ゆくへも知らず
翌日、夜が明けると生駒は隠れ家にしていた家を後にして、旅立った。僅かな荷と杖を手に、壺装束姿で市女笠をかぶって一人、朝もやの中を歩いていく。
生駒は朱雀大路を南に下りきり、都の入り口、羅城門をくぐった。生まれて初めて一人で出る都の外。思わずうしろを振り返り、その門の姿を目に焼きつけた。
いつか、本当に私はここに戻って来れるのかしら?
そんな不安が頭をよぎったが、後に戻るつもりはない。これからは先に進むだけだ。
きっと戻ってくるわ。何があろうと、どんな目に会おうとも。私を待っていてくれる人たちが、この都にはいるのだから。
生駒は門に向かって深々と頭を下げると、大納言が用意したという川を下る舟に乗るために、桂川を目指して一人、歩いていった。
しばらく歩き、広い河原に出ると言われたとおり、小さな小船が岸辺で待っていた。深く笠をかぶった男が一人、舟の上で生駒を待ち構えている。
この船に乗れば京を離れるのはあっという間だろう。まずはこの小船で住吉の近くまで乗せてもらい、その先は自分で行く先を決めなくてはならない。
この舟人に住吉より先の土地の話など聞きながら、行く先を決めればいいわ。須磨か、淡路か、それとももっと遠い西の国でもいいかもしれない。とにかく行けるところまで行ってみればいいわ。そうすれば覚悟が出来て、自分の生きる道をきっと決める事が出来るだろう。考える事よりも、まずやってみる事だわ。これからはそうやって生きて行くしかないのだから。
生駒はそう思って、小舟に近づいていく。
「大納言殿が御用意して下さった船はこちらかしら?」
生駒の問いに、笠を深くかぶった粗末な身なりの男は頷いた。
「そう、手間を取らせて申し訳ないわね。これから住吉までよろしくお願いするわ。大納言殿にもお礼を言っておいてね」
「こちらこそ。だが、大納言殿へのお礼は、ずいぶん遅くなってしまうだろう」
舟人の効き覚えのある声に、生駒は驚く。
「で、住吉から先はどちらに向かわれる? どこまででも御案内する心づもりはあるんだが」
そう言って笠を外したその顔は、まぎれもなく隼人だった。
「こ……こんなところで、何をしているの? 少将殿は御存じなの?」
「もちろん御存じさ。そして今頃内大臣の邸は大騒ぎだ。塀の一部が壊されて、盗人に入られたとね」
「盗人?」
「ああ。だがその女盗人は変わったやつで、邸の宝には何一つ手をつけなかったんだ。だが、少将殿の従者を一人、さらって行ったんだ」
「ちょっと、それって……」
「さらわれてしまった者は仕方がない。養父にも、少将殿にもどうする事も出来ない。少将殿はお気に入りの従者を失ったが、寛大な御心で持って養父を咎めなかったばかりか、養子を失って心沈んでいる養父に、最善のお心配りをなさって下さるそうだ。誰も不幸になんかなっちゃいない」
「でも、隼人は」
「第一、その従者はすでに女盗人に心を奪われていたんだ。心を失った従者など何の役にも立たない。ただの腑抜けでしかないだろう。そんな者に舎人が務まるか? 少将殿のお世話ができるのか?」
「あきれたわ。隼人はこれからどうするつもりなの?」
「それはお前が決めてくれ。山に入れば山師に、海に入れば漁師にもなろう。ただし俺は一人で都に戻る気は無いぞ。俺はもうお前と同じ行方知れずだ。お前に盗まれたのだからな。お前が好きなように使えばいい」
「あなたって馬鹿ね。舎人の地位も、公達の養子の立場も望んで得られるものではないのに」
「俺は望まなかったんだ。そして俺はお前に言ってあったはず。お前を逃がしはしない。逃げられるものなら逃げてみろ。俺がお前を慕う人々のもとに必ず連れ帰ると。俺が都に戻る時は、お前を連れ帰る時だ。そのためにおれはここにいるんだ」
「盗まれたというわりには、横暴なのね。勝手な事ばかり言って」
「勝手か? 俺はお前を望んでいる。お前は俺を望んでいないのか?」
「望んでいるわ。でも、人の心は揺れるものだわ。こんなことをして、もし隼人の心が揺れたら後悔することになるわよ」
「お前の心も揺れるかもしれないな。だが……」
隼人は静かに舟を動かした。小船は岸から離れて行く。
「この船の上にいる以上、俺達の心はどんなに揺れても離れることはできない」
そう言って舟を流れるに任せ、生駒の身を引き寄せた。そして生駒の肩の傷跡のあるあたりに、衣の上がら唇を押しつけた。
「揺れる心も、この傷跡も、すべて愛してる」
隼人のささやきに生駒の目に涙が浮かびかけたその時、生駒の目に嵐山の姿が飛び込んだ。
「隼人、見て。美しいわ」
生駒が指差す先に紅葉に染め上げられた嵐山の美しい姿があった。まるで五色の錦のようだ。この紅葉がすべて散り落ちてしまえば、都には厳しい冬がやってくるのだ。
「山も惜しんでいるのさ。お前が別れの袖を振りながら都を離れるのを。この涼やかな香り、お前は決して熱い炎ではない。やはりお前は秋の女神、龍田姫なのだから」
そう言って隼人は嵐山に向かい、手を振ると、
「都の山々よ、俺は約束しよう。お前達を彩る秋の女神を、必ずここに連れ帰ってくる事を。それまでしばしの間だけ、この美しい女人を、俺だけのものにさせてくれ」
すると、どこからともなく紅く染まった紅葉が風に乗って舞い降りてきた。紅葉はそのまま静かに水面に落ちると、川の流れに流されていった。
隼人はそれを見て生駒を抱きしめ、生駒は隼人の胸の中で流れて行く紅葉を見送っていた。
舟はゆらり、ゆらりと揺れながら、川の流れに流されていった。行方知れずとなった男と、女を乗せて。
ゆらゆら、ゆらゆらと。
完
つたないところの多い話ですが、なんとか書きあげる事が出来ました。
主な資料としては古語辞典の資料ページを用いましたが、角川ソフィア文庫の『新版 落窪物語』の補注部分なども参考にしています。
そして全体の雰囲気、盗賊の暗躍するイメージは、田辺聖子著『王朝懶夢譚』を参考にしました。あくまでイメージですが。
クライマックスを十五夜にしたのは今昔物語の有名な、月に上ったウサギの献身から思いつきました。弱った旅人を助けるために何も出来ないウサギが、我が身を食料として捧げるために、自ら焚き火に飛び込み焼かれてしまう話です。
私流の身を炎に焼くような献身の話は、こんな形になりました。いかがでしたでしょうか?
ここまでのお付き合いと御愛読、本当にありがとうございました。




