんな夜とは違って、朝にこの縁側に座ってみると少し寂しげにも感じる。宿の中には誰もいないのだ。一人取り残されたために侘しさを感じる。お客様のように、待ち人がある程度時間通りに来る可能性は低い。日程は決まっているのかもしれないが、もしかしたら来ないかもしれないのだ。先週も一、二時間は縁側に座り続けていた。
今日も、もう来ないかな。そう思ったら車のエンジン音が聞こえた。だんだん近づいてくる音。胸を躍らせた私を嘲笑うかのように、その音はだんだん遠ざかっていった。
また遠くを眺める。落胆していた私に近づいて来たのは、黒いワゴン車だった。神様は弄ぶのがお上手なようで。私なんかよりもこの仕事に適任なのでは? 肉体を持たない神にそんなことを崇めても、憤怒して、肉体を得た神などこの世に降り下りてはこまい。
私は立ち上がった。相変わらずの服装だった。綺麗を通り越して新鮮。襟首のよれたシャツに身をくるんだ彼を、私は待ち望んでいた。もう一か月も会っていなかったのだ。恋しくなるのは人間の性だと繭から聞いた。私は去ることながら人間である。
「でもよく考えれば久しぶりだね。一か月ぶりくらい?」
「あれ、そんなもんだったかな」
何度も座ったブランコは、今日もキイキイと揺らしていた。今日は珍しく滑り台も滑ったし、シーソーもやった。歪に逆上がりを見せられて、「貴調もやってみる?」なんて言われてやったが、当然できなかった。
「まあ袴だしね。勧める俺もどうかと思うけど」
歪は気を使ってくれていたのだ。あまりそんな体験がない分、素直に嬉しかった。
私は彼の顔が見たくて、そっとばれないようにと彼のブランコを見ると、いつもの歪だった。面影はあるような気もする。だが、私が幾度となく思い返してきた初めて会った日のあの笑顔は見られなかった。
要は彼の笑顔が見たいのだ。そのために話しているようなもの。
私は何か話題を探そうとするのだが、実際この一か月で起きたことなんて――まあ、ありふれたものだった。特に非日常的な出来事などなかった気がする。そんなことを考えていると、ふと視線を感じたような気がして見ると、歪は私の方を向いていた。
「え、何?」
「なんか、可哀想な顔してるから」
歪は少し笑った。考えている間の私の顔は、そんなにも不愛想だったのだろうか。否定しようとすると、「この間、強歩大会があったんだー」なんて話し始めた。
「へえ、その大会は歩くの?」
「歩く人もいるけど、走ってもいいって感じかな」
「疲れた?」
「結構ね。今も筋肉痛が残ってるくらい」
そう言って自分のズボンをたくし上げ、ふくらはぎを見せてきた。少しむくんでいるかなというくらいだったが、自分がむくみに敏感なせいかそのことがよくわかった。
「あと、彼女もできた。とんだじゃじゃ馬だけど」
「え?」
唐突な彼の発言に私は単純に驚いてしまった。
「冗談だよ。嘘だよ嘘。ごめん。貴調っていろんな顔するからさ。つい試してみたくなっちゃうんだよね。困った顔とか悩んでる顔とか、たまに笑うのが見られたり」
彼もまた、表情に敏感なようだった。ちょっとした意識の共有を私は手にした。彼はおそらくできていない。だから、私も歪の表情を気にしていたと伝えようとした。
あれ。
うまく口が動かなかった。唇が半開きで、思うように喉に力が入らず、息を吐き出せなかった。気づけば心臓が鳴っている。脚が竦んでいる。なぜ。どうして。すぐそこにいる彼に伝えたいことがある。もっと言えば、こんな共有じゃなくて、もっと大事なことを共有したかった。でもうまく言えない。
歪はまだこっちを見ていなかった。まだ気づかれていない。私の顔を見られる前に、早く口を開かなければ。
「わかるよそれ」
彼は私の顔を見ないままに言った。
