当日
バレンタイン当日、私にとって特別な日は、楓にとっても特別な日で――
馬鹿みたいにパンパンのレジ袋をもっていて、そこから早速チョコのお菓子を取り出していた。
「うわ、それなに」
「え。ポッキー知らないの? 寝てばっかだから……」
「いや知ってるし! つーか前もこんなやり取りあったな!」
ポッキーの日に買い込んだ時に比べれば普通のチョコも入っている分マシ……。そう思うには、少し食い気が強すぎる。そこが可愛いんだけど。
「バレンタインに縁がなさそうだな」
「そういう未代はなんかあんの?」
「夢生がもらったチョコを摘むくらい。ま、今日は別だけど」
とっておきの高額のチョコ、泣いて喜んでほしい、なんて思うけど、臆病な楓はむしろ遠慮するかもしれない。食欲には素直だけど、それ以上に距離感を大事にするやつだから。
今さら、私たちに距離感なんてないと思うけど、念のため。
「交換なー? 楓もチョコくれよ」
「んー、それなら仕方ないか」
ガサゴソ、レジ袋を漁っているけれど底の方にまで手を伸ばして目を凝らしている。すぐに選べないところを見ると、やはりこのチョコの価値がわかるようで。
私は素早くレジ袋から適当にチョコを摘まみ取った。
「なんでもいいよ。気持ちが大事なんだから」
「そう言われてもなぁ。チョコが美味しかったらなんか埋め合わせるよ」
「いいねぇ。そういうのは大歓迎」
恩とか、そんなに感じなくていいけど。でも次の約束を自分からしてくれるっていうのは、すごくいい。それだけでこの痛い出費が報われた気がする。
できれば、友チョコとかじゃなくて本命チョコだって言えてたらもっと良かったんだけど、そこまでを今言うのは難しかった。私や智恵理のことを猫や犬やと言うくせに、こいつも大概小動物のように臆病で逃げてしまいそうだから、私は今でも少し不安だ。
なんて話していると智恵理が席に着いた。
その手にはラッピングされたプレゼント。
仕舞う際、鞄の中には更なるチョコ。えっと、鞄の中に四つはあったし、今三つ入れたし……。
「……おい智恵理、それなんだ?」
「それ、とは?」
「チョコだよ。まさかもらったのか?」
「はい」
「嘘……いや、でもそっか。智恵理モテるんだった」
中学の時は寝ていたから知らなかったが、そういやそうだ。ファンクラブあったし。
とはいえ見過ごせない。こんな朝の、学校入ってほんの十分も経ってないぐらいの時間だろうにチョコを七つも!
「お前なぁ、お前、断ろうとかなかったのか? この! 私という恋人がいながら!」
そう、私と楓と智恵理は、紛れもなくもう恋人なのだ。行為だって済ませている。好きな人以外からチョコを受け取るなんていうのは、そう、不誠実だろう。いくら智恵理がモテるからってチョコを受け取りまくりモテまくりなんてのは許せるはずもない。
「心に決めた人がいます、とはお伝えしましたが、それでも、と渡されました。無碍にはできません」
「おまっ……へ、ふーん……」
こういう時に智恵理の鉄仮面は卑怯だ。嘘も吐かないまっすぐな言葉が異様な刺さり方をした。
「それなら仕方ないか。ふふ、不本意だけどなー」
ダメだニヤける。心に決めた人、ねぇ。あの智恵理が。八科智恵理が。ほほ。
まあ、そのあたりの筋は通す女だ。楓も私以上に文句を言うことはないだろう。私に比べて呆れた風な顔をしているし。
とかく、そんな智恵理にも褒美をやらねばなるまい。
「じゃあほら。未代ちゃんからの本命らぶらぶチョコでーす」
「……ありがとうございます。私にとって特別なものになります」
なんてかわいいんだこの子は。こんなことならもっと前から仲良くしておけばよかった! いや楓がいないと全然こうはならなかっただろうから、考えても意味がないけど。
「実際それいくらくらいしたの?」
と、同じチョコを見た楓が無粋なことを聞いてくる。それは聞かない約束だろう、引かれたくないし。
「値段なんて聞くのは野暮だろ。気持ちはプライスレスなんだから」
誤魔化すように智恵理に手を伸ばす。智恵理は私の手をぼーっと見るだけで。
