■第100話「夕暮れの席」
夕方のギルドは、少しだけ静かだった。
依頼が早めに片付いたからかもしれない。
雨が近いからかもしれない。
あるいは、ただ偶然。
いつも騒がしい酒場にも、今日はゆっくりした空気が流れていた。
窓の外は赤い。
夕日が、街を橙色に染めている。
ナナはカウンターで皿を拭き、ミレナは受付の書類を整え、セリアは治療棚を確認している。
ベルクは椅子に座ったまま欠伸をし、ユーンは工具を片付け、レオンは報告書を閉じた。
エインは珍しく静かだった。
いや、静かというより、疲れていた。
「……今日、長かったですね」
リオが言う。
「長かった!」
エインが即答した。
やっぱり静かではなかった。
「午前が荷運びで、午後が水路確認で、その後に道案内!」
「最後、完全に迷子の観光客だったね」
メイナが笑う。
「でもちゃんと案内できました!」
「途中で逆方向行きかけたけど」
「夕日が綺麗で!」
「関係ない」
カイルが即答した。
その横で、ガルドが酒を飲んでいた。
今日はちゃんと酒だ。
セリアの許可が出たらしい。
「ガルドさん」
リオが聞く。
「あ?」
「今日、珍しく静かですね」
「疲れてんだよ」
「ガルドさんが?」
「お前、俺を何だと思ってる」
「体力無限の人」
「違う」
「でも、前より少し疲れやすくなってません?」
ナナが笑いながら言う。
ガルドが嫌そうな顔をした。
「言うな」
「図星?」
「……」
「否定しない」
ベルクが大笑いする。
「分かるぞガルド! 俺も最近、翌日に残る!」
「お前は酒が残ってるだけだ」
「違う! 筋肉疲労だ!」
「どっちもだろ」
酒場に笑いが広がる。
でも、その笑いの奥に、少しだけ変化が混ざっていた。
昔と同じではない。
誰も口にはしないが、皆なんとなく分かっている。
時間が経っている。
勇者パーティが世界を回っていた頃から、かなり。
ガルドも。
ベルクも。
アルも。
若くはない。
もちろん、今でも強い。
並の冒険者では話にならない。
でも、“全盛期”という言葉を使うなら、それはたぶん昔だ。
その代わり。
今、若い世代がいる。
「エイン」
ガルドが不意に呼んだ。
「はい!」
「声」
「あっ、はい……」
「今日の水路確認、最後の判断は悪くなかった」
エインが止まった。
「……え?」
「崩れかけた石組みの話だ」
「あ、あれですか!」
午後、水路脇の石が少しずれていた。
エインは最初、「大丈夫です!」と言いかけた。
だが途中で止まり、自分で水の流れを確認し、レオンを呼び、周囲の土を見て、「今は大丈夫でも次の雨で崩れるかもしれません」と報告した。
前なら、勢いで「平気です!」と言っていたかもしれない。
「前のお前なら見落としてた」
ガルドが言う。
「……はい」
「ちゃんと止まったな」
エインは少し黙った。
それから、小さく笑った。
「ガルドさんにめちゃくちゃ言われましたからね」
「言った甲斐はあったか」
「ありました!」
その返事に、ガルドは少しだけ口元を緩めた。
リオは、それを見逃さなかった。
「リオ」
今度はアルだった。
「はい」
「最近、後ろを見るようになったな」
短い言葉。
でも重い。
「……そうですか?」
「前は、自分のことで精一杯だった」
「うっ」
「今は、エインや周囲を見て動いている」
リオは少し困ったように笑った。
「まだ余裕ない時もあります」
「あるだろうな」
アルは頷く。
「だが、それでいい」
その時、酒場の空気が少し静かになった。
誰も騒がない。
ベルクも。
ユーンも。
ナナも。
皆、アルの言葉を聞いていた。
「余裕がないままでも、周囲を見ようとするなら十分だ」
アルは静かに酒を置いた。
「最初から完璧なやつはいない」
夕日が、窓から差し込んでいた。
