第六話 シャットダウン
季節は巡り、街路樹の銀杏が鮮やかな黄金色から枯れ葉へと変わり、冷たい北風がアスファルトを吹き抜ける季節になっていた。
あの「地獄のホームパーティー」から半年。私の生活環境は劇的に変化していた。
かつて家族四人で暮らすには手狭だと感じていた3LDKのマンションは、今や結奈と二人で暮らすには広すぎる空間となっていた。美佐子がこだわって選んだ北欧製の家具も、海人がゲームに興じていた大型テレビも、そのままそこにある。しかし、それらに付着していた「家族の温もり」という名の幻想は、完全に剥ぎ取られていた。
静寂。
それが、今の私の家を支配する唯一のルールだ。
朝、私は六時に起き、自分のコーヒーを淹れ、結奈の分のトーストを焼く。
七時になると結奈が起きてきて、「おはよう」と短く挨拶を交わす。
彼女は以前よりも口数が減った。成績は優秀で、第一志望の高校への推薦も決まったが、その瞳には十五歳の少女が持つべき輝きはなく、どこか諦観したような、大人びた色が宿っていた。
私たちは必要最低限の会話を交わし、それぞれの戦場――私は会社へ、彼女は学校へと向かう。
会社での私の立場も変わった。
桐島の横領事件と懲戒解雇は、社内に激震を走らせた。私は「部下の不正を見抜き、断固たる処置をとった公正なリーダー」として評価されたが、同時に「妻を部下に寝取られた哀れな男」という陰口も、背中で浴びることになった。
給湯室でのヒソヒソ話、すれ違いざまの同情的な視線。それらは小さな針のように私の神経を逆撫でしたが、私は鉄仮面のような無表情でそれらを無視し、淡々と業務をこなした。
感情というパラメーターは、もう必要ない。効率と論理だけが、私を動かすドライバだ。
そんなある日の午後、私のスマートフォンが震えた。
登録されていない番号。しかし、胸騒ぎがした。
私は会議室を抜け出し、廊下の隅で通話ボタンを押した。
「……はい、相沢です」
『警視庁〇〇署の者ですが、相沢健一さんの携帯電話でお間違いないでしょうか?』
警察からの電話。予想していたシナリオの一つだ。
私は冷静に、事務的に返答した。
「はい、間違いありません。何かありましたか」
『実は、本日未明、市内の私鉄線路内にて人身事故が発生しまして……。亡くなられた男性の身元を確認したところ、桐島達也さんであることが判明しました』
「……そうですか」
私の声は、驚くほど平坦だった。
心拍数は上がらない。涙も出ない。ただ、「処理が完了したか」という感想だけが脳裏をよぎった。
『所持品の中から、あなたへの法的書類のコピーと、メモが見つかりまして……ご連絡させていただきました。ご遺体の確認をお願いしたいのですが……』
「お断りします」
私は即答した。
『えっ? しかし、知人の方ですよね? ご親族とも連絡がつかなくて……』
「元同僚ですが、彼は私の会社に多大な損害を与えて解雇された人間です。それに、私個人に対しても数千万円の債務を負ったまま逃亡していました。赤の他人以上の、敵対関係にあります。遺体の引き取りも、確認も拒否します。無縁仏として処理してください」
『は、はあ……。事情は分かりましたが……』
警察官の困惑した声を遮るように、私は通話を切った。
窓の外を見る。曇天の空から、冷たい雨が落ち始めていた。
桐島達也。享年四十五歳。
死因、自殺。
借金苦と、社会的抹殺による精神的重圧に耐えきれず、自らシステムを強制終了させたのだ。
電車に飛び込んだということは、多くの人間に迷惑をかけたということだ。最期まで、他人の時間を奪い、不快感を与える男だった。
私はスマホの画面を見つめ、連絡先リストに残っていた「桐島達也」の名前を削除した。
指先一つの操作。それで終わりだ。
その日の夜、帰宅した私は、結奈にその事実を告げた。
夕食のシチューを食べながら、淡々とニュースを伝えるように。
「桐島が、死んだそうだ」
結奈のスプーンを持つ手が止まった。
彼女は少しだけ目を見開き、それから視線を皿に戻した。
「……そう」
「借金を苦にしての自殺らしい」
「……ママは、知ってるの?」
「恐らくな。警察が連絡先を調べているはずだ」
結奈はそれ以上何も言わず、黙々とシチューを食べ続けた。
