第五話 ランタイム・エラー
月曜日の朝、オフィスは不気味なほど静まり返っていた。
空調の低い駆動音が響くフロアで、私はいつも通りメールチェックを行っていた。画面に並ぶ文字列は業務連絡ばかりだが、私の脳内では別の処理が進行していた。今日、一つの不正プログラムが強制終了される。
「……おはようございます」
始業時刻ギリギリになって、桐島達也が出社してきた。
いつものような派手なオーデコロンの香りは消え、代わりに酸っぱい汗とアルコールの臭いが微かに漂う。週末の「地獄のホームパーティー」以来、一睡もしていないのだろう。目の下にはどす黒い隈ができ、自慢の整えられた髪も脂ぎって乱れていた。
彼は私の席の前を通る時、ビクリと肩を震わせ、逃げるように視線を逸らした。
「桐島課長」
私が声をかけると、彼は弾かれたように立ち止まった。
「は、はい……何でしょうか、部長」
「人事部長と監査室長がお待ちだ。第三会議室へ。私も同席する」
「……っ」
桐島の顔から血の気が引いていくのが見えた。周囲の社員たちが、何事かと顔を見合わせる。彼らの視線が、桐島の背中に突き刺さる。
私は立ち上がり、無言で会議室の方角を顎でしゃくった。それは上司としての指示ではなく、処刑台への案内だった。
第三会議室の重厚なドアが開く。
中には、強面の人事部長と、冷徹な目で知られる監査室長、そして顧問弁護士が座っていた。机の上には、私が提出した分厚い証拠書類の束――通称「桐島ファイル」が鎮座している。
「座りたまえ」
人事部長の低い声が響く。桐島はガタガタと震える膝を折るようにして、パイプ椅子に腰掛けた。
「桐島君。単刀直入に言う。君には、業務上横領および背任の容疑がかかっている。これらは君が私的に流用した経費のリストだ。総額一千二百万円。間違いないかね?」
目の前に突きつけられたのは、彼が「裏帳簿」として管理していたエクセルシートのプリントアウトと、それに対応する領収書のコピーだ。
高級フレンチ、ブランドバッグ、ホテル代、旅行費。すべてが「接待費」や「会議費」として処理されているが、同伴者は取引先ではなく、私の妻・美佐子だ。
「そ、それは……誤解です! 取引先との……関係構築のために……」
「取引先? 君の言う取引先とは、相沢部長の奥様のことかね?」
監査室長が冷ややかに言い放ち、MINEのログ画面を提示した。
『会社の金で豪遊とか最高w』『健一には内緒で、今度はグアム行こうぜ。経費で落ちるから』
動かぬ証拠。言い逃れができるはずもない。
「こ、これは……冗談で……その場のノリで……」
「冗談で一千万円も使い込む社員を、我が社は必要としない」
人事部長が断言した。
「本日付で、君を懲戒解雇とする。退職金は全額不支給。さらに、横領した金額については全額返済を求める。返済が滞るようであれば、即座に警察へ被害届を提出し、刑事告訴に踏み切るつもりだ。会社としての慈悲はここまでだ」
「ちょ、懲戒解雇……? 退職金なし……?」
桐島が絶望的な声を上げた。
四十五歳での懲戒解雇。再就職など絶望的だ。業界内で噂はすぐに広まる。彼はこの瞬間、社会的信用をすべて失った。
「相沢部長……健一……助けてくれ! お前なら何とかできるだろ!? 俺たち、同期じゃないか! 二十年の付き合いだろ!」
桐島が私に縋り付いてきた。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、私のスーツの裾を掴む。
かつて私を見下し、私の妻を寝取り、私の人生を嘲笑っていた男の成れの果てだ。
私は冷たく彼を見下ろし、その手を汚いものを払うように振りほどいた。
「二十年の付き合い? ああ、そうだな。お前が二十年間、俺を騙し続けてきたことはよく分かっている」
「悪かった! 謝る! 美佐子とは別れる! だから、クビだけは! 借金なんて返せない!」
「それはお前の問題だ(Not my business)。俺には関係ない」
私は懐から、もう一通の封筒を取り出した。
「これは俺個人からの慰謝料請求書だ。不貞行為、および長年の托卵による精神的苦痛への賠償。弁護士と相談して、上限いっぱいで請求させてもらった」
「い、慰謝料……?」
「会社への返済と合わせて、総額数千万円になるな。実家の土地でも売るか? それともマグロ漁船にでも乗るか? 好きにしろ」
「そんな……殺す気か……」
「お前が俺の心を殺したようにか?」
私の言葉に、桐島は言葉を失い、崩れ落ちた。
部屋に響くのは、大人の男とは思えない無様な嗚咽だけだった。
私はその姿を見ても、同情の一欠片も抱かなかった。
システムに発生した致命的なエラー(Fatal Error)。それを排除しただけのことだ。
桐島は警備員に両脇を抱えられ、引きずられるようにして会社を追い出された。
