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第26話 剣術の基本



 ミレイユ・アスターが天才と呼ばれている理由は、彼女のスキル〈白雷〉が優秀だから、という一文だけで片づけられるほど単純ではない。


 もちろん〈白雷〉は、王国の標準測定基準へ当てはめても極めて高い数値を示すスキルである。火属性によって筋繊維の収縮へ爆発的な推進力を加え、雷属性によって神経伝達と魔力回路の遅延を削り、思考から動作へ至る時間を限界まで短縮する。単純な身体強化に留まらず、足裏、膝、腰、背骨、肩、肘、手首という全身の運動連鎖を一本の戦闘回路へ組み替えるため、剣術との親和性は非常に高く、魔力量、属性変換効率、出力精度、術式展開速度、瞬間最大負荷といった測定項目でも、軒並み高得点を叩き出す。


 幼い頃から白華隊の剣術を学び、実戦を想定した訓練を重ね、身体と術式を磨き続けてきたことを差し引いても、その資質が並外れていることへ異論を挟む者はいないだろう。


 とはいえ、才能の多い王都である。


 世界樹の根元へ人材が集まり、十二華隊を目指す若者だけでなく、地方軍の精鋭、神殿庁の修士、貴族家が抱える術式教育の専門家、幼い頃から剣だけを握らされてきた武門の子弟、魔物が日常的に出没する辺境で生き残ってきた実戦経験者まで、王国中の異才が同じ場所へ流れ込んでくる。


 魔力量だけならミレイユを上回る者はいる。


 属性親和性だけなら彼女より純度の高い候補者もいる。


 肉体の頑丈さ、腕力、反応速度、生まれつき備わった魔力回路の太さ、家に伝わる固有術式、幼少期から与えられた教育環境。いずれか一つを抜き出せば、同等か、それ以上の資質を持つ者は決して珍しくない。


 ミレイユが“天才”と呼ばれる理由は、与えられた才能そのものではなく、それを扱う技術にあった。


 一度見た術式は、その場で構造を理解する。


 魔力がどこから入り、どの回路を通り、どの属性へ変換され、どの動作へ力を与えているのか。術者本人が長年の訓練によって無意識へ沈めた動きであっても、ミレイユは表面に現れたわずかな魔力の揺れ、呼吸の乱れ、足裏に集まる属性素子、武器へ伝わる振動から、その内部構造を推測する。


 理解したものを、そのまま真似るわけではない。


 自分の体格、自分の剣、自分の魔力回路、自分の〈白雷〉へ合わせた形へ解体し、必要な部分だけを拾い上げ、余分なものを捨て、より効率のよい動作へ組み直す。


 戦闘中であっても、その作業は止まらない。


 一度目の踏み込みで膝への負荷が大きいと判断すれば、二度目には火霊素を足裏の外側へ寄せ、三度目には雷霊素の伝達経路を腰ではなく背骨側へ回し、四度目には最初からそれが正しい使い方だったかのように自然な動作へ仕上げてしまう。


 一を教えれば十を理解する、などという言葉では足りない。


 十一、十二、あるいは教えた側が想定していなかった十三まで、自分で答えを作ってしまう。


 誰もが一段ずつ階段を上る中、彼女だけは階段の高さが気に入らなければ削り、足場が狭ければ広げ、途中に無駄な踊り場があれば撤去しながら駆け上がっていく。


 それが白華隊最年少の天才剣士――ミレイユ・アスターと評される所以だった。


 もっとも、本人へ「天才ですね」と言えば、おそらく眉を寄せて「私は未熟だ」と返すだろうし、その直後に自分を未熟と判断した根拠を二十項目ほど挙げ、翌日から訓練量を増やすことだろう。


