第25話 ユンケル飲んでシャキッとしたい
聖騎士試験二日目の全行程を終えた段階で、とおるはもう肉体的にも精神的にもかなり限界に近いところまで追い込まれており、具体的に言えば、朝起きた瞬間から背中が知らない人のものになったみたいに重く、太腿は階段を一段下りるたびに「昨日の件について正式に抗議します」と筋繊維単位で訴状を提出してくるし、肩はバルガロスの前脚付近で転がった記憶をいつまでも律儀に保持していて、首を回すと骨ではなく過去の後悔が鳴るような気すらしていた。
試験初日が魔力測定と魔物討伐、二日目が野外行軍、護衛判断、負傷者搬送、術式応急処置、夜間警戒、筆記確認という「なぜこれを一日にまとめた?」と主催者へ真顔で問い詰めたい内容で構成されていたため、普通なら三泊四日くらいの研修プログラムに分散すべき分量が王国聖騎士制度という格式高い名のもとに圧縮され、人間の体力を雑巾のように絞って最後の一滴まで確認する教育方針へ変換されていたのである。内容が内容だけに、もう少し日程を分けるとか、せめて途中で温かい汁物を挟むとか、午後の座学後に仮眠時間を設けるとか、現代日本なら労務管理担当者が眉間を押さえながらスケジュール表を差し戻す程度の配慮が欲しかった。時間は待ってくれない。王国も待ってくれない。試験官も待ってくれない。筋肉痛だけは律儀に追いついてくる。寝不足で瞼が二重になっている感覚があり、いや自分は元から二重だったのか、一重だったのか、そもそも異世界へ来てから鏡を見る余裕がどれほどあったのかという、今考えなくていい自己認識問題まで浮上し始めているあたり、脳の予備電源もかなり怪しかった。
「ユンケル飲んでシャキッとしたい……」
白華隊詰所の客室で、朝の支度をしながらとおるは呻いた。前世でコンビニの冷蔵棚に並んでいた小瓶。社会人らしき人々が試験前の学生や終電間際の会社員のような顔で手に取っていた、黄色くて濃くて、値段を見ると少しだけ人生の重みを感じる飲み物。あれが今、猛烈に恋しい。実際に飲んだところで聖騎士試験の最終日を乗り切れるかは分からないし、巨大魔物と戦った翌々日に対人戦をやらされる身体へ栄養ドリンク一本で何とかしろというのは、沈みかけた船に紙コップで排水作業を命じるようなものではあるものの、精神的な儀式として必要だった。
「ユンケルとは何だ」
扉の外からミレイユの声がした。なぜ聞こえているのか。白華隊の客室扉は防音性能に改善の余地がある。
「栄養を飲む小瓶です」
「薬か?」
「薬というより、己の限界を見なかったことにする液体です」
「危険なものではないか」
「この試験ほど危険ではありません」
「早く出ろ。集合時間だ」
「壁に顔を埋めて五分だけ現実から離れてもいいですか」
「駄目だ」
「最近、駄目と言われる速度で王国記録を狙える気がしてきました」
扉を開けると、廊下にはすでにミレイユが立っていた。白基調の軽装鎧は磨かれ、銀灰色の髪はきちんと後ろで結ばれている。顔色には昨日の疲労がわずかに残っているはずなのに、姿勢だけは折れた剣を無理に伸ばしたみたいに真っ直ぐで、とおるはその意地の強さへ半分感心し、半分心配になった。
「ミレイユさん、腕、大丈夫なんですか」
「問題ない」
「出た、一回目の問題ない」
「何だそれは」
「白華の人は三回指摘されないと負傷を認めないというネロ仮説です」
「黒蓮の者の戯言を真に受けるな」
「でも肩の動き、少し硬いですよ」
「問題ない」
「二回目」
「うるさい」
「呼吸もちょっと浅いような」
「問題……少しだけ、違和感はある」
「仮説、立証されかけていますね」
「黙れ。お前こそ歩き方が老人だぞ」
「筋肉が過去の出来事を許してくれません」
二人が廊下を進むと、食堂前にはアルセント、カナデ、バスティアン、ネロが揃っていた。アルセントは疲労すら礼装の一部に見せる爽やかな貴族的能力を発揮し、髪も鎧も乱れなく整っている。バスティアンは朝食の籠を片手に持ち、二日目の行軍で誰より荷物を運んでいたはずなのに、今朝も元気にパンを噛みちぎっている。カナデは明らかに眠そうで、銀鈴付きの杖を抱えながら目元をこすり、ネロはいつも通り顔色が悪いため、疲れているのか通常営業なのか判断しにくかった。
「おはよう、壁山。昨日はよく眠れたかい」
アルセントが涼しい顔で尋ねる。
「眠りはしたんですが、夢の中でもガロン試験官に講評されました」
「それは災難だったね」
「夢の中の俺はなぜか封印杭ではなく箸を打ち込んでいて、『持ち方が悪い』と減点されました」
「疲労が創作性を帯びているな」
ネロが興味なさそうに言う。
「分析しないでください。夢くらい個人情報です」
「俺はよく寝たぞ!」
バスティアンが胸を張った。
「横になったら朝だった!」
「羨ましいを通り越して、睡眠の才能が騎士団推薦枠レベルですね」
「壁山も飯を食えば元気になる!」
「胃が今、試験への出席を拒否しています」
「芋なら入るか?」
「芋は別枠です」
そんなやり取りをしながら、第十七班の六人は試験最終日の会場へ向かった。王樹練兵聖庭のさらに奥、普段は一般の訓練生すら立ち入りを制限される区画にその舞台はあった。名を〈誓華円舞台〉という。王国成立以前、世界樹の根元に集った十二の守護団が互いの技と誓いを確かめ合うために刃を交えた場所を起源とする古い決闘場であり、聖騎士試験の最終日にだけ正式開放される伝統の舞台である。
石畳の回廊を抜け、白い柱が並ぶ長い坂を上がるにつれ、周囲の空気は少しずつ変わっていった。騎士団区画特有の鉄と汗と革の匂いが薄れ、代わりに清められた水、古い石、世界樹の葉から落ちる微かな樹香、遠くで鳴る鐘の余韻が混じり合う。回廊の壁には、歴代の聖騎士候補たちが最終試験で交わした誓いの言葉が細い銀文字で刻まれていた。
〈刃は民のために〉
〈盾は背後の者のために〉
〈勝利より守護を重んじよ〉
〈恐れを知らぬ者ではなく、恐れを越える者であれ〉
最後の一文を見た時、とおるは少しだけ足を止めた。恐れを知らぬ者ではなく、恐れを越える者。格好いいとは思う。めちゃくちゃ格好いいとは思うのだが、恐れのほうがかなり大きい場合、越えるというより登山に近いし途中に休憩所と売店が欲しい。
「どうした」
ミレイユが振り返る。
「いい言葉だなと思いまして」
「そうか」
「あと、恐れを越えるための交通手段が欲しいです」
「ちゃんと歩け」
「精神論が徒歩指定」
