6
あれから二年の月日が経った。
父は宣言通り会社を去り、ほどなく友人の方の会社のある地方都市へと生活の拠点を移した。それと同時に、私は慎さんの元に身を寄せることとなった。
本当はあの家で暮らしていてもよかったのだけれど、父が私の一人暮らしの危険と慎さんの元で暮らす『危険』とを天秤にかけ、胃に穴が開く寸前になるほど悩んだ末の苦渋の選択だ。
『いいか、信頼して託すのだからな! 順番を間違えてくれるなよ、結婚するまでに腹が膨れたりでもしたら、結婚の話はなしにしてすぐに私のところへ連れて行くからな!』
『分かっていますよお義父さん』
『まだ君の義父ではない!』という明け透けなやり取りは、一時期耳にタコが出来るほど聞いたものだ。
アルバイトと学業と家事と、アトリエ通いと。文字にすれば何一つ変わっていないようで、一八〇度変わった私の生活。
家で、アトリエで、毎日好きな人に会える。毎日、キスもハグも出来る。思った分を思い返してもらえる。好きだと、好きなだけ伝えられる。
その全てが、幸せでたまらない。欲張りな私は、もうそれらがなかった頃には戻れない。――二度と。
大学四年になってからは、卒論と結婚式の準備に追われた。慎さんが、一日でも早く結婚したいと望んでくれたから。でも学生結婚はしなかった。というのも、父との約束で『在学中は学業を優先し、結婚は卒業後にする事』という一項目が同居の条件に挙げられていたからだ。ちなみに同居のための条件はそれはもう、うんざりするほどあったので思い出したくもない。
慎さんが「ウェディングドレスを作り直そうか」と言ってくれたことがあった。けれど、その申し出には首を横に振った。
「せっかく作ってもらったのだから、あれが着たいです」
「でも、あれでよその男に嫁ごうとしていただろう」
「それはごめんなさい。でも、あの時の私ごと、愛してもらうことは出来ませんか?」
「出来ない訳、ないだろ?」
どうしたって俺は君に負けるんだ。そういじけた慎さんの頬に、たくさんキスをして宥めたことも忘れられない。
そして迎えた、結婚式の当日。
控室でその時を待つ私に聞こえた、来客を知らせる遠慮のないノックの音。それだけでもう誰だか分かって苦笑した。
ガチャリとこれまた遠慮なく開け放たれた扉の向こうに立っていたのは、もちろん想像した通りの人物だった。この日も美しくシャンパンベージュのドレスを着こなした神田さんが、ふかふかのじゅうたんにヒールの足を取られることなく、大股で近付いてくる。
――やっぱり、私はあれほどに高く細いヒールを今日という日にも履けなかった。でもそれをもう、焦ったりはしない。
三センチだろうと五センチだろうと一一センチだろうと、君が履くならどの靴も素敵だよ、と夫になる人が何度もそう言ってくれたから。
神田さんはまじまじと私を見て、「綺麗ね、ドレスも、あなたも」と呟いた。その素直な賛辞に緊張一色だった心が緩んだ。
「ありがとうございます」
「それにしてもほんと、あの男はいいもの作るわ。特に百合野ちゃんが絡むと。知ってる? そのドレス作ってる時、ちょっと執念入ってたわよー。相手の男への怨念も込めてたわねきっと。ネチネチ体質だし」
――だから新しいものを作ろうとしてたのかもしれない。
「とうとう結婚だわね、おめでとう」
「ありがとう、ございます……」
本日二度目のその言葉は、予想以上にぎこちない響きで口から出た。
「そう思うならちょっとは嬉しそうな顔しなさいよ」
「え、でも神田さんにはずっと反対されてましたから、心からは喜べない感じです……」
「正直」
神田さんが、私の頬を軽く抓む。
二人が結ばれることを良く思っていないように見えた神田さんは、『お陰様で、こういうことになったから』と私と手を繋いだままの慎さんが報告すると、意外にも『よかったじゃない!』と笑顔に拍手付きで祝福の言葉を述べて、慎さんの頭に私の預けたノートをポンと乗せた。
もしかして二人きりになったら何か言われるのかも、としばらく展示会などで顔を合わせるたびにドキドキしたけれど、何を言われるでもなかったので毎回拍子抜けしたし、これまでを思うと本当にふしぎだった。
今日なら聞いてみてもいいかと、「あの、どうして神田さんは私に……」と思い切って口にしてみる。濁したのは、『意地悪言ってたのに止めちゃったんですか』とはさすがに聞けなかったから。でも、正確に読み取られたらしい。整った顔を一瞬くしゃりと寄せ、ものすごいしかめ面をして見せた。そして、「もう時効だわよねー」とため息を吐く。
「あいつから離れろってうるさく言ってたのはね、ネチネチ体質のあいつが可憐な少女だった百合野ちゃんに結構早い段階で目―付けてて、それでいて手も出さずにただただじーっと見つめてたからよ。そんなの余計コワいしキモいじゃない! いっそ何かしらのアクションを起こしてくれたら私はあなたのお父様に告げ口が出来たのに!」
あー思い出すだけで鳥肌よ、とロングの手袋を少し下ろして腕を見せてくれる。
でも。
「――私のこと、ほんとにずっと好きだったんだ……」
「うわ、ヘンタイが二匹に増えたわ」
