第9話:紳士G:自称大手総合商社管理職
そして――最後に動いたのは、ネイビーのスーツを着こなした、年季の入ったサラリーマン風の男だった。
他の“自称紳士”たちとは一線を画す、落ち着いた歩み。手にはバーボンのロック。わざわざ名刺入れまで胸ポケットに忍ばせている。
「こんばんは。いやぁ、ここは良いお店ですね」
低い声。自信満々の口調。
「私は――五菱商事で管理職をしておりまして」
――来た。
私はバーテンダーとして、カウンター越しに静かに息を止めた。
“商社マン”はこの街で最もナンパに使われる肩書きの一つだ。しかも“五菱”。確かに名は通る。だが――。
亜紀と玲奈は、同時に視線を上げた。
そして、まるで打ち合わせでもしていたかのように、ほぼ同時に言葉を放った。
「「――私たち、五井物産です!」」
一瞬、店内の空気が凍りついた。
そして次の瞬間、奥のテーブル席から抑えきれない笑いが漏れ出した。
男の顔がみるみる強張る。
「え……い、五井……物産……?」
亜紀は涼しい顔でネグローニを傾ける。
「そう。“Itsui”と“Itsubishi”は、似て非なるものですから」
玲奈が続ける。
「“総合商社”を名乗るなら、世界の資源投資やオフショア開発の数字くらい頭に入っていて当然。……でも残念、“五菱”の看板じゃ、私たちには勝てませんよ」
男は口をパクパクさせたが、言葉が出てこない。
ついに視線を落とし、グラスを握りしめたまま、無言で踵を返した。
店内は静まり返る――いや、正確には“静かすぎる笑い”が広がっていた。
まるで、最後の最後に王手飛車取りを決められた将棋指しのように、男は完全に退場したのだった。
亜紀は片眉を上げ、玲奈と視線を交わす。
「――Checkmate」
「――商社戦線、異常なしですね」
私はバーテンダーとして、心の中で深く頷いた。
――これ以上、この二人に挑もうとする者はいないだろう。