「……で、智恵理ちゃんからのチョコは?」
「……すみません、失念していました」
「えー!? んだよそれ。寂しいやつ」
「あはは、あてがはずれたねぇ」
あてもなにも、普通は持ってくるだろう。バレンタインだぞ? 何を楓は笑っているんだ。
チョコの渡し合いが醍醐味だろう……なんて思ってから気付く。
楓のこのレジ袋、どう見ても人に渡すようじゃない。いつも通りのやつだ、ポッキーの時と同じ。
「あの……楓はチョコをくれないのですか?」
智恵理も同じことに気付いたのか、呟いた。
楓はあっけらかんと、少し驚いた風な口調で。
「え? いや私もバレンタインはチョコあげる日じゃないからなぁ。もらう日」
「いやめちゃくちゃ買ってるじゃん」
「なんかみんなに配ったりする人いるじゃん。そういうの積極的にもらいにいく」
「卑しいな、おい」
「あ、大丈夫。あげる用のチョコもあるから」
あげる用のチョコ、そんなものがあったのか。なら何故さっきそれを出さなかったのか……それを見てすぐに理解した。
業務用の大量に入っている安い小さい個包装のチョコ。
「これをクラス全員に配りつつもらえないか交渉するわけ」
「ほんと卑しいな……」
「いいじゃん、未代にはちゃんとしたのあげたんだから」
ちゃんとしたの……。ちゃんとしたのか……? なんならきのこの山よりたけのこの里の方が好きなんだけど、楓がきのこの山派だったら要らぬ争いを産むし黙っておこう。
……いや、むしろこれは確かに楓の中ではちゃんとしている。
つまり智恵理にマウントを取れる。きのこの山だけにマウンティングだ。
「これが交換したチョコ。いいだろ〜?」
「……楓、私には」
「え、じゃああげるよ」
楓は、目の前で業務用の袋を開けた。堂々と、何の疑念もなく、チョコもらえるんだから嬉しいよねって感じの笑顔で。
こいつ乙女心がわかってねぇんだよな~!
しかも私の方に先に渡してきた。
「二個目いいの?」
「クラス全員にあげるようだからね。元々渡すつもりだったし」
智恵理が不憫だよ。
もっと不憫にしてやるか。
「いっえーい私二個目〜!」
「何がそんなに嬉しいんだか」
実際そこまで嬉しくないけど、これは楓より智恵理のためのリアクションだ。
智恵理にも小粒が渡されたが、受け取ってしばらく見ているこの間は、喜びではなく不満だろう。
「私にもいただけませんか? 他の……」
「え? やだよ。私の大事な朝昼晩ごはん……今日の食料なんだから」
「栄養が偏りますよ」
「今さらじゃい」
「楓」
智恵理が手を伸ばす。狙いはレジ袋なのか楓なのかわからないが、楓がぎょっとした瞬間。
「あ、八科。ちょうどよかった。これ」
その手にチョコが渡された。シンプルな板チョコだが、楓の袋ではなく別の女子が渡したものだ。
「私には心に決めた人が」
本当に言っているんだその決め台詞。
でも言われた相手はすぐに両手をぶんぶん振って笑った。
「そんなんじゃないって〜。バスケ凄かったからその応援みたいな? じゃ」
本当に気軽なチョコだったらしい。
実際、智恵理のバスケは凄かった。去年のクリスマスの時期にやっていた大会で助っ人外国人以上に活躍していたからなぁ。
「あ、待って。私にはなんかないの?」
「えー樋水なんもやってないじゃん」
そりゃそうだ。それでも楓は律儀に一粒チョコを渡していた。そういう気遣いができるのは偉いが、明らかに不満そうなところを隠しもしないのは……可愛いところだ。
「八科様ぁ! こちらをお納めください!」
急にデカい声で乱入してきた先輩にぎょっとなる。
篠宮華火。智恵理をバスケに誘い込んだ張本人で、私も少し恩があるから名前は覚えた。
この漫画に出てくるような媚びを売る小物感、演技がかった口調と動作で腹の底は読めないが、跪いて智恵理に渡すチョコは、私も調べているうちに見つけた、私のよりも少し高いくらいのチョコだった。
「私は……」
「いえ、いえ、見返りなんて求めません! これは我が校をウィンターカップの高みに連れて行ったほんのささやかばかりなるお礼! あって然るべき報酬! 受け取ってもらわなければこちらの気がすみません! 転売しようと誰かにあげようとも構いません!」
