第10話:終わらない夜
カウンターの端から、ふいに視線を感じた。
二人組の女性客が、カウンターの浴衣美人のツインに近づいてくる。
一人はベージュのワンピース、落ち着いた雰囲気を漂わせる。
もう一人は鮮やかなブルーのストールを肩にかけ、少し挑発的な笑みを浮かべていた。
私はカウンター越しにグラスを拭きながら、心の中で小さく首を傾げる。
――常連ではない。
だが、その身のこなしや纏う空気は、場慣れした“大人の女性”のものだ。
二人は亜紀と玲奈の後ろに立ち止まり、片方が小さく声をあげた。
「――やっぱり! 新堂さんじゃない?」
亜紀がわずかに顔を上げ、声を詰まらせた。
「あ……街丘さん」
もう一人もすぐに反応する。
「え!? そうだ。街丘由佳さんだ!」
玲奈が振り返り、目を輝かせる。
テンションは一気に跳ね上がった。
……なるほど。
亜紀が呼んだ“街丘さん”に対し、玲奈は歓声を上げる。
ならばあの落ち着いたベージュの女性が “由佳” だ。
さらに、その隣のブルーのストールの女性に、由佳が視線を向けて口を開いた
「ね、彩花。こちら五井物産の方よ。新堂さんと、それから……」
「宮本です。宮本玲奈」
「はじめまして!ふふっちょっと楽しんで見ていました。カッコ良かった。
……私は高瀬彩花です。栗田自動車で勤務しています」
なるほど。ストールの女性は“彩花”だ。
「ほんとだわ。あんなにナンパを撃退してたら、逆に目立っちゃうじゃない?」
由佳は楽しげに微笑んでいる。
――由佳。そして彩花。
私はカウンター越しに、その名を心の中で反芻する。
さっきまで浴衣の二人とナンパ男たちの駆け引きが中心だったこの夜に、今度はまた別の “大物美女” が更に2人も加わった。
亜紀はわずかに視線を逸らし、グラスに口をつける。
「……お見苦しいところを」
一方、玲奈は弾んだ声で笑った。
「心強い援軍が来てくれて嬉しいですよ。ね、亜紀さん!」
亜紀の沈んだ気配と、玲奈の弾んだ声。
その対照的な反応が交錯し、店の空気を新たに塗り替えていく。
私は静かにグラスを磨きながら、心の中で小さく呟いた。
――これで、今夜はますます面白くなる。
私もお店も一段と華やぐというものだ。
浴衣姿の二人――五井物産の亜紀と玲奈。
そこに加わった由佳と彩花。
その名が交わされるたび、奥のテーブル席の空気が目に見えて凍りついていく。
とくに “街丘由佳” という名が出た瞬間、ソファ席のスーツ姿の一人が「あっ」と小さく声を漏らした。
つい先日私もニュースで見た覚えがある。
日本GBCの30代前半の女性部長が、五井物産主導のプロジェクトに参画するというような内容だった。
恐らく、そんな報道でも思い出したのだろう、彼のグラスを持つ手が震えている。
さらに彩花の自己紹介
――「栗田自動車勤務です」。
その言葉がカウンターに落ちた瞬間、男たちの表情は一気に青ざめた。
……五井物産。
……日本GBC。
……栗田自動車。
日本を代表し、世界のマーケットで日々戦っているTop-Tireな企業群。
しかも、それを背負う “現役の女性ビジネス戦士” が、今このバーのカウンターに肩を並べている。
やたら声を大きくしていた連中も、さすがに気づいたらしい。
ブランド時計を弄んでいた男は、そっと袖口を引っ込めた。
さっきまで缶ハイボールを得意げに掲げていた男は、缶をテーブル下に隠すように置いた。
視線を泳がせながら「俺、明日早いんだよな」と呟く者まで出てくる始末だ。
――もう誰も動けない。
いや、動けるわけがない。
迂闊に声をかければ、瞬時に “公開処刑” される未来が待っていると、全員が理解してしまったのだ。
私はバーテンダーとして、グラスを磨きながら心の中で小さく笑った。
――なるほど。
今夜この店は、完全に “女性陣の独壇場” になった。
そして、男性陣はすっかり観客席へと追いやられてしまったのである。
