七章「心の風景」
七章「心の風景」
舞山羊心は峡谷に着いてすぐ、驚くことになった。
心はそうは驚かない。だから、驚いた自分に驚いた。
心の滞在することになった洞窟ホテルの管理者は「陽菜」という家の家長だった。しっとりとした岩がむき出しになっている。でもそれが、絶妙なインテリアとして機能していた。
「本を置くと、湿気を吸っていいと聞きまして」
書架に一千冊ほど並べてある。
細長く奥まである広々としたスペース。運動をしたい人のためにルームランナーまで用意してあった。
仕事というわけでもないのだが、年齢が近い方がいいだろうということで、陽菜恋夏が部屋を紹介し、峡谷を案内した。
「舞山羊さん、食事はもしよかったら私の家に来てください」
恋夏は一度、心に自宅の場所を伝えた。
舞山羊の家は、神格という性質上、様々な人の来訪を受ける。その時にふるまう食事とは、違うのだろう。
「お嫌いな食べ物はありますか?」
「何でも食べますねえ」
「神職にお就きと聞きましたが、食べてはいけないものとかは」
「ありませんねえ。人間ですら食べることがありますから」
「それは…………」
「もちろん、冗談ですけれど。好き嫌いがないということです。知り合いに可愛い男の子がいたら教えてください。私、食べてしまう。そういえば、峡谷にくる船道にとても可愛い男の子がいました。恋夏さん、きっと知っているでしょう、都原くん」
「はい」
「不思議ですね。そんなに人がいるわけではないのに、村とか、辺境という感じもしなくて。光はとても現代的で、お借りしている部屋も、とてもシックなつくりですから。岩盤というのは光を当てると濃い紺に光り、銀を照り返すんだと。ふうん、という感じですね」
橋を渡りながら、恋夏は公共の施設を一個ずつ開けて見せていく。
「旅行というのはいいですよね。何もかもが新鮮で。そこに住んだら当たり前に見えることも、一層鮮やかに目に入って記憶に残るから」
「そうですねえ。景色だけなら、そうかもしれませんねえ。でも、生活となると、やはり五年や十年いた方の身にまとわりつく空気や雰囲気みたいなものには、敵わないですよ。そういえば、ここには学校がないんでしたっけ?」
心は、垂れるしずくの音に耳をそばだてながら聞いた。
「学校は、市民を作るための場所ですから」
「皆さんは市民ではない?」
「市民であるのと同じくらい個人的な存在です」
「そういう方にこそ市民にふさわしいと思いませんか?」
「さあ、どうでしょう」
恋夏は笑った。心が言ったことは、恋夏にもわかっている。この日本では、市民の顔をして権利や義務を声高に叫ぶ人よりも、個人的で内省的な人が謙虚につむぐ言論の方が、穏やかで生産性を持っていることがある。それは、恋夏の年齢でもわかる、あからさまな逆説だった。
「ここにメディアが入る余地はない?」
「峡谷を理解することは、難しいんだと思います」
すれ違う人が、会釈をする。心も恋夏につられて頭を下げる。
「知っている人ですか?」
「いいえ。顔見知りではあるんですけれど、人の家のことはよく知りません」
「まるで、城街のマンションのよう」
「あはは、どうなんでしょう? 似て非なるものなんじゃないかと思いますけれど」
「確かに。失礼しました」
心は、上空高くに飛ぶ鳥の鳴き声を聞いて、上を見た。
「わかりやすい目印がないんです」
「目印?」
「例えば、市民ホールや電波塔、大学や役所。この集落は、都市ではないから」
「それは、何かの否定によって成立しているということかなぁ?」
「否定?」
「ここは都市ではない。『ではない』と」
「肯定的な定義はもちろんあると思います。でも、私たちはそれに気づかない。きっと舞山羊さんも、気づかないと思います」
恋夏は一つの扉の前に立ってノックした。
「はぁい」
部屋着でだらけた女性が出た。
「夜市、しばらく峡谷に滞在する舞山羊さん」
「よろしく」
心は、少し年下の北沢夜市に握手をと手を差し出した。