彼のデスクに残された私物は、段ボール箱に乱雑に放り込まれ、着払いで実家に送られることになった。
オフィスに戻った私は、自分のPCに向かい、静かにエンターキーを押した。
彼の社員アカウントを削除し、アクセス権限を剥奪する。
画面上のプログレスバーが100%になり、「削除完了」の文字が表示された。
これで、桐島達也という男は、私の会社からも、私の人生からも、公式に削除された。
その日の夕方、私は早めに帰宅した。
次は、家庭内サーバーのクリーンアップだ。
自宅のリビングには、段ボール箱が積み上げられていた。
美佐子がソファに座り込み、呆然としている。化粧もせず、髪もボサボサだ。かつてのマドンナの面影は見る影もない。
その横には、離婚届と、財産分与に関する合意書が置かれている。
「……健一さん」
私が帰宅すると、美佐子はよろめきながら立ち上がり、私に駆け寄ろうとした。
だが、私の冷徹な視線に射抜かれ、その足は止まった。
「荷造りは済んだか?」
「待って……ねえ、本当に離婚しなきゃダメなの? 二十年間、あんなに楽しかったじゃない。私、心を入れ替えるから……」
「楽しかった? それは君と桐島だけだろう」
私は鞄を置き、書類を手に取った。
「弁護士から説明を受けただろう。君は有責配偶者だ。慰謝料は五百万円。財産分与として家の権利の半分を主張することはできるが、それを慰謝料と相殺する形になる。さらに、君が勝手に使い込んだ俺のカードの支払い分や、海人の学費の返還請求も含めれば、君が受け取れる金はゼロだ。いや、むしろマイナスだ」
「そんな……私、これからどうやって生きていけばいいの? 働いたこともないのに……」
美佐子は泣き崩れた。
四十四歳。職歴なし。実家とは疎遠。そして手元には借金だけ。
彼女がこれまで享受してきた「専業主婦の特権」は、私が提供していたリソースに過ぎない。その供給が断たれれば、彼女はただの無力な中年女性だ。
「桐島に頼めばいいだろう。彼なら君を愛していると言っていたじゃないか」
「達也くんは……クビになったんでしょう? お金なんてないじゃない!」
「金がない男には用なしか。君らしいな」
私は呆れを通り越して感心した。この期に及んでも、彼女の判断基準は「寄生できるかどうか」なのだ。
そこに、二階から結奈が降りてきた。
彼女の手には、私のために淹れてくれたコーヒーが握られている。
「パパ、おかえり」
「ただいま、結奈」
結奈は母親を一瞥もしない。彼女の中で、美佐子はもう母親ではない。「パパを傷つけた悪い人」として認識されている。
「結奈……ママよ。ねえ、パパに言ってよ。ママを追い出さないでって」
美佐子は娘に縋ろうとした。
しかし、結奈は冷たく言い放った。
「触らないで。汚いから」
「え……?」
「パパを騙して、他の男の人とホテル行って、お兄ちゃんまで他の人の子供だったんでしょ? 信じられない。ママなんて大っ嫌い」
結奈の言葉は、鋭利なナイフのように美佐子の心を抉った。
娘からの完全な拒絶。それがトドメだった。
美佐子は床に突っ伏し、獣のような声で泣き叫んだ。
「出て行ってくれ。今すぐに」
私は玄関のドアを開け放った。
美佐子は泣きながら、わずかな私物が入ったバッグ一つを抱えて、家を出て行った。
外は雨が降り始めていた。彼女の背中は小さく、寒々しかった。
二十年間の結婚生活。その終わりは、あまりにもあっけなく、そして惨めなものだった。
残るバグは、あと一つ。
リビングの隅で、スマホを握りしめて震えている長男――いや、元長男の海人だ。
「お前もだ、海人。荷物はまとめたな?」
「……俺、行くとこねーよ」
海人は顔を上げずに呟いた。その声には、怒りと怯えが混じっていた。
「知ったことか。お前は成人しているわけではないが、もう子供じゃない。事情はすべて話したはずだ」
「だからって、いきなり追い出すことねーだろ! 俺は何も悪くねーじゃん! 母さんが勝手に産んだんだろ!」
「そうだな。お前には罪はないかもしれない。だが、俺にもお前を養う義務はない。DNA鑑定の結果が出た以上、法律上も他人だ」
私はテーブルの上に、封筒を置いた。
「手切れ金だ。十万円入っている。これで当面の宿を探せ。大学の学費はもう払わない。退学するなり、奨学金を借りるなりしろ。二度とこの家の敷居を跨ぐな」
「十万!? ふざけんなよ! 俺の人生どうすんだよ!」
海人は封筒を床に叩きつけた。
甘やかされて育った代償だ。彼は自分が「守られて当然」だと思い込んでいる。
だが、その守護者はもういない。
「お前の本当の父親がいるだろう。桐島だ。彼を頼れ」
「あんな奴……!」
「血は争えないな。お前のその堪え性のなさ、責任転嫁する癖、そっくりだよ」
私は冷淡に言い捨て、結奈の肩を抱いてリビングを出ようとした。
「待ってくれよ! 親父!」
「父と呼ぶなと言ったはずだ」