「相変わらずうるさい人だなぁ」
楓が私の、いやクラス全員の代弁をした。楓はこの人を嫌っているんだろう、智恵理がバスケ部に入って一緒にいる時間が減ったのは事実だから。
「あ、ご学友様の分もありますよ。不破さんと樋水さん」
「めっちゃいい人じゃん! あこれ私からもせっかくなんで」
あまりに速い手の平返しに毒気を抜かれるが、同時に渡されたチョコに驚く。この人が本当に智恵理に感謝しているんだろうって、お金で判断するのもなんだけど……気軽に払えるものではないはずだ。
「いえいえいえいえ! 私めに渡すくらいなら八科様に! では私はこれで!」
名前の通り花火のようにパッと騒いで消えていく。こういう時の拘束時間が短いのも先輩なりに気を遣っているんだろう。嫌いになり切れない気遣いをしてくれる。
「あの人めっちゃ変だけどいい人だよね」
「……楓は食べ物くれたらなんでも言う事聞きそう」
「かもねぇ……」
「かもじゃねえよ」
こいつは本当に……そこまで馬鹿じゃないとは思うけど。
「いた。八科さん」
またも乱入が入った。今度は眼鏡をかけた……どこかで見たことがある。朝の挨拶運動とかにいたか?
「……暮田さん」
「誰あれ?」
「よくちょっかいかけてくる風紀委員じゃん。なんで覚えてないの」
「いたっけ」
「いるよ現在進行系で」
風紀委員。と言ってもあまり私に関りがないところだ。なにせ素行不良は直ってきたし。
覚えてないということはどうでもいい人なんだろう。
「まず、ウィンターカップベスト8おめでとうございます」
「ありがとうございます。けれど私には心に決めた人が……」
「わっ、私がそんな気持ちで渡していないことはわかるでしょう!? これは、健闘を讃えてのことです!」
どうもツンデレの眼鏡らしい。そういえば、なんかやたらと智恵理に突っかかってくるやつがいた気がするが、朝は一緒に来れたり来れなかったりするからあまり覚えていない。主に私の寝起きのせいだけど。
「……私の言った通り、なんて偉ぶろうとは思いませんが、覚えていますか?」
「はい。私の才覚を、勉強でもスポーツでも活かすべきだ、そう仰っていましたね」
「……どういう心変わりがあったのか尋ねても?」
「楓のためです」
小難しい話が耳から耳へとすり抜けていく。
けれど智恵理の力強い返答は、また何か恥ずかしいことを言っているとわかる。
智恵理は智恵理のものだ。別にその能力を活かすだの、有効活用するだの考えなくてもいいだろう。
楓のため、それでこそ智恵理だ。
「ふ、ふふっ。そうですか。それなら……良かったです」
「良かった、ですか?」
「ええ。……良かったです」
何を勝手に清々しい顔をしているのか知らないが……ツンデレちゃんの軋轢は何かなくなったらしい。
いつからの確執なのか、どれくらい思い入れがあるのか、知らないけれどきっと彼女にとっては重いものだったのだろう。
どうでもいいけど。
「私の言葉を覚えていてもらって光栄です」
「何度も同じことを言うものですから」
「もう何も言いませんよ。では、失礼します」
「ちょっと待った! 私たちには!?」
いい空気の中で楓が食って掛かる。私たちって……私は別にいいんだけど。
「生憎、用意がありません。では改めてこれで」
「なにくそーっ!」
「ようし、塩撒くぞ、塩」
楓に合わせて帰れ帰れと塩をまく素振りで同調する。楓も本気でもらおうとは思っていないだろうに。
「かえ……」
「八科、これも受け取ってくんね?」
智恵理のか細い声が聞こえたら、直後に男の声がした。
本当に来客が多い。智恵理はどれだけモテるんだ。
しかも、お相手は私にでも見覚えがある。
「愛染……」
「これ選んでいいっすよ! 余ったやつは不破と樋水にでも」
クラス一軽薄そうながら実はいいやつの愛染がブラックサンダーを三種類持っていた。
智恵理が普通のやつをもらうと、ホワイトとストロベリーがこっちに来た。楓が選ぶのを待って、私には白いブラックサンダーがあてがわれた。