「ああ、よろしくお姉さん。暇な時遊びに来てよ。花札でもやろう」
「花札ね」
心は気をよくしたようだった。
「夜市は親がいないんです」
「亡くなった?」
「そういうわけでもなく。とにかくいないんです。あそこでのんびりと暮らしています。別に、何かをする必要があるわけでもないです。私たちはまだ子供ですから」
「大人と子供という区別はあるんですね」
「年齢というより、役割というのか。…………例えば、私は管理している部屋に外の人が泊まる時は、こうやってご案内する役割を持っています。それは、大人だとか子供だとかいう理屈は抜きにして、担えるものからやっていくという、とても穏やかな態度で成立しているものです」
恋夏は、斜めに架かる橋を登りながら、崖の上へと心を導いた。
わっと、まぶしい陽光が目をくらませる。
洗濯物が列を作っていた。
「峡谷の洗濯屋さん」
三十代くらいの夫婦が洗濯物を干していた。
「おや」
「あらあら」
二人とも手を止めて心を見る。
「美人さんねー」
女性の方が手をエプロンで拭くと、手を振った。
「ありがとうございます。舞山羊と言います。今回は、山を越える前にここで少し滞在することにしていて」
「ああ、日本の背を越えるんだね」
男性の方も笑顔を見せた。
「峠があると聞いています」
心は、笑顔を返した。
「西宮さん」
恋夏は二人を紹介した。
「私は奏です。夫は灘。みんなの洗濯物をこうやって晴れの日に干しているの。学生の頃は気象の勉強をしたから、天気のことは何でもわかるの」
両手を天に向けて、奏は太陽を指し示した。
日本の背と呼ばれる山々がずらりとその肌をさらしている。樹々が生い茂っている山もあれば、山肌がむき出しになっている山もある。
「日本の裏は、芸術的だと聞くけれど。でも俺は行ったことない」
灘がかははと笑った。
「冬には雪が降るというものね」
奏は指で螺旋を描いて落ちる雪を示した。
「峠を越すなら、誰か一人入り口までついていったらどうだろう?」
「いえいえ。それには及びません。ご迷惑をおかけするわけには…………」
「迷惑なんてない。ただもし手伝えるなら、俺たちはそうしたいってだけだから」
「皆さんのご親切には、私も感激しています」
心は深々と頭を下げた。
「山には点々と人が住んでいる。気難しい人もいるけど、少しくらい頼ってもバチは当たらない」
灘がぼそりと空を見ながら言った。でも、心の気持ちに配慮して、余分に遠慮していた。心はその態度がとても興味深く、一つの具体例として記憶に刻んだ。
「でも、舞山羊さん美人だから、男の人だと、どぎまぎしちゃうかも」
奏も心に言うというよりは、灘の方を向いて釘を刺す。
「モデルか何かやってらっしゃる?」
「いえ。私の家系は代々神職を務めていて」
「継がれるの?」
「弟が」
「確かに、神秘的な感じがする。ごめんなさい。ここには神様はいないから」
奏はこともなげに神を否定した。
「そうみたいですね。全然感じない。ここだけ。遠くの景色や自然には、はっきりと宿っているのに」
心は、微笑みながら言った。当然という口ぶりは、日本で神を持ち出す違和感を打ち消してむしろはっきりと神の存在を明示していた。それは、神秘的な体験をした当事者というよりは、病理に向き合ってきた医師の持つ、理路整然としたプロの言葉だった。
「ここは、最初…………」
「灘くん」
「ああ、奏、ごめん」
「峡谷の人は、最初は、古都から追い出された人たちだったから。そういう歴史。なんとなくわかるでしょ? 古都に伏流する神聖さみたいなものに耐えられない人たちの集住」
心は曖昧に笑った。
心は、集住までする人を見たことはなかったが、古都のコンテクストから弾かれるだろう人はすぐに思いついた。でもそれは敢えて言うまでもないことだった。
にこにこと笑っている奏と灘の、気分を害したくなかった。自分も、それで不快になりたくなかった。
精神病。
神との戦い。