 他人が褒める。


 本人が否定する。


 否定したことを証明するために鍛える。


 その結果さらに強くなり、また褒められる。


 永久機関である。


 王国魔導院が長年探し求めている無限動力は、案外ミレイユの負けず嫌いを魔導炉へ接続すれば完成するのではないかと、とおるは割と真剣に考えていた。


「壁山さん、ミレイユさんの試合が始まりますよ」


 カナデの声に呼ばれ、とおるは待合室の壁へ取り付けられた水鏡へ視線を戻した。


 円形の鏡面には〈誓華円舞台〉が映し出されており、十二枚の花弁を組み合わせた中央舞台の東側からミレイユが、西側から対戦相手の候補者が入場してくる。


 とおるたち第十七班は待合室に残り、各自の試合へ備えながら水鏡を通じて観戦していた。


 直接観覧席へ行くことも許可されているものの、自分たちの呼び出し時刻を考えれば、武器点検や防護術式の確認ができる控室にいたほうが都合はいい。


 何より椅子がある。


 疲労困憊のとおるにとって、伝統的な決闘をどこで見るかという問題は視界や臨場感より座面の有無によって決まる。


 試合が始まるまでは背もたれへ体重を預けていた彼も、ミレイユが舞台中央へ進む姿を目にすると自然に少しだけ身を起こした。


 白を基調とした軽装鎧。


 銀灰色の髪。


 薄い菫色の瞳。


 右手には刃を潰した試験用長剣。


 左肩の防具には、魔物討伐試験でバルガロスの爪を受けた箇所を補修した跡があり、完全に新品同様とは言えない。それでも歩みに乱れはなく、剣を携えて舞台へ向かう姿はいつも訓練場でとおるを追い回している時より数段静かで、余計なものを全て鞘へ納めたような鋭さを帯びていた。


 対する槍術士は、リガルド・フェイン。


 第八華隊〈紅椿〉の推薦枠。


 年齢は十八歳。


 背丈はミレイユよりわずかに高く、細身に見えるものの肩から腰へ伸びる線には槍術士らしいしなやかな筋肉がついている。髪は夜の闇へ赤い染料を一滴落としたような暗い紅色で、耳の下から後ろへ流し、細い紐でまとめていた。目元は涼しく、切れ長の瞳は燃える炎の色というより炭の底で静かに残る熾火に近い。


 身につけているのは、紅椿の隊装を思わせる黒と朱を組み合わせた軽装。


 首元まで覆う濃い灰色の内衣、その上へ胴体の急所だけを守る赤銅色の胸当てを重ね、肩や肘は可動域を妨げない小型の装甲で補っている。腰から垂れる布は左右で長さが違い、片側には炎の刺繍、もう片側には羽を閉じた蝶の紋が縫われていた。


 手に持つ試験用の槍は、本人の身長を大きく上回る長さがある。


 黒鉄色の柄に朱色の滑り止め紐が巻かれ、穂先は安全のため刃を落とされているものの、細く伸びた形状には突きだけでなく払い、絡め、石突による打撃まで想定した重心配分が見て取れた。


 何より目を引くのは、彼女の周囲を舞う炎だった。


 親指ほどの小さな火が、二枚の翅を持つ蝶の姿を作り、リガルドの肩、槍、足元、背後をゆっくりと巡っている。


 一匹ではない。


 五匹。


 いや、炎同士が重なって見えづらいだけで、七匹ほどいる。


 赤い蝶。


 橙の蝶。


 中心に青白い火を持つ蝶。


 どれも空中へ火の粉を散らしながら舞っているのに、リガルドの衣服を焦がすことも、舞台の床へ焼け跡を残すこともない。


「炎の蝶……」


 カナデが水鏡へ近づいた。


「召喚型でしょうか」


「見た目だけならね」


 ネロは長椅子へ腰を下ろし、頬杖をついたまま答えた。


「術式構成体を呼び出しているなら召喚。本人の火属性を蝶の形へ変え、槍や身体へ効果を与えるなら付与。一定範囲を飛び回りながら相手の動きや熱を感知しているなら領域。複合の可能性もある」


「全部嫌な可能性ですね」


 とおるは素直な感想を述べた。


「炎の蝶って、見た目はきれいなのに触ったら火傷するんですよね」


「炎だからな」


 ミレイユがいないため、代わりにアルセントが当然のことを言った。


「きれいなものには棘があると言いますけど、あれは棘どころか本体が燃えています」


「壁山は、風情を危険物表示へ変えるのが上手いね」


「安全管理を重視しています」


 舞台中央で、ミレイユとリガルドが一定の距離を空けて向かい合う。


 審判役は王樹十二華騎士団の古参騎士で、紺色の外套をまとった壮年の男だった。二人の防護術式を確認し、試験武器へ異常がないことを確かめ、勝敗条件と禁止事項を改めて告げる。