私は振り返らずに、階段を上った。
背後で、海人が何かを叫びながら暴れる音が聞こえたが、私は警察に通報する準備をして部屋に入った。
しばらくして、諦めたのか、乱暴にドアが閉まる音がして、家の中は静寂に包まれた。
数時間後、深夜の公園。
行き場を失った海人は、雨に打たれながらベンチに座っていた。
手元にあるのは、私が渡した十万円と、着替えの入ったボストンバッグだけ。
スマホの画面には、Twotterのタイムラインが流れている。大学の友人たちが、飲み会や旅行の写真をアップしている。昨日まで自分もその中にいたはずの世界が、今は遥か彼方にある。
「……達也さん」
海人は震える指で、桐島に電話をかけた。
何度もコール音が鳴る。出ない。
MINEを送る。『助けてください。親父に追い出されました。達也さんしかいないんです』
既読にならない。ブロックされているのかもしれない。
海人は衝動的に、桐島のアパートへと向かった。
彼は以前、桐島に自慢げに部屋の写真を見せられたことがあり、場所は大体把握していた。
雨の中、一時間以上歩いて辿り着いた安アパート。
電気はついている。
「達也さん! 開けてください! 海人です!」
海人はドアを叩いた。
しばらくして、ドアチェーンがかかったまま、少しだけ扉が開いた。
隙間から見えた桐島の顔は、酒に酔い、目が血走っていた。
「……何だ、お前か」
「達也さん、俺、家を追い出されて……泊めてください。俺、達也さんの息子なんですよね? 親父……いや、健一は俺を見捨てたけど、達也さんなら……」
「帰れ」
桐島の声は低く、冷たかった。
「え?」
「帰れって言ってんだよ! 疫病神が!」
桐島はいきなりドアを蹴り飛ばす勢いで閉めようとしたが、海人が足を挟んで抵抗した。
「痛っ! なんでですか! 俺、息子ですよ!?」
「うるさい! お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ! お前さえいなければ、DNA鑑定なんてされなかった! 慰謝料も請求されなかった! お前は俺の破滅の証拠なんだよ!」
「そんな……俺だって被害者じゃないですか! 達也さんが母さんと浮気したから……」
「黙れ! クソガキ! 金もない、職もない俺に集ってくるな! 親子ごっこがしたいなら他所でやれ!」
ドンッ!
ドアの隙間から腕が伸び、海人は強く突き飛ばされた。
雨で濡れた廊下に無様に転がる。
ガチャリ、と鍵がかかる音がした。
「達也さん! 開けてよ! 父さん!」
海人は泣き叫びながらドアを叩き続けた。
しかし、二度と扉が開くことはなかった。
中からは、ガラスが割れる音と、桐島の狂ったような怒号が聞こえてくるだけだった。
「……う、うあぁぁぁ……」
海人は膝を抱え、冷たいコンクリートの上で慟哭した。
育ての父には絶縁され、実の父には拒絶された。
母は行方不明。自分には何もない。
大学にも行けない。家もない。明日食べる金も尽きようとしている。
これが、不義の子として生まれた自分への罰なのか。
ただ、親の欲望の結果として産み落とされただけなのに。
「ランタイム・エラー……強制終了です」
遠く離れた自宅の書斎で、私はPCのモニターを見つめながら呟いた。
GPSで追跡していた海人のスマホの信号が、桐島のアパートの前で長時間停止しているのを確認したのだ。
予想通りの結末。
彼らは互いに傷つけ合い、共倒れしていく。
私の手は汚れていない。私はただ、彼らを本来あるべき場所へ返しただけだ。
「パパ……」
ノックの音と共に、結奈が部屋に入ってきた。
彼女は眠れないのか、不安そうな顔をしている。
「大丈夫だよ、結奈。悪いウイルスは、すべて駆除したから」
私は娘を抱き寄せ、その頭を撫でた。
温かい。この体温だけが、今の私にとっての唯一の現実だ。
「静かだね」
「ああ、静かだ」
雨音が窓を叩く。
家の中は、不気味なほど静まり返っている。
二十年間の喧騒、嘘、裏切り。それらがすべて洗い流され、後に残ったのは、広すぎる家と、深い虚無だけだった。
スカッとするはずだった。
ざまぁみろと、高笑いするはずだった。
だが、胸に広がるのは、焼け野原に立つような乾いた風だけだ。
「寝ようか、結奈。明日は学校だろう」
「うん。……おやすみ、パパ」
娘が部屋に戻った後も、私はしばらく暗い画面を見つめ続けていた。
復讐は成された。
敵は社会的に抹殺され、家族は崩壊した。
私の勝利だ。完全勝利だ。
それなのに、なぜこんなにも、心が寒いのだろう。
私はウイスキーをグラスに注ぎ、一気に飲み干した。
喉を焼く熱さだけが、私がまだ生きていることを教えてくれていた。
システムは正常化した。
だが、失われたデータ(二十年間の時間)は、二度と戻らない。
私はその事実を噛み締めながら、目を閉じた。
深い、深い闇の中へ沈んでいくように。