彼女の中にも、もう桐島に対する怒りすら残っていないのかもしれない。ただの「過去の汚点」が消滅した、それだけの事実として受け止めているようだった。
数日後、その「汚点」の余波が、別の形で私のもとに届いた。
弁護士の御子柴からの連絡だった。
『相沢さん、報告があります。元奥様……美佐子さんの件です』
「どうしました? 慰謝料の支払いが滞っている件なら、差し押さえの手続きを進めてください」
『いえ、そうではなく……実は、彼女が入院しました。精神科の閉鎖病棟です』
私は眉をひそめた。
「狂言ですか?」
『どうやら本当のようです。桐島氏の訃報を聞いて、精神のバランスを完全に崩されたようで……。アパートで暴れているところを近隣住民に通報され、そのまま措置入院となりました』
美佐子は、離婚後、安アパートで極貧生活を送っていたはずだ。
実家からは絶縁され、職もなく、日雇いのパートで食いつなぎながら、いつか桐島が迎えに来てくれるという妄想に縋って生きていたのだろう。
その最後の希望が断たれた瞬間、彼女のOSはクラッシュしたのだ。
『病院側から、身元引受人としての打診が来ていますが……』
「断ってください。離婚成立時に、互いに不干渉であるという条項を入れたはずです。私は彼女の保護者ではありません」
『承知しました。そのように伝えます。ただ……一度だけ、面会を求められています。医師によると、正気な時にあなたの名前を呼んでいると』
私は迷った。
会う必要はない。会えば不快になるだけだ。
だが、これで本当に最後にするための「確認作業」だと思えば、行く価値はあるかもしれない。
週末、私は郊外にある精神科病院を訪れた。
消毒液と、独特の澱んだ空気が漂う病棟。
鉄格子のハマった面会室で、私は彼女を待った。
しばらくして、看護師に連れられて美佐子が入ってきた。
その姿を見て、私は息を呑んだ。
半年前まで、高級ブランドの服に身を包み、エステで磨き上げた肌を誇っていた女は、どこにもいなかった。
白髪交じりのボサボサの髪。落ち窪んだ目。骨が浮き出るほど痩せこけた体。
彼女は病院指定のジャージを着て、虚ろな目で私を見た。
「……健一、さん?」
掠れた声。二十歳は老け込んで見えた。
「ああ。来たぞ」
「……達也くんは? 達也くん、どこに行ったの? 待ち合わせしてるのよ。ホテルで」
彼女は夢遊病者のように呟いた。
「桐島は死んだ。自殺したんだ。お前も知っているだろう」
私が冷酷な事実を告げると、美佐子の顔がひきつった。
「嘘よ! 死んでない! 私たちは愛し合ってるの! 二人で幸せになるの! 健一さん、あなたがお金をくれないから、達也くんが遅れてるのよ! お金ちょうだい! はやく!」
美佐子は突然、机を叩いて叫び出した。
その目には、狂気の色が宿っていた。
彼女の記憶領域は、都合よく改竄されている。
桐島が死んだことも、自分が見捨てられたことも、すべてエラーとして処理され、過去の幸せだった頃の記憶と現実が混濁しているのだ。
「……哀れだな」
私は心からの言葉を漏らした。
憎しみすら湧かない。ただ、壊れた機械を見ているような気分だった。
「健一さん! 愛してるわ! やり直しましょう! ね? 私、いい奥さんになるから! だから達也くんを呼んで!」
支離滅裂な懇願。
私は席を立った。これ以上、ここにいる意味はない。
「さようなら、美佐子。二度と来ることはない」
「待って! 行かないで! お金! お金置いてって!」
背後で美佐子が看護師に取り押さえられ、鎮静剤を打たれるのを感じながら、私は面会室を出た。
廊下を歩く私の足取りは重かった。
これが、私が二十年間愛し、守ろうとした女の末路か。
あまりにも虚しい。
そして、最後のピース。
相沢海人――いや、桐島海人のその後については、風の噂と、警察からの二度目の連絡で知ることとなった。
彼は桐島に拒絶された後、ネットカフェを転々とし、やがて「闇バイト」と呼ばれる犯罪の片棒を担ぐようになったらしい。
高齢者を狙った特殊詐欺の受け子。
リスクばかり高く、使い捨てにされる駒だ。
「警察ですが、海人容疑者を逮捕しました。身元引受人をお願いできませんか」