「リガルド・フェイン」


 名前を呼ばれた槍術士が、軽く顎を引いた。


「よろしゅう」


 柔らかな声だった。


 王都の言葉とは抑揚が少し違い、語尾に丸みがある。


 口数の少ない人物なのだろう。必要な言葉だけを選び、それ以上は炎の蝶へ任せるような静けさがあった。


 ミレイユも剣を胸元へ立て、騎士の礼を返す。


「ミレイユ・アスターだ。全力で行く」


「怖いこと言わはるなあ」


 リガルドの表情は、ほとんど変わらない。


「全力で返す必要はない。お前の力を見せろ」


「……真っ直ぐなお人やね」


「試験中だ。互いに当然だろう」


「そういうとこ、嫌いやないよ」


「何?」


「始めよか」


 噛み合っているようで、微妙に噛み合っていない。


 ミレイユは言葉を額面通りに受け取り、リガルドはその堅さを面白がっているように見える。


「ミレイユさん、会話で押されてませんか」


 とおるが呟く。


「剣術の試験だから問題ない」


 バスティアンは腕を組んで断言した。


「会話術の試験だったら危なかったですね」


「壁山が人のことを言えるのかい」


 アルセントの問いには答えないことにした。


 審判が片腕を上げる。


 空気が変わる。


 水鏡越しであっても観覧席のざわめきが薄くなり、巨大な円舞台の中央へ二人の呼吸だけが残ったように感じられた。


「始め!」


 腕が下ろされた。


 ミレイユは動かない。


 リガルドも踏み込まない。


 開始と同時に白雷をまとって突進する展開を予想していた観客が多かったのか、観覧席の一部から小さな戸惑いが広がる。


 両者は、数メートルの間隔を保ったまま構えを取っていた。


 リガルドは身体をやや前へ傾け、右手を槍の中央より後ろ、左手を前寄りへ添え、穂先をミレイユの胸より少し低い位置へ向けている。腕に余計な力はなく、肩も落ち、槍の重さを握力だけで支えず、肘と腰と背中へ分散しているのが分かる。


 突こうと思えば突ける。


 払おうと思えば払える。


 後ろへ引けば間合いを広げ、前の手を滑らせれば瞬時に射程を伸ばせる。


 どの動きにも移れる構えだった。


 ミレイユは白華隊の基本剣術における中段。


 右足を半歩後ろへ置き、剣先を相手の喉元よりわずかに下へ向け、左肩を引きすぎず、両肘を柔らかく曲げている。


 特別な構えではない。


 奇抜な仕掛けもない。


 剣術を知らない者が見れば、教本の最初に載っている姿勢をそのまま取っただけに見えるだろう。


 とおるは三ヶ月を一緒に過ごしたことで、ミレイユの戦い方について少しずつ分かってきたことがある。


 まず、剣士として驚くほど“基本”に忠実である。


 構え。


 呼吸。


 重心。


 剣先。


 視線。


 肩から指先までの脱力。


 踏み込む前に踵を浮かせすぎず、かといって床へ貼りつけもしない足裏の置き方。肺いっぱいに息を吸うのではなく、腹部へ短く収めながら、いつでも吐ける余白を残す呼吸法。相手の目だけを見て視野を狭めることなく、顔、肩、肘、腰、膝、足元、武器の全体を一つの像として捉える視線。


 剣の握りも強すぎない。


 柄を握り潰すほど力を入れれば手首の動きが死に、刃筋を細かく修正できなくなる。かといって緩すぎれば、衝突の際に武器を奪われる。


 ミレイユは小指と薬指で柄を支え、人差し指と親指には方向を定めるだけの力を残しながら斬撃が触れる直前に必要な分だけ握りを締める。


 ゾロの訓練ではとおるも木剣を持たされ、その握り方から直された。


 力を抜けと言われて抜けば剣を落とし、握れと言われて握れば肩まで固まり、ミレイユから「なぜ指示の中間が存在しない」と怒られた。


 こちらとしては、中間を自在に選べるなら人付き合いでも苦労していない。


 ミレイユの構えは、教本に載せてもいいほど正確だった。


 それは教科書どおりにしか動けないという意味ではない。


 むしろ反対である。


 相手の癖や呼吸へ合わせ、足裏にかかる重心を数センチ動かしつつ剣先を数度傾け、腰の向きをほんのわずかに変える。その修正は小さすぎて、一つひとつを見ようとすれば見落とすほどだった。