坂を上がりきると、視界が一気に開けた。〈誓華円舞台〉は、巨大な円形闘技場だった。中央には白と青の石を組み合わせた広大な舞台があり、その表面には十二の花弁を模した紋様が放射状に彫り込まれている。舞台の外周には薄い水路が巡り、そこを流れる清水が光を反射して床そのものがゆっくり息をしているように見えた。観覧席は三段構造で、下段には試験官と補助官、中段には各隊の推薦者や関係者、上段には王宮魔導院、神殿庁、軍務府、封境管理局などの代表が控える席がある。最上部には世界樹の若枝を象った銀の梁が張り巡らされ、風が通るたびに小さな葉飾りが触れ合って澄んだ音を立てた。天井はない。高い空の下、王都の中心にそびえる世界樹の枝が、まるで舞台全体を見下ろす巨大な天蓋のように広がっている。
舞台の四方にはそれぞれ大きな紋章柱が立ち、白華、金蘭、紅椿、蒼菫、黒蓮を含む十二華隊の紋章が、古い戦傷を残したまま磨かれていた。格式。歴史。伝統。そういう重たい言葉が、石と水と光の中へしっかり染み込んでいる場所だった。
「すごいですね」
カナデが小さく息を呑んだ。
「神殿の大祭壇より、少し空が近く感じます」
「歴代の聖騎士がここで刃を交えたんだ」
アルセントの声も、いつもより少しだけ低い。
「勝敗だけでなく、どんな誓いを持って戦うかを見られる場所でもある」
「つまり、面接と実技が合体しているんですね」
「壁山の言い方は、伝統から香りを抜き取る力があるな」
ネロがぼそりと言った。
「伝統の匂いが強すぎると緊張で胃がやられるので、少し換気しています」
バスティアンは中央舞台を見て、目を輝かせていた。
「広いな! 全力で走れるぞ!」
「走らないでください。今は入場です」
「転んでも痛そうだな!」
「転ぶ前提で床を評価しないでください」
最終試験として用意されていたのは、これまでの複雑な課題群とは対照的なほど規則そのものは単純でありながら、王国騎士団の長い歴史と伝統を背負うにふさわしい儀礼性と緊張感に満ちた決闘形式の対人戦である。
ここへ至るまでの試験では候補者が生まれ持った魔力の量や質だけではなく、それをどの程度正確に制御できるか、術式の構造を理解し、状況に応じて応用できるか、突発的に現れた魔物へ恐慌を起こさず対処できるか、班の仲間と連携しながら互いの長所と欠点を補えるか、護衛対象と任務達成のどちらを優先すべきかを適切に判断できるか、長時間の行動へ耐えうる体力と極限状態でも折れない精神力を備えているか、さらに自分だけでなく周囲の危険まで把握して最悪の事態を回避できるかといった、騎士として求められる能力が嫌になるほど多角的に、そして逃げ道のない形で確かめられてきた。
そのすべてを通過した最後に問われるのは、候補者が集団の一員ではなく一人の戦士としてどのように戦うのかということだった。
どの距離を選び、どの武器を使い、相手の動きをどう読み、どの瞬間に攻め、どこで退き、何を守るために剣を振るうのか。
そして何より、自らが持つ“他者を傷つけ、場合によっては命さえ奪いうる力”を、感情や恐怖や勝利への執着に流されることなくどこまで正確に制御できるのか。
技量だけではない。
判断力。
覚悟。
騎士として掲げる誓い。
力を振るう者としての節度。
それらすべてを、一対一の戦いという言い訳も責任転嫁もできない場所で見極めるのが最終試験の目的らしい。
対戦相手は事前の抽選によって決定され、ここまで共に課題を乗り越えてきた同じ班の仲間同士ではなく、戦い方も術式も人柄も十分には把握できていない別の班に所属する候補者と一対一で向き合うことになる。
長く行動を共にした仲間が相手であれば癖や間合いや得意不得意をある程度知っているぶん、互いに遠慮が生まれる可能性もあるし、逆に感情的になってしまうこともある。
そのためあえて関係の薄い者同士を組ませ、限られた情報の中で相手を観察し、未知の戦い方へ適応しながら自分の判断だけで勝負を組み立てられるかを見るということだった。
使用される武器は候補者が普段扱っているものとほぼ同じ重量や形状を保ちながら、刃先や穂先を潰し、殺傷力を抑えた試験専用のものに限られる。
もちろん、刃を潰してあるから安全というわけではない。
金属の棒で全力で殴られれば普通に骨は折れるし、重い剣を頭部へ受ければ意識も飛ぶし、術式による衝撃まで加われば刃がないことなど気休めにしかならない。
そのため、試合場全体には致命傷を防ぐための防護術式が幾重にも展開され、一定以上の衝撃や魔力干渉を検知した場合には候補者の身体へ届く威力を自動的に減衰させる仕組みが施されているほか、競技場の脇には治癒術師を中心とした医療班が常時待機し、骨折、裂傷、魔力回路の損傷、意識喪失といった事態が起きた場合でも即座に処置へ入れる体制が整えられていた。
それだけ聞けば万全に思える。
しかし、「致命傷を防ぐ」と「痛くない」はまったく別の話である。
試験官の説明にも、「防護術式は苦痛まで完全に除去するものではない」とわざわざ明記されていた。
つまり死にはしにくいが、痛いものは痛い。
安心できるようで、まったく安心できない。
勝敗条件は明確であり、一方が降参を表明した場合、武器を失い戦闘続行が困難と判断された場合、意識を失うなどして戦闘不能となった場合、防護術式へ規定値以上の損壊が確認された場合、あるいは試験官が危険と判断して試合を停止した場合、その時点で決着となる。
ただし、この試験は単純に相手を倒せばよいというものではない。
相手が動けなくなるまで殴り続ければ高得点、派手な術式で吹き飛ばせば優秀、という単純な競技ではなく、むしろ勝利を求めるあまり必要以上に危険な攻撃を選び、相手の降参を無視し、防護術式を信頼して制御の甘い大技を放つような候補者は、たとえ試合そのものには勝っても騎士としての適性を大きく疑われ、総合評価を落とす。
逆に試合に敗れたとしても、相手の能力を正しく見抜き、不利な状況で最善を尽くし、護るべきものを想定した戦い方を崩さずに危険な場面で無謀な反撃より降参を選べたなら、その判断力や誓いを高く評価されて合格圏へ残る場合もある。
勝つことは重要だ。
しかし勝ち方はそれ以上に重要である。
負けることは不利だ。
しかし負け方によっては騎士としての資質を示せる。
最終試験は剣の腕を競う場であると同時に、勝敗の向こう側にある人間性まで試される場でもあるらしい。
とおるは試験官の厳かで立派な説明を聞きながら、なるほど、と心の中で何度か頷いた。
たいへん格式が高い。
理念も明確だ。
騎士とは単に強い者ではなく、力を正しく扱い、必要な時にだけ振るい、勝利よりも守るべきものを見失わない者であるという考え方にも大いに納得できる。
説明されている内容は、どこを取っても立派だった。
異論はないし反論もない。
