君が死んだ夜
夜の森の中で、ハンバーガーを齧りながらコーヒーを飲む。
ストレンジ・ワールドの裏手の森。入り口から最も遠く、パレード車庫の真後に位置する。この場所に至るまでのフェンスの穴は、私しか知らない秘密の抜け道なのだ。
一年毎の定期点検は二ヶ月前に終わったばかりだし、警備システムのプログラムもここだけ反応しないよう書き換えてある。
誰もいない森は、暗くて静かで心地よい。
今朝、堤百花と別れた。
一年間の交際期間だった。公平に見て、彼女に落ち度はない。
ただ、他人の顔に親しげに愛を囁かれるストレスに、それに応える空しさに、私自身が耐えられなかっただけだ。
あるいは、すべてを打ち明け、もう少し努力すれば、なにかが変わったのだろうか?
だけどもう、疲れたのだ。理由らしい理由のない、一方的な別れの言葉を伝えた。
彼女は、とても泣いていた。それはもう悲しそうに、悔しそうに。怒りもぶつけられた。
多分、鬼みたいに怖い顔をして怒鳴っていたんだろう。酷くなじられもした。
なのに、もう覚えていない。
薄ぼんやりとした、霧のようなベールの向こうだ。
(せめて、どれかひとつでも思い出せればいいのに……)
笑顔じゃなくていい。
胸が締めつけられるような泣き顔でもいい。
鬼のような形相でもよかった。
ため息を吐きながら、最後の一口を放り込む。
「きっと、何を食べても同じ味なら、食事の楽しみなんてなくなってしまうだろうな」
「そんなことないわぁ。ライチアイスは固くて冷たいし、桃まんは柔らかくて温かいもの」
独り言に突然の返答。振り向くと、少女が一人、立っていた。
(……こんな森の中に、女の子?)
迷子のゲストだろうか?
涙を見られたくなくて、ことさらに無表情を保って尋ねる。
「こんばんは。こんな所で何をしてるんですか?」
少女は驚いたように目を見開いた。
「あなたも、ストレンジ・ワールドの人ぉ?」
甘えるような、少し舌足らずな、可愛らしい口調だった。
「そうだよ。私も、ストレンジ・ワールドで働いています」
少女は珍しいものでも見るみたいに、何度も私の顔を見上げ、それから言った。
「どうして……泣いていたのかしらぁ?」
手遅れだ。どうやら、とっくに泣き顔を見られていたらしい。
苦笑しつつ、答えてあげた。
「みんなの顔がないんだ。見分けがつかないんだ」
少女は真剣な顔で、なにかを考えるように腕を組む。
それから、パッと華やいだ笑顔で、高らかに声を上げた。
「そうだわぁ! 印をつけてあげればいいのよぉ!」
「印を……?」
「そうよ。印よぉ! つぐみねぇ、学校でてるてるぼうずを作ったのぉ! みんなおんなじ顔だったから、印をつけてみたの! 額に真っ赤なハートを描いたらね、すぐにどれだかわかったのよぉ!」
「……そうか。印……君は、頭がいいなぁ」
「えへへぇ……きゃあっ」
褒めてあげると、顔を真っ赤にして嬉しそうに照れていた。
本当に、本当に嬉しそうに笑っていた。
こんな自分のために。一生懸命で、いじらしくて、親切で、とても可愛い少女だった。
これほどいじらしい子供を、私は愛さずにはいられなかった。
(……この少女の顔も、明日には他人の顔になる)
……忘れたく、ないな。
何かが、脳の中心からどろりと湧き出してきた。鼓動が跳ね上がる。
それを悟られまいと、仮面のような無表情を保ったままで言った。
「本当にありがとう。君のおかげで、私はようやく幸せになれるかもしれない」
それから、少女の顔を見下ろして言う。
「君の事が大好きになってしまった。だから、お礼に……君に、印をつけてあげるよ」
そう言って、ポケットからナイフを取り出す。
それは今朝、部屋で堤百花に別れ話をした際に、彼女が持ち出した物だった。
無抵抗の私を刺せずに、わあわあ泣く彼女から取り上げたナイフだ。
途端、少女の顔が恐怖で歪む。
「な……なんでぇ……?」
私はその顔を、黙って見下ろす。少女は小さく震えていた。
きっと、悲痛な顔で。
恐怖に彩られた顔で。
うろたえた顔で。
どれくらいそうしていたのだろうか。数秒……あるいは、数十秒か。
恐怖に耐えかね、少女が脱兎の如く駆け出した。私は、追わずに木の幹に背を預けた。
大きく息を吸って、吐く。
何度も何度も何度も何度も、落ち着けるように。
どろどろ。どろどろ。溢れ出す何かは止まらない。頭の中に満ちていく。
不意に、小さな悲鳴が聞こえた。
そちらに行くと、木の根の間に座り込んだ彼女がいた。かわいそうに、足を怪我をしたらしい。ふらつきながらも立ち上がり、なんとか歩き出そうとする。
もうこれ以上、辛い目にも怖い目にも会わせたくない。
私がその背後からゆっくり近づくと、彼女は小さな肩を震わせて懸命に問いかけてきた。
「どうして……?」
「君には、顔がないから」
絶対に苦しませたくはなかった。
だから、渾身の力を込めて……一息に首を掻き切る。
大量の血が喉へと流れ込み、少女の悲鳴を押し流す。
彼女の身体から力が抜け、あまりにも軽すぎる重さを腕に感じる。
仰向けにして、顔をみつめた。まるで、眠ってるみたいに静かなあどけない顔。
その右目を、ナイフで力いっぱいに切り裂いた。おぞましい傷が、彼女の半顔を支配する。
それを己がやったという恐怖で、頭の中がわなないた。
それから、ゆっくりと目を閉じる。
「ふ。ふふふふふふ」
知らず、笑いが漏れていた。
「ああ、わかる! わかるぞ! 覚えている! 私は、この子の顔を覚えている! あはははは!」
目を開くと、記憶と寸分たがわぬ少女の顔が、闇に塗れた私の手の中にあった。
私は、生まれて初めて『顔』を、記憶の箱の中に仕舞いこめた。