 リガルドの槍先が左右へ指一本分揺れる。


 ミレイユの剣先も、ごく薄く弧を描く。


 リガルドの右肩が下がる。


 ミレイユの左足が、床を擦らないまま内側へ寄る。


 炎の蝶が一匹、槍の穂先へ近づいた。


 ミレイユの呼吸が短くなり、白雷を発動する前段階として火霊素が足裏へ降りる。


 一見すれば、二人とも何もしていない。


 舞台の中央で向かい合い、攻める機会を迷っているだけに見える。


 その「何もしていない」ように見える時間こそ、ミレイユが相手を観察し、情報を集めながら最適解を組み立てるための時間だった。


「仕掛けませんね」


 カナデが小声で言う。


「槍のほうが長い。ミレイユさんから近づかないと攻撃できないんじゃ……」


「武器の長さだけならそうだね」


 アルセントが水鏡を見たまま答えた。


「実際の間合いは、もっと複雑だ」


 剣と槍の間合いは、刃先から柄尻までの寸法だけで決まらない。


 踏み込みの速さ。


 一歩で移動できる距離。


 身体を伸ばした際の腕と肩の可動域。


 武器へ魔力を流すまでの時間。


 放出術式があるなら、その射程。


 領域系なら、感知が始まる範囲。


 強化系なら、発動前と発動後でどれほど動作速度が変わるか。


 足場の状態、風向き、床の滑り、相手の視線、呼吸の周期、初動で必ず動く筋肉の位置。


 全てを見極めて、ようやく本当の意味での間合いが定まる。


 リディアの背中を見ながら、剣士とは何かを考えてきたミレイユにとって、それは当然のことなのだろう。


 白華隊の剣は、敵を一歩でも早く斬り倒すためだけにあるのではない。


 背後の民へ刃を届かせない。


 味方が避難する時間を作る。


 相手の攻撃を受け、逸らし、封じ、必要であれば倒す。


 そのために白華隊が重視するのは、派手な必殺技よりも、立ち位置と間合いである。


 白華隊の基礎剣術には、三つの原則がある。


 一つ目は、〈剣先を死なせるな〉。


 剣先を敵へ向け続けろという単純な意味ではない。


 斬る。


 突く。


 払う。


 受ける。


 絡める。


 相手の進路を塞ぐ。


 どの動作へも移れる位置に刃を置き、攻撃にも防御にも関与できない空白の時間を作らない。


 二つ目は、〈足を敵へ預けるな〉。


 踏み込みによって体重を前へ流しすぎれば、攻撃を外した時に戻れない。後ろへ逃げることだけを考えて踵へ重心を寄せれば、相手に押し込まれる。


 前にも後ろにも動ける重心を保ち、相手の間合いへ入る時でさえ、帰るための一歩を残しておく。


 三つ目は、〈刃より先に守る場所を決めろ〉。


 どこを斬るかではない。


 誰を守るか。


 何を通してはならないか。


 敵のどの動きを止めるべきか。


 それを決めて初めて、剣を置く位置が定まる。


 攻撃を当てることだけを考える剣は、外れた時に何も残らない。


 守る場所を決めて振られた剣は、外れても進路を塞ぎ、相手の選択肢を削って次の動作へつながることができる。


 とおるは初めて教えられた時、三つ目だけは何となく理解できる気がした。


 壁も同じだからである。


 何を防ぐか。


 誰を守るか。


 どことどこの間へ置くか。


 目的を決めなければ、ただ透明な板を出しただけで終わる。


 もっとも、理解できることと実行できることは別であり、木剣でミレイユと向かい合った際には守る場所を考えすぎて頭が止まり、開始から五秒で手首を打たれた。


 非常に痛かった記憶がある。


 ミレイユは「今のは軽く当てただけだ」と言っていたが、暴力を行使した側の“軽く”は、被害者側の痛覚と相互運用性がない。


「リガルドが、少しずつ間合いを動かしている」


 ネロが言った。


