第七〇話 山中、河原にて
山登りを始めて既に二時間が経過していた。
川に沿って山を縦走している私達は、道なき道を歩んでいる事もあり、未だ中腹にも辿り着いていない。
私や、私の肩に乗りっぱなしの幼女は全く問題は無いが、後ろの二人は小休止ではなくきちんとした休憩を挟んだ方が良さそうだった。
河原のように開けた場所を発見した私達は、そこで一度休憩を取ることにした。
「すみません。態々」
やや荒い息を吐くヤノメと、まだ余裕が有る様に見えるダイクンとが謝罪をしてくる。
彼らを連れて行くと決めた時から、初めからノンストップで山頂までたどり着けるなど思ってはいない。
気にすることなど無い様にと私は声を掛ける。
「うむ、中々のペースじゃ」
歩いてすらいない幼女がそれを言うのか。
だが、確かに彼女の身体ではここまで来るのに数倍の時間がかかってしまうだろう。
私を乗り物にした彼女の判断は、ムカつくが正しいという事だ。
「シャール=シャラシャリーアは、もっと大きくなれないのか?」
私は予てから考えていた疑問を投げかける。
「お主、もっと大きいのが趣味――という冗談はさておき。余はこう見えて若輩者でな。これから会うグラガナン=ガシャと比べれば、文字通り大人と子供の差が存在する。つまりこの姿は、もし余が人間ならばこの程度の姿形であるという事の表れなのじゃ」
だが、変化する姿形にもっと融通は利くのではないか?
「それはそうじゃが、今もあ奴に見られているかもしれん。そんな中、年相応でない姿でドヤってみろ。笑われるわ」
そんな理由かよ。
「それにこの方が楽じゃ」
だからそんな理由かよ。
私とシャール=シャラシャリーアがそんな気の抜けた会話をしているうちに、カルハザールの二人は息を整えていた。
「良し、行くべか。アダムさん、こっちは大丈夫だべ」
ダイクンは自分の尻に付いた汚れを払い落としながら立ち上がった。
「まあ、待て待て。どうせじゃからここで聞いておきたいこともあるのでな」
だが、シャール=シャラシャリーアはそれを手で制すると立ち上がろうとしていたヤノメに目を向けた。
「やっと分かったわ。お主の懐にあるそれ。それについて話を聞かせてもらわんとな」
その言葉にぎょっとした表情を浮かべるヤノメだったが、直ぐに居住まいを正すと彼女に正対した。
「御見それいたしました。流石は守護龍様。ええ、アダム様におっしゃった通り、素よりそのつもりでございましたが今ここでお話しするのが丁度良いでしょう」
そう言って彼は自分の懐から小さな小瓶を取り出した。
そこには無色透明な液体に浸かった、ピンク色の極小さな複数の結晶体が見て取れた。
瞬間、馴染みのある感覚が私を襲う。
戦闘態勢に移りそうになった私を、守護龍が止めた。
「邪血か」
「はい。私共はこれを龍の秘薬と呼んでおります」
極めて薄いが、確かに小瓶から感じるそれは嘗て私も味わったズヌバの邪血が持つ気配を感じさせた。
しかし、小瓶を持つヤノメからはそれに侵されているような雰囲気は一切感じられない。
「邪血教団、恐らくアダム様はその名前を何れかの国から聞いたことが有るはず。これは、我が国に入り込んでいた構成員から奪い取った邪血を、霊峰より流れ出る霊水で清めた物です」
彼は私達にもよく見えるように、その小瓶を顔の前に持っていきながらその由来を語る。
曰く、この秘薬を使用することで人は、魔力、膂力共に尋常ならざる力を一時のみ得ることが出来るのだという。
効果時間は人によって異なるが短くて一時間、長ければ四時間程は保つとの事で、間を置かない連続使用こそ精神汚濁などの危険が伴うが、非常に強力な効果を秘めた品との事だった。
「御無礼を承知で言わせて頂きます。正気ですか?」
「御尤もな意見です。しかし、此度の案件。人は龍に立ち向かうにあたって、やはりその力を利用しなければ勝つことなど到底不可能です」
やや非難を帯びた視線を、ヤノメはシャール=シャラシャリーアに向ける。
