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小児病棟から逃げるように去って以来、私は戦々恐々としていました。あの少女の顔が脳裏から離れず、また同じような状況に陥ってしまったらどうしよう、と怯えていました。
そんな私の胸中が伝わったのか、妻の香りは再び、すっかりなりを潜めてしまいました。
有り難くも私の子供達はスクスクと大きくなり、私は妻の面影を胸に、家族と接する事にも馴れていきました。
息子は私に似ていますが、目は妻に似ていました。娘は、顔の輪郭は妻に似ていましたが、それ以外は私に似ていました。
子供達に妻と同じ能力が受け継がれていた場合、どのような道を示してやるべきか。
それが私の課題となっていきました。幸いな事に、その兆候は現れていませんでした。
二年がたち、父が亡くなりました。
会社の外回りで、道を歩いていた時のことです。
私は、事故現場に遭遇しました。車道に人が倒れ自動車が傍らに止まって、運転手らしき人が不安げに立ちつくしています。複数の人達が慌ただしく動いていましたが、救急車も警察もまだ来ていませんでした。
見るともなしにその光景を目の端に捕らえ、その場を通り過ぎようとした時に、私はあの花の香りを嗅ぎました。信じられなかった。何故なら今までは病人からしかその香りは漂って来ず、あの歌は病人の内臓か何かを治す呪文の歌だ、と信じ込んでいたからです。
まさかと思いながら事故現場を振り返り、恐る恐る彼らを覗いてみると、明らかに、道端に倒れている男性が鮮やかに浮き上がり縁取られていた。
そして彼の周りには黒山の人だかり。
私は大変戸惑いました。怪我人を治した事も無ければ、こんな大勢の人達の前で行う勇気もなかったのです。しかし、妻が呼んでいる。花の香りで私を呼んでいる。だから私は、やるしか、ない。
私は人山をかき分け、彼の元に行きました。
30代前半に見える彼は、割としっかりとしているように見えました。しかし怪我の状態とは、事故直後の表情では測れないことを、私は戦地で学んでいます。腕と足に大きな傷があって血が流れてましたが、頭には擦り傷しか見えませんでした。
彼と私は目が合いました。
すると驚く事に彼は目を見開いて私を凝視し、その後、私に向かって手を伸ばしてきました。その手は思った以上に傷だらけでした。
思わず彼の手を取ると、彼は私の目を覗き込みました。そして周りに向かい、
「すこし、外して下さい」
と頼んだのです。私は度肝を抜かれました。
人だかりは、不思議そうにしながらも我々に空間を開けました。
彼は私に囁きました。
「あんた、サイか?」
「…何だって?」
「何でもいい。俺に用があるんだろう? 何だ?」
「……君を、助けれると思う」
私がそう言うと、彼は再び目を見開きました。
「……そういう人間もいるとは聞いた事があるが……」
そう言って、彼は口をきつく結びました。目が、「やってくれ」と言っています。
私は周囲の目がまだ気になりましたが、もうこれ以上時間がない事も、逃げられない事も悟りました。
私は息を深く吸うと、あの歌を歌いました。
周囲が奇異の目で私達を見ています。しかし誰も止めません。彼が私の手を握り続けているせいもあるのでしょう。私が、どこかの新興宗教の伝道師か何かだと思われていたのかもしれません。私は構わず歌い続けました。
歌い終わりました。彼の顔を見ました。私には違いがよく分かりません。ただ、彼は力強く頷きました。手足の傷が塞がっている様には見えませんでしたが、流血は、止まっていました。
彼は起き上がり、握っている私の手を引き寄せると、私の耳元で囁きました。
「それで、あんたはサイなのか?」
私は顔を離して、彼を見つめました。若い彼の顔は年の割にはどこかあどけなく、大きな瞳が印象的でした。
「本当に私は分からないんだ。サイって何だ?」
「神通力の事だよ。人の体を治す神通力があるかどうかは知らないが。あんたの力は、他にどんなものがあるんだ?」
「私の力ではない。それに、他の事など何も出来ない」
「あんたの力じゃないって? それはどう言う事だ?」
「それよりも教えてくれ。サイって何だ? 他にも、こういう連中がいるのか?」
私は彼に詰め寄りました。私の頭の中は、妻と子供達の事でいっぱいでした。妻は孤独だった。私は結局、彼女にとって何の力にもなれなかった。もし子供達にこの能力が受け継がれた時、私は同じ過ちを犯したくない。彼らに、親としての指針を示してやりたい。
彼はじっと、私を見つめました。
「一般人にはない、余計な能力を持った人間の事を言うんだ。英語だよ。子供に比較的多いんだが、ハタチを過ぎれば無くなる場合が多い。俺もそうだった。あんたみたいに大人になっても持ち続けるのは、珍しいんだ」
子供に多い、と聞いて私の体に緊張が走りました。自分の子供達の顔が浮かびました。彼らは十代です。
「子供に多いって、その能力はいつ現れるんだ?」
「人それぞれだが、大抵思春期までに現れる」
マズイ。子供達は、まさしく思春期真っただ中だ。
私が唇を噛み締めると、彼は言いました。
「あんたみたいな能力がある人間の話を、昔、聞いた事がある」
私は驚いて彼を見ました。誰の事を言っているんだ? 彼は、妻の事を知っているのだろうか?
