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第94話 見えない壁の交差線上


挿絵(By みてみん)




 ゴォッ――!


 地面が、内側から大きく隆起した。


 モモカの〈×――ペケ――〉によって塞がれていた封鎖領域が中央から膨らみ、その下に押し込められていた熱と魔力が、行き場を失った圧力となって一気に地表へ噴き上がる。少女は〈ダスト・オーシャン〉による拘束を力ずくで引き千切り、周囲を覆っていた岩盤も頭上に張られていた封鎖領域もろとも押し退けながら、巨大な火柱を地下から立ち上げていた。


 十メートル近い地下空間へ閉じ込められていた熱気が一方向へ集中したことで、噴出の勢いは火山の火道にも似た形となり、砕けた敷石や岩片を巻き込みながら上空へ伸びていく。地下で膨張した高温の気体は体積を増そうとするが、周囲を岩壁に囲まれていれば横方向へ逃げにくい。その状態で上部だけが破壊されれば内部圧力は最も抵抗の小さくなった開口部へ集中するため、熱と破片と魔力が一つの流れとなって吹き上がる。


 まるで、地面の底から巨大な竜巻が生まれたようだった。


 ロックが構築していた岩壁も耐えきれない。表面へ亀裂が走ったかと思えば、赤黒い魔力をまとった斬撃がその内部を突き抜け、厚い岩盤を外側へ押し倒す。単純に硬いものを壊しているというより、切断によって構造上の支点を失わせながらそこへ内側から膨張する熱圧を重ねているため、一箇所の破壊が周囲の崩壊まで連鎖させていた。


 決して1箇所にとどめることのできない力。


 ——圧力が、外へと膨らむように伸長していた。


 地下に押し込められていた少女の身体が、噴き上がる炎とともに地表を突き破った。


 「拘束」は破られた——


 しかしそれは少女が完全な自由を取り戻したことと同義ではない。


 むしろロックたちが作った地下空間は、最後の最後まで彼女の“移動方向”へ干渉していた。四方には厚い岩盤が残り、足元では崩れた砂と〈ダスト・オーシャン〉の残滓が流動しているうえ、モモカの〈ペケ〉も中央を破壊されたとはいえ、封鎖領域そのものが一度に消失したわけではない。少女が短時間で外へ出ようとするなら、すでに自分の斬撃と熱圧によって強度を失わせた頭上の一点――最も抵抗の小さくなった開口部を通るのが、力学的にも魔力効率の面でも最短になる。


 横へ進めば、まだ岩盤を破壊しなければならない。斜めへ抜けようとすれば、移動距離が伸びるだけでなく、崩落する土砂から受ける抵抗も増える。対して真上には少女自身が作った火柱があり、膨張した高温気体と魔力の流れがすでに地表へ向かう上昇経路を形成していた。その流れへ自らの身体を乗せれば、新たに別方向へ出口を穿つより少ない仕事量で地上へ到達できる。


 選べないわけではない。


 ただ、“選ぶ理由のある方向”が極端に少なくなっている。


 戦闘における行動制限とは、必ずしも相手の身体を完全に固定することではなかった。右にも左にも上にも進める相手へ、右へ進めば十の負荷、左なら八、上なら二というように異なる条件を与えれば、合理的に動く者ほど負荷の小さい経路を選びやすくなる。絶対的な強制ではなくても、選択肢ごとの“代償”に差を作ることで、次に選ばれる行動の確率を一方向へ偏らせることはできる。


 ロックが地下へ作った空洞も、そのための“枠”として働いていた。


 少女を捕らえ続けることには失敗した。


 〈ダスト・オーシャン〉も破られた。


 〈ペケ〉も突破された。


 それでも、それらが無意味になったわけではない。拘束を破るために少女は魔力を使いながら剣を振り、熱を膨張させ、その結果として自ら頭上へ一本の脱出経路を作った。自由を取り戻すために行った一連の動作が、皮肉にも“どこから出てくるか”という情報だけは地上にいる者たちへ与えていた。