問題は、その立派な理念をすべて取り払って要点だけを抜き出すと、結局のところ「最終日は、戦い方も性格も分からない実力者と、観客の前で一対一の殴り合いをしてください」という話になることだった。
かなり胃に悪い。
説明を聞いているだけで、まだ食べてもいない朝食が胃の中へ重く沈んでいくような感覚がある。
対人戦なのだから魔物を相手にするよりは多少ましなのではないか、と考えられればよかったのだが、とおるには到底そう思えなかった。
確かに魔物は恐ろしい。
まず大きい。
牙がある。
角もある。
爪もある。
火を吐くものもいれば、毒を撒くものもいる。
何を考えているか分からず、説得も交渉も通じず、場合によってはこちらを食料として認識している。
存在そのものが怖い。
しかし対人戦の相手は必ずしも大きくない。
牙も角も持っていないことが多い。
話しかければ返事もするし、試合前には礼儀正しく名乗り、一礼までしてくれるかもしれない。
そこだけ見れば魔物より安心できそうに思える。
けれど人間は考える。
こちらの視線を読む。
呼吸の乱れを読む。
足の向き、肩の動き、武器を握る指の強さから、次に何をしようとしているのかを探ってくる。
攻撃すると見せかけて退き、退くと見せかけて踏み込み、右を狙うふりをして左へ回り、あえて隙を見せてこちらを誘い、その隙を狙った瞬間に別の攻撃を重ねてくる。
魔物は咆哮してから突進してくることが多い。
人間は微笑みながら間合いを詰めてくることがある。
魔物は殺意を隠さない。
人間は礼儀正しく一礼し、「よろしくお願いします」と穏やかな声で挨拶した直後、開始の合図と同時に喉元、手首、膝、脇腹といった、こちらが最も嫌がる場所へ正確に剣を伸ばしてくる。
しかもその攻撃が失敗すれば、すぐにこちらの反応を観察しながら次の手を変えてくる。
弱点を見つけてくる。
迷いを利用してくる。
恐怖を誘う。
焦りを待つ。
表情で誘導し、声で惑わせ、あえて挑発し、こちらが冷静さを失った瞬間に仕留めにくる者さえいるかもしれない。
そう考えると、話が通じるということは必ずしも安心材料ではなかった。
話が通じるからこそ言葉まで武器になる。
考える力があるからこそこちらの嫌がることを選んでくる。
礼儀を知っているからこそ、礼儀正しいまま急所を狙える。
ある意味では魔物よりもずっと怖い。
少なくとも魔物は試合前に爽やかな笑顔で握手を求め、その手の温かさに安心した直後、開始の合図と同時に足を払ってきたりはしない。
たぶん。
魔物の種類によっては似たことをするかもしれない。
とおるはそこまで考えたところで、それ以上想像を広げるのをやめた。
最終試験は、格式高い決闘式の対人戦。
言葉にすれば立派である。
実際にやることは知らない相手と向かい合い、相手の考えを読み、こちらの考えを隠し、武器を振るい、振るわれ、それでも力を制御しながら勝利を目指すこと。
どう言い換えても、胃に優しい要素は一つもなかった。
「壁山さん、顔色が……」
カナデが心配そうに覗き込む。
「人間相手って、魔物より複雑で怖くないですか」
「分かります。僕も、魔物の咆哮より試験官の沈黙のほうが怖い時があります」
「分かり合える人がいて救われます」
「でも壁山さん、昨日バルガロスの足元へ入ってましたよね」「あれは人生のバグです」
全班が集まる広間は、円舞台の西側に設けられた大広間だった。天井は高く、壁面には十二華隊の旗が垂れ、床には舞台と同じく十二枚の花弁を組み合わせた紋様が描かれている。受験者たちは班ごとに整列し、人数にして百名弱。地方軍出身者、王都の騎士学校生、神殿庁の推薦者、貴族家の子弟、各華隊の見習い、冒険者上がりの特例候補、どこかの辺境から来た猛者らしき人物まで、見た目も装備も表情も実に多様だった。
ここへ並ぶと、とおるは改めて自分が場違いな気分になる。周囲は「剣に生きます」「民を守ります」「王国へ忠義を捧げます」という顔をしているのに、自分だけ「可能なら早退したいです」という内心を丸盾の裏へ貼り付けている。開会式では聖騎士試験総監を務める老騎士エルドラン・ザイツが舞台前へ立った。白い髭を短く整え、片目に古い傷が走り、杖代わりに持つ長剣の柄には擦り切れた革紐が巻かれている。年齢を感じさせる外見に反して、彼が一歩前へ出るだけで広間のざわめきは自然に消えた。
「候補者諸君」
低い声が、広間全体へ静かに届く。
「ここまで残ったことをまず誇るがよい。魔力の才のみでこの場には立てぬ。剣の腕のみでも足りぬ。知識、連携、忍耐、判断、恐れと向き合う力、それらを試されてなお立っている者だけが、今日の舞台へ進む」
老騎士は一人ひとりを見渡すように視線を動かした。
「最終試験は決闘式である。勝て。されど、勝利に溺れるな。敗れよ。されど、誓いまで折るな。刃を向ける相手は敵ではない。同じ門をくぐろうとする者である。相手を壊して得た勝利を、聖騎士団は評価せぬ。己を偽って得た勝利もまた、同じである」
格好いい。広間の空気が引き締まる。とおるも思わず背筋を伸ばしたが、筋肉痛が抗議したのですぐに少し丸くなった。
「なお、舞台上での過度な煽り、故意の防護術式破壊、試験官の停止命令無視、観覧席への攻撃、相手の家柄や外見への侮辱、場外からの不正補助は即失格とする」
急に実務的な注意が入った。
「去年何があったんでしょうね」
小声で呟くと、ネロが隣で
「観覧席へ雷槍を飛ばした人がいたらしい」
と言った。
「なんで知ってるんですか」
「黒蓮の資料室に事故報告があった」
「読む本の趣味が嫌ですね」
「面白いよ、事故報告」
「黒蓮の人にとっての娯楽、全体的に信用できない」
抽選は舞台前の大きな水盤で行われた。候補者の名が刻まれた銀札を神殿庁の記録官が清水へ沈める。水盤には微細な術式が刻まれており、同班同士や過去の試験で既に直接対戦した相手を避けるよう調整されたうえで、二枚ずつ札が浮かび上がる仕組みらしい。透明性があり、格式もあり、見た目も美しい。現代日本で言うところの抽選アプリが、神殿風の演出と歴史の重みをまとった姿である。
「第十七班の組み合わせも、すぐに出るかな」
アルセントが落ち着いた声で言う。
「出なくていいんですが」
「出ないと試験が進まないぞ!」
バスティアンが快活に返す。
「進まないという結果にも一定の価値を見出したいです」
「逃避だな」
ミレイユがばっさり切った。
「否定できないのが悔しい」
広間の中央に据えられた水盤の表面が、誰かの指先で触れられたわけでもないのに淡く波打ち、やがて水底から月光を溶かしたような白銀の輝きがゆっくりと浮かび上がると、その光は細長い札の形へまとまりながら鏡のように澄んだ水面の上へ音もなく姿を現した。
