第一話
石の床が、青く脈打っていた。円と線を幾重にも刻んだ陣の縁に、灰色の衣の術者たちが膝をついている。七人。
詠唱が途切れかけるたび、誰かが咳き込み、誰かが無理やり声を継いだ。陣の中心を見据える男の指先には、とうに感覚が無い。
「もう少しだ。持たせろ」
「ですが、もう――」
壁際の燭台が、また一本消える。残りは三本。次を試すだけの人も時間も、もう残っていなかった。
「……頼む」
誰に向けた言葉なのか、男自身にも分からない。
光が強まる。陣の線が床から浮き上がり、風もないのに衣の裾がはためいた。中心に輪郭が生まれる。肩。腕。人の形が、結ばれかけて――
次の瞬間、光は真上へ跳ねた。
天井の石組みを音もなく突き抜け、あとには細かな砂埃が降ってくるだけ。陣の中は、空っぽだった。
「……失敗、か?」
掠れた声に、隣の若い術者が首を振る。震える手を陣にかざしたまま、その目は天井の向こうを見上げていた。
「いえ、確かに繋がりました。ですが、どこへ」
◇
青い空だった。
背中に草のちくちくした感触があって、風が吹くたびに土と青臭い匂いが鼻を抜けていく。どこかで水の流れる音がする。
そして、熱い。腹の底から、胸の奥から、じわじわと何かが湧いてくる。風邪の熱とは違う。もっと深いところで、火が入っている。
トラック。クラクション。ミラーの中の――
気づいたときには、体が起き上がっていた。腹筋に力を入れた覚えも、手をついた覚えもない。そのまま立ち上がっても、腰は痛まず、膝も鳴らなかった。毎朝律儀に出迎えてくれた首の付け根の重さも、どこかへ消えている。
(体が軽い、どうなっている)
喜ぶ場面のはずなのに、足の裏が落ち着かない。軽すぎるのだ。何かを持たされていたはずの手が、急に空っぽになったときの感じに近かった。
なんとなく、左手を見る。指が細く、節くれていない。裏返して、薬指の付け根を親指の腹でなぞった。
もう一度、なぞる。
何も、引っかからなかった。
忠司はしばらく、その指を見下ろしたまま立っていた。
喉が渇いている。体の熱のせいかもしれない。水音のするほうへ、草を分けて歩き出す。
見渡すかぎりの草原だった。電柱もガードレールも、遠くに見えるはずのコンビニの看板もない。スマホの電波を探す癖で空を見上げたが、もちろんアンテナの一本も立っていない。
(圏外どころか、基地局って概念がなさそうだな)
車も、ない。
後部座席も。
呼ぼうとして、声が出なかった。最後に名前で呼んだのがいつだったか、思い出せない。思い出せないことのほうが、喉に詰まった。
顔を上げると、空の高いところに薄い光の輪が浮かんでいた。円と線を重ねた模様が陽炎のように揺れ、端のほうからほどけていく。歩きながら見ているうちに半分が消え、小川の音がはっきり聞こえる頃には、残りも溶けていた。
何が起きたのかは、分からない。死んだはずなのに、ここにいる。ただ、ひとつだけ妙にはっきりした感覚が、耳の奥に貼りついていた。
呼ばれた。
誰に、どこから、何のために。答えはひとつも浮かばないのに、その一語だけが消えない。
小川は、幅が一メートルもなかった。澄んだ水が、丸い石の上を急ぎ足で流れていく。膝をついて、両手で水をすくおうとして――手が止まった。
水面の淀んだところに、知らない男がいた。
「誰だお前」
声に出ていた。
淡い金色の髪が、濡れたように額にかかっている。灰色がかった青い目。鼻筋はまっすぐに通り、頬から顎への線は、削り出したように鋭い。歳は十九か、二十歳か。洋画のポスターの端で、無言で立っていそうな顔だった。
眉を寄せると、水の中の男も眉を寄せる。舌を出すと、向こうも出した。
(顔認証、絶対に通らないなこれ。)
笑おうとして、頬がこわばった。
これじゃ、あいつが見ても、俺だと分からない。
水をすくう。冷たいはずの水が、手のひらの上ですぐにぬるくなった。
飲み込んだ水が、胃の中で湯気を立てたような気がした。
熱が、上がってくる。腹の底に溜まっていたものが胸へ、肩へとせり上がり、こめかみがどくどくと鳴り出した。指先がじんと痺れる。息を吐くと、その息まで熱い。
(待て。冷却が追いついてない。どこを止めればいい)
そのとき、川の向こうの草が、大きく割れた。