「まだ国内に留めておりますが、我がカルハザール共和国では邪血教団による被害が水面下で広がっておりました。今はかなりの数の構成員を始末しましたので小康を保っておりますが、恐らく、いち早く分体を撃退したミネリア王国以外は程度の差こそあれ、同じ状況かも知れません」
なるほど、隣の幼女の所為で会議は中断してしまったが、あの時この事を議題として言おうとしていたのか。
もしあの場でその薬の件について出されていたならば、ミネリア以外の支部は好感触で受け止めていたかもしれない。
「ミネリア王国は、連合支部も含めて恵まれております。シャール=シャラシャリーア様がおられますし、今や勇者も二名確保しております。ゼラ様を外遊に出されるという意見は歓迎いたしますが、それでも、私達含めて周辺国には力が足りないのです」
なるほど。理にかなっているかもしれない。
龍には龍。
私は一定の理解を示す旨を二人に返した。
「だが、言うまでも無い事ですが、安全性はどうなっているのですか?」
「使い方を誤らなければ、現時点で問題はございません。実はダイクンは、被験者第一号として実験に参加しておりますが、皆さまから見て彼はどのように見えますか?」
私とシャール=シャラシャリーアはダイクンを観察する。
全く異常は見られなかった。
「んだけども、俺は抵抗力とやらが高いって話です。誰でも使えるってわけじゃない事は確かです」
私はグレースやリヨコを思い出した。
二人とも、直接ズヌバと相対したが、邪血の誘惑を振り払っている。
裏を返せば、エリートたる二人程の人間でなくては危ういという事の表れかも知れなかった。
「因みにどう使うのじゃ?」
私も気になっていたことを彼女は質問した。
普通に考えれば飲むのかも知れなかったが、どう考えても身体に悪そうだ。
「それは、嗅ぐのです。蓋を外して、直接ではなく手で仰いで風に乗せるようにします」
やっぱり危険な薬剤のそれだった。
「飲んだらどうなる」
「概ね錯乱して死に至ります。力を得ようとして、秘かに飲んだものがおりましたので、それは判明しております。そして、その者達は既に命を落としております。それ故、この秘薬は限られた者しか知らされておらず、我々が持ち込んだのもこれ一つです」
この場で話してくれて本当に良かった。
会議でこんなものをぶち込まれていたら、それどころでは無くなる。
そんな危険な物を作るんじゃないと言いたいところだったが、こんな危険な物に頼らなくてはならないという現実が存在しているのだろう。
もっと言えば、狂える龍に人間の力だけで立ち向かう事自体がおかしいという事だった。
それはシャール=シャラシャリーアも理解しているようで、彼らには申し訳なさそうな視線を送っていた。
「独り言じゃが、余はそれを認めることは出来ん。破滅しか見えんからな。お主たちから奪い取って、この世から諸共消し去ってしまいたい程じゃ」
その発言で、場に緊張感が生まれた。
幼女の姿でも龍は龍。
圧倒的上位者である事に変わりは無いのだ。
「じゃが、龍も間違える。それがこの世の真実であり、否定しようがない事実じゃ。それに、大戦を止められなかったように、余達は人に干渉する事が禁じられている」
溜息を吐くと、彼女は私に向かって自分を肩に乗せる様に指示した。
「お主たちを連れてきて正解じゃな。霊水とやらを使っている以上、源であるグラガナンにも関係が有る。お主らも元々そのつもりだったのじゃろうが」
そう言って、守護龍は山頂を仰ぎ見た。
結局、私達はもう一人の龍に会わなければならないのだった。
持ち物の点検を行う二人を尻目に、シャール=シャラシャリーアが私に語り掛けてきた。
声ではない、念話だった。
「もしもの時は、出来るのか?」
もしもの時。
ズヌバが人間を自分の陣営に引き込んでいる時点で、それは避けられない。
そうだな。
「悲しいが、出来てしまう」
私は人間のものでは無い身体を動かしながら、そう心の中で返答した。
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何れも土の下にいる作者に良く効きます