「すぐ隣に居るのに伝えられない。今を逃せばどんどん言うタイミングがなくなってきて、まあいっかって思っちゃう。みたいなこと今思ってたりしない?」
「いや……別に……」
「そう」
なんだろう。すごく体がほてってきたような気がする。辺りはもう日が落ちる間際だった。夕日の暑さにやられたなんてことは偶然にもありえないだろう。
その正体が私にはわかっていた。見え隠れするように心情が揺らぐ。大事な彼だ。私のしきたりに巻き込んではいけない。そう思うのだが、思えば思うほど、私の体内からは酷く体を動かしたときのような、内から出てくる熱気みたいなものを感じた。下着をつけてこなかったせいで、太ももの内側を伝っていきそうな感触。ブランコに座りながら膝をこすり合わせていた。
キイキイと音が鳴る。私が動いたせいだろう。特に何の意味もなくこちらを向いただろう歪。何も言わずに眉を上げ微笑んだ彼の顔が――。
慈悲。無個性な私は、伝わらない蟠りを嘆いているのか。おそらく慈しむべき対象に見惚れた。
親。そんな単語が浮かんだ。家族とはいったい何なのだろう。繭や蓮の口から、「お父さん」「お母さん」「兄」などの単語を聞くとそんなことを思った。彼女達は、大体彼らのことを卑下していた。だからそういうものだろうと思ったこともあった。
でも歪は違った。たまに「父」という単語が零れる。俺を産んでくれた父。俺と一緒に育った父。図らずも彼の言いたいことはわかったような気がした。どこまで行っても家族は家族で、生まれる子どもは必ず母親の腹から産み落ちる。その瞬間から、「父」「母」は生まれる。その事実は変わらない。
私の両親はどこの誰かもわからない。別に知りたいとも思わないし、ここまで育ってしまえばどうでもいいような気さえしていた。ただ、私はもっと違うものを先天的に感じ取ったのだと思う。
弟。
自分の子ども、息子というのはちょっと違う。もっとこう、近しい間柄というか、慈しんでやりたいことには変わりないのだが、もっと距離が近いのだ。
歪の身長もある気がする。低かった時代に見上げていた人々は皆、偉大な存在のように見えたが、身長が同等の人間は身近に感じる。
でも馬鹿な話だ。そんな余念を裏切るように、すでに私の透明な液体はふくらはぎの横を伝っていた。それが、客と行為に及ぶときのものと同じだったらそれほど不思議なことでもないのだが。
「ねえ歪?」
「ん?」
「ボノボって知ってる?」
「知らないな。生き物?」
「そう。類人猿の一種。ホモサピエンスに近い動物って言われてるんだけど、このボノボって平和的なのよ。同じ近縁のチンパンジーは、産んですぐの子どもを殺すことがあるの。違う群れの雄の子かもしれないと思ってね。でもボノボは平和を愛してる。利他的なのよ。誰かを助けることが当たり前だと思ってる。おまけに雌の方が地位が高くて、雄が威嚇しても雌は主張が強いから見向きもしないんだって」
「それはちょっと人間界でも見てみたい社会性だね」
「うん私もそう思う。それでね、歪だったら喧嘩を見かけたときどうする?」
「見過ごすかな。よくても割って入るとか」
「そう。それが普通なのよ。でもボノボは違う」
「どこが?」
「セックスするのよ。セックスで興奮を鎮めようとするの。ボノボにとってセックスって日常のコミュニケーションなの。挨拶代わりにも、仲直りするときもセックスする。単に気持ちよくなりたくてするわけでもないみたい。もちろんそういうときもあるけど」
入ってすぐの座学で習ったことを今ここで彼に話した。ボノボのように客とセックスしろ。セックスはコミュニケーションだ。何を嫌がることがある。どんな客にも挨拶することは教えたでしょう? それと同じように客を喜ばせなさい、と教えられた。
