プロローグ
午前七時十二分。 忠司はキッチンでトーストをかじりながら、スマホの通知をスクロールしていた。 障害アラートはゼロ。ありがたい。今日は平和な土曜日だ。 背後で、冷蔵庫の開く音がした。 妻だ。 「おはよう」 「……ん」 返事はそれだけだった。 妻は麦茶をコップに注ぎ、そのままリビングへ消えていく。足音が遠ざかり、テレビの音が小さく鳴りはじめた。 会話、終了。所要時間、二秒。 (今日もSLA内か。上出来だな) 忠司は自分の内心のツッコミに、少しだけ笑いそうになって、やめた。 笑う相手がいない。
◇
いつからこうなったのか、と聞かれたら、忠司は答えに困る。 喧嘩をした覚えはない。 浮気もない。お互いに。 大きな事件は何ひとつなかった。 ただ、二十八歳のある夜、妻が先に寝室へ行って、忠司はリビングでノートPCを開いたまま朝を迎えた。 次の夜もそうだった。その次も。 気づけば、それが仕様になっていた。 (バグ報告が上がらないバグは、もうバグじゃない。仕様だ) エンジニアの悪い癖で、何でもそうやって片付けてしまう。 片付けて、蓋をして、見ないようにする。 それを、十年。
寝室は別になった。 食事の時間はずれた。 休日は、それぞれの部屋で、それぞれの画面を見て過ごす。 誕生日には、一応、ケーキを買ってくる。どちらも、ろくに口をつけない。 嫌いになったわけではない、と忠司は思っている。 たぶん、妻もそうだ。 ただ、手を伸ばすタイミングを、一度逃した。 それだけのことが、十年分積もった。
◇
洗面所で歯を磨きながら、忠司は鏡の中の自分を見た。 三十九歳。 目の下のクマ。後退の兆しを見せる生え際。腹回りは、去年の健康診断で「要経過観察」の判定をもらった。 (経過観察って、観察してるのは俺だけなんだよな) 口をゆすいで、ついでに左手を見る。 薬指には、何もない。 うっすらと、昔の跡が残っているような気もする。気のせいかもしれない。
指輪を外したのは、三年ほど前だった。 キーボードを打っていると、関節に食い込んで痛むようになった。太ったのだ。単純な話だ。 石鹸をつけて、ぐりぐりと回して、ようやく抜けた。 指の付け根に、白く細い溝が残っていた。 結婚当時、二人で選んだペアリングだった。 安物ではないが、高くもない。駅前の小さな店で、妻が「これがいい」と指さしたやつだ。 あのときの妻の声を、忠司はもう正確に思い出せない。 抜いた指輪は、書斎の机の引き出しにしまった。 一番上の、文房具が雑多に詰まった引き出しだ。 捨てるわけでもなく、飾るわけでもなく。 ただ、しまった。 (俺らしいな) 忠司はそのとき、そう思った。 引き出しを閉める音が、やけに大きく響いた気がした。
――妻の指から指輪が消えたのがいつだったのか、忠司は知らない。 気づいたときには、もうなかった。 聞けなかった。 聞いたら、何かが確定してしまう気がして。
◇
午前中は、書斎で持ち帰りの仕事を片付けた。 六畳の部屋に、デュアルモニターと、くたびれたゲーミングチェア。 ここが、この家での忠司の居場所だった。 仕事をしていると、時間が溶ける。 余計なことを考えなくて済む。 エラーには原因があって、原因を潰せば直る。世界がそういうふうにできていてくれれば、どんなに楽だろうと思う。 (人間関係にもスタックトレースが出ればいいのにな) どこで例外が投げられたのか。 どの行で、何が壊れたのか。 分かったところで、直せる自信はなかったが。
付箋を探して、机の引き出しを開けた。 ボールペンと、クリップと、使わなくなったUSBメモリの隙間に。 小さな銀色の輪が、転がっていた。 忠司は、しばらくそれを眺めていた。 手には取らなかった。 付箋だけを抜き出して、引き出しを閉めた。 カタン、と乾いた音がした。
◇