 水鏡の中でリガルドは足を大きく動かしていない。


 それでも、よく見れば槍の握り位置が少しずつ変わっていた。


 右手が柄尻へ寄る。


 左手が穂先側から中央へ滑る。


 槍を長く使う握り方へ移行している。


 同時に身体は数センチずつ斜めへ向き、正面から見える面積を減らしながらミレイユの右側へ圧をかけていた。


 槍は剣より長い。


 穂先を中心として円を描けば、近づこうとする相手の進路を広く塞げる。


 正面から直線的に入れば突き。


 横へ回れば払い。


 懐へ潜ろうとすれば石突と柄による打撃。


 長い武器は近づかれれば弱い、というのは半分だけ正しい。


 未熟な槍術士ならともかく、熟練者は相手との距離に応じて握りを変え、長槍を中槍へ、中槍を短杖へ変えるように扱う。


 近づけば安全という単純な話ではない。


 むしろ近づこうとした瞬間こそ、相手が最も狙っている場所である可能性もある。


「来いひんの?」


 リガルドが静かに尋ねた。


 槍先は動かない。


「お前が来てもいい」


 ミレイユも動かない。


「剣士に待たれると、槍使いとしては困るんよ」


「そうは見えない」


「困ってるように見せたら、来てくれる?」


「行かない」


「つれへんなあ」


 言葉は柔らかい。


 空気は少しも柔らかくない。


 炎の蝶が、リガルドの周囲をゆっくり巡る。


 一匹がミレイユの左側へ流れ、もう一匹が上方へ昇り、三匹目が床すれすれを滑る。


 領域を広げているのか。


 進路を限定しているのか。


 単なる牽制なのか。


 まだ分からない。


 ミレイユは無闇に動かない。


 正確には、動いていないように見えるだけだった。


 リガルドが槍先をわずかに揺らすたび、彼女の重心も足裏の内側を滑るように移動している。半歩踏み込まれれば即座に斬り返せる位置を保ちながら、槍の穂先が最も力を失う角度へ剣先を向け直し、炎の蝶が視界へ入れば目で追うことなく、周辺視野の端へ置いて位置を把握する。


 互いの間に横たわる数メートルの空間は、ただの空白ではない。


 どちらが先に己の間合いを押しつけるか。


 どちらが相手の間合いを誤認するか。


 誰が先に情報を見せ、誰が相手の情報を奪うか。


 目に見えない攻防は、すでに始まっていた。


 リガルドの右足が、床を撫でるように半歩進む。


 槍先は動かない。


 ミレイユの剣先も動かない。


 距離だけが、わずかに縮まる。


 もう半歩。


 炎の蝶が一匹、槍の柄へ止まった。


 朱色の火が細く伸び、柄の表面へ模様を描く。


「付与でしょうか」


 カナデが身を乗り出す。


「まだ決められない」


 ネロの灰色の瞳が細くなる。


「蝶そのものが効果を与えているのか、効果が発動した結果として蝶が止まったのか。順番が分からない」


「黒蓮の人でも分からないんですね」


「分からないから見るんだよ」


「研究者らしいことを言った」


「僕は研究者じゃない」


「採取より観察派でしたっけ」


「まだ覚えてたんだ」


 忘れられるわけがない。


 自分の身体について「採取はしない」と言われた側は、かなり長く覚えている。


 舞台では、リガルドの槍先がほんの少し下がった。


 肩は動かない。


 腰も沈まない。


 攻撃の前兆には見えない。


 ミレイユの左足が、半歩よりさらに小さく後ろへ滑る。


 とおるには理由が分からなかった。


 直後、槍が伸びた。


 突きという言葉から連想する、腕を引いてから前へ押し出す動作ではない。


 リガルドは脱力した姿勢のまま前の手を滑らせ、後ろの手で柄尻を送り、腰の回転と小さな踏み込みを重ね、槍そのものが最初から空中に用意されていた道を通るように、ミレイユの喉元へ穂先を走らせた。