銀札に刻まれた文字を、試験官がひとつずつ読み上げていく。
名前を呼ばれた候補者たちはそれぞれ異なる反応を見せた。
小さく息を呑む者。
口元へ自信ありげな笑みを浮かべる者。
相手の名を聞いた瞬間、わずかに目を細め、頭の中で戦い方を組み立て始める者。
何でもない顔を装いながら、握った拳の中へ爪を食い込ませている者。
広間全体には無数の感情が声にならないまま押し込められており、名前がひとつ読み上げられるたびに空気のどこかで張りつめた糸が一本ずつ鳴っているようだった。
第十七班の名も、順番に呼ばれていく。
「第十七班、ミレイユ・アスター。対戦相手、第五班所属、紅椿推薦、槍術士リガルド・フェイン」
ミレイユは眉ひとつ動かさなかったものの、胸の前で組んでいた腕へほんのわずかに力が入った。
「第十七班、カナデ・レーンベル。対戦相手、第十二班、攻撃術式専攻、セシル・オルディナ」
カナデは相手の名を確かめるように一度だけ瞬きをし、静かに視線を水盤へ戻した。
「第十七班、ネロ・ヴァン・クォーツ。対戦相手、第二班、剣士ダリオ・クロウゼ」
ネロは退屈そうにも見える薄い笑みを浮かべ、まるで対戦相手ではなく、今夜の献立でも告げられたかのように肩をすくめた。
「第十七班、アルセント・ラグナル。対戦相手、第九班、フィリップ・ノーゼン」
アルセントは静かに頷き、その名を記憶の棚へしまうように目を伏せた。
「第十七班、バスティアン・グロム。対戦相手、第九班、オルド・ガイゼル」
バスティアンは一度だけ鼻から力強く息を吐き、すでに試合場へ立っているような顔で拳を握った。
そして。
「第十七班、壁山とおる」
自分の名が呼ばれた瞬間、とおるは反射的に背筋を伸ばした。
別に姿勢を正したところで相手が弱くなるわけでも試合そのものが中止になるわけでもないのだが、人は逃げ場のない場面へ直面するととりあえず背筋だけは伸ばすらしい。
水盤が、一拍だけ静かに揺れた。
ほんの短い間だった。
けれどとおるには、その沈黙が妙に長く感じられた。
銀色の光が水底から伸び、細い札へ形を変えてゆっくりと水面へ浮かび上がる。
刻まれた文字を見た試験官が、よく通る声で告げた。
「対戦相手、第九班、ユリシス・グランヴェル」
その名が広間へ落ちた瞬間、周囲の空気がごくわずかに揺れた。
あからさまな騒ぎではない。
誰かが大声を上げたわけでも、笑ったわけでもない。
それでも、近くにいた候補者たちの視線が一斉に動き、何人かが小声で名を繰り返しつつも少し離れた場所では誰かが「よりによって」と呟いた。
静けさの表面へ、細いひびが走ったようなざわめきだった。
とおるはその微妙な空気の変化を耳ではなく、胃のあたりで感じ取った。
胃壁が、危険を知らせる警鐘のようにきゅっと縮む。
よくない。
非常によくない。
こういう種類のざわつきは、だいたいの場合、「相手が変な人」「相手が強い人」「相手が変で強い人」のどれかである。
できれば第四の可能性として、「名字が少し珍しいだけ」「親戚が有名」「たまたま皆の知人だった」あたりを期待したいところだが、周囲から集まる視線の質がその希望を容赦なく打ち砕いてくる。
同情。
興味。
わずかな期待。
そしてごく一部には「これは面白い組み合わせになった」という、完全に観戦者側の無責任な喜びまで混ざっている。
「ユリシス……」
隣で、カナデが小さく呟いた。
その声に含まれた重さを聞き逃さず、とおるはゆっくりと顔を向ける。
「有名なんですか」
「かなり」
答えたのはカナデだったが、アルセントの表情もそれまでの柔らかなものから少しだけ引き締まっていた。
彼は水盤の向こう側、第九班の候補者たちが集まる位置へ視線を送りながら静かに言う。
「彼との対戦か。少し厄介なところを引いたね」
「少し、ですか」
「君を怯えさせないために、表現を和らげている」
「もう十分怯えています。むしろ正確な情報をください。曖昧な恐怖は想像で勝手に膨らみます」
「それは一理ある」
「今、俺の中ではすでに、ユリシスという人が角の生えた三メートルくらいの怪物になっています」
「人間だよ」
「そこだけは安心しました」
「普通の人間かどうかは、また別の話だけれど」
「安心を返してください」
対戦組み合わせの発表を終えた後、第十七班は係員の案内に従い、試合場に隣接する待合室へ移動した。
そこは厚い石壁に囲まれた横長の控室で、室内には数脚の長椅子と簡素な卓が置かれていた。壁際には武器の刃こぼれや魔力伝導の状態を確認するための調整台が並び、床には防護術式が正常に働いているかを点検する小さな紋章が規則正しく刻まれている。
正面の壁には、観戦用の水鏡が埋め込まれている。
半透明の水膜にはすでに始まった別の試合の様子が淡く映し出され、剣が交わるたびに光が散り、術式が発動するたびに映像の端が水紋のように揺れていた。
室内の片隅には治癒水の入った水差しが用意され、その隣には包帯や止血布が整然と並べられ、さらにその横には乾いたパン、木の実、薄切りの干し肉を入れた軽食用の籠まで置かれていた。
格式ある試験施設らしい行き届いた配慮と、これから殴り合いや斬り合いへ向かう者たちのための実務的な準備が、同じ部屋の中で奇妙に同居している。
高貴なのか物騒なのか、判断に困る空間である。
とおるは長椅子へ腰を下ろした瞬間、緊張によって無意識に支えていた身体の力が一気に抜け、全身が濡れた石像のように沈み込んでいくのを感じた。
できることならこのまま背後の石壁へ溶け込み、壁面に刻まれた模様のひとつとして誰にも気づかれない存在になりたい。
壁山という名字を名乗っている以上、壁へ同化する能力くらい備わっていてもよさそうなものだ。
しかし現実の自分にできるのは壁を出すことだけであって、壁になることではない。
人生において必要だったのは、むしろ後者ではないだろうか。
「さて」
アルセントが卓上へ広げられた対戦表を指先で軽く押さえながら、全員を見回した。
「自分たちの番までは、まだ少し時間がある。相手について分かっている情報と、今年の注目候補について、ひとまず共有しておこう」
「急に受験対策講座の雰囲気になりましたね」
「試合直前に詰め込むのは、あまり褒められた方法ではないけれど、何も知らずに立つよりはいい。対人戦は特に、相手の能力を知っているかどうかで最初の一手が大きく変わるからね」
「ぜひお願いします。俺の初動は基本的に怯えて後ろへ下がることなので、そこを情報で上書きしたいです」
「上書きできるかは、お前次第だ」
腕を組んだまま壁際へ立っていたミレイユが、冷静に言った。
