第2話:浴衣美人のツイン
そんな中――今夜だ。
グラスを磨きながら入口を見た瞬間、思わず指が止まった。
やけに華やかな二人組の女性客が現れたのである。
浴衣姿。
それ自体は珍しくもない。
もう7月も下旬だ。少し酔った男女が都心近辺の盆踊りや花火大会に行き、その帰りにふらりと立ち寄ることも最近は増えている。
だが、目の前の二人は違った。袖口から漂う空気が、決定的に違う。
――これはビジネスの戦場をくぐり抜けてきた女の空気だ。
彼女たちが纏っているのは、夏祭り帰りの甘ったるい匂いではなく、会議室と交渉の火花の残り香。まるで昼間のビジネスの戦場からそのまま直行してきたかのような張りつめたオーラが、浴衣の上からにじみ出ていた。
柔らかな麻布と鮮やかな帯の組み合わせが、逆に彼女たちの凛とした表情を際立たせている。いや、もはや凛とし過ぎていると表現した方が良いだろう。
私は一瞬、バーテンダーであることを忘れ、それをむしろ「美しい」と思ってしまった。あまりにも自称港区女子とはかけ離れた本物だけが持つ緊張感の高さ……。
だが、同時に直感する。この二人がカウンターの中央に腰を下ろせば、今夜の店の空気は一変する、と。
その二人が迷いなくカウンターの中央に腰を下ろした瞬間――。
私が予想していた以上に、お店の空気が、一変した。
まるで誰かが目に見えないタクトを振ったかのように、店内に微かなざわめきが走ったのだ。
常連客たちでさえグラスを持つ手を止め、ちらりと横目で様子をうかがう。
それほどまでに、彼女たちの放つ存在感は際立っていた。
そして、待ってましたとばかりに、奥のテーブル席の数人の男たちが色めき立っている。
ジャケットの袖口からブランド時計を覗かせ、やたらと声を大きくして笑い合っている。
ロレックス、オメガ、タグ・ホイヤー、チューダーといったところか。
――彼らはいつもそうだ。酒を楽しむより、自分のステータスを誇示することの方が大事なのだ。
“港区カレンダー”の功罪、とでも言うべきか。
記事に踊らされてやってきたエセ紳士たちは、女性客が現れるとまるで獲物を見つけたかのように熱い視線を投げかける。
今夜もまた、彼らのターゲットは決まったらしい。
カウンター越しに私はグラスを磨きながら、心の中で小さく苦笑した。
――分かりやすい。
ただ、この浴衣美人のツインに限って言えば、そんな安っぽいアプローチでどうにかできる相手ではないことくらい、すぐに気づくはずなのだが。
いや、むしろ気づかないからこそ“エセ”なのだろう。
私はバーテンダー。
お店を訪れる客を一時楽しませるのが私の大切な役割だ。
しかし今、他ならぬ私自身が、これから起こる事を楽しみにしているのは否定できない。それこそが、バーテンダーゆえの密やかな特権というものだろう。
二人はカウンターの中央に腰を下ろすと、涼やかに帯を直しながら、ようやく肩の力を抜いたように見えた。
「……亜紀さん、今日はお疲れさまでしたね。まさか浴衣まで着て来るなんて」
その声音は、まるでビジネスミーティングの余韻を引きずっているかのように張りつめていた。
だが“亜紀さん”と呼ばれた方は、苦笑いを浮かべて応じる。
「玲奈こそ。……でも、あんな形で完全にやられるなんて、正直想定外だったわ」
――亜紀。玲奈。
私はカウンター越しにグラスを磨きながら、その名を心の中で反芻する。
どうやら二人は、仕事仲間か、あるいはライバル同士といった関係らしい。
浴衣姿でいながら、纏う空気はやはり“ビジネス戦場帰り”のそれだった。
玲奈は小さく肩を竦め、カウンターに肘をついた。