 初動が見えない。


 速さよりも、始まりが分からないことのほうが恐ろしい。


 ミレイユはすでに剣を動かしていた。


 槍が来てから反応したのではない。


 穂先が下がった時点で、突きの軌道を読んでいる。


 剣の腹が槍の側面へ触れ、強く弾くことなく斜め下へ滑らせた。


 白華隊の受け流し。


 相手の力へ正面からぶつからず、刃の角度と手首の回転によって進路を変えて攻撃の勢いを床へ逃がす。


 槍先がミレイユの左肩横を抜ける。


 彼女は右足を踏み込み、槍の外側へ回りながら剣を振り上げた。


 リガルドの手元へ斬撃が迫る。


 長い武器を持つ者にとって、手は攻撃の中心であり弱点でもある。


 ここで手首を打たれれば、槍の制御を失う。


 リガルドは槍を引かなかった。


 前の手を軸に柄を回し、石突側を跳ね上げる。


 黒鉄色の柄尻とミレイユの剣がぶつかり、乾いた音が舞台へ響いた。


 剣と槍。


 刃と穂先。


 そうした分かりやすい部分ではなく、剣の腹と槍の石突が接触する。


 長柄武器を全長で扱う槍術の基本だった。


 ミレイユは押し込まない。


 接触した感触からリガルドの重心を読んで剣を引き、間合いの外へ戻る。


 リガルドも追わない。


 二人は再び、最初に近い距離で向かい合った。


 たった一度の突き。


 受け流し。


 踏み込み。


 斬り返し。


 石突による迎撃。


 観客から見れば短い攻防である。


 ミレイユにとっては、すでに大量の情報が集まっているはずだった。


 リガルドの突きは、肩ではなく腰から始まる。


 前の手を強く握らず、槍を滑らせて射程を伸ばす。


 攻撃後に引き戻すことへ執着せず、石突側を使って近距離へ対応する。


 踏み込みの際、炎の蝶は動かなかった。


 つまり先ほどの突きそのものへ直接関与していない可能性が高い。


 ミレイユの目が、わずかに鋭くなる。


「今ので、どれくらい分かったんでしょう」


 とおるは尋ねた。


「彼女なら、少なくとも槍の基本的な動きは」


 アルセントが答える。


「相手のスキルは?」


「まだ分からないだろうね」


「分からないまま近づくの、怖すぎませんか」


「だから、彼女は見ている」


 水鏡の中で、ミレイユの剣先が少し下がる。


 誘い。


 喉元へ向いていた剣を下げ、上段への防御が遅れるように見せる。


 リガルドが踏み込む。


 今度の突きは胸。


 最初より速い。


 ミレイユは剣で受けない。


 身体を半身へ開き、槍先を胸元すれすれへ通し、左手を柄へ添えようとする。


 槍を掴み、懐へ入るつもりか。


 リガルドの目が少しだけ細くなった。


 槍が途中で止まる。


 前方へ伸びていた力が、不自然なほど滑らかに消える。


 握りを変えた。


 リガルドは後ろの手を引き、前の手を支点として穂先を横へ振る。


 突きから払いへの変化。


 ミレイユの側頭部を狙う軌道。


 彼女は膝を沈め、槍の下へ潜る。


 銀灰色の髪が風圧で広がる。


 低い姿勢から、剣がリガルドの脇腹へ伸びた。


 リガルドは石突を床へ突き立て、槍全体を柱のように使って身体を浮かせる。


 剣先が衣服をかすめる。


 彼女は槍を軸に身体を回転させ、ミレイユの背後へ着地した。


 炎の蝶が一斉に軌道を変える。


 五匹がミレイユの周囲へ散った。


「来る」


 ネロが呟く。


 ミレイユも察していた。


 振り返るより早く前へ踏み、リガルドから距離を取る。


 炎の蝶は追わない。


 舞台の空中へ留まり、ゆっくりと翅を動かしていた。


「逃げはるん?」


「不明な術式の中へ残る理由はない」


「慎重やね」


「騎士として当然だ」


「そうやろか」


 リガルドは槍を肩の高さへ戻す。


 炎の蝶が、彼女の周囲へ再び集まる。


 ミレイユは返答せず、蝶の位置を見ていた。


 五匹。


 最初は七匹ほどいたはず。


 減っている。


「蝶が少なくなってませんか」


 とおるの言葉に、ネロが頷く。


「二匹、消えた」


「いつ?」


 カナデが尋ねる。


「最初の突きと、今の払いの時」