「優し~。でもなんで? 逆チョコ? 狙ってる?」
楓はもう懐柔されていた。まあこいつを気に入っているのは楓だから仕方ない。しかもチョコまでもらえて言うことなしだ。楓に好かれる立ち回りをされると私や智恵理が言うことはない。
それに、私も別にこいつを嫌いではない。軽薄に近寄ってくるというよりかは、軽薄すぎて近づいたり離れたりも早いからそれほど警戒していないのだ。
だからこそ、チョコを渡してくる逆チョコには驚いたが。
「や、マジで俺八科のことリスペクトしてるんで。これリスペクトチョコっす」
「なーにそれ」
「やバスケも超凄かったけど、水泳もマジヤバかったっすけど、俺夏祭りの時の八科が忘れらんなくってさぁ!!」
夏祭り。
あまり思い出したくない記憶だ。
三人で一緒に行こうと言ったのに、楓は奢りの欲に負けて私と智恵理を放置していた。
不機嫌すぎて寝たけれど……その時の智恵理、という言葉に興味が惹かれた。
「輪投げに射的にボール掬い、そりゃもう完全攻略って勢いで……写真撮ってるから見るべ?」
「えっ見たい」
愛染はスマホを出してタップスクロールスワイプスワイプ。
愛染の友達……なんて言ったかな……男三人の写真の後に、智恵理の写真がやっと出てきた。
何枚かは自撮り風のツーショットもあるけど、元気そうなのは愛染だけだ。
そして、やっと射的の写真から。
「おおー良い姿勢」
「だべ? この輪投げとか見てみ。ほらもらった五つ全部入れてんの」
「すごー」
そこからの写真はもう智恵理しか映していない。
まっすぐに伸びた腕。獲物だけを見据える瞳。
すらりとのびやかに動く様子が写真からもありありとわかる。
「智恵理はやらんけど」
念のために、と楓が釘を刺した。そう言いたくなるのもわかる。これは一心に智恵理を見つめていないと撮れないような写真だから、好意の強さを邪推してしまう。
「ははっ、いやぁ、もうそういう域じゃねんだわ。なんつーか、リスペクトなんで」
愛染の反応は否定だが、それを額面通り受け取ろうとも思わない。智恵理は彼のことを気にしていないだろうけど。
そっとスマホを見ると画像の共有があった。今、一頻り見た画像を愛染はくれるらしい。
それは、もらう。
「あいついいやつだなぁ」
「そうだねぇ。よかったね、智恵理」
楓が言ってふと気づいた。そういや智恵理を置いてけぼりにしてた。写真、見てないなこいつ。
もしかして愛染が苦手なんだろうか。苦手になる理由もよくわかるが……。
そう思っていたら、突如智恵理は、チョコがたんまり入ったレジ袋を掴み取った。
「これをもらいます」
「……はぁっ!? どういうこと!?」
本当にどういうことなのか、智恵理の表情じゃわからない。だが楓が腕を伸ばして手を掴んでも、智恵理の握力たるや一切動かない。
「ありがとうございます」
「あげないけど! 返して私の朝昼晩ごはん!」
「わはっ! 智恵理がグレた!」
智恵理が反旗を翻したのだと気付いた。
あの眼鏡が言っていたみたいな人に尽くすようなやつじゃないんだ、もう。
智恵理は、自分の気持ちのままに、したいようにするようになった。
その結果がこれだから、本当に面白すぎる。
「お返しは後日に」
「今のごはんが必要なんだけど! このっ……くっ……固ぁ……」
「諦めてなんかやれば?」
チョコの一つでもやれば智恵理は満足するだろうに。
「いやだね! そんな無償の施しをするほど私は聖女じゃないよ!」
「なんなんだこいつら」
頑ななのは智恵理だけじゃない。二人ともガキだなぁ。
なんて話していたら、ついに先生までやってきた。
「……おいなんだその袋は」
「私へのプレゼントです」
「ちがぁう! 私の捕食です!」
「……どっちでもいい。ほら、放課後には取りに来いよ」
今度は先生がレジ袋を掴む、がそれすら智恵理の力には及ばない。
こいつ先生にまで堂々と歯向かっている。かっこよさすら覚えるが、流石にふざけすぎ。
「離しなさい」
「決して」
「私のお菓子!」
決して、じゃねーよ!