「まず、今年の候補者の中で特に注目されている者は七人ほどいる。すでに実績によって名を知られている者、各隊の推薦候補の中でも突出した技量を持つ者、あるいは通常の騎士候補には見られない特殊な技能やスキルを有する者たちだ」
「七人もいるんですか」
「多いと感じるか」
「一人か二人なら、運が良ければ最後まで当たらずに済むかもしれないと思えますけど、七人いると試験会場のどこを向いても強敵がいる気がしてきます」
「実際、今年は全体的な水準が高い」
「嫌な年に受けてしまった」
「受けると決めたのは貴様だ」
「決めさせられた部分がかなりあります」
「最終的に頷いたのはお前だ」
「正論の逃げ道がない」
ミレイユはわずかに顎を上げた。
「それに、お前もある意味では注目されている側だぞ、壁山」
「やめてください」
とおるは即座に両手を上げた。
「注目は人体に有害です。視線を浴びると集中力が落ち、胃が縮み、逃げ道ばかり探すようになります」
「壁の能力を持つ異邦人としても知られているが、それ以上に――」
ミレイユがわずかに間を置く。
その間だけで、とおるには続く言葉がろくでもないものだと分かった。
「壁に騎士団長を埋めた男として」
「その一文で俺の人生を要約しないでください!」
控室へ、とおるの抗議の声が響いた。
水鏡の中ではちょうど別の候補者が派手な術式を炸裂させ、観客席から歓声が上がっている。
その眩しい光景を横目にネロが長椅子の背へゆったりと身体を預け、口元へ薄い笑みを浮かべた。
「悪くない異名だと思うが」
「どこがですか」
「一度聞いたら忘れない」
「忘れてもらいたいんですよ、俺は」
「諦めろ」
ネロは淡々と言い、さらに笑みを深める。
「目立ちたくない人間ほど、妙な形で名が残るものだ」
「そんな人生の法則、知りたくなかったです」
とおるは深く息を吐き、背後の壁へ頭を預けた。
冷たい石の感触が熱を持った後頭部へ心地よい。
せめて対戦が始まるまでの短い間だけでも何も考えず、このまま壁へ寄りかかっていたい。
「一人目は、言うまでもなくミレイユ・アスターだね」
アルセントは卓上へ広げた候補者一覧の最上段を指先で軽く叩き、本人がすぐ近くに立っているにもかかわらず、あえて講評する者らしい落ち着いた口調で話し始めた。
「白華隊推薦。火属性と雷属性を複合させ、肉体強化と武器強化を同時に行う〈白雷〉の使い手で、剣技、瞬発力、近距離での制圧能力、前衛突破力のいずれも高く評価されている。剣を振る速さだけなら上位候補の中でも指折りで、一度踏み込みを許せば、防御を整えるより先に間合いを潰される。まだ正式な騎士ではないにもかかわらず、隊長リディア・アルヴェインの後継候補と見る者も少なくない」
「後継などと、軽々しく口にするな」
ミレイユはすぐさま顔を険しくし、胸の前で組んでいた腕へわずかに力を込めた。
褒められた者が見せる照れや謙遜というより、尊敬する者の名を安易な比較へ使われたことに対する、純粋な不満がその眉間には刻まれている。
「私はまだ、隊長の背中にすら届いていない。技量も判断力も、部隊を預かる覚悟も、何ひとつ足りていない」
「その謙虚さを、普段の会話にも少し分けてほしいです」
とおるが小声で呟くと、ミレイユの視線が鋭く横へ滑った。
「何か言ったか」
「いえ、敬意に満ちた感想を心の奥深くへ埋葬しました」
「今、口から出ていたぞ」
「埋める前に少しこぼれました」
「今度は完全に埋めろ」
「はい」
アルセントは二人のやり取りを穏やかな笑みで見届けると、一覧へ視線を戻した。
「二人目は、第一華隊〈金蘭〉推薦、ジークハルト・レオンハルト。金属性と聖属性を併せ持つ剣士で、固有スキルは〈王煌剣〉」
その名を聞いた瞬間、待合室の空気がほんのわずかに引き締まった。
とおるですら聞き覚えがある。
王都へ来てから何度か、食堂や訓練場で耳にした名だった。
「彼の能力は、剣身へ黄金色の魔力骨格を重ね、その刃そのものだけでなく、振り抜かれた斬撃の軌道まで一時的に硬化させる。普通の剣撃なら、刃を避ければそれで終わるけれど、〈王煌剣〉の場合、振り抜かれた後の軌道に硬質化した魔力が残るため、後からその線へ触れても斬られる。防御側からすれば、避けたはずの一撃がその場に残り続けるようなものだね」
「剣を振った後に、見えない刃物の柵が残るようなものですか」
「近いね。しかも本人の剣技が高いから、意図的に退路を塞ぎながら戦場を狭めてくる」
「嫌ですね。剣士というより、戦いながら危険区域を増設してくる建築業者みたいです」
「本人の前では言わないほうがいい」
「言う機会がないことを祈ります」
アルセントは小さく笑い、説明を続けた。
「外見は金髪に琥珀色の瞳。白金の鎧は、実戦用でありながら儀礼装束のように隙なく整えられている。王都剣術院を主席で卒業し、礼儀正しく、判断も早く、剣にも言葉にも無駄がなく、そして自分が注目されることに一切ためらいがない」
「アルセントさんと、方向性が少し似ていますね」
「私はもう少し風通しがいい」
「貴族の自己評価は、表現まで優雅なんですね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「半分くらいは褒めています」
「残り半分が気になるね」
長椅子へ腰掛けていたネロが、組んだ脚の上へ肘を置き、一覧の次の名へ視線を落とした。
「三人目は、北方神殿から来たイリス・ノルデン。氷属性と音響術式の複合型で、分類は領域操作。スキル名は〈凍唱環〉」
ネロの説明は、アルセントのものより短く、余計な飾りがない。
そのぶん、ひとつひとつの言葉が妙に冷たく聞こえた。
「歌声で空気中の水分を振動させ、指定した範囲へ氷晶の輪を形成する。輪の内側では音の反響と冷気が重なり、相手の感覚と呼吸を鈍らせる。氷の刃を直接飛ばすこともできるが、本当に厄介なのは、歌い続ける限り領域が少しずつ広がることだ」
「止めないと、周囲がだんだん凍っていくんですか」
「そうだ。しかも彼女は息継ぎが異常に長い」
「そこは地味に大事な情報ですね」
「外見は腰まで届く白い髪、淡い青の瞳、背は高くなく、細身で、普段はほとんど喋らない。声をかけられても頷くか首を振るだけだ」
「無口なんですね」
「喋らないかわりに、歌うと周囲の温度が下がる」
「怖いですね。カラオケで同席したら、飲み物も料理も全部冷えそうです」
ミレイユが怪訝そうに眉を寄せた。
「からおけとは何だ」
「前の世界で行われていた民間儀式です」
「儀式?」
「狭い部屋へ集まり、順番に歌い、上手い者は賞賛され、下手な者も勢いで押し切り、最後には全員が少し喉を痛めます」
「何を祈る儀式なんだ」