「攻撃へ使ったようには見えませんでした」


「見えなかっただけかもしれない」


 水鏡の映像では、細かな魔力の流れまで完全には読み取れない。


 現地のミレイユには見えているのか。


 彼女はリガルド本人ではなく、槍の柄を見ている。


 最初の蝶が止まった場所。


 炎の模様が細く残っている。


「付与か」


 ミレイユが言った。


「へえ」


 リガルドの口元が、ほんの少し上がる。


「気づかはった?」


「蝶が槍へ触れた後、突きの速度が上がった。二度目は、払いへ移る際の慣性が不自然に消えた。炎を推進と制動へ使っている」


「半分、正解」


「残り半分は」


「教えたら試験にならへんよ」


「なら、見つける」


「やってみ」


 ミレイユの足元に、白い雷光が走った。


 観覧席の空気が揺れる。


 待合室でも、バスティアンが大きく身を乗り出した。


「白雷だ!」


「見れば分かります」


 とおるも椅子から立ち上がりかけ、筋肉痛が太腿へ抗議したため、半端な姿勢で止まった。


 座るか。


 立つか。


 人生には、こういう小さな決断すら難しい時がある。


 ミレイユの〈白雷〉は、魔物討伐試験で見せたものより静かだった。


 派手な火花を全身へ散らさず、足裏から膝、腰、背骨へ、細い光が必要な回路だけをなぞっている。


 リガルドの目が、初めて明確に変わった。


 警戒。


 興味。


 少しの喜び。


 槍術士として、速い相手と向き合うことを楽しんでいるのかもしれない。


「白華の雷姫」


 リガルドが低く言う。


「その呼び方は好きではない」


「似合うてるのに」


「私は姫ではない。騎士だ」


「知ってる」


 炎の蝶が、槍へ一匹止まる。


 もう一匹は右肩。


 三匹目は右足首。


 残る二匹は、リガルドの背後へ浮かんでいた。


 付与先が分かれている。


 槍。


 肩。


 足。


 何を強化する。


 ミレイユは待たなかった。


 白雷が足元で弾け、身体が低く沈む。


 石床へ残された白い光だけが、彼女のいた場所を示した。


 直線。


 リガルドの正面へ、最短距離で入る。


 〈白雷〉を見慣れていない観客には、無謀な突進に映ったかもしれない。


 とおるには分かる。


 ミレイユは何も考えず前へ出ているのではない。


 リガルドが槍へ付与した蝶。


 肩へ止まった蝶。


 足首の蝶。


 それぞれが発動する順序を見ようとしている。


 自分から攻撃を仕掛け、相手に答えを出させる。


 リガルドの槍が突き出される。


 槍へ止まった蝶が崩れ、炎が柄の内部へ走る。


 穂先が加速する。


 肩の蝶は、まだ動かない。


 足首も同じ。


 ミレイユは身を左へずらし、槍先を避ける。


 リガルドが払いへ変える。


 肩の蝶が燃え広がり、回転へ推進力を与える。


 足首の蝶が消え、踏み込みの向きを固定する。


「三つ」


 ミレイユが呟いた。


 槍の払いが迫る。


 彼女は剣で受けた。


 正面からではない。


 刃の根元を槍の柄へ当て、衝撃が来る角度へ剣を傾け、手首、肘、肩、腰を順番に回して力を足元へ逃がす。


 白雷が雷属性の伝達速度を利用し、身体の各部へ動作命令を送る。


 受けながら、すでに次の踏み込みが始まっている。


 槍の円運動の内側へ入る。


 リガルドが石突を上げる。


 ミレイユの左手が柄へ添えられ、石突の軌道を外へ押す。


 剣先が胸当てへ伸びる。


 リガルドは後ろへ下がらない。


 背後へ浮いていた炎の蝶が、一匹、彼女の背中へ沈んだ。


 炎が噴き出す。


 爆発。


 そう見えた。


 実際には、背中を焼くための炎ではない。


 前方へ強い推進を生み、リガルドの身体をミレイユの懐へ押し込む。


 槍を持ったまま距離を潰し、肩から体当たりを仕掛ける。


 ミレイユの剣が使いづらくなるほど近い。


「近っ!」


 とおるが思わず声を上げた。


 リガルドの肩がミレイユの胸元へぶつかる。


 防護術式が淡く光る。


 ミレイユはよろめかない。


