闇夜の奥
明朝、オスタリカ皇国陣営。
「まったく、あいつは一度しっかり鍛え直す必要があるな」
ブリューナクの換装をするユーリの傍らで、アーデが苦笑しつつぼやく。
あいつ、とはリゼリアのことだろう。
彼女が命じられたのは偵察のはずだったが、なぜか偵察隊が敵を殲滅して帰還という結果に終わったのだ。
「手間が省けていいだろう」
と、ユーリは率直な感想を述べたのだが、どうやらリゼリアも同じようなことを言ったらしい。
お前もか、とアーデは苦虫を噛み潰したような顔で返す。
「そんなことより、俺もそろそろ出るぞ。あの姫様の報告だけじゃ、どうにも要領を得ない」
「あぁ、そのことなんだが、ちょっと話がある」
と、アーデが珍しく歯切れの悪い物言いで切り出す。
「いや、今回お前には少し特殊な仕事をしてもらおうと思ってな」
嫌な予感のする言い回しだと、ユーリは直感的に感じた。
これまでにもアーデがユーリを呼びだすことは何度かあったが、彼女がこういう回りくどい言い方をする時は、大抵ロクでもない話が飛び出す。
「何だ、その特殊な仕事ってのは」
一抹の不安を覚えながら聞き返すと、そうだ、とアーデは子供のような笑顔を浮かべながら答えた。
「お前の仕事は、私の護衛だ」
*****
二度目の進軍は、その日の夜からとなった。
あの黒い竜らしき生物が襲って来る危険はあったが、日中はさらに危険な歌鳥竜の群れが上空を旋回しているため、やむなく日没を待っての作戦開始である。
山頂を目指して先行するのは、昨夜と同じくリゼリアが率いる一団だ。
『どれだけ湧いてくるんだ、この気色の悪い奴らは』
断続的な銃火の合い間を縫うようにリゼリアが毒吐く。
前回吹き飛ばした中腹の辺りを過ぎると、やはり同じように黒い竜が現れて襲いかかってきたのだ。
正直言って大した相手ではないが、それらを殺すための弾薬だって無限ではない。
今回の遠征にあたって相当な量の武器弾薬を運んではきたものの、このペースで消費が続けば、ヴァルツヘイムの都市部に辿り着く前に息切れしてしまうだろう。
『よし、この辺りは制圧だ。タージェを上げろ』
周囲の敵を一掃したのを確認し、後方に待機している運搬用の竜騎兵部隊を前進させる。
脚部が非常に発達した竜を素体とするタージェは、動きが鈍重で戦闘には不向きだが、有り余る脚力を活かして巨大な運搬車を牽引することができる。
特に大量の弾薬を消費しながら戦う現在の戦術においては、格闘戦を主体にしていた頃よりも補給物資の確保がより重視される傾向にあるのだった。
運搬車の中身はファランクスの弾帯の他に、発射時の熱で真っ赤に焼けるため交換が必要なバレル、投擲用の爆薬、散弾銃や大口径砲の火器類、バンカーやブレードなどの炸薬式から片手剣や手斧といった普通の格闘兵器まで、まるで武器庫がそのまま移動しているような有様だ。
二台のタージェに数騎の竜騎兵が歩み寄り、技師が兵器や装甲の交換を始める。
その間、乗員たちは短い休息を取り、食事や仮眠を済ませるのだ。
リゼリアもクラウソラスを降り、装甲の補修を受ける愛騎を眺めながら缶入りの携帯食糧で簡単な食事を摂る。
妙な匂いのする煮込み肉と固いパンという貧層なメニューだが、ここが最前線であることを考えると食事ができる時間があるだけでも随分と有難いものだ。
適当な木箱に腰を下ろし、自分が今まで乗っていた紅い竜騎兵を見上げる。
その姿は竜核の再活性化によって、数十年前にアーデが乗っていた頃よりも大きく進化しているらしい。
肩部から生えた一対の翼と、根元で三本に分かれた尻尾がその最たるものだとか。
素体の一部が紅く結晶化しているのは、先日の戦闘で力を使った影響だ。
放っておけば回復するが、連続使用はさすがに素体が耐えられない。