「翌日、その場で歌った内容を皆が忘れていることです」
「理解できん」
「俺も説明していて、急に分からなくなりました」
カナデは膝の上で両手を重ねたまま、少し緊張した面持ちで四人目の名へ視線を移した。
「四人目は、東方辺境から来たラオ・シュウメイさんです。風属性と雷属性を使う身体操作系で、スキルは〈雷歩絶影〉。武器は腕の長さほどの短い双棍を使います」
彼は一度言葉を切り、記憶を確かめるように目を伏せた。
「黒髪を後ろで細く編んでいて、体格はそれほど大きくありません。身長もここにいる男性陣よりは低いと思います。ただ、足運びがまったく読めないそうです。速く走るというより、相手が目を向けた瞬間には、もう別の位置へ移っているように見えると」
「消えるんですか」
「本当に消えるわけではないです。ただ、風で身体の重心を浮かせ、雷で筋肉の収縮を一瞬だけ加速させることで、予備動作をほとんど見せずに方向を変えるらしくて。神殿庁の測定では、純粋な反応速度だけなら今年の候補者で最速かもしれないと言われています」
「最速」
とおるは、その単語だけを嫌そうに繰り返した。
「嫌な響きですね。こちらが何か考える前に、すべて終わっていそうです」
「ミレイユさんの〈白雷〉と似ている部分はありますけど、方向性は違います。ミレイユさんは直線的な加速と突破力が強くて、ラオさんは消えるような方向転換や死角への移動が得意みたいです」
「速さにも、いくつも種類があるんですね」
「当然だ」
ミレイユが答える。
「踏み込みの速さ、反応の速さ、術式展開の速さ、重心移動の速さ、相手の認識から外れる速さ。それぞれ意味が違う」
「では、俺の逃げ足はどの分類でしょう」
「心理的後退だな」
ミレイユは一拍も置かずに答えた。
「肉体より先に心だけ逃げている」
「勝手に新しい分類を作らないでください」
「事実だ」
「身体も後から追いつきます」
「余計に悪い」
籠の中を物色していたバスティアンは、握り拳ほどもある蒸かし芋をひとつ取り出すと、それを片手で二つに割りながら声を張った。
「五人目は、オルド・バレッドだ!」
試合前の控室とは思えないほど明るい声が、石壁へ反響する。
「西砦から来た大男で、土属性と金属性の強化系、〈城塞身〉を使う! 身体がでかい! 盾もでかい! 声もでかい! それから、よく食う!」
「紹介に親近感が混ざりすぎています」
「いい奴だぞ! 昨日の夕食で肉を三皿、豆を二皿、芋を五つ食っていた!」
「バスティアンさんの人物評価へ、食事量が大きく関与していることだけはよく分かりました」
「よく食う奴に悪い奴は少ない!」
「根拠が胃袋しかない」
「だが、〈城塞身〉が厄介なのは確かだよ」
アルセントが苦笑しながら補足した。
「肉体と鎧の境界を金属性の魔力で一体化させ、さらに土属性で足元の重心を固定する。バスティアンの〈巌衝〉が、大地との接続から力を引き出し、踏み込みや衝撃へ変える能力なのに対し、オルドは大地へ自分自身を縫いつけるようにして耐える。押しても崩れず、斬撃も鎧の表面で散らされ、正面から打ち合えば相手だけが消耗していく」
「つまり、自分自身を小さな城壁にするわけですか」
「そう考えていい」
「俺より壁らしい人が出てきましたね」
とおるは少し複雑そうに呟いた。
「名字に壁を持っている者として、存在意義を脅かされています」
「君は、もっと変な壁だよ」
「褒められていないのに、妙に納得できてしまう」
「普通の壁は、術式を乱したり空中へ足場を作ったりしないからね」
「普通の壁に戻りたい」
「最初から君は壁ではない」
「そこを正されると、話の土台が崩れます」
カナデは六人目の名を確認すると、少しだけ表情を和らげた。
「六人目は、神殿庁推薦のテレサ・リュミエールさんです。木属性と聖属性を使う召喚領域系で、スキルは〈聖樹庭〉」
「名前だけなら、かなり穏やかそうですね」
「能力も、基本的には味方を守るためのものです。小さな白い枝の精霊を何体も呼び出し、一定範囲へ治癒作用のある根と、相手の動きを止める拘束用の蔓を広げます」
「治癒と拘束が同時に来るんですか」
「はい。味方には治癒、敵には拘束として働くそうです」
「判定を間違えたら大変ですね」
「精霊が見分けるので、通常は大丈夫だと思います」
カナデは少しだけ考え、それから付け加えた。
「外見は淡い栗色の髪で、いつも少し眠そうにしています。話しかけても返事が一拍遅くて、試合前でも目を閉じていることが多いんですけど、負傷者対応試験ではほぼ満点だったそうです」
「眠そうなのに、治療は正確」
「神殿庁では有名みたいです。逃げる負傷者や、治療を嫌がる子どもを根で捕まえたことがあるという噂も」
「治癒と拘束……優しいのか怖いのか、急に分からなくなりましたね」
「助けるためなら拘束も辞さない、ということだろう」
ミレイユが真面目に言う。
「医療現場の倫理が試される能力だ」
とおるは想像した。
眠そうな顔の少女が逃げる患者を白い根で絡め取り、静かな声で「動かないでください」と言いながら治療する光景。
優しい。
たぶん優しい。
ただし逃げられない。
六人分の説明が終わったところで、ネロが一覧の最後へ視線を落とした。
それまでほとんど表情を変えていなかった彼の口元が、その名を見た瞬間だけごくわずかに歪む。
笑みというより、面倒な仕掛けを思い出した者の顔だった。
「七人目が、君の対戦相手だ」
ネロの灰色の視線が、とおるへ向く。
「第九班、ユリシス・グランヴェル。王宮魔導院特別推薦。属性は無属性と金属性、能力分類は付与、操作、特殊の混合型。固有スキルの名は〈秤の冠〉」
「秤の冠」
とおるは無意識に、その名を繰り返した。
「どうしてでしょう。名前を聞いただけなのに、嫌な予感しかしません」
「嫌な予感は、当たることが多い」
「試合前に縁起でもない事実を述べないでください」
ネロは気にした様子もなく続ける。
「外見は、薄い金茶の髪に灰色の目。細身で、背は平均より少し高い程度。服装はいつも整っていて、季節を問わず両手に黒い手袋をしている。貴族ではあるが武門の家ではなく、代々、契約術式、魔導具鑑定、資産や魔力媒体の価値判定を扱う家系の出身だ」
「だから秤なんですか」
「関係はあるだろうね。ただし、彼の秤が量るのは金貨や宝石だけではない」
ネロは指先で卓を一度叩いた。
「対象の力、魔力、動作、判断。そのすべてへ、任意の“重み”を与える」
「重み」
「物理的な重量だけではない。剣を振る腕へ重さを加えれば、刃は鈍る。足を踏み出す動作へ重みを乗せれば、一歩目が遅れる。術式を発動する直前、その命令を伝える魔力経路へ負荷をかければ、起動がわずかに遅延する。さらに厄介なのは行動そのものではなく、行動へ移る判断にも干渉できることだ」