 左足を後ろへ置き、衝撃を受け、右手の剣を振る余裕がないと判断すると、柄頭をリガルドの脇腹へ打ち込んだ。


 鈍い音。


 リガルドの防護術式も光る。


 双方が一歩ずつ離れる。


 観覧席から、遅れてどよめきが上がった。


 高速の攻防。


 槍の間合い。


 剣の間合い。


 体当たりの距離。


 柄頭の距離。


 武器の種類によって固定されるはずの領域が、二人の技術によって何度も塗り替えられている。


「基本に忠実ですね」


 とおるは呟いた。


 派手な〈白雷〉を使っている。


 相手は炎の蝶を操っている。


 それでも、攻防の中心にあるのは、構え、重心、呼吸、間合い、受け、踏み込みという基礎だった。


「基本は、簡単という意味じゃない」


 アルセントが言う。


「何度でも使えるものを、基本と呼ぶんだ」


 なるほど。


 とおるは少しだけ納得した。


 奇策は一度なら通じる。


 相手の知らない使い方、予想外の角度、特殊な術式。どれも強い。


 使い方が知られ、対策され、疲労し、状況が変わった後に最後まで残るのは、身体へ染み込んだ基本なのだろう。


 ミレイユは剣先を戻す。


 呼吸を整える。


 白雷の出力を一段落とし、必要な場所へ細く流す。


 リガルドも槍を構え直す。


 炎の蝶は、残り二匹。


 先ほどまで五匹いた。


 三匹が槍、肩、足首へ付与され、消えた。


 背後の一匹も推進へ使われた。


 計算が合わない。


「蝶、増えてませんか」


 カナデが言った。


 水鏡の中、リガルドの左肩付近に、新しい炎が浮かんでいた。


 小さな火。


 蝶の形にはなっていない。


 丸い。


 卵のようにも見える。


 赤い火の膜に包まれ、中心で青白い光が脈打っている。


「何ですか、あれ」


 とおるは目を凝らす。


 ネロが頬杖を外した。


 灰色の瞳から、気怠げな色が消える。


「蝶が消えた場所の魔力が、戻ってる」


「再召喚ですか?」


「違う」


「何が違うんです」


「炎の構造が変わっている。最初から蝶として呼んでいるんじゃない」


 舞台の上でも、ミレイユは気づいていた。


 視線が、リガルドの肩に浮かぶ炎の卵へ向く。


 リガルドは槍を下げない。


 涼しい顔のまま、京都の言葉に似た柔らかな調子で言った。


「うちの蝶、きれいやろ」


「装飾ではないことは分かった」


「せやね」


「一度使えば消える付与術式でもない」


「そこまで見えたん」


「消えた炎が、別の形で集まっている」


「よう見てはる」


 リガルドの周囲に、炎の卵が一つ、二つと増えていく。


 槍へ使った炎。


 肩へ使った炎。


 足へ使った炎。


 背中へ使った炎。


 術式の効果を終えた火が消滅せず、空中へ残った魔素子を集めながら、新しい形へ収束している。


 赤い殻。


 青白い中心。


 脈動。


 生き物の鼓動に近い。


 ミレイユは剣を握り直した。


「召喚ではないな」


「うん」


「付与した炎を回収し、再構成している」


「半分、正解」


「また半分か」


「全部分かったら、面白ないやろ?」


「試験に面白さは必要ない」


「うちは、欲しいけどなあ」


 リガルドが槍を床へ軽く突いた。


 石へ触れた音は小さい。


 炎の卵が一斉に脈打つ。


 とおるは水鏡越しにも、空気の温度が上がったように感じた。


 ミレイユの白雷が全身へ細く巡る。


 彼女は前へ出ない。


 剣先をリガルドへ向けながら、炎の卵を視野へ収め、呼吸を一つ整えた。


 基本。


 相手が何をしてくるか分からない時ほど、構えを崩さない。


 呼吸を止めない。


 足を敵へ預けない。


 剣先を死なせない。


 守る場所を決める。


 リガルドの周囲で、赤い殻へ細い亀裂が入った。


 中から、青白い炎が漏れる。


 卵の表面が一枚ずつ剥がれ、舞台へ火の粉が降る。


 リガルドは静かに笑った。


「ほな、見せたげる」


 炎の亀裂が広がる。


「うちの蝶が、孵るとこ」


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