 火柱の中央を、少女が上昇する。


 身体は地面から離れ、足場を失っている。


 上昇方向には大きな慣性が残り、地下から噴き上がる熱圧まで背中を押していた。空中で別方向へ移動できる能力を持っていたとしても、運動量を持つ物体が進行方向を変えるには、その運動量を相殺するだけの力を別方向から加えなければならない。地面を蹴っている状態とは違い、今の少女には反力を得るための固定された足場もないため、少なくとも脱出直後のごく短い時間だけは移動方向を急激に変えるための条件が悪い。


 つまり。


 地下では拘束されていた“位置”が。


 地上へ出る瞬間には、予測しやすい“軌道”へ変わる。


 ロックが作ったのはその程度の優位性であり、“絶対性”ではない。


 少女が想定外の能力を使えば、簡単に崩れる程度のもの。


 それでも戦場では、その僅かな偏りで十分なことがある。


 なぜなら彼らには、少女が地表へ現れてから攻撃を始める必要がなかったからだ。


 地下で位置を捕捉できているのなら。


 脱出に使われる経路をある程度まで絞れているのなら。


 その先へ——


 先に攻撃を置いておけばいい。



 少女の頭が地表を越え、身体が完全に宙へ抜け出した頃には、オートメーションによって捕捉されたココの「矢」が待ち構えていた。


 外へと脱出するための意識の流れ。


 その隙間を縫うように侵入してきた矢を、驚いたように視る。


 反応できなかった。


 ——そう表現しても、あながち間違いではないだろう。


 地面の内部には、夜月が流し込んだ特殊な電磁波が絶えず巡っていた。


 それは単純な妨害電波ではない。ロックが支配する砂と鉱物、そこへ浸透したシオンの水を伝導経路として利用し、周波数の異なる微弱な電磁波を複数重ねることで、少女が外部へ向けて広げている魔力感知へ細かな雑音を混ぜ込んでいる。魔力による索敵が視覚とは異なる感覚器官だとしても、外部から情報を得る以上、何らかの変化を受信して自分の中で意味のある情報へ変換しなければならない。その入力へ無関係な信号を大量に重ねれば、本当に必要な反応と雑音との境界が曖昧になり、対象の位置を割り出すまでに僅かな遅れや誤差が生まれる。


 たとえるなら、映像そのものを消しているわけではない。


 電波状態の悪いテレビ画面へ、絶えず砂嵐を混ぜている。


 少女ほど高い魔力を持つ術者なら、本来は地下からでも地上の魔力反応をある程度まで拾えただろう。しかし今は周囲そのものが夜月の観測網であり、ロックの砂がその電磁波を広い範囲へ運ぶ媒質になっているため、少女は大量の雑音の中から必要な情報だけを選り分けなければならなかった。


 そして、この情報環境は対称ではなかった。


 少女には雑音。


 夜月には観測網。


 同じ電磁領域の中にいながら、得られる情報の質が違う。


 夜月はロックの砂を通じて、すでに少女を捕捉していた。正確な映像として姿を見ているわけではないものの、砂粒の移動、含まれている水分の偏り、電気抵抗の変化、〈ダスト・オーシャン〉へ加わる張力を重ねれば、地下のどの位置へどれほどの質量が存在し、どちらへ動こうとしているのかを連続的に推定できる。


 そしてその情報を利用したのが、〈オートメーション〉だった。


 少女を妨害した夜月の電磁領域は、ロックの土と組み合わさることによって強い効力を発揮していた。敵からすれば、突然目の前に現れたかのような状況だった。


 “夜月はロックの土を通じて、すでに相手を捕捉していた“


 これはつまり——矢と敵の2点間を線で結び、攻撃が「必中」となるように最短距離を動いていたのだ。


 ココは溜め込んだ〈テンション〉を矢に乗せ、狙いを澄ましていた。この「狙い」というのは、敵の位置というよりも、”敵までの距離”と言い換えたほうがいいだろう。


 攻撃は夜月の能力によって「必中」になる。


 ——ならば、自分のできることは矢を引き絞ることに集中すること。


 敵の位置や動きに意識を取られないで済むのは、弓を使う者の立場からすればこれ以上ない整備された環境と言える。


 エネルギーをより狭い範囲に集中する。


 その直線的な範囲は、より“狭い範囲であればあるほど”一箇所にかかる質量の密度を上昇させることができる。


 ココにとって夜月の存在は「弓」そのものだった。


 より細微化された意識レベルに於いて、集中するべきポイントを極限にまで縮める。それが可能になるのは、あらかじめ考えるべきことがある局所的な範囲において不動となる「点」を固定化した時だけだ。そしてその「時」を提供できるのが、夜月の〈オートメーション〉だった。