とおるは眉を寄せた。
「判断を重くする、というのは」
「右へ避けるか、左へ避けるか。その選択に迷いを増やす。攻めるか退くか決めるまでの一瞬を、ほんの少し長くする。動けなくするほど強い拘束ではない。けれど対人戦で一拍の遅れは致命的だ」
ネロの説明を聞くほど、能力の嫌らしさが輪郭を帯びていく。
直接切り裂くわけではない。
炎を浴びせるわけでも、雷を落とすわけでもない。
ただ、本来なら滑らかにつながるはずの思考と行動の間へ、小さな重石をひとつずつ置いていく。
剣を振ろうとすれば腕が鈍る。
逃げようとすれば足が遅れる。
術式を使おうとすれば意識が引っかかる。
ひとつひとつは小さな遅れでも、重なれば人間の動きは確実に崩れる。
「それ、かなり嫌な能力では?」
「かなり嫌だよ」
アルセントが苦笑した。
「相手へ主導権を渡したと気づいた時には、普段通りに動くこと自体が難しくなっている」
「黒蓮でも評判が悪い」
ネロが淡々と付け加える。
「黒蓮に評判が悪いと言われるのは、相当ではありませんか」
「研究対象としては興味深い。対戦相手としては関わりたくない。そういう評価だ」
「後半だけ全面的に同意します」
「しかも、ユリシスは相手が苛立つほど術式の精度を上げる」
「性格の話ですか」
「技術の話だ。相手が焦り、必要以上に力を込めれば、その増した力へさらに重みを乗せる。急いで攻めれば、急ぐ意思そのものを利用して動作を鈍らせる。慌てて逃げようとすれば、逃走へ向けた意識が強いほど、足へかかる負荷も大きくなる」
「俺との相性、最悪では?」
とおるは思わず自分の膝へ視線を落とした。
普段から逃げる意思だけは誰にも負けない自信がある。
危険を見れば後退し、強そうな相手を見れば距離を取り、可能なら壁の陰へ隠れたいと考える。
その豊富な逃走意思へ重みを加えられた場合、もはや心へ漬物石を積まれたような状態になるのではないか。
「相性は、良いとは言えないかもしれない」
アルセントは慰めるより先に、正直な答えを返した。
「もっと柔らかく言ってください」
「言葉を柔らかくしても、相性は変わらないからね」
「正論が鋭い」
「ただし、対抗する余地がないわけではない」
アルセントは卓上の対戦表を指先でなぞりながら、とおるの能力を確かめるように言った。
「君の〈壁〉は、自分の身体へ直接まとわせる強化術式ではなく、外部へ出して空間の間に置く能力だ。ユリシスが君自身へ重みを乗せるのか、壁を形成する術式へ負荷をかけるのか、あるいは壁を置く判断そのものへ干渉するのか。それを見極められれば、対応の方法はある」
「簡単そうに言っていますけど、今の説明を聞いた時点で俺の心はもう相当重いです」
「そこへ〈秤の冠〉が乗れば、さらに重くなるな」
ネロが平然と余計な言葉を重ねた。
「やめてください。試合前から精神へデバフをかけないでください」
「事実を想定しただけだ」
「皆さん、事実という言葉を免罪符に使いすぎでは?」
ミレイユは腕を解き、真剣な目でとおるを見た。
「ユリシスは強い。それは間違いない。魔力量だけを見ればあいつより上の候補者は何人もいる。単純な火力でも、私やジークハルト、イリスのほうが高いだろう」
「自然に自分も含めましたね」
「事実だ」
「出た」
「だが、対人戦で相手を不自由にする技術に限れば、ユリシスは今年の候補者でも屈指だ。正面から力比べをする相手ではない。焦った時点で、あいつの術中へ入ると思え」
「焦らないことが重要」
「そうだ」
「俺に一番難しい課題ですね」
「今から慣れろ」
「焦らない訓練は、どうやってやるんですか」
「焦る状況へ何度も置かれる」
「発想が白華隊」
とおるは深く息を吐き、改めて卓上の対戦表を見た。
そこには銀色の文字で、壁山とおる、ユリシス・グランヴェル、と並んで記されている。
「そもそも、どうして俺がこんな相手と当たるんですかね」
「抽選だ」
ミレイユが答えた。
「抽選には、人の心というものがないんですか」
「ない」
即答だった。
まったくもって、その通りである。
水盤へ情緒や慈悲を期待した自分が間違っていた。
待合室の壁へ埋め込まれた水鏡には、すでに開会直後の第一試合が映し出されていた。
青白い光をまとった剣と、赤い穂先の槍が激しくぶつかり合い、金属音が水面越しにくぐもって響くたび、観覧席から小さなどよめきが起こる。
格式ある舞台の上で、候補者たちはそれぞれの誇りや誓い、推薦者から託された期待、これまで積み上げてきた年月を背負い、誰一人として軽い気持ちでは立っていない。
第十七班の出番も、確実に近づいている。
ミレイユは比較的早い順番。
カナデは中盤。
アルセントとバスティアンは、第九班の別候補を相手に、ほとんど連続する形で試合へ入る。
そしてとおるの名は、その少し後に置かれていた。
逃げる時間はない。
逃げ道もない。
けれど準備する時間だけなら、ほんの少し残されている。
「壁山」
アルセントが言った。
「ユリシスと戦うなら、最初に自分の動きを重くされる可能性を考えたほうがいい。足、腕、魔力、判断。どこへ来るか分からない」
「全部嫌です」
「全部警戒するのは無理だよ」
ネロが水差しから水を注ぎながら言う。
「だから、重くされて困るものを一つに絞るといい」
「どういうことですか」
「例えば逃げ道を複数持つほど、選ぶ負荷が増える。ユリシスはそこを突く。なら最初から、自分の役割を単純にしておく。逃げる、守る、攻める、どれも半端に考えるより、“ここへ壁を置く”と決めたほうが動きやすい」
「黒蓮なのにまともな助言だ」
「黒蓮を何だと思っているの」
「採取と観察と事故報告を娯楽にする人たち」
「否定しきれないな」
カナデがそっと杖の鈴を鳴らした。小さな音が待合室の空気を柔らかくする。
「壁山さん、呼吸が浅くなったら、吐くのを意識してください。昨日も、それで少し落ち着いていました」
「ありがとうございます。カナデさんの助言は心に優しい」
「僕も自分の試合が近づいたら、たぶん顔色がなくなるので、その時は何か言ってください」
「一緒に深呼吸しましょう」
「はい」
バスティアンが大きな手でとおるの背中を叩いた。加減はされていた。されていたはずなのに、肺から空気が出た。
「壁山なら大丈夫だ! バルガロスの足の下でも壁を置いただろう!」
「比較対象が強すぎて安心できません」
「ユリシスはバルガロスより小さいぞ!」
「サイズだけで強敵評価を決めないでください」
ミレイユは静かに言った。
