十四章「薄紅」
十四章「薄紅」
清流が燻と結婚したのは、清流の故郷が河をふさぎ、天然のダムを作ったことを知る少し前だった。
清流は峡谷のことを一度も振り返ろうとしなかった。たとえ「如何なるもの」になっていようと、河は変わらず古都や城街に水を運んだ。
峡谷は崩れ、中の人々を巻き込みながら圧縮し、一つの世界を閉ざした。
清流はそこで生活した時間そのものを、はっきりと思い出すことができなかった。そこには特有の匂いがあって、それは燻のくゆらすタバコの煙とは、全く違う、土っぽい、ひどく田舎じみた匂いだった。懐かしむくらいの度量のある風土だったら、いくぶんかましだったのかもしれない。
機械の動く整然とした景色も、人が入り混じる躍動の親密圏も、そこにはなかった。だったら何があったのか。
何もなかったというのが、寂しいからという理由で、何か出来事を思い出したり、心理的に捏造したりするのが、いいことだと、清流には思えなかった。
それは震災や戦災ではなく、世界の消失で、元通りになることは絶対にありえない、歴史の途絶だった。
そこで生きることを中座したために、清流は偶然その場所を知っている。そこで生きることを諦めたために、その場所を知っている最後の人になろうとしている。
清流は、そこが何であったかを知っているはずだと、自分に問う。そして、そういう問いの形が、あまりに単純な言語ゲームに過ぎないことをさとるのだ。
もう家族はいないんだ。清流は燻にそう言った。
「峡谷の土には、血が練り込まれている。僕はその血の一滴一滴を創造することができる。じわりと滲んで、それから酸化して土色と変わらなくなる。峡谷の両崖を架けていた橋が、僕を建築家にしてくれたような気がする。それだけなんだ」
峡谷のダムから流れ落ちる水は清らかで、何十キロも歩いてきた清流と燻は、それを眺めながら水を飲み、燻だけタバコを吸った。
「一体どんな田舎なんだろって想像するのが楽しみだった。悪いわね」
「いいんだ。故郷というのはそういうものだよ。僕はもう、誰か生き残っていてほしいとか、そんなことも思わないんだ。何人かの若い峡谷の住人が、僕みたいに古都に留学して、それで生き残ったなんて、もう誤差でしかない。全滅したのさ。戦争は人から故郷を奪い、故郷からそこを大事に思う人の命を奪う。そして同じことを敵国とされる人にも強いている。だとすると、悲しむこともできないし、僕は事実、失われた感覚ではなく、塗りつぶされた記憶を抱えている。なんだったのか思い出すことができないのは」
「普通だわ。普通。普通だと思うのがいいわ。私だって、伯羅の景色は故郷として誇らしいし、思い入れもあるけど、小さい頃に感じた伯羅を、もう一度感じることはできない。一回性の出来事の集積は、過去が参照できないことを嘆いたりしない。そうじゃない?」
「慰めてくれているの?」
「あなたずいぶん大人になったわ」
「燻はずっと美人になった」
燻はくすっと笑うと、清流の背中をトントンと叩いた。
「泣いていいのよ」
「へ?」
「悲しいことがあったら泣いていいのよ」
「そんな」
「一人では泣けなくても、私の体温は、いつもあなたのためにあるんだから」
水の弾ける空気が、のどかで、清涼感があったのに、清流の前には、故郷の峡谷の、死んでしまった一人一人の顔が現れて、今、成仏しようとしているみたいだった。
燻は何本も何本もタバコを吸い、その間清流は慟哭した。
「普通のことよ。ふつう。でも悲しんじゃいけないなんて、誰も言ってないし」
「僕しかいないんだ。誰も生きていないんだ」
喉の奥から呻きが漏れる。
山の稜線が清かに見え、空はくっきりと青さを湛えていた。
手を合わせる人は誰もいないし、その場所を歴史に刻もうなんて誰もしようとは思わない。
それはありふれた人の当たり前にあるはずの故郷だったのだから。
最後までお読みいただきありがとうございました。