先生とみつどもえで争ってどうするんだ、という意志を込めて二人の頭を軽くたたくと、二人ともそこは退いてくれた。
引き際を弁えないとろくなことにならない、特に、まあ今回のことは前にも同じようなことがあったから落としどころとしては充分だろう。
先生は私に一瞥くれると、小さなため息をついてから、レジ袋からチョコを取り出した。
二つは楓に、一つは智恵理に。
「じゃあ放課後取りに来い」
「いや私の!」
「お返しします。楓から渡されたいので」
智恵理のチョコは改めて楓の手元に戻る――瞬間、先生がすばやくとって手元のレジ袋にしまい込んだ。
必要以上の補食は許さない、厳格な教師の一面に、口答えをする気もなかった。
―――――――――――――――――――
「じゃあ取り返しに行きますか」
「行きましょう」
放課後早々、二人が立ち上がると同時に火花を散らす。
「あのさぁ……智恵理ちゃんよぉ。いくら懐の深い私でも許せないことがあるよ。それは食べ物のこと。人様の買ってきた食べ物を奪おうなんて……」
「お前が智恵理をこんなにしたんだぞ。責任取ってやれよ」
「私が教育するなら食べ物のことは真っ先に言うね」
楓はこれっぽっちも反省する気も引き下がる気もなく、自分のチョコは自分のものだと主張する。
それはそうだが、あれだけ、色々しておいてチョコの一つもやらないのは無責任だ。私が智恵理の立場でも嫉妬するし、恋人甲斐がない。そもそも二人とも行事ごとに対する気持ちが薄い。
そのくせチョコへの文句を散々、一日中聞かされる羽目になった。その間の智恵理の捨てられた子犬のようにチョコを求める目といったらもう……かなり楽しい日だった。
「こうなったら競争ね。先に先生からチョコを受け取った方が受け取るってことで」
「なんじゃそら」
そこで譲る気があるのが意味不明だが、智恵理もこくりと頷いた。一見楓に損しかないように思える。
楓が得する可能性なんて、この勝負に打ち勝ってチョコを全取りするくらいだろう。職員室は遠いから、足の速い智恵理が勝ってチョコを取ると思うが。
戦う女の表情を作り、二人は勇ましく立ち上がる。既に戦いは始まっているのか、互いの出方を見ているのか、緩慢な動きで廊下へと歩く。
そして廊下に出て……よーいドンの合図は、第三者から放たれた。
「あっ、八科さん! ちょっといい?」
チョコを持った女子、それと同時に地面を強く蹴る楓。
私にも理解できた。
バレンタインの放課後、智恵理にチョコを渡そうという女子が数多くの足止めに入る。
その応対をしている間に楓が職員室に先につくという寸法だ。なんて卑怯で姑息、しかし知恵者。
だが、その奇策を知ってか知らずか、智恵理はそれ以上の速度で楓のブレザーの襟を引っ掴んで自分の元へと抱き寄せた。
「私は楓を愛しているので」
「なにぃっ!?」
「あー知ってる知ってる。そんな真剣に受け止めなくていいよ」
第三者の女子ははにかみながらチョコを渡した。
が、それ以上にこの光景に驚いた。
楓を愛しているので。ので。
これは、チョコを渡すよりも熱烈だ。
……すごい。すごいな智恵理。
智恵理が力を抜いたのか、楓が逃れて駆けだすのを、智恵理もぴったりと尾行するように追う。
そしてまた新しくチョコを渡してくる女子が来ては。
「楓を愛しているので受け取れません」
「うぅ……そんなはっきり……」
「やめてよぉ!」
フラれた女の子以上の声で楓が恥ずかしがっている。そりゃあ恥ずかしいだろう。こんなの楓が一番嫌いなバカのイチャイチャだ。
八科智恵理、いくらなんでも面白すぎる。
「未代も笑ってないで止めて!」
「えぇ? もう少し見てたいかな」
これを職員室まで続けるのだろうか。本当にご苦労なことだ。そうすれば智恵理が競争で負けることはないだろう。
しかし実際どれくらい来るだろうか。まあ来なくても智恵理が負けることはないが。
所詮杞憂に過ぎず、あちこちに智恵理の様子を伺う女子の姿が見えた。