 ココが矢を放ったのは、——そのタイミングは、敵が地面の中から脱出するよりも“前”だった。


 ロックは敵を拘束することに集中していた。しかしその「拘束」は、“その場に留める”ということに終始していた。


 「拘束」と「束縛」は、必ずしもこの場において共存していない。


 “時間を稼ぐ”というのはそのままの意味であり、敵を“捕まえる”という意味ではなかった。少しでも動きを抑えられれば、次の一手への距離が生まれる。


 その意識の中に繋がった一つの手札。


 ココの弓は、まさにその手札の直線上に連動していた。


 全てが“読み通り”だったというわけではない。ロックはその直前まで、敵の行動を部分的にも読むことはできなかった。ロックが取っていた行動の全ては、「選択」を展開するための距離と「時間」の確保だった。


 敵がどのように行動するかは、情報が少なければ少ない分予測しづらくなる。問題は、その予測の難しさに対応できる「幅」があるかどうかであり、瞬時に移行できるいくつかのポイントや可動域が点在しているかだった。


 敵の位置を特定することは戦局をコントロールする上で重要な要素になる。能力の高さだけで勝敗を決めれるほど、勝負の世界は甘くない。ロックが展開したフィールドの「変化」は、敵との位置関係に繋がる“両者の可動範囲の削減”に大きく貢献していた。


 当然、あらゆる戦況に於いて「0」になるという出来事の変化や確率は、ほぼ無いに等しい。それと同様に、100%それが起こるという確定事項は現行進行形に於いて存在せず、あらゆる運動や可能性は連続的に変化し得る過程にあり、かつ“不確定的”であると断定することができるだろう。


 つまりこの意味をより具体的に掘り下げていけば、決まった出来事や事象の変化は「現在」に於いて常に存在しないことになる。


 ただし次に起こる出来事の可能性を”1つの確率として“高めることが可能だということには、留意しておかなければならない。


 あらゆる事象や出来事は、その単独としての範囲や密度を”決まった量として”「単位的」に切り離すことはできないが、その結果に続いていくための複合的なプロセスや物理的要素には、密接な繋がりを持つ「エネルギー量子」が存在している。


 ——現在が、「現実」になるためのプロセス。


 あらゆる出来事は常に不確定的な変化の中に連続している“距離”であり“量”である。


 この部分に於いて重要なことは、出来事が「出来事」に収束するための物理的な幅には必ずしも「確率」が介在しているということ。動ける範囲そのものには限りがあるということ。


 決まった出来事や確定的な事象は現行進行形において存在していないが、同時に、“起こり得る出来事への確率的な幅には限りがあり、現実までの長さには有限な「量」がある“ということ。


 これらの要素を解体していけば、自ずと時間や空間の2点間に”進行できるエネルギーの大きさ”が定まってくると、表現することができる。



 敵の「位置」。



 ロックが取った行動のもっとも大きな貢献度は、敵の行動の自由度、——その「範囲」に介在できたことだ。


 地面の中へと移動したことで、敵が次に取る行動の選択を狭められたと、評価することができた。


 ただ、やはり「受け身」になっていたことに変わりはない。


 それでも、敵の位置をある局所的な範囲に固定できたこと——その事実は、この場面に於いて有効な「手段」を提供することに成功していた。


 より重要なことは、敵の行動がどのように転んでいくかを一つの「枠」に“収められるかどうか”だった。


 当然、あらゆる局面に於いて“絶対的な範囲”は存在しないと見るべきであろう。


 単位時間あたりに生じる運動量や、三次元上に広がる空間の繋ぎ目を考えていく場合、部分的にもエネルギーの向きや位置が固定される範囲は“安定”こそすれ、100%の固定値を持つことはない。