どんな客にでもだった。レズビアンも、バイセクシャルも、セクシャルマイノリティ、どんな性癖も受け入れなさい。マウンティング、ホカホカ、ペニスフェンシング、尻つけ。全部学びなさい。許容しなさい。たとえ以前の顔見知りだったとしても、いじめの主犯格でも、強姦が日常と化した輩でも、愛でなさい。毎日女体盛りを楽しむような初老でも、平和を乞いなさい。弱肉強食の社会、トラがシマウマを食べる、天災、光化学スモッグ。車に轢かれて内臓の飛び出た猫、人間様に踏みつぶされた虫けら。踏みつぶしたことにも、命を奪ったことにも気づいていないような人でもコミュニケーションを取りなさい。私はそのためなら、あなたたちにそのことを教え込むことができる。あなたたちには武器がある。穢れと呼ばれたセックスというコミュニケーションを使いなさい。そうやって私たちは生きている。陰で天にも上ったような地位で生きる術を駆使しているの。生きる術を探しなさい。嫌になったら出て行ってもいい。見つからなかったらいつでも戻ってきなさい。私が一緒に歩いてあげる。
五・六歳で聞いたそんな女傑の言葉。当時、本当の意味で私に理解できたのは最後の部分くらいだった。「一緒に歩いてあげる」。女傑様が、この上ないほどの人だということは、幼いながらも私は理解していた。そんな人が私と一緒に歩いてくれる。母親のようなおおらかさを身に纏って、強かな手で私たちに教え込んだ女傑。誰のことも誹謗しなかった。皆、私の娘だと言ったこともあった。それは比喩でも冗談でも同情なんかでもなかった。誰にでも許容してくれたし、悩みも聞いてくれた。使用人たちや周りの感情論に左右されず、相手の価値観の根底に流れているものを見出して、慈悲深い言葉をくれた。
「あなたは間違っていない。だからその道を選んだのでしょう? その動機を信じるべきなのよ」
そう言って、泣く者のそばで一緒に悲しみ、時に鞭を振って間違いを正した。
宗教のように根拠がない言葉ではあったが、女傑の言葉を無条件で信じられた。それは、私も女傑も、同じような人間だったからわかるのだ。自分みたいな人間は、忌み嫌う存在を裁くことができないという共有。共にいられる絶対的な存在。人生においてこの役目がどれだけ重要な役割を果たすか、私はなんとなくわかっていた。
物心がついたときからこの場所にいて、血縁関係者は誰もいない。何も知らないままの状態で歩いていたところに、背の高い、大きくて、おおらかな、そんな存在が寄り添って私の隣を歩いてくれる。
私は知っていた。そんな存在が、人の心に入り込めることを。
私は成長した。歪の姿を見ればわかるようになった。表情を見ていればわかる。苦しみ、憎き笑顔、それを創り出す優しさ、そのすべてを彼は自分一人で背負っていた。風呂敷に溢れるほどの人間の罪を丸め込み、初めて会った以降の歪はそれを背負って歩いていた。顔を上げるのもままならなくて、腰の曲がった老人のように背中を丸めて一歩一歩進む。
そんな重たい荷物を背負いながらも、彼は私に微笑んだ。
「大丈夫」、と。
私の方が苦しくなる。自分のことは二の次で、苦しいのに苦しいという顔をしない。微笑むのだ。
客に笑われたこともあった。「うわ、ゆるゆるじゃん。腹も。こんなことばっかやってるからしょうがないか」。彼らは、決まってあぶく銭で儲けているとほのめかしてくる。正直辛い。だが、女傑に迷惑をかける訳にはいかない。おおらかなボノボのように、「もう一回しませんか?」と仲直り然り、尋ねるのだ。
「ねえ歪?」
「ん?」
彼は私を見ないままだった。何かが先を急かす。容赦なくは聞けない。
「私の仕事のことどう思う?」
「どうもこうも、仕事は仕事じゃない? ちゃんと働いて、その対価をもらう。普通のことじゃない?」
