第20節 二人の時
客間に戻った俺は、彩乃が淹れてくれた麦茶を一口啜り、そっとコップを座卓に置いた。
ふう……やっとひと心地ついた。
と言いたいところだが、今、俺は緊張しまくっている。それというのも、彼女の家で二人きりというこのシチュエーション(近くに小姑が二人いるが)、緊張するなというのが無理ってもんだ。
彩乃はそんな俺の心中を知ってか知らずか、コップに口をつけたまま、俺の胸元のほうをじーっと見つめている。
『お姉ちゃんはすっごい奥手なんですから、さとーくんがリードしてくれないと――』
紗南ちゃんのセリフがリフレインする。こんなとき、どんなふうにアプローチすればいいんだろ。
「恐れながら……」
例によって、孔明が拝礼して進み出た。
「女性とは紳士的な振る舞いを好むもの。ここは慎み深く行動するのが上策かと存じまする」
「なるほど……あえてガッつかず普通にしてろということか」
「はっ、その通りにございます」
「はははは、戯けたことを!」嘲笑とともに今度は仲達が進み出る。
「殿。女性とは多少強引な振る舞いを好むもの。ここは積極的に出るべきです。こう、ギュッと力強く抱きしめるとか」
抱きつくまねをして、唇をぶちゅーっと突き出す。
「この好機に指を咥えているだけとは下策も下策! 臆病者の所行でございまする!」
仲達は孔明に視線を送り、煽るような口ぶりで言う。慎重派の孔明と積極派の仲達で軍師たちの意見は真っ二つに分かれ、評定は侃々諤々《かんかんがくがく》、一向にまとまる気がしない。
ああ、もっとまともな参謀がほしい……。
脳内で不毛な論争が繰り広げられている最中、不意に彩乃が立ち上がった。座卓を回りこんで、俺の目の前で立ち止まる。そして、その大きな瞳で俺を見下ろした。
きゅ、急になんだろう?
その透き通った綺麗な瞳で見つめられると、顔が熱を帯び、心臓はバックンバックン高鳴る。こればっかりはどんなに一緒にいても慣れない、止まらない。
「ど、ど、どうかした?」
沈黙に耐え切れず尋ねる。
だが、彼女は無言のまま膝をつき、そっと俺の胸元に顔を近づけてきた。
か、顔近いって!
黒髪からはとってもいい香りがして、鼻から脳髄をこれでもかと刺激する。頭の中はますますパニックを起こし、わけがわからなくなってきた。
「……彩乃?」
それでもなんとか口を開くと、彩乃は顔を上げ、まじまじと見つめてきた。
その視線から一ミリたりとも目をそらすことができない。整った唇がわずかに動く――。
「拓也くん、……脱いで」
なんかとんでもない発言キターーーーーー!
そのメガトン級の爆弾発言で、思考が全部ふっとんだ。
脳内掲示板では大量のキタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!の弾幕が張られ、いくつものスレッドが乱立する祭り状態へと突入する!
「ち、ちょっと待って! こ、心の準備ってもんが。キスすらしたことないのに! それに夏希と紗南ちゃんが近くにいるじゃないか、ダメだって! だいたい、こういうことは、もっと仲を深めあってからじゃないと! まだ付き合いだして一ヶ月もたってないだろ! 早いよ!」
――などと頭の中では必死に力説するものの、なに一つ舌の上にはのってこない。
金魚みたいに、ただ口をパクパクさせることしかできなかった。
ダ、ダメだ。こんな流されるみたいに身を任せては! 欲情をギリギリのところで押しとどめる。
「き、気持ちはうれしい。け、けど!」
「大丈夫。任せて。きっと上手にするから」
彼女はニッコリ微笑む。
な、なんて頼もしい! ヤバイ、惚れそう――いや、とっくに惚れているんだけど!
彩乃の目は真剣だ。確固たる意志を感じる。女の子にここまで言わせて何もできないなんて、男じゃない!
覚悟完了――。
「よ、よろしくお願いします」
静かにジャケットを脱いで座卓の上に置く。そしてシャツのボタンに手をかけた。
「うん。待っていてね、すぐに付けるから」
彩乃はジャケットを手に取り立ち上がった。
……あれ? くっつく相手はこちらですが?