末永くお幸せに、とひらり手を振って、彼女が控室を出ていく。それと入れ違いで、今度は慎さんがやってきた。
「今、神田が来てたけど……」
「お祝いの言葉をいただいただけですから」
『何を聞かれたの?』『どんな話をしたの?』と男女問わず、自分のいないところで私が誰かと話をしていたと知ると事細かに知りたがる、慎さん。おかげで、追及を一言で終わらせる術まで身に付いてしまった。
「……百合野が冷たい」
「慎さんはかわいい」
私への気持ちを教えてくれてから、慎さんは一切の気持ちを隠さなくなった。『今までの慎さんと違う!』って戸惑ってしまう程。そう言えば、『百合野に嫌われたくなかったから、必死に隠してたんだよ。こっちの俺が本当だから、慣れてください』って笑う慎さん。あんなに余裕たっぷりに見えていたのに、私の言ったことで、すぐに赤くなったり、笑ったり、拗ねたりする。今も、口をとがらせて。
「かわいいは嬉しくない。俺がいくつか知ってる?」
「かわいい三十七才」
「……かわいくないことを言うのは、この口かな」
慎さんの唇が、ゆっくりと近づいてくるけれど、白い手袋をはめた指でストップをかけた。
「今日、キスは神様の前でするまでおあずけ」
「……そうだった」
じゃあここで我慢する、とくちびるがおでこや耳に触れた。私の腰に手を置いたまま名残惜しそうに離れると、代わりに、今度はしみじみと眺められる。
「そのドレスを着たところは何回も見てるけど、今日が一番綺麗だ」
「――ありがとうございます。慎さんもかっこいい」
「花嫁さんの目が悪くて助かる」
「私、両目一.五ずつありますけど」
「ほんと、君は見かけによらず負けず嫌いというか強情というか」
「――だめですか?」
不安になって見上げると、慎さんの答えは『うん』でもなければ『いいえ』でもなく。
「俺が今キスできないって分かっててそんな顔するなんて、卑怯だ」というものだった。
その言葉に笑ってしまう。すると慎さんが「笑うの禁止」とおでこにおでこを軽くぶつけてくる。そして。
慎さんが瞬きするたび、肌に触れるまつげがくすぐったい。禁止されてたけどやっぱり笑ってしまうと、慎さんはしみじみと「俺はずっと、そんな風に君を笑わせたかった」って呟いた。
「君のにこにこした顔が大好きだよ。でも、辛いことも悲しいことも隠した笑顔はさびしくて、うんと笑わせたいって思ってた」
「――」
そう言われて、この二年というもの、怒ったり笑ったりを我慢したことは殆どなかったことに気付く。
『悲しい時に、笑わないで』
そう言われても、はじめは何のことかわからなかった。でもそのうち、今までのように笑顔で感情をコーティングすると慎さんがとても悲しそうな顔をするので気が付いた。そして、鏡で悲しい時の笑顔を拵えてみたら、慎さんが言っていたようにとても寂しいものだった。
それからは、少しずつ感情のままに自分を表していった。
わがままを恐る恐る口に乗せると、幻滅されるどころか喜ばれた。
やきもちらしき感情をぶつけると、嫌な顔をされるどころか感激された。
慎さんは、こうして私を緩やかに作り変えていってくれた。
『お母さんに、招待状を出す?』
結婚式の準備中慎さんにそう聞かれたけれど、あの人をどうしても許せない自分がいて、久しぶりに困った笑顔を浮かべてしまった。すると、『――うん、ごめん。百合野のいい方で』とあっさり発言を撤回してくれたので、私も『出しません』と言えた。
母にはもう会うどころか連絡も取ってはいない。
父には『一生の一度のことなのだから、彼女にも参加させてあげたらどうだい』とたしなめられたけれど、その一生に一度を他人同然になった人に母親の顔をして出て欲しくはなかった。
『こんな心の狭い私をどう思う?』
『好きだよ』
ドキドキしながら半分答えが分かっていたことを敢えて聞いたけれど、慎さんはぎゅっと私を抱きしめてくれた。
――ああ。
私は、自分を守るためにいつの間にか纏っていた拒絶という名の防御魔法を、二年をかけて知らぬ間に慎さんの手で解除されていたんだと知る。
慎さんが、手袋の指先にそっとキスをした。
「いつまでも、笑ってて、俺の傍で」
「はい」
「いつもしつこく聞いて、ごめんね」
「慎さんに細かく聞かれなくなったら、その方が私いやです、だから」
――ずっと、私のことを好きでいてくださいね。
おねだりをしたら、「今、こんなにかわいい君にキスできないなんて本当に残念だ……」とぎこちなく私から離れた慎さんが大きくため息を吐いた。
「至近距離にいると本当にキスしたくなるから」、なんて。だから私はまた、笑ってしまう。もしかしたら、涙が少し滲んでいたかもしれない。
今日は、夢にまで見た特別な日。生涯の伴侶との儀式をする日。
それが終わっても、慎さんとの日々が永く続くように、いいものであるように、今日という日を忘れぬよう心に刻む日。
こんこん、と今度は控えめなノックが聞こえた。
「お時間ですよ」と係の人に呼ばれて、私と慎さんは一刻も早くキスをするべく、控室を出る。
二人で、とびきりの笑顔を纏って。
26/02/22 誤字修正しました。