本当に、すごいな。モテモテだ。嫉妬すらする。
こりゃ止まらんな。
「未代も笑ってないで止めて!」
「えぇ? もう少し見てたいかな」
そう言われても、ここで止めればこの女子たちの想いを私が邪魔することになってしまう。それはそれで怖い。
ここからはもうぶつかり稽古みたいな勢いだった。
さっそく、一人来て何やら愛の言葉が紡がれて、そのたびに智恵理は言うのだ。
「彼女を愛しているのですが、それでもよろしいですか?」
「バカだと思われる!」
「バカじゃん?」
馬鹿だなーアホだなーと思いながら階段につくまでに四度。
若干飽きてきたし楓に助け船でも出すか、それともこのまま羞恥で壊れる様でも眺めるか。
にしても、恥ずかし半分、私もああいう風に言ってみてほしい。智恵理も私に対して好きということはあるが、あんな熱を感じるものはそんなにない。
人に見せつけるようなことは猶更だ。
なんて思っていると疲弊した楓がとぼとぼ、階段の踊り場でくるりと翻った。
文句でも言うのか、怒るのか、少し身構える。
楓の口に小さなチョコが含まれていた。
「智恵理」
智恵理すら足が、いや全身がビタリと硬直していた。
背伸びをして、逃がさないように智恵理の首元に腕が回される。
溶けたチョコが、智恵理の唇の端から零れた。
そんなエロいキス、楓の方からなんて。
「ギャアーッ!」
私は倒れた。
とりあえず何も見えない距離と角度で、踊り場から天井を見つめる。上の階段の凸凹した形が見える。
楓は既に壊れてしまっていた。いや何を考えてそんなことになるんだ。
「……ふぅ、これでチョコはあげたからね」
呟く楓の声と、軽快な足音が響いていく。
……廊下で寝転がって平気なわけではないが、全く立ち上がろうという気が出なかった。それは、何か重大な出来事に関われなかった無力感であったり、今起きた出来事に全く現実感がなくて夢を見ているようであったり、ともかく体に力を込めようという気持ちすら起こさせない途方もない浮揚感であった。背中が凍える床の冷たさだけが私に現実をうっすら伝えていた。
チョコ、チョコをあげたと言ったのか。
あいつチョコを安上がりに済ませるために、女を出したのかっ!
とんでもねえ奴だよ。信じらんね、そんな姑息な……小癪な……小賢しい手段……恥ずかしくないのか……いや恥ずかしいだろうなぁ。恥ずかしさがもう限界突破してて壊れちゃったんだ。私たちが楓を壊しちゃった……。
動けないのは、空を仰いで涙を零さないようにするためだ。
暖かくなってきた廊下の床が、少し寄り添ってくれる気がした。
――――――――――――――――
「だ、大丈夫?」
楓が気付けば戻ってきていた。寝てはいないけど、なんだか寝ていた気がする。夢見ていた気分だったからかな。
「私にも同じことしてくれないと起き上がれないよ〜」
言ってみた。いうだけ。
「それはもう無理かも」
……冷静になりやがった。満足そうにレジ袋を抱えて……。
起き上がれないでいるとバシバシ楓が叩いて来る。不破さんはもう泣きそうだよ。
深い溜息と共に立ち上がると、楓も膝をついたまま呆然としていた。
……受けた衝撃が私以上だったのだから無理もない。とはいえプラスな衝撃なのだから、羨ましい。
「智恵理〜、生きてる〜?」
「……これほどの衝撃を受けたのは、初めてです」
「そんなことある?」
「一緒に寝るより驚くよ。楓があんな……とんだエッチモンスターが誕生したよ」
「やめてってそういうの! 私もはずかしくなってきた!」
今更だろうに、楓は居ても立っても居られないようにわたわたと手を振って一歩前を歩いた。
きっと体がカッカと熱くなっているだろう。楓の足取りに比べて私の足取りは重く所在なさげだ。
けれど負けっ放しじゃいられない。
私がこのままで終わる女だと思うなよ。
「そういえば、お願いがあるんだけどさ」
可愛い妹をダシにして、私は一つの策を講じることにした。