深夜の電話に、私は前回と同じように答えた。
「人違いです。私に息子はいません」
「ですが、戸籍上は……あ、いえ、DNA鑑定の記録が……」
「ええ。彼は赤の他人です。縁も切れています。彼が犯した罪は、彼自身に償わせてください。私には一切関係ありません」
後日、ニュースで小さく報道された。
『詐欺未遂の疑いで住所不定・無職の少年(19)を逮捕』
画面に映し出された、フードを目深に被り、パトカーに押し込まれる青年の姿。
一瞬だけ見えたその横顔は、死んだ桐島に瓜二つだった。
彼はこれから、少年刑務所、あるいは成人として裁かれ刑務所へ送られるだろう。
出所しても、前科者として生きていくしかない。
享楽的な性格、努力を嫌う性質、そして犯罪者の血。
彼は自らのスペック通りの人生を辿ったに過ぎない。
すべてが終わった。
敵は全滅した。
私は、書斎のPCに向かい、最後の仕上げに取り掛かった。
デスクトップにある「復讐(Revenge)」と名付けたフォルダ。
その中には、膨大な証拠データ、録音ファイル、写真、そして彼らを追い詰めるために作成した数々のシナリオが入っている。
これらはもう、必要ない。
私はフォルダを選択し、「削除」キーを押した。
『完全に削除しますか? この操作は元に戻せません』
ポップアップが表示される。
「……Enter」
軽い音と共に、データは消滅した。
ゴミ箱も空にする。
ハードディスクの空き容量が少しだけ増えた。
けれど、私の心の空洞は、何一つ埋まってはいなかった。
リビングに降りると、結奈がソファで膝を抱えて座っていた。
テレビは消えている。静寂の中で、彼女は窓の外の雨を見ていた。
「パパ」
「ん?」
「終わったの?」
彼女は私の方を見ずに尋ねた。
「ああ。終わったよ。もう誰も、私たちを傷つけることはない」
私は結奈の隣に座り、その肩を抱いた。
彼女の体は少し震えていた。
勝利の喜びなどない。私たちは、焼け野原に立っている生存者同士だ。
美佐子という母親を失い、海人という兄を失い、幸せだった(と思っていた)家庭を失った。
その代償として得たのは、「真実」と「静寂」だけだ。
「……寂しいね」
結奈がポツリと言った。
その言葉が、私の胸に深く突き刺さった。
「そうだな。……寂しいな」
認めるしかなかった。
嘘でも、偽りでも、あの頃の食卓には笑顔があった。
「パパ、すごいね」と言ってくれる妻がいて、「親父、金くれよ」と憎まれ口を叩く息子がいて。
私はその幻影のために、二十年間、必死で働いてきたのだ。
それがすべてバグだったとしても、システムとしては稼働していた。
デバッグを行い、バグを排除した結果、システムそのものが停止してしまったような感覚。
「でも、これが現実だ」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
嘘の中で笑うより、絶望の中で真実と向き合う方が、人間として正しいはずだ。
そう信じなければ、私は自分が何のために生きてきたのか分からなくなってしまう。
「結奈。今度の休み、どこか行こうか」
私は努めて明るい声を出した。
「温泉でもいいし、美味しいものでも食べに行こう。私たちには、これから時間もお金もたくさんあるんだ」
美佐子や海人に吸い取られていた金は、すべて結奈のために使える。
桐島のような寄生虫に邪魔される時間もない。
結奈はゆっくりと私の方を向き、少しだけ、本当に少しだけ、口元を緩めた。
「うん。……温泉、行きたいな」
「よし、行こう。一番いい旅館を予約するよ」
私は娘の頭を撫でた。
これが、再起動への第一歩だ。
傷は深く、完全には癒えないかもしれない。
二十年という歳月が作った巨大な虚無は、そう簡単には埋まらないだろう。
それでも、私たちは生きていかなければならない。
窓の外では、雨が雪へと変わっていた。
白く、冷たい雪が、汚れた街を覆い隠していく。
私はリビングの明かりを消した。
暗闇の中、PCの電源ランプだけが、心臓の鼓動のように静かに明滅していた。
長い、長い夜が明けるのを、私と娘は静かに待ち続ける。
誰も救われなかった物語の、その先にある、ささやかな安息を求めて。