はたと気がついた。ジャケットの胸のボタンが取れかかっていることに。
プギャ━━━━━━m9(^Д^)━━━━━━!!!!!!
脳内掲示板では罵倒と煽りが飛び交い、短い祭りはあっけなく収束した――。
それから10分ほどたって、彩乃は裁縫箱とジャケットを手に戻ってきた。
「ごめんね。お待たせしちゃって。似た色の糸がなかなか見つからなくって」
「べつに何でもいいよ、色なんて」
「ダメだよ。目立っちゃうもの。もう少し待っていてね。確かどこかに糸をいっぱいしまっている箱があったはずだから……」
本当に色なんてどうでもいいのだが、せっかく彩乃が俺のために張り切ってくれているんだ。水を差すことはない。
「うん、わかった。俺のことは気にせずゆっくり探してきて」
「ごめんね。拓也くんはお客様なのに」
申し訳なさそうに頭を垂れる。
「いいって、気にしない。気にしない」
「あ、そうだ」
彩乃はなにか思いついたようにパンと手を合わせた。
「紗南がゲームをたくさん持っているから、しばらくそれで遊んでいて」
「へー、紗南ちゃん、ゲームなんかやるんだ」
「うん。わたしは下手だから、後ろで見ているだけなんだけどね」
意外だ。どんなゲームをするんだろう? マリオとか?
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
「紗南の部屋にあるから。案内するね」
いいのかな? 勝手に入っちゃって。
美咲なんか俺が部屋に入るのメチャクチャ嫌がるのに、もう何年もあいつの部屋には足を踏み入れてはいない。向こうは俺の部屋に勝手に入ってマンガとか漁っていくのに、理不尽な話だ。
紗南ちゃんの部屋はお屋敷の奥まった場所にあった。
「さっ、入って」彩乃が襖を開き、招き入れる。心のなかで紗南ちゃんに“お邪魔するね”と呟いて、部屋に足を踏み入れる。
まず目に飛び込んできたのは、ところ狭しと並べられた大小の動物のぬいぐるみだった。次に小物でいっぱいの勉強机。可愛い物で溢れた、実に女の子らしい部屋だ。
――というのは部屋の半分だけで、もう半分はだいぶ雰囲気がちがう。きちんと整理されてはいるものの、色んな物で溢れ雑然としている左側とちがって、右側はどこか落ち着いた感じというか、置いてあるものも勉強机と鏡台、本棚と実用的なものばかり。飾ってあるのはせいぜい小さな鉢植えくらいか。
色使いも水色やピンクといったパステルカラーが多い左側とは異なり、藍色とか小豆色とか、和な感じ。同じ部屋なのに左右で印象がまったくちがっている。って、待てよ。勉強机が二つあるってことは……。
「ひょっとして、この部屋って?」
「うん。わたしと紗南、二人の部屋だよ」
「どうしてまた? 空き部屋ならいくらでもあるだろうに」
「うちの教育方針なの。一人部屋は自立してからだって。紗南は自分専用の部屋を欲しがっているけど、わたしは今のままでいいな。一緒のほうが楽しいし」
立派な家系に生まれるってのも、それはそれで大変なんだなあ。そんな話を聞くと、気楽な庶民の家に生まれてよかったとしみじみ思う。
「えっと、ゲームソフトはたしか……」
彩乃はテレビ台から小さなケースを取り出して持ってくると、ふたを開いて見せてくれた。
「どうかな。拓也くんの好みに合うのがあるといいんだけど」
乙女ゲーだったらどうしよう。そう思いつつケースを受け取り、ラインナップを確認する。
――な、なんか洋ゲーのFPSが多いな……。紗南ちゃん、ひょっとしてストレス溜まっている? 彼女が目を血走らせてゲームする姿なんて、ちょっと想像がつかない。それとも、クールに敵を倒すのか。
さらに物色すると、見慣れたタイトルを見つけた。おっ、無双があるじゃないか。ちょこっと時間を潰すにはちょうどいい。
「いいのが見つかった?」
まあねと応える。
「よかった。じゃあ、しばらく遊んでいてね。あと、トイレはここを出て右の突き当たりだよ」
「うん、わかった」
「じゃあ、なるべくすぐに戻ってくるね」
そう言い残して、彩乃は部屋を出ていった。