 この点に着目した時、敵の位置や行動をコントロールするという意味合いは、あくまで“流動的な位置関係と時間間隔の中”に終始する。


 場面に応じて適切な選択や行動は分子レベルで変化し続ける分、その変化量の中にどれだけ漸近的に「距離」を縮めていけるかが一つの確率を収束させる上で重要な足掛かりになる。


 場面、——1つの運動場の仕事率に於ける1つの「枠」は、一種の「確率変動場」に他ならない。


 サイコロを振れる領域にサイコロを転がす。


 そうしてその目が「狙った目」になるかどうかの点を、いくつかの条件の中で常に判定し続ける。


 ロックが誘導した「場所」は、ある一定の範囲内で敵が起こせる行動の「量」を“限定させるだけの広さ”を運んでいた。


 地面の、中。


 ——そう、ココが弓を引くまでの時間と、その狙いが“定まる”までの。



 夜月の〈オートメーション〉を先頭にし、後手に回っていた展開が、初めて先手に回る——


 互いの間合いが重なる場所、その中心には、目には見えないひとつの“窪み”が生まれている。


 少女はそれを予期していなかった。


 どれほど優れた戦闘者であっても、あらゆる事態を事前に知ることなどできない。だからこそ戦闘では「何が起きるか」を読む能力以上に、「何かが起きたとき、どの動作からでも防御や回避へ移れる状態を残しているか」が重要になる。それは訓練によって獲得する技術である一方、もっと根源まで遡れば、危険の兆候を拾って身を守ろうとする生物の防衛本能とそれほど遠いものではない。


 視線を向ける。足を運ぶ。腕を伸ばす。息を吸う。


 本来ならば、そのどれもが攻撃だけのために存在していてはならない。


 一つの動作へ意識と力を百まで注ぎ込めば、残りの方向へ割ける余白はゼロになる。だから熟練した戦闘者ほど、攻撃の最中にも重心、視界、呼吸、魔力、退路といった複数の「逃げ道」を細く残している。危険を察知した瞬間にそのうちのどれか一つを引けば、身体全体を別の行動へ移せるように。


 少女も、本来ならそうしていた。


 しかし今はその引き出しを開くより早く、こちら側の一手が彼女の位置へ食い込んでいた。


 ――フレア・ショット。


 ココが弦から解き放った矢は、少女そのものではなく、少女が“存在することになる場所”を目掛けて疾っていた。


 そこに通常の意味での「狙い」は介在していない。夜月の〈オートメーション〉が基点にある以上、ココが少女を視界へ捉え、動きを読みながら照準を追従させるという一連の工程は、とうに射撃の外へ切り離されていた。


 必要なのは、少女が現れてから矢を合わせることではない。少女と矢――その二つが交わる瞬間へ、こちらの一射を先に滑り込ませること。


 ゆえにココが研ぎ澄ませるべきものも視線ではなく指先にあり、敵を追うために使うはずだった集中力まで〈テンション〉へ注ぎ込みながら、弦を限界まで引き絞っていた。


 敵を射抜くのではない。すでに結ばれている“線”へ、最大火力を通す。


 少女が地表へ姿を現したときには照準は始まってすらいなかった。始める必要がなかったのだ。矢はそれより前から疾走し、少女のほうがその完成された一射の中へ飛び込んでくる。


 つまりあの矢には、途中で何かを判断する余地がほとんどない。


 最初から、命中地点までの仕事を終えた状態で放たれている。


 だからこそ、その軌道はまるで敵へ吸い寄せられているように見えた。


 地面すれすれを滑る矢は、土を掠めながらも速度をほとんど失わない。通常なら地表付近ほど気流は乱れ、凹凸や障害物の影響によって射線も不安定になるはずだが、夜月が捉えていたのは単なる「敵までの直線」ではなく、敵が出現する位置とココの射線が最も深く重なる一点だった。


 〈間合い〉と〈距離〉が、意味を持って接触する場所。


 夜月に導かれるように引き絞られた弦から伸びる対角線、その先にある“底”へ向かって、ココは蓄え続けていたテンションを一気に解放した。


 自らの技の鋒へ直前まで可能な限り切り捨てていた感情の起伏、その最後の一片まで押し込むように。


 ――ボッ!