すまし顔でそんなことを言う。よくもそう簡単に的確に言ってくれるものだ。じわじわと感情が揺らぎ始めて来ていた。
「じゃあさ、私を愛して欲しいって言ったら愛してくれる?」
「ええ? それってどういう、」
こちらを向いた彼の顔に私は飛びついていた。
私の乗っていたブランコが揺れている音がする。歪をブランコから引き落とす。
私は目を閉じて、容赦なく唇をまさぐっていた。頬を舌で舐めた。行為も勢いも止めず、私はゆっくりと目を開く。
彼はにわかに微笑んでいた。この微笑みはどんな微笑み? 苦しさを紛らわす微笑み? 隠す微笑み? それとも心からの微笑み? そんなことを探るように私は彼の上唇を自分の唇で挟み、また挟み、下唇に移り、舌を絡める。あなたはどう思っているの。こんな私はやっぱり穢れているの? 社会の隅で、富豪の金をせびってあぶく銭をもらっている強欲で尻軽な女なの? ビップに遊んでもらっているだけで、私は働いてさえいないの? ねえ……。
徐に、両頬に触れられた。ゆっくり上下に動かされ、唇は離れる。
「大丈夫。全部知ってるから」
それは、根拠のない言葉だった。でも、背の低い女傑のようでもあった。
歪を慈しみたいとは馬鹿なことを思ったと反省した。私がどれだけこの人に救ってもらったか。土曜を乞うようになっただなんて嘘だ。毎日乞うていた。その優しさに触れたくて。生き辛さを隠して、自分にさえ優しくなれるのだ。
初めて縁側に座っただなんて、なんでそんな自分よがりなことでしか自分のことを慰められない。暇さえあれば縁側に座って、脚をパタパタさせながら来ない人を待っていた。もしかしたら今日来てくれるかもだなんて白々しい。待っていたんだ。今日来て欲しいって切望して待っていたのだ。
だからあのときは、心臓が飛び出るくらいに跳ね上がった。
車の音はしない。今日も歪は来なかった。真っ暗になった山奥の道路をぼーっと眺めていたら、誰かがふらふらになっているのが見えた。私はボノボだから、助けようと思って歩み寄ろうとするのだけれど、立ち止まる他なかった。
よろよろになりながらもこっちに歩いてくる。その姿を応援したくなった。客だったらすぐに歩み寄っていたはずだ。でも、歪だったから。歪だったから、自分の手を使わないで、祈ることで応援したかった。
玄関先にたどり着いた歪は、そのまま倒れた。歩み寄って、私はしゃがんで彼を眺めた。起こすよりも先に、私はまず何を話そうかと思った。疲れていたようだったから、「何が食べたいですか?」と。「贅沢」とかすかに聞こえ、訳もなく「はい、なんでもありますよ」と答えてみた。返事は来ない。が、薄目だが、目は開いてるように見えたので、多分聞こえてはいると思った。私は彼の言葉を反芻した。贅沢、贅沢……。
昼に食べたラーメンを思い出した。いつもは普通のものだったが、料理長が奮発してくれたのだ。
「ラーメンはどうですか?」
答えはない。
「煮干しと味噌カレー牛乳、どちらがお好きですか?」
やはり返事は聞こえない。
「味噌カレー牛乳ラーメン。美味しいですよ?」
そこまで言って、私は菜月に呼ばれた。また仕事に戻らねばなるまい。そう思ったが、そのときどこか快い気持ちで仕事に向き合うことができそうな気がしたのだ。あとのことは菜月に任せよう。そう思って頼んだら、なんと、菜月は歪の同級生だということを知る。それも隣の席で仲が良い。
だから菜月にいっぱい聞いた。
学校での歪のこと。
保護者会のこと。
大人に向かって歯向かっていたこと。
畦道で話したこと。
毎朝遅れて登校してくること。
後になって、学校に遅れてくるのは家の事情だと菜月から聞いた。保護者会に出たのも単に親がさぼっているからではなくて、父親と二人暮らしだからということ。まあそのことはすでに知っていたのだが。