「お前の壁は、相手の力を真正面から受けるためだけのものではない。重くされるなら、重さが乗る前の間を見ろ」
「……間」
「そうだ。お前は、そこを見るのが得意なのだろう」
リディアに言われたような気がした。あるいは、星の塔の扉の声が遠くで響いた気もした。世界の外側から来たもの。境界に立つもの。大げさな言葉は、今のとおるにはまだ重すぎる。できればユンケル一本で軽くしたい。けれど、目の前の試合一つぶんくらいなら、何とか持ち上げてみるしかないのかもしれない。水鏡の中で第一試合が終わり、試験官の声が控室にも届いた。次の試合の候補者名が呼ばれ、ミレイユが立ち上がった。
「行ってくる」
「頑張ってください」
「当然だ」
彼女はそれだけを短く言い残すと、余計な言葉を足すことも振り返って誰かの反応を確かめることもなく、控室の扉へ向かって歩き出した。
その背中には、先日までの戦闘や緊張が積み重なった疲労が確かに滲んでおり、肩の位置も普段よりほんの少しだけ下がっているようにも見えた。それでも姿勢そのものは決して崩れず、まだ〈白雷〉の眩い光を一筋もまとっていないにもかかわらず、ただ前へ進むという意志だけを人の形へ押し込めたような妙に真っ直ぐで力強い背中だった。
とおるはそんな彼女の後ろ姿が扉の向こうへ消えていくまで見送った後、できれば二度と視界へ入れたくなかった卓上の対戦表へ、現実から逃げ切れなかった者特有の諦めた目を戻した。
そこには何度確認しても文字の並びが入れ替わることなく、壁山とおるという自分の名とユリシス・グランヴェルという対戦相手の名が、銀色の筆致で実に仲良さそうに並んでいる。
第九班。
今年の注目候補。
王宮魔導院特別推薦。
固有スキル、〈秤の冠〉。
他人の力や動作判断へ目に見えない“重み”を与え、焦れば焦るほど、力めば力むほど、逃げたいと思えば思うほど、その意思そのものへ余計な負荷を積み重ねてくる男。
情報を整理すればするほど対策が立つどころか、とおるの瞼には鉛の板が貼りつき、肩には湿った米俵が載せられ、最後には魂そのものへ巨大な漬物石を置かれそうな気分になってくる。
まだ試合は始まっていない。
術式も受けていない。
なのに、想像だけで先行して重い。
相手の能力に対し、精神が自主的に模擬体験を始めている。
「……やっぱり、ユンケルが欲しいな」
黄色と黒を基調としたあの小瓶を遠い目で思い浮かべながら誰へ聞かせるでもなく小さく呟くと、向かい側へ座っていたネロが何の感慨もなさそうな顔で卓上の水差しを持ち上げた。
「ただの水ならあるよ」
そう言って差し出された水差しは、透明で清潔でひんやりとしており、健康維持には極めて有用そうだった。が、残念ながら、とおるが今求めている「一口飲めば疲労も不安も人生への疑問もまとめて吹き飛び、ついでに強敵へ立ち向かう根拠のない自信まで湧いてくる奇跡の液体」とはかなり方向性が異なっていた。
「効能は?」
「水分補給」
「現実的すぎる」
「喉が潤う」
「知っています」
「脱水を防ぐ」
「薬師の説明書みたいに情報を足さないでください」
「欲しがったのは君だろう」
「俺が欲しかったのは、もう少し夢のある飲み物です」
「水にも夢はある」
「どのあたりに?」
「砂漠では人気だ」
「状況を極端にして価値を上げないでください」
それでも乾いた喉が水分だけは欲していたため、とおるは差し出された水差しを受け取り、卓上に置かれていた銀杯へ静かに注いだ。
細い水音が控室の中へ落ちる。
杯を口元へ運び、一口飲む。
冷たい水が舌を濡らし、熱を持った喉を滑り落ち、胸の奥へ細い冷気の筋を残していくと、対戦相手の説明を聞いてから半分ほど遠くへ出かけていた意識がようやく身体の中へ戻ってきた。
頭が少しだけ冴える。
胃の重さは変わらない。
勇気も増えていない。
筋力も魔力も伸びていない。
だが、少なくとも喉は潤った。
水の効能としては、まったく正しい。
「……本当に水分補給しか起きませんね」
「水だからね」
「奇跡的な覚醒とか」
「しない」
「隠された力が目覚めるとか」
「しない」
「対戦相手が急な腹痛で棄権するとか」
「それは水の効能ではない」
「可能性の話です」
「低いね」
「夢がない」
「試験前に他人の腹痛を願うほうが問題では?」
「言い方を変えると、相手の体調を気遣っています」
「意味が反対になっている」
とおるは銀杯を両手で持ったまま、深く息を吐いた。
栄養ドリンクはない。
有給休暇もない。
振替休日もない。
試験は中止にならない。
対戦相手は強い。
能力の相性も、おそらく悪い。
逃げ道は少ない。
控室の窓は高く、扉の向こうには係員がいて、仮に今から腹痛を訴えたとしても先ほど普通に軽食を食べているところを複数人に目撃されている。
状況証拠までこちらの逃走を妨げている。
けれど、完全に何もないわけではない。
自分には〈壁〉がある。
目の前を塞ぐことも、相手との間を分けることも、足場を作ることも、攻撃の軌道をずらすこともできる。
自分自身が逃げ切れる道は見つからなくても、壁を置ける場所だけならたぶん戦場のどこかに残っている。
そう考えるしかなかった。
とおるは残っていた水を飲み干すと、銀杯を卓上へ戻した。
硬い木の天板と杯の底が触れ、小さく乾いた音を立てる。
その直後、分厚い石壁の向こう、試合舞台のある方向から観衆の大きな歓声が波のように押し寄せてきた。
誰かの一撃が決まったのか。
勝敗が決したのか。
あるいは、派手な術式が炸裂したのか。
控室からでは分からない。
ただ、その歓声が響いたということは、ひとつの試合が進み、自分の順番がまた確実に近づいたということだけは分かった。
「……歓声って、普通は人を元気づけるものだと思うんですけど」
「君の場合は?」
「処刑台の階段を一段上がる音に聞こえます」
「悲観的だね」
「慎重と言ってください」
「限度を越えれば同じだよ」
ネロは涼しい顔でそう言い、水差しを元の位置へ戻した。
とおるはまた沈み始めた心を、見えない両手で無理やり下から押し上げるように背筋を伸ばした。
重い。
間違いなく重い。
しかも、これはまだ〈秤の冠〉の効果ですらない。
試合前からこの有様なのだから、本番で本当に重みを加えられた時、自分の精神が床へめり込まない保証はなかった。
それでも、順番は来る。
来てしまう。
ならばせめて床へ沈む前に一枚くらいは〈壁〉を置こう。
できれば二枚。
調子が良ければ三枚。
とおるは遠くの歓声を聞きながら、今にも重力へ負けそうな心をほんの少しだけ持ち上げた。
筋力ではない。
勇気とも少し違う。
逃げられない者が最後に身につける、諦めに似た前向きさだった。