 空気が破裂した。


 真正面から少女を捉えた「フレア・ショット」は、着弾とほぼ同時に内部へ閉じ込めていた熱量を解放し、周囲の空気ごと押し広げるような爆炎へ変わった。


 矢そのものに与えられていたテンションは、単純に速度や貫通力を増幅するためだけのものではない。


 むしろ今回の射撃において重要だったのは、矢の内部に保持された“エネルギーの量”だった。


 ココのテンションが干渉できる対象には、物質か非物質かという厳密な境界がない。石や鉄のような固体だけではなく、熱、運動、圧力、魔力といった「仕事を生み出せる量」であるなら、それを一つの対象として指定し、そこへ数値としてテンションを加算できる。


 もちろん、何にでも際限なく力を増やせるわけではない。


 対象の状態が曖昧であればあるほど制御精度は落ち、どこからどこまでを一つの“対象”と定義するかによって、付与効率も変わる。炎そのものを広範囲に強めようとすれば、拡散する熱や魔力まで含めて支配しなければならず、その分だけテンションは薄まっていく。


 だからココは、力を広げなかった。


 矢という明確な器の中へ、フレア・ショットの熱量と魔力を極端なほど圧縮し、外へ逃げる経路をぎりぎりまで閉じた。


 例えるなら、火薬を地面へ撒くのではなく一つの硬い容器へ詰め込み、その容器が割れた瞬間にだけ圧力を逃がすようなものだ。


 矢が飛んでいる間、エネルギーは内側へ押し込められ続ける。


 接触した瞬間、その制限だけを外す。


 結果として少女は、通常のフレア・ショットよりも遥かに濃縮された焔を、ほぼ至近距離から真正面に受けることになった。


 ドドドドドドドドッ――!


 押さえつけられていた熱が解放され、逆流する巨大な滝のように炎と熱気が上空へ噴き上がった。


 少女も、何もしていなかったわけではない。


 矢が迫っていることには気づいていた。


 避けなければならないという判断も生まれていた。


 身体も、その命令に従おうとしていた。


 問題は、認識した時点ですでに回避に必要な時間と距離の大半を失っていたことだった。


 攻撃を避けるときに必要になるのは「見えてから身体を動かす時間」だけではない。まず対象を視認し、それを脅威だと判断し、避ける方向を選択したうえで筋肉や魔力へ命令を送りつつ重心を移動させなければならない。ほんの短い工程に見えても、そのすべてには必ず時間が必要になる。


 少女が間に合わせられたのは、矢が接近しているという認識までだった。


 その頃には、射撃そのものがすでに懐へ潜り込んでいる。


 ココの射出がほんの僅かでも遅ければ、それは成立しなかった。


 同じ方向へ撃ったとしても、敵がすでにそこから離れていれば矢はただ空間を通過する。角度が一度ずれるだけでも距離が伸びれば誤差は大きくなり、数十メートル先では射線そのものが別の場所へ移ってしまう。


 だからココが行ったことを正確に表すなら、「敵を射った」ではない。


 “空間へ矢を刺した”のだ。


 本来、弓で対象を狙う場合、射手は現在そこに存在する標的を「点」として捉え、その点までの経路を「線」に置き換える。ところが今回、ココが見ていた先には、矢を放った時点ではまだ何も存在していなかった。


 少女が現れる予定の空間。


 そこにある立体的な奥行きへ向かって、先に最大限の“最小距離”を引いていた。


 見えている現在位置ではなく、見えない未来位置へあらゆる思考の遮断とそれに繋がる射線を通した、と考えれば近い。


 ここで重要になるのが、「距離」と「必要距離」は必ずしも同じではないということだった。


 たとえば二人の間が百メートル離れているなら、物理的な距離そのものは百メートルで変化しない。しかし動いている標的へ矢を当てる場合、射手が考えるべきなのは単純な百メートルではなく、「矢が到達するまでの時間に、相手がどこまで動くか」を含めた距離になる。


