第四話 システム・パージ(強制排除)
日曜日の午後、我が家のリビングは、表面的には幸福な家庭の肖像そのものだった。
西日が差し込むダイニングテーブルには、美佐子の手料理が所狭しと並べられている。ローストビーフ、カルパッチョ、アクアパッツァ。どれも普段の食卓には並ばない、手間のかかった料理ばかりだ。
彼女は今朝から美容院に行き、新しいワンピースを下ろしていた。胸元が少し大胆に開いたその服は、明らかに夫である私のためではなく、これから来る客人のためのものだ。
「ピンポーン」
インターホンが鳴ると、美佐子は弾かれたように立ち上がり、小走りで玄関へ向かった。
私はワイングラスを磨きながら、その背中を冷ややかな目で見送る。
傍らには、不機嫌そうな顔でスマホをいじっている海人と、緊張で少し青ざめている結奈が座っている。
「パパ、大丈夫?」
結奈が小声で尋ねてきた。私は彼女の震える手をテーブルの下でそっと握りしめた。
「大丈夫だ。結奈はただ、座って見ていればいい。無理なら部屋に戻っていてもいいんだぞ」
「ううん、いる。ちゃんと見るって決めたから」
強い意志を宿した娘の瞳に、私は勇気をもらった。そうだ、今日ですべて終わらせる。
玄関の方から、浮ついた高い声と、男の野太い笑い声が聞こえてくる。
「いらっしゃい、桐島さん! お待ちしてましたわ」
「いやあ、お招きいただき光栄です、奥さん。今日も一段とお綺麗ですね」
「もう、お上手なんだから。さあ、上がってくださいな」
リビングに入ってきた桐島は、手に安っぽいワインのボトルを提げていた。
私と目が合うと、彼は大げさに手を挙げた。
「よう、相沢部長! 休日にすんませんねえ。これ、つまらないものですが」
「ああ、わざわざすまないな。さあ、座ってくれ」
私は努めて穏やかな声を出し、上座を勧めた。
桐島は遠慮することなくどっかりと腰を下ろし、海人に声をかけた。
「よう海人、大学はどうだ? 女できたか?」
「あ、達也さん! お疲れっす。いやー、まだっすよ。達也さんみたいにモテないんで」
海人の表情がパッと明るくなった。私には見せない、尊敬と親愛に満ちた眼差しだ。
その光景を見るたびに感じていた違和感が、今は明確な殺意となって私の胸を焦がす。
血の繋がりとは恐ろしいものだ。彼らは本能的に惹かれ合っている。私がどれだけ愛情を注いでも届かなかったわけだ。
「さあさあ、乾杯しましょう! 健一さんのプロジェクト成功と、桐島さんのリーダー就任を祝って!」
美佐子が音頭を取り、私たちはグラスを合わせた。
乾いた音が響く。それが、破滅へのカウントダウンの音だとは、彼らは知る由もない。
食事中、会話は桐島と美佐子、そして海人の三人が中心だった。
私は時折相槌を打つだけで、ひたすら彼らの醜態を観察していた。
テーブルの下で、美佐子の足が桐島の足に触れているのが分かる。桐島がワインを飲むたびに、美佐子が熱っぽい視線を送る。
海人はそんな二人の空気に気づく様子もなく、「達也さん、こないだ言ってた車、マジで買ったんすか? すげー!」と騒いでいる。
一時間ほど経ち、食事が一段落した頃、私は立ち上がった。
「さて、今日は二人に来てもらった感謝を込めて、ちょっとした余興を用意したんだ」
「余興? なんですか、部長。隠し芸でもやるんですか?」
桐島が酔いの回った赤ら顔で茶化した。
「いや、昔の写真や動画を整理していてね。二十周年の記念に、スライドショーを作ってみたんだ。みんなで見てくれないか?」
「えー、そんなの恥ずかしいわよ」
美佐子は満更でもない様子で頬に手を当てた。自分たちの「幸せな家庭」の記録だと思っているのだろう。
「いいから、見てくれ。……自信作なんだ」
私はリビングの照明を落とし、あらかじめセットしておいたプロジェクターの電源を入れた。
白い壁に、青い光が投射される。
部屋の空気が変わった。
「タイトルは、『Our Secret History(私たちの隠された歴史)』だ」
画面が切り替わる。
一枚目のスライド。それは、二十年前の私たちの結婚式の集合写真だった。
笑顔の私と美佐子。その隣で肩を組む桐島。
「懐かしいですねえ! 俺も若いなー」
桐島が笑い声を上げた。