「……正直、あの子の浴衣姿には、参りました」
「ええ。まさかあそこまでとはね」
亜紀が低く呟く。
「私たちがいくら装っても、あれは“素”の強さよ」
二人の間に、わずかな沈黙が落ちた。
だがそれは敗北感からではなく、むしろ悔しさを滲ませながらも笑い飛ばすような、大人の女たちの余裕を感じさせた。
私は静かに口を開いた。
「ご注文は?」
玲奈が軽やかに顎を上げる。
「ギムレットを。フレッシュライムで、酸味は強めにお願いします」
亜紀が続いて、迷いなく言った。
「じゃあ私は……マンハッタンを。バーボンで、スイート寄りに」
氷を割る音が、グラスに落ちる。
琥珀と翡翠の光が、カウンターの上で揺れ始める。
二人はグラスを受け取り、軽くステムを合わせた。
「乾杯――“敗者の夜”に」
亜紀が苦笑混じりに言うと、玲奈がわざとらしく目を細めた。
「でも、まだ終わったわけじゃないでしょう?」
その声音には、再び戦場に戻る女の芯の強さが宿っていた。
浴衣に包まれた指先が、琥珀色の液体を揺らす。
悔しさと、それでもなお負けられないという気迫。
その二つを同時に抱えながら、彼女たちは静かにグラスを傾けた。
※※※
二人のグラスがほぼ同時に空になる。
氷がカランと音を立てた瞬間、玲奈がわざと軽い調子で口を開いた。
「でも――直也、まさか室長に抜擢されるなんてね」
その声色は誇らしげでありながら、どこか挑むような響きを含んでいる。
亜紀が口元に笑みを浮かべ、琥珀色の残り香を舌に転がす。
「……ええ。あの年齢で室長職。普通ならあり得ない人事よ。私たちがサポートした甲斐があったというものだわ」
「ふふ、確かに。会議も交渉も、裏方を固めなきゃ彼だって持ちこたえられなかったはずです」
玲奈が軽く肩を竦める。
その目は、誇りと同時に悔しさを隠しきれていなかった。
亜紀はグラスを指でなぞりながら、ぽつりと呟く。
「――それなのに、浴衣の義妹ちゃんに全部持っていかれた」
玲奈は思わず吹き出しそうになり、グラスをカウンターに置いた。
「……ええ、正直、あそこまでとは思いませんでした」
二人は顔を見合わせ、同時に小さく笑う。
敵同士の緊張感を漂わせながら、この夜ばかりは妙な共感に結ばれているという感じだろうか。
※※※
亜紀がふと真顔に戻る。
「それに――気づいた? 谷川莉子さん」
玲奈は目を細めて頷いた。
「ええ。あの落ち着き、ちょっと怖いくらいでした。舌打ちしていた私たちを見て、笑ってましたから」
「……あの子、自分の“手札”をちゃんと持っている顔をしていた」
亜紀の言葉に、玲奈もわずかに唇を噛んだ。
「私たちが感情的になっても、あの子は絶対ブレないでしょうね」
カウンターに沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は苦々しさだけでなく、次に備える大人の女たちの呼吸のようにも見えた。
私はバーテンダーとして声をかけた。
「おかわりをお持ちしましょうか」
玲奈が迷わず答える。
「マティーニを。ジンはボンベイで、冷たく、ドライに」
亜紀は少し考えてから口を開いた。
「私は……ネグローニを。しっかり苦みを立たせて」
シェイカーが鳴り、グラスの中に新しい夜が生まれる。
玲奈のマティーニは透明な刃のように冷たく澄み渡り、亜紀のネグローニは鮮やかな赤で夜の帳を染める。
二人は再びステムを合わせた。
「乾杯――戦友として」
亜紀の声は低く響く。
玲奈は挑むような笑みを浮かべて応じた。
「ええ。来週からはまたライバルだけど、今夜だけは、ですね」
二人のグラスが軽やかに触れ合う音が、静かな店内に弾けた。