 矢が一秒後に届くなら、一秒後の位置へ撃たなければならない。


 標的が横へ動けば横方向の移動量を加え、上下へ動けば高度差も含める。さらに矢そのものも空気抵抗や重力、魔力の減衰を受ける以上、実際の射線は紙に描いた一本の直線ほど単純ではない。


 つまり命中に必要なのは、現在の二点を結ぶ線ではなく、時間の経過によって位置が変わる二つの物体が、同じ時刻に同じ空間へ入るための“交点”だった。


 夜月は、その交点を先に作っていた。


 この一射が成立したのは、矢そのものが少女の動きを上回っていたからだけではない。


 少女が地表へ飛び出したその瞬間に、彼女の周囲に残されていた「動ける場所」がすでに通常より遥かに狭くなっていたからだ。


 地下から上方へ向かって蓄積された運動量。背後から身体を押し上げ続ける熱圧。足場を失った空中という条件。そして、地表へ抜けた直後であるがゆえに、姿勢制御へ使える時間そのものがほとんど残されていないという事実。


 それらは一つひとつを取り出せば、少女の行動を完全に封じるほど絶対的なものではない。


 身体を捻ることはできる。


 剣を差し込むこともできる。


 魔力を噴出させ、無理やり軌道を逸らすという選択さえ、理論上は残されている。


 しかし、それらの行動にはすべて“始めてから結果へ到達するまでの距離”が必要になる。


 肩を引くなら、肩が動かなければならない。


 身体を倒すなら、重心が横へ移らなければならない。


 進行方向を変えるなら、今まで上方へ運ばれていた運動量へ対抗するだけの力を別方向から加えなければならない。


 つまり回避という行為は「避けようと思った瞬間」に完成するものではなく、現在の身体が存在する一点から、安全な別の一点へ移るまでの過程そのものを必要としている。


 そして今、その過程へ使える時間がほとんど残っていなかった。


 少女を中心として仮に全方向へ無数の逃走線を伸ばしたとしても、矢が到達するまでに実際に身体を移動させられる距離には上限がある。遠くへ伸びる線ほど途中で時間切れとなり、強引に方向を変えようとする線ほど現在の運動量が抵抗として立ちはだかる。


 結果として、無限に見える選択肢の大半は「選択することはできても、完了させることができない行動」へ変わっていく。


 右へ逃げられる。


 左へも逃げられる。


 下へ身体を落とすことも、不可能ではない。


 けれど矢が届くまでに十分な距離を移動できるかという問いへ置き換えた瞬間、その答えはまったく別のものになる。


 少女が次の瞬間までに存在し得る場所は、現在位置を中心としたごく限られた空間へ収束していた。


 それは牢獄ではない。


 見えない壁があるわけでもない。


 ただ、時間という制限によって外側から削り取られた短い未来の“可動域”だった。


 ロックが地下で狭めたのは脱出経路。


 夜月が拾い続けたのは、その経路を進む位置の変化。


 そしてココが必要としていたのは、その二つによって最後に残された――少女が矢の到達時刻までに存在し得る範囲だった。


 広大な戦場の中から地下という領域が切り出され、その地下から一本の脱出方向が選ばれ、さらに地表へ抜けた直後の運動量によって回避可能な幅まで削られていく。


 そうして選択肢を一枚ずつ剥ぎ取っていった先に、初めて“狙う価値のある大きさ”を持った空間が残る。


 点ではない。


 未来の少女そのものでもない。


 次の瞬間、少女という存在が入り得る可能性を圧縮した、小さな領域。


 ココが“引き絞った”のは、その領域の中心だった。


 だから少女から見れば、地上へ出た瞬間、自分の前へ矢が現れたように感じられる。


 だが実際には逆だった。


 少女のほうが、すでに通過していた矢の射線へ自ら飛び込んだのだ。


 そして二つの軌道が最も濃く重なった接点で、ココの焔はその圧縮を解いた。


 ゴォォォォォ――。


 天景楼を取り囲んでいた景色が、熱と圧力に押されながら輪郭を失っていく。


 キョウカの氷に覆われていた屋根や白壁は、押し寄せる熱波によって表面から激しく蒸気を噴き、氷そのものが融けるより先に内部の水分を膨張させた場所では、細かな亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていった。急激な温度変化は物質の表面と内部に異なる膨張率を生むため、単純に「燃える」よりも建材へ大きな負荷を与える。