だが、次の瞬間、その笑いは凍りついた。
カチッ。
スライドが切り替わる。
写真の上に、赤字でテキストがオーバーレイ(重ね合わせ)された。
それは、MINEのスクリーンショットだった。
日付:20XX年6月15日(結婚式当日)
差出人:美佐子
『あーあ、ついに年貢の納め時か。でも安心して、心は達也くんのものだから』
差出人:T(桐島)
『健一の隣で愛を誓うとか、傑作だよなw 初夜は適当に流しとけよ』
静寂。
部屋の空気が一瞬で真空になったかのような、重苦しい沈黙が支配した。
桐島がグラスを持つ手を止めた。美佐子の微笑みが引きつったまま固定される。
「……え?」
海人が間の抜けた声を上げた。
私は無視して、リモコンのボタンを押した。
カチッ。
次のスライド。新婚旅行のハワイ。
写真の横に、ホテルの通話記録とMINEのログ。
『今、健一がシャワー浴びてる。達也くんの声が聞きたい』
『俺もだよ。帰ってきたらたっぷり可愛がってやるからな』
「おい……なんだよ、これ……」
桐島の声が震え始めた。酔いは完全に冷めているようだ。
私は冷徹に、事務的に次のスライドへ進める。
カチッ、カチッ、カチッ。
連続して表示される証拠の数々。
二人が密会に使ったラブホテルの入り口の写真。
桐島が美佐子の腰に手を回して歩く動画。
美佐子が私への不満を書き連ねた裏アカウントの投稿。
「ちょ、ちょっと待って! 何よこれ! 健一さん、悪ふざけが過ぎるわよ!」
美佐子が立ち上がり、叫んだ。顔面は蒼白だ。
「悪ふざけ? これはお前たちが二十年間書き続けてきた『日記』だろう? 俺はただ、それを編集して上映しているだけだ」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。感情の波は凪いでいる。
「さあ、ここからがクライマックスだ。海人、よく見ておけ」
「は? 俺? なんで……」
海人が不安そうに私と画面を交互に見る。
私は深呼吸し、決定的な一枚を投影した。
画面いっぱいに表示されたのは、十九年前のMINEのログ。
『達也くんの子を妊娠したみたい。どうしよう』
『健一の子ってことにして産めばいい。あいつの金で育てさせようぜ』
『托卵計画ね。最高の復讐だわ』
そして、その横に並べられた二枚のDNA鑑定書。
【甲(相沢健一)と乙(相沢海人)の父権肯定確率:0.0000%】
【甲(相沢健一)と丙(相沢結奈)の父権肯定確率:99.9999%】
「……嘘だ」
海人が立ち上がり、椅子を倒した。
彼は画面を凝視し、後ずさりする。
「嘘だろ……? 俺が、親父の子じゃない……?」
「その通りだ。海人、お前の父親はそこにいる桐島達也だ」
私が指差すと、海人は縋るような目で桐島を見た。
「達也さん……? 嘘ですよね? 俺、達也さんの子なんですか?」
桐島は脂汗を流しながら、視線を泳がせている。
海人の問いかけに、彼は目を合わせようとしない。
「お、おい、変な言いがかりはやめろ! 俺は知らん! 美佐子が勝手に言ってるだけだろ!」
「往生際が悪いぞ、桐島。お前のDNAも採取済みだ。会社で捨てた紙コップからな。結果を見るか?」
私は懐から、もう一枚の鑑定書を取り出した。これは念のために用意しておいた、桐島との親子関係証明書だ。
「ひっ……」
桐島が息を呑んだ。
その反応が、何よりも雄弁に事実を物語っていた。
「か、母さん……?」
海人が美佐子の方を向く。
美佐子は震えながら、顔を覆って泣き崩れていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」と繰り返すばかりだ。
「なんでだよ! なんで今まで黙ってたんだよ!」
海人が絶叫した。
そして、彼はよろめきながら桐島に近づいた。
「達也さん……じゃあ、父さん……俺、父さんの子なんだよな? ずっと達也さんみたいになりたいって思ってたんだ。だから……」
海人は救いを求めていた。
自分が慕っていた男が本当の父親だった。その事実だけが、今の崩壊したアイデンティティを繋ぎ止める唯一の希望だったのだろう。
だが、桐島という男は、そんな甘い期待に応えるような人間ではない。
「ふざけるな! 近寄るな!」
桐島は、近づいてきた海人を力任せに突き飛ばした。