赤い光が、酒場の木の床を照らしている。
その光の中で、リオは少しだけ不思議な気分になった。
昔。
自分達は、ここへ来たばかりだった。
右も左も分からなくて。
怒られて。
失敗して。
走って。
止められて。
迷って。
怖がって。
それでも、なんとかここに居続けた。
その間ずっと、前には誰かがいた。
アル。
ガルド。
ベルク。
セリア。
ナナ。
ミレナ。
レオンやメイナも、途中からは支える側だった。
ずっと、見られていた。
支えられていた。
でも今。
少しだけ違う。
自分達が、“後ろを見る側”になり始めている。
「なんか」
エインがぽつりと言った。
「変な感じですね」
「何が?」
メイナが聞く。
「前は、俺達が一番新人だったのに」
エインは酒場の端を見る。
そこでは、最近入ったさらに若い冒険者二人が、依頼票を前に悩んでいた。
まだぎこちない。
装備も新しい。
声も小さい。
「……あ」
リオも気づいた。
いつの間にか、自分達より後に入った人間が増えている。
「増えたな」
ガルドが言う。
「新人」
「ですね」
リオは頷いた。
「なんか、不思議です」
「そういうもんだ」
ガルドは酒を飲む。
「お前らも、最初はあっち側だった」
「……はい」
「今は、こっちに来始めてる」
リオは返事ができなかった。
こっち側。
その言葉は、少し重かった。
だが嫌ではない。
むしろ。
少しだけ、誇らしかった。
ナナが笑う。
「いやあ、時間経つの早いねぇ」
「ナナさん、完全に年上目線」
メイナが言う。
「実際年上だからね」
「それ言うとベルクさんが傷つきます」
「おい!」
ベルクが抗議する。
「俺まだ若いぞ!」
「昨日、椅子から立つ時うめいてた」
「腰だ!」
「年」
「違う!」
酒場がまた笑いに包まれる。
その笑いを聞きながら、セリアが静かに呟いた。
「でも、良かったです」
皆が少し見る。
「何がですか?」
リオが聞いた。
セリアは若手達を見る。
リオ。
エイン。
メイナ。
レオン。
ユーン。
カイル。
それから、最近入った新人達。
「ちゃんと続いてるなって」
穏やかな声だった。
「昔、皆で戦っていた頃は、余裕なんてありませんでしたから」
ベルクが少し静かになる。
ユリも今日は珍しく黙っていた。
マルクは梁の上から目を細めている。
「明日のことなんて考えられなかった」
セリアは笑った。
「だから今、こうやって若い子達が騒いでるのを見ると、少し安心します」
「……」
誰も、すぐには返事をしなかった。
代わりに。
「エイン」
ガルドが言う。
「はい!」
「新人二人、依頼票の前で止まってる」
エインがそちらを見る。
「あ、本当だ」
「行ってこい」
「えっ、俺がですか!?」
「お前以外誰が行く」
「いや、リオさんとかの方が!」
「お前でいい」
ガルドは面倒くさそうに言った。
「同じ失敗しそうだから、先に止めとけ」
「それ理由です!?」
「早く行け」
「はい!」
エインは立ち上がる。
少しだけ緊張していた。
それでも、新人二人のところへ向かう。
「えっと!」
声が大きい。
カイルが反射で言う。
「声」
「あっ、はい……」
少し小さくして、エインは依頼票の前に立った。
「困ってます?」
新人二人が少し驚いた顔をする。
「どれ選べばいいか分からなくて……」
「最初はそうですよね!」
エインは笑った。
「俺も最初、全然分からなかったです!」
リオ達は少し離れた場所から、それを見ていた。
エインが依頼票を指差す。
「これ、距離短いですし、危険度低いですよ。あと、こっちは報酬いいですけど時間かかります」
「なるほど……」
「あと、山羊は意外と強いです!」
「山羊?」
「気にしなくていいです!」
メイナが吹き出した。
「なんで山羊の話したの」
「経験談です!」