 周囲の木々は爆風に幹を押し曲げられ、耐えきれなくなったものからメキメキと繊維を引き裂かれた。


 本丸御殿の屋根では固定を失った瓦が浮き上がり、黒い破片となって次々に空へ巻き上げられる。


 単なる炎の広がりではない。


 急激な熱膨張によって空気そのものが押し出され、その圧力が地表へ沿って走っていた。


 まるで大地へ縫い付けられていたものを、重力ごと根元から引き剥がそうとしているような烈しさだった。


 もともと戦闘によって天景楼周辺の地形は原形を失いつつあったが、フレア・ショットの着弾地点を中心として、さらに景色の色と形が塗り替えられていく。


 少女は宙にあった。


 地上から、およそ数十メートル。


 遮蔽物の少ない高さにいたことも、被害を大きくした理由の一つだった。地面近くで爆発が起これば圧力の一部は土や構造物へ吸収されるが、開けた空間で解放された熱と衝撃は逃げ場を失わず、球状に近い形で周囲へ広がっていく。


 その下では、少女がロックの拘束を破るために放った黒炎が、まだ地表へまとわりついていた。


 切り裂かれた大地の隙間からは、崩れる砂や石の奥を押し退けるように、黒い炎と魔力が絶えず湧き出している。


 地中へ残されていた少女の魔力。


 ——それを押し返すように、ココの焔が膨れ上がった。


 性質の異なる二つの魔力が衝突した場所では、単純な炎同士の押し合いにはならない。魔力には術者ごとの構造と流れがあり、互いに異なる術式が接触すると、弱い側がそのまま消される場合もあれば、流路そのものを乱され、術としての形を維持できなくなる場合もある。


 今回、押し負けたのは少女の側だった。


 ココのフレア・ショットは、着弾のために溜め込んでいた熱量だけでなく、テンションによって増幅された出力を一息に解放している。その一時的な密度が、地表に残っていた黒炎の流れを外側から押し潰した。


 少女の身体も、当然そこから無事ではいられない。


 矢が直撃した位置を中心として、身体はほとんど予備動作もなく後方へ弾き飛ばされた。


 光が砕ける。


 薄い膜を張ったシャボン玉が、指先で弾かれたときのように。


 ぱん、と。


 ただし耳へ届いたのは、そんな軽い音ではなかった。


 衝撃はひどく重い。


 それでいて長く尾を引かず、鋭い一本の線だけを空間へ刻んで消えた。


 何か巨大なものが押し潰された音ではない。


 細く尖った杭が、とてつもない速度で深く突き込まれたときのような響きだった。


 身体が、流れる。


 自ら飛んだのではない。


 着弾点へ生じた運動エネルギーに全身を持っていかれ、姿勢を立て直す暇もなく空中を後ろ向きに押し流されていく。


 そのまま少女は、天景楼の外壁へ激突した。


 ドッ――!


 鈍い衝撃が建物全体を揺らした。


 白壁が中央から大きく陥没し、押し込まれた部分を起点として深い亀裂が四方へ走る。漆喰の表面だけでは支え切れず、その奥にある下地や柱まで力が伝わったのか、壁の内側からも乾いた破砕音が続けて響いた。


 瓦礫が、ゆっくりと溢れ出す。


 粉塵に紛れて漆喰片や木片が落ち、少女の身体の周囲だけが不自然なほど深く抉れていた。


 磔にされたような姿だった。


 破壊された壁の奥へ半ば埋まり、力の抜けた腕が垂れている。


 フレア・ショットを正面から受けた皮膚は広い範囲で焼け爛れ、表層を失った箇所では、熱に耐え切れなかった組織が白い蒸気を立てながら崩れていた。


 

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