……さて、ここからは “大人の女性だけの夜会” の始まりだ。
※※※
ネグローニを飲み干した亜紀が、グラスを軽く置いた。
頬は赤く染まり、瞳は酔いの熱を帯びている。
「――ズバリ聞きますけれど」
突然、彼女が由佳に向かって切り出した。
「ウチの一ノ瀬って、どう思いますか?」
――来た。
私はカウンター越しに思わず手を止める。
浴衣美人の矜持を崩さない彼女が、酒の勢いで核心に踏み込んだのだ。
由佳はわずかに目を細め、ブルーのストールの彩花と視線を交わす。
次いで、グラスの縁を撫でるように指を滑らせ、静かに言葉を落とした。
「……そうね。私がずっと好きだった人に、少しだけ似ているかな」
亜紀と玲奈がわずかに身を乗り出す。
由佳の瞳は遠くを見つめるように揺れていた。
「魂で仕事をしてしまうところとか……どこか危うくて、放っておけないところとかも。
……あとは、仕事における根本的な思想性がノーブルなところとか」
静かな告白のような響き。
私はバーテンダーとして心の中で息を呑んだ。
――この言葉は、ただの評価ではない。心の奥をさらけ出している。
すると、隣の彩花がストローを弄びながら、小さく笑った。
「由佳……まだ引きずっているのね」
「引きずっては、いる。
……でも一ノ瀬さんは全然別の人だって理解している。
その上で、惹かれるところは、……ないとはいえない」
由佳はふっと笑みを浮かべ、彩花に向き直る。
「でも、大丈夫。
実は今度、その一ノ瀬さんと二人で飲みに行く予定なの」
そして、軽やかに付け加えた。
「年下でも……素敵な人だし。
年齢なんて関係ないよね」
……沈黙。
カウンターに座る二人――亜紀と玲奈の表情は、にこやかさを崩していない。
だが、その笑顔の奥で、感情が大きく軋むのが伝わってくる。
ネグローニのグラスを握る亜紀の指がわずかに強張り、マティーニのステムを持つ玲奈の指先は小さく震えていた。
――笑顔は崩れない。
だが内心では、火花が散っている。
私はバーテンダーとして、静かにグラスを磨きながら心の中で呟いた。
――この一言で、今夜の空気は決定的に変わった。
亜紀がにこやかにグラスを置いた。
「……それ、いつ決まったんですか?」
声はやわらかい。だが、わずかに震えを含んでいる。
由佳は笑顔のまま、当然のように答える。
「つい先日かな。電話で軽く打ち合わせしていたら、ちょっとした流れで。
“じゃあ今度二人で” って」
玲奈がすぐにかぶせる。
「流れで、ですか。
――不思議ですね。
だって、そんな話、私たちは全然聞いていませんけど?」
その口調はあくまで礼儀正しい。
だが、マティーニのステムを握る指が強張っている。
由佳はグラスを揺らしながら涼しい顔。
「まあ、たまたまです。
ステークホルダーとの密接な連携は欠かせないって、直也さ…一ノ瀬さんが言うので。
……まぁビジネスの延長みたいなものね」
直也という男性の名前を名字で言い直したところで、更にカウンターの空気が重くなってしまったようだ。
ここまで数度のアプローチをことごとく撃破してきた筈の亜紀と玲奈が、今の男性名を言い直したところで完全に冷静さを欠きはじめている。
「……ビジネスの延長?」
亜紀の声が少しだけ低くなる。
「それなら、むしろ私も同席させて頂ければと思います。
五井物産として、ずっと、ずーっと、直也くんを支えてきたのですから」
「亜紀さん、それズルいぃ。私も同席します」
笑顔と笑顔がぶつかる。
その温度差に、カウンターの空気がきしむようだった。
そこに由佳が、さらりともう一言。
「それにね――近いうちに直也さ……一ノ瀬さん、シリコンバレーに出張予定があるみたいなの。
だから私も、時期を合わせてサンノゼに行こうかと思って」
――炸裂。
店内の空気が一気に張り詰めた。
明らかに由佳は直也という男性の名前を名字で言い直す事を意図して行っているのだが、それがことごとく亜紀と玲奈にとってクリティカルヒットしている。