歴史的な資料や文献を調べれば、それは大部分が明らかになるだろう。もちろんそういう研究はある。でも、峡谷の人たちのコミュニティをそれだけで語るのも違う気がした。
「何百年も前のことなのに、私たちはついさっき起きたことのように『覚えて』いる。不思議だね」
「ええ、そうですねえ」
天気の話でもするように、軽く打たれた相槌が開けた空間に響いた。
「さあさ、まだ乾かすものがあるから。また、空が見たくなったら来て。でも、みんな空を見たいとは思わないみたい」
「ありがとうございます。それでは」
心はゆっくりと頭を下げ、それから恋夏に従ってまた橋で峡谷を下っていった。
***
経済という概念が希薄な、原始的な空間。峡谷を言い表すことは難しい。店があるわけでもないのに、物質的には特に不自由はない。その集住が「精神病棟」を意味するのか「宗教的なカルト」になってしまうのか、心にはうまく判断ができなかった。「精神病棟」の猶予的な時間とも、「宗教的なカルト」の切迫した飢餓感とも、峡谷の在り方は違っていた。
でも、心はそれがわからないことを嘆いたりはしなかった。
心の目的は、峡谷の謎を解き明かすことではなく、峡谷で見たものを古都の風景と比べることだったし、そもそも心は最初から何かを理解しようとは思っていなかった。
心の心を動かせるのは、神だけだから。
***
峠を越えることを伝えて、携帯食料を詰めたリュックサックを背負い、陽菜の家に礼を言って心は出発した。
その前に心は都原の家を訪ねた。
清流の母親は突然の来客に驚いていた。峡谷で客が来るなんてことがそもそも珍しいことだから。
「河をさかのぼる時に、息子さんにお会いしました。幸い名前を記憶していたもので」
「あの子、どんな顔でしたか?」
「ふふ。何にも知らなそうな、きょとんとした顔していました」
「ありがとうございます。そうなんですね。そうなんでしょうね」
お互い顔を見合わせて、くすくすと声を漏らした。
「行きます」
「いってらっしゃい」
恋夏が峡谷の出口まで心を見送った。
「帰りもまた来てください」
「恋夏さん。ご丁寧にありがとう。夜市さんにも、花札、今度は負けないと伝えてください」
恋夏は大きく手を振り、心は何度も振り返っては礼をして、やがてお互いが見えなくなったところで、気合を入れ、リュックサックを背負い直し、その長い脚を前へ前へと進めた。
四月の山はまだ肌寒く、けれどもところどころに花が咲いていて、首にかけたカメラで写真を撮っていった。
峠はその昔、インドのカイバル峠を、鉄を操る民族が越えたように、日本の裏から人が流れ込んだとされている。
昔のことがあまりわからなくなった今でも、その学説は強く信じられていて、その人たちが古都を立てたと、歴史の教科書には掲載されている。
戦争が紙を焼き、人を殺し、言論を封殺し、歴史を改ざんした。もういにしえの時代を知る人は、限りなく少なくなった。
風が心の髪をかき撫でた。前髪を見せる相手もいないのに、その風が意地悪に感じることに、心は自分で苦笑いした。
何軒か建つ家で休憩することも考えたが、自分のような部外者は、あまり歓迎されないだろうと思い、通り過ぎた。
一日に数回、茂みに放尿するのが癖になりそうだと、心は思った。なんとなく誰も見ていないと思うとニマニマしてしまう。
途中から河と別れて、立てられた案内板を頼りに道を選択する。
雨が降るとレインコートを着て、まぶしい時は帽子をかぶる。
そうこうしているうちに夜になって、星月のかすかな明かりを頼りに日記を書いた。
心には北極星の位置を見て自分の位置を知るような、優れた観測術があったわけではないが、それでも方向を指し示してくれる北極星の存在には、一定の感謝をした。
気づいたらとても平坦な道になっていて、そこが日本の裏だということを知った。清水があふれて、その水は飲むと喉を潤してくれた。
「淑女が何日も風呂に入らないなんてねえ」
自分で面白がってくすくすと笑う。
そうして心は、日本の裏にある集落へと、吸い込まれるように消えていった。