「がっ……!」
海人はテーブルの角に腰を打ち付け、床に転がった。
「俺は知らん! 勝手に産んだのは美佐子だろ! 俺に責任を押し付けるな! 俺は独身だぞ! こんなデカいガキの親になんかなれるわけないだろ!」
桐島は唾を飛ばして喚き散らした。
その醜悪な姿。
保身のためなら、自分の血を分けた息子さえも切り捨てる。
それが、彼という人間の本質だ。
「……あ……ああ……」
床に這いつくばったまま、海人は呆然と桐島を見上げていた。
憧れていた男。本当の父親。
その男に拒絶され、ゴミのように扱われた。
海人の目から、光が消えていくのが見えた。
「最低……」
それまで黙っていた結奈が、ぽつりと呟いた。
彼女は涙を流しながら、軽蔑の眼差しで母親と桐島を睨みつけていた。
「パパ、私、部屋に戻る。吐き気がするから」
「ああ、行っていいぞ。あとはパパが処理しておく」
結奈が出て行くと、部屋には重苦しい絶望だけが残った。
私は照明をつけ、明かりの下で彼らを見下ろした。
「さて、上映会は終わりだ。ここからは現実の話をしよう」
私は分厚い封筒を二つ、テーブルの上に放り投げた。
「一つは、美佐子への離婚届と慰謝料請求書だ。金額はそこに書いてある通り、五百万円。財産分与で相殺しても他の請求を含めるととても足りないから、実家を売るなりしてでも用意してくれ」
美佐子は書類を見る気力もなく、ただ床にうずくまって泣いている。
「そしてもう一つは、桐島。お前へのプレゼントだ」
桐島は青ざめた顔で封筒を手に取った。
「な、なんだこれは……」
「お前の懲戒解雇通知書のドラフトと、損害賠償請求書だ。あ、それから警察への被害届のコピーも入っている」
「け、警察……?」
「横領だよ、桐島。お前が会社の経費で美佐子と遊んでいた証拠は、すべて揃っている。裏帳簿も、不正な請求書もな。総額で一千万円を超えていたぞ。会社は激怒している。示談には応じない方針だ」
「ま、待ってくれ! 健一! いや相沢部長! 返す! 金は返すから! 警察だけは勘弁してくれ! 俺のキャリアが!」
桐島は土下座した。床に頭を擦り付け、必死に命乞いをする。
さっきまで海人を突き飛ばしていた威勢はどこにもない。
ただの、哀れな犯罪者だ。
「キャリア? そんなもの、最初からなかったことにするんだよ。お前の二十年は、今日で初期化されるんだ」
私は冷たく言い放った。
「海人、お前もだ」
私は床で呆けている海人に視線を向けた。
「お前は成人しているわけではないが、もう十八だ。状況は理解できるな? お前は俺の子ではない。赤の他人だ。これ以上、俺の家に置くわけにはいかない」
「お、親父……いや、健一さん……」
「父と呼ぶな。お前の父親は、そこに転がっている男だ。そいつに養ってもらえ」
「そんな……俺、大学はどうなるんだよ……」
「知らん。奨学金を借りるなり、働く なり、好きにしろ。来週までに出て行け」
システム・パージ。
不要なファイル、破損したデータ、ウイルスに感染した領域を、すべて削除する。
私の心は、かつてないほど澄み渡っていた。
情け容赦のない断罪。
泣き叫ぶ妻、土下座する元友人、絶望する元息子。
その光景を見ても、私の心には「ざまぁみろ」という暗い愉悦と、「やっと終わる」という安堵しかなかった。
「さあ、帰ってくれ桐島。明日、会社で人事部と監査室が待っている。せいぜい言い訳を考えておくんだな」
私は玄関を指差した。
桐島はよろよろと立ち上がり、逃げるように家を出て行った。海人はその後を追おうとしたが、桐島に「来るな!」と怒鳴られ、立ちすくんでいた。
美佐子はまだ泣いている。
私は一人、ワイングラスに残っていた赤ワインを一気に煽った。
その味は、勝利の美酒というにはあまりにも苦く、鉄錆のような味がした。
夜が更けていく。
私の家から、家族の温もりは完全に消え失せた。
残ったのは、静寂と、瓦礫の山だけだ。
だが、これでいい。
バグだらけのシステムを使い続けるより、すべてを焼き払って更地にする方が、遥かにマシだ。
私は深く息を吐き出し、ソファに深く沈み込んだ。
デバッグ完了まで、あと少し。
あとは、彼らが自滅していく様を、特等席で見届けるだけだ。