玲奈がすぐさま、笑顔を保ったまま切り返す。
「へぇ……初耳ですね。出張なんて、正式にはまだ決まっていませんけれど?」
亜紀も続ける。
「仮に決まっていたとしても、公式な海外出張ですから。
――たとえステークホルダーであっても、勝手に“合わせて行く”なんて、聞いたことありません」
二人の声色は柔らかい。
だが、言葉のひとつひとつが鋭く研ぎ澄まされている。
由佳はあくまで落ち着いた笑みを崩さず、ワイングラスを傾ける。
「まあまあ。ビジネスって、フォーマルとインフォーマルの両方が大事でしょ?」
……そのやり取りを、横で見ていた彩花が口を挟んだ。
「ふふっ……流石ね、由佳。
でもさっきまで私には『五井物産の直也さん』って言っていたのに、なんでわざわざ名字で言い直しているの?」
彼女はわざとらしく肩を揺らして笑い、二人の女同士の応酬を煽る。
私はバーテンダーとして、グラスを磨く手を止める。
――笑顔の下で、嵐が吹き荒れている。
そして、その嵐はまだ収まる気配がない。
彩花がブルーのストールを肩で揺らしながら、わざとらしいほど楽しげに笑みを浮かべる。
「じゃあ――いっそ、みんなでサンノゼに行けばいいんじゃない?」
その言葉が落ちた瞬間、カウンターにいた全員がわずかに硬直した。
玲奈は笑顔を貼りつけたまま、グラスを軽く傾ける。
「彩花さん……それ、まるで社員旅行みたいですね。
……私たち、仕事で動いているんですから」
亜紀も続けて、柔らかな口調で切り込む。
「ええ、本当に。
……直也くん――いえ、一ノ瀬室長は、正式な業務出張です。
誰でも“合わせて行ける”ような軽い話ではないんですよ」
しかし由佳は、全く動じる様子もなく、涼しい顔で赤ワインを傾けた。
「でもね、フォーマルな議事録に残る会議だけが全てじゃないでしょう?
たとえば空港のラウンジで話したことが、新しい提携のseedになったりもする。
……ビジネスって、そういうものだと思うの」
――火種に酸素が吹き込まれた。
玲奈の声色が、わずかに冷たくなる。
「……なるほど。じゃあ、私も空港ラウンジまで“同行”させていただきます。
五井物産の一員としても、直也のチームメンバーとしても、ステークホルダーへの責任は果たすべきですから」
亜紀も負けじと微笑みを深め、バーテンダーに声をかける。
「私には、もっと強いお酒をください。
……そうね、ラフロイグをストレートで」
玲奈もすぐに続いた。
「じゃあ私は……エスプレッソ・マティーニを。
夜更かししてでも、この話を見届ける覚悟ですから」
二人の注文そのものが、由佳と彩花への“無言の宣戦布告”になっていた。
彩花はそんな二人を面白がるように見渡し、グラスを揺らした。
「ふふっ……それなら、私も時期合わせてサンノゼ行こうかな。
どの道一度Ad Companionの件で行く予定があったし。
皆で行った方が楽しそうじゃない?……私もちょっとその『直也さん』の事、興味出てきちゃった♡」
その瞬間、奥のテーブル席の男性陣は完全に沈黙した。
ブランド時計を弄んでいた男は腕を下ろし、グラスを持つ手が震えている。
「明日早いんだよな」と呟いた声には、もはや何の力もなく、退散の口実にしか聞こえなかった。
場の空気は、もはや完全に美の化身となった4人の女性たちが支配している。
男たちは一切介入できず、ただ観客のように成り行きを見守るか、あとは退場する以外の選択肢を持ち得ない。
私はバーテンダーとして、グラスを拭く手を止め、心の中で苦笑する。
――由佳の挑発、彩花の煽り。
そして亜紀と玲奈の“お酒での応酬”。
笑顔の裏で火花が散り、嵐のような応酬が続いている。
そして私は思う。
――きっとこの嵐は、まるでシェイカーの中で混ざり合う強烈なリキュールのように、夜が明けるまで収まることはないだろう。