「今日、買い物行くけど」 昼前、リビングから妻の声がした。 独り言のような、連絡事項のような、温度のない声。 「ああ。車、出すよ」 「……そう」 これも十年来の仕様だった。 週末のまとめ買いだけは、二人で行く。 妻は運転が苦手で、忠司は荷物持ちが必要だから。理由はそれで足りている。それ以上の理由は、お互いに探さない。
駐車場で、忠司は運転席に、妻は後部座席に乗り込んだ。 助手席ではない。後部座席だ。 いつからそうなったのかも、もう覚えていない。 (タクシーかな、俺は) エンジンをかける。カーナビが能天気な声で「お出かけですか」と聞いてくる。 この車内で一番しゃべるのは、こいつだ。
◇
国道は、少し混んでいた。 ラジオから、どこかの地方のお祭りのニュースが流れている。 ルームミラーをちらりと見る。 妻は窓の外を見ていた。 頬杖をついて、何を考えているのか分からない横顔で。 ――いや。 分からないんじゃない。知ろうとしなかったんだ。 忠司は、ふとそう思った。 思っただけで、何も言わなかった。
信号が赤になる。 ブレーキを踏む。 車内に、ウインカーの音だけが規則正しく鳴っている。 カチ、カチ、カチ。 十年分の沈黙を、秒針みたいに刻んでいる。
何か、言おうか。 忠司は唐突にそう思った。 理由はなかった。ただ、ミラーの中の妻の横顔が、思っていたよりずっと疲れて見えたからかもしれない。 何を言う? 「最近どう」か? 十年ぶりの近況確認か。 「指輪、どうした」か? 地雷原にダイブする気か。 (ログインボーナスみたいに毎日「おはよう」だけ交換してきた男が、今さら何を) 内心で自分を茶化して、忠司は口を閉じた。 いつもの手順だ。 蓋をして、見ないようにする。
――そのはずだった。
「……ねえ」 後ろから、声がした。 忠司は、ハンドルを握ったまま固まった。 妻から話しかけてくるのは、いつ以来だろう。業務連絡以外で。 「なに」 声が、思ったより掠れた。 ミラー越しに、妻と目が合った。 ほんの一瞬。 妻は何かを言いかけて、唇を開いて―― そして、閉じた。 「……なんでもない」 視線が、窓の外へ戻る。 「……そっか」 忠司も、それ以上は聞かなかった。 聞けなかった。 信号が青に変わる。 アクセルを踏む。 車内には、また沈黙だけが残った。
(今の、なんだったんだ) (聞き返せよ。十年ぶりのチャンスだろ) (いや、でも、また「なんでもない」って言われたら――) 頭の中で、言い訳のプロセスが並列で走りだす。 どれも、結論を出さないまま、無限ループしていく。 交差点に差しかかった。
右から、光が来た。
ヘッドライト。 昼間なのに、やけに白い光。 トラックのフロントグリルが、視界の端で急速に大きくなっていく。 クラクション。 ブレーキの悲鳴。 世界が、スローモーションになった。
忠司は、とっさにミラーを見ていた。 前ではなく。 後ろを。 妻が、こちらを見ていた。 目を見開いて、口を半分開けて。 十年ぶりに、真正面から。
――ああ。 さっき、何を言いかけたんだ。 聞いておけばよかった。 俺も、言えばよかった。 何を? 分からない。分からないけど、何か。
手を伸ばしかけた。 後部座席へ。 十年間、一度も伸ばさなかった手を。
届く前に、衝撃が来た。
◇
音が消えた。 光も消えた。 痛みすら、遠くにあった。 暗闇の中で、忠司は自分の左手の感触だけを、ぼんやりと覚えていた。 何もない薬指。 何も掴めなかった指先。
(……結局、最後まで仕様のままか)
それが、三十九歳の忠司の、最後の思考だった。
――はずだった。
◇
風の匂いがした。 土と、草と、知らない花の匂い。 まぶたの裏が、やけに明るい。 忠司は、ゆっくりと目を開けた。 青すぎる空があった。 そして、自分の体の内側で――何か、ひどく熱いものが、煮えたぎっていた。