少なくとも数日は、あの力を使わない方が無難だろう。
リゼリアは口にパンをくわえたまま、ズボンのポケットから古びた懐中時計を取り出す。
時刻は二十二の刻を過ぎた辺りで、日没と同時だった出陣から五刻ほどが経過していた。
夜間戦闘で慎重に歩を進めているとはいえ、夜明けまでには山頂へ辿り着けるだろう。
無論、この先に何もなければの話だが。
「どうですか、その缶詰め」
いきなり声をかけられて振り向くと、そこには顔の半分に複雑な模様のタトゥーを入れた、やたらと体格のいい女が腕を組んで立っていた。
肩口には副長クラスの証である紅い布飾りが、誇らしげに掛けられている。
「最悪だよ、ヘズ。今すぐ野兎でも狩りに出たいくらいだ」
聞くまでもなかったという風に、ヘズと呼ばれた女は苦笑する。
「それ、どこかのお偉い様がお家に伝わる伝統料理の味を再現して、風味を殺さないよう缶に詰める技術を一年かけて開発したって噂ですよ」
そんな話を聞きながら、リゼリアは残った肉片を口に押し込んで、空になった缶を思い切り放り投げる。
「こんなもの作る前に、自分の脳味噌をちゃんと頭に詰め込んでおいてもらいたいな」
そう言い終えるのと同時に、夜の闇に吸い込まれた缶はカランと音を立てて地面に落ちた。
「ヘズ、この辺りにヴァルツヘイム軍はいるか」
指に付いた肉汁を拭きながら、リゼリアが端的に問う。
「いいえ、今のところ残骸すら見当たりません。本当にヴァルツヘイムは国として存続できる状態なのでしょうか?」
「それを調べに来たんだろうが」
とは言うものの、リゼリアもヴァルツヘイムが既に滅びている可能性は考えている。
そもそも、救援要請を受け取ってここまで軍を進めるのに、何十日もの時間が過ぎ去っているのだ。
物資の豊富な中心部ならいざ知らず、こんな辺境や離れの街などはとっくの昔に全滅、あるいは放棄されているだろう。
そしてあの黒い生物の数。
もともと存在したものが一斉に攻め込んできたのか、それとも短期間で急激に繁殖したのかは不明だが、大陸最大の軍事力をもってしても壊滅させるには相当の月日を要するだろう。
そんな数が相手なのだから、どこかに立てこもって援軍を待つにしても限度がある。
瞬間。
“あれ”は生きているのか、死んでいるのか。
そんな考えがふと頭に浮かんだ。
雪の森。
炎を上げる家々。
倒れ伏す竜騎兵。
リゼリアの意識は、そう遠くない過去の情景に釘付けにされる。
「――様、姫様!」
ヘズが名前を呼ぶ声で、リゼリアは我に返る。
同時に、左手の甲に小さな痛みが走った。
「ちょっと、どうしたんですか姫様。血が出てますよ」
ヘズが屈強な見た目に似合わず、心配げな声を漏らす。
見ると、無意識に強く右手の爪を立てていたらしい。
肉が少し抉れて、傷口からは赤い雫が滲み出していた。
「……何でもない。少し考えごとをしてただけだ、気にするな」
ぶっきらぼうにそう言うと、冷たい空気で頭を冷やすように大きく息を吸いながら、夜の空を見上げる。
その時。
月が煌々と輝く空を、何かの影が過ったような気がした。
一瞬、周囲に生息する歌鳥竜かと思ったが、あの種は夜目が利かないため夜間は飛び回れないはずだ。
もう一度、闇夜の空を睨むように見据えるが、何も視認できない。
「おいヘズ、何か――」
と、言いかけた彼女の耳に、砲撃にも似た風切り音が飛び込んでくる。
何かが空中から高速で落下する音。
それらはすぐに、いくつもの衝突音と地鳴りを響かせて地上へと降り立った。
篝火の明かりの中で揺らめく漆黒の影。
眼も鼻もない不気味な姿は、間違いなく昨夜から駆除している黒い生物なのだが。
これまでの個体よりもやや大きなその体には、翼竜のような一対の翼が生えていた。