レオンが静かに言う。
「一応、有益な情報ではあります」
「レオンさんまで」
新人達は少しずつ表情を柔らかくしていく。
不安そうだった顔が、少し安心した顔になる。
エインはちゃんと話を聞いていた。
前みたいに、一人で暴走していない。
相手を見ている。
リオは、それを見て少し笑った。
「……本当に変わったな」
「うん」
メイナも頷く。
「ちゃんと先輩っぽい」
「まだ声大きいですけど」
「そこは治らないんじゃない?」
「かもしれない」
でも、それでいい気もした。
全部が変わる必要はない。
エインはエインのまま、少しずつ成長している。
それが大事だ。
夕日が、だんだん沈んでいく。
酒場の中も、少しずつ暗くなる。
ナナが灯りをつけた。
暖かな光が、木の机を照らす。
「なあ」
ベルクが突然言った。
「俺達も、昔こうだったのか?」
ガルドが酒を見たまま答える。
「もっと酷かった」
「確かに」
ユリが笑う。
「ベルクなんか、最初の依頼で川流されたし」
「お前が爆発させたんだろ!」
「結果論」
「結果が最悪だ!」
また笑いが起きる。
でも、その笑いの中に、少しだけ寂しさが混ざっていた。
昔話になっている。
それはつまり、時間が経ったということだ。
勇者達は、ずっと前を走っていた。
でも今は、少し後ろから見ている。
若い世代を。
騒ぎながら、転びながら、それでも前へ進んでいく姿を。
「悪くねえな」
ガルドがぽつりと言った。
「何がですか?」
リオが聞く。
ガルドは少しだけ、新人達を見る。
エインが何か説明している。
新人二人が頷いている。
レオンが横から補足し、メイナが呆れた顔で見ている。
カイルは腕を組んでいる。
ユーンはなぜか新人へ鞄仕切りを勧めようとして、ミレナに止められている。
「……続いてる感じがする」
ガルドは言った。
「俺達の後に、ちゃんと誰かが歩いてる」
酒場が少し静かになる。
その言葉は、たぶん。
皆、同じように思っていたから。
アルが静かに頷いた。
「そうだな」
短い返事。
でも、それで十分だった。
夜が近づいてくる。
新人達は依頼票を持って受付へ向かった。
エインは少し誇らしそうだった。
「ちゃんと教えられました!」
リオが笑う。
「うん。見てた」
「なんか、変な感じですね」
「何が?」
「俺、教える側やってました」
「やってたね」
エインは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「でも、まだ全然です!」
「そうだな」
ガルドが言う。
「まだ全然だ」
「はい!」
「だが、前よりマシ」
エインが笑った。
「それ、結構嬉しいです」
ガルドは返事をしない。
ただ、少しだけ酒を飲んだ。
いつもの席。
いつもの顔。
いつものギルド。
でも、少しだけ違う。
時間は流れている。
昔、前を走っていた人達がいる。
今、その後ろを走る人達がいる。
そして、もっと後ろには、新しく入ってきた誰かがいる。
そうやって、たぶん。
この場所は続いていく。
大きな戦いがなくても。
伝説みたいなことがなくても。
毎日、掲示板の前に誰かが立って。
誰かが悩んで。
誰かが怒られて。
誰かが笑って。
そういう日々が、ずっと。
「リオ」
アルが呼んだ。
「はい」
「明日の依頼、朝に確認しろ」
「分かりました」
「エイン」
「はい!」
「依頼書を忘れるな」
「もう忘れません!」
「本当か?」
「……確認します!」
酒場に笑いが広がる。
その笑いの中で、リオはふと窓の外を見た。
夕日が沈みかけている。
街の灯りが、少しずつ増えていく。
そして、ギルドの中には、まだ笑い声が残っていた。
たぶん、明日もこうだ。
明後日も。
きっと。
だから。
それでいい気がした。