「普段は、吸魂された人間を癒すんだろう?」
「キュウ……何だって?」
耳慣れない台詞に、私は眉根を寄せました。
「吸魂された人間は、免疫不全を起こす。一種のアレルギー反応だ。多分生気を吸い取られる時に、記憶や痛みを麻痺させる何かを流しこまれるのだろう。それが体の内部に入り、拒否反応を起こす」
「……君は、何を言っているんだ?」
「俺はこれでも医者なんだよ。この歳でまだ勉強中の、医学部生だけどね」
彼は苦笑して、私を見ました。私は彼の顔を見つめ、そして考えました。そうか。私が今まで癒してきた病人は、その「キュウコンされた」人達だったのか。なにか特殊な事情があっての病気だった訳だ。
そして改めて、目の前の彼を観察しました。この青年は、素直な瞳をしている。育ちも良さそうで、多分、信頼出来る男だ。
だから妻は、私を彼の所に呼んだのかもしれない。
彼は、これからの私達……子供達に、必要な人間なのかもしれない。
遠くで、救急車の音が聞こえてきました。
彼は私を見上げて言いました。
「怪我をした人間も救えるなんて初めて聞いた。波長があう人間もたまに癒せる、とは聞いたから、俺があんたにとってその人間なのかな? とはいえ、あんたみたいな年長者のサイも初めて見た。今日は不思議な事だらけだ」
「連絡先を教えてくれ」
私の申し出に、彼は少し驚いたようでした。
「それを貰っても、二度と会わないかもしれない。こちらの連絡先を君に教えるつもりもない。それでも構わなければ、連絡先を教えてくれないか?……君の助けが、将来必要になるかもしれないんだ」
救急車が目の前で止まりました。
私をジッと見つめていた彼は、やがて明るく微笑みました。
「命の恩人の頼みを、断る訳がないだろう?」
やがて救急隊員がやってきて、私達の間に割り込みました。彼が私に右手を差し出したので、私は慌てて鞄からノートを取り出し彼に渡し、彼は自分の連絡先を書きこみました。その間に救急隊員は手際良く処置をして、そして彼を運んで行きました。
車に乗せられた彼に、私は最後の声をかけました。
「教えてくれ! 君の言ったサイは……遠くにいる人間の、命も救えるのか?」
彼は僅かに目を見開きました。そして、切なそうに微笑みました。
「その答えは、あんたの中でもう、出てるんじゃないのか?」
救急車の扉が閉まり、彼は去って行きました。
私はその車を、ただただ見送っておりました。
以上がね、私の身の上に起きた、妙なお話です。結局子供達に、妻の能力は出ませんでした。ですから本当に、コレで終わりです。ええ、これでしまいです。
何故かといいますとね、それ以来私は、例の花の香りを嗅いでいないのですわ。何ででしょうね? 使い果たしてしまったのでしょうか。それとも、妻が成仏したのでしょうか?
それでも、あの香りを思い出す事は出来ます。それは、妻の笑顔を思い浮かべるのと同じくらい、簡単な事です。
この話、初めて人にしました。誰かに話そうと思った事は、一度もありません。私に嫁ぐ前の妻は随分と差別され、苦労をして、孤独でした。そんな彼女をこれ以上、死後とは言え、人目にさらしたくなかったのですよ。
でも流石にこの歳になりましてねぇ。子供達もこの世を去り、私は浮世を離れて隠居の身です。見て下さい。ここの花は、本当に美しい。いや、日本は素晴らしい国ですね。四季があり、自然が豊かで、花と緑に溢れている。そりゃ昔よりは草木も少なくなったでしょうが、それでも随分と暮らしやすくなりましたよ。素晴らしい事じゃないですか。
ああ、聞いてくれて本当にありがとう。何だか少し肩の荷が下りた気がします。子供達には話さないと決めた時点で墓場まで持って行くつもりでおりましたが、あなたのお顔を見ていたら、そんな頑固な気持ちも失せました。時代が変わった今、益々信じられない話として誰かのお耳に残す事も、まあ、悪くはありませんな。
こういう夫婦がいた、と思ってくれれば嬉しいです。こういう、不器用な夫婦がいた、とね。
あ、そうそう、交通事故から救った彼は、その後無事にお医者様になりましたよ。私達はその後も、年賀状のやり取りだけはしとりました。と言っても私が先方に連絡先を教えたのは、それから更に7年後の事ですが。しかも今は彼も既に他界しております。ただ、生前の子供達には、彼の事を伝えました。
妻の事情と共に、お前たちの身の上に、文字通り何かが起こったら、この人をまず頼りなさい、と。
今では家族同志、付き合いが続いとるようです。まあ私にはもう、関係の無い事ですが。