狼だ、と最初は思った。思ってから、目が距離を測り直す。近いのではない。でかいのだ。肩の高さが、忠司の背丈とそう変わらない。軽自動車が一台、毛皮を着て立っているようなものだった。
(いや、サイズの設定、桁ひとつ間違えてるだろ)
ツッコミが、喉の途中で止まる。
獣が、低く頭を下げた。黄色い目が、こちらに固定されている。逃げろ、と頭のどこかが叫んでいるのに、膝は笑うばかりで言うことを聞かない。
獣が、地面を蹴った。
小川を一跳びで越えてくる。視界の中で、黒い塊が見る見る大きくなった。
右から来た、あの白い光と同じだ。同じ大きさで、同じ速さで、同じように、避けようのない角度で。
右足が、勝手に地面を踏みしめていた。ブレーキを探して。
ペダルは、どこにもない。
(また、何もできないまま――)
嫌だ。
そう思ったときには、左手が前に出ていた。
手のひらから何かが出た、という感覚だけがあった。
直後、世界が白く跳ねる。衝撃は遅れて来た。轟音が腹の底を殴りつけ、足が浮きかける。土と水しぶきと焦げた匂いが、まとめて顔に叩きつけられた。
耳が、きいんと鳴る。
鳴りやんだあとには、静けさだけが残った。風の音すらしない。誰もしゃべらない土曜の昼の、あの家の静けさに似ていた。
忠司は、突き出したままの手を下ろせずにいた。
獣の姿は、どこにもない。毛の一本も。
獣がいた場所から向こうの丘まで、草原がまっすぐに抉れている。幅は国道の二車線ぶんほど。底は影になって見えない。丘は半分に削れ、断面からぱらぱらと土がこぼれ落ちていた。小川が、抉れたところへ向かって流れを変え、細い滝になって落ちていく。
(……何を、した?)
分からない。自分の手が何をしたのか、まるで分からない。
焦げた草の切れ端がひらひらと降ってきて、肩に落ちた。払う気にもなれない。
どれくらいそうしていたのか。
気がつくと、抉れた縁に向かって歩いていた。足元の土はまだ温かい。覗き込もうとして、やめる。底の見えない暗さが、急に怖くなった。
代わりに、右手を見た。開いて、閉じる。
震えていない。息も上がっていない。心臓は少し速いが、全力疾走のあとの苦しさはまるでなかった。ペットボトルの蓋を開けたくらいの顔で、体はけろりとしている。
それが、いちばん気味が悪い。
腹の底には、まだ熱が残っていた。減った感じがしない。今のをもう一回、いや、もっと大きく。出そうと思えば出せる、という確信だけが、根拠もなく居座っている。
(上限の分からない出力を、テストもなしに本番で叩いた。始末書どころじゃないぞ)
ただ、気持ちよくはなかった。
熱はざらついていた。砂の混じった湯が、血管の内側をこすりながら流れていくような感触だ。手綱を握ろうとすると、指の間から逃げていく。
(……どこに、こんなもん隠し持ってたんだ)
問いかけても、腹の底は黙ったまま熱を吐き続けるだけだった。
風が、向きを変えた。
冷たい。さっきまでの陽気が嘘のように、首筋の産毛が逆立つ。顔を上げると、抉れた大地のずっと先、地平線の上に黒いものが建っていた。
城だ。
尖塔をいくつも突き出した、黒いシルエット。遠すぎて細部は分からないのに、そこだけ空の色が沈んで見えた。
(あそこ、アポなしで行ったら門前払いされるやつだ)
軽口は、風にさらわれて消えた。
そこから、何かが来た。
目には見えず、音もない。冷たいものが波のように草原を渡ってきて、忠司の体を正面から押す。来るな。近寄るな。言葉ではないのに、そういうものだと分かった。
拒絶だった。
胸の奥で、熱がどくんと跳ねる。あの城のほうへ、引っぱられるように。
(なんで……)
息が詰まった。あんな場所、知らない。見たこともない。
なのに、懐かしかった。どうしようもなく。
冷たい波が、もう一度草原を撫でていく。その底に、何かが混じっていた。
――どうせ、私なんて。
声、だった。……ような気がする。小さく、かすれて、誰に聞かせるつもりもない独り言のような。
思わず振り返る。誰もいない。抉れた大地の縁で、焦げた草が風に転がっていくだけだ。
(……今の、誰だ)
黒い城は、何も答えない。胸の熱だけがまだそちらを向いたまま、静かに疼いていた。




