第1話:私、結婚致します。
「私、結婚致します。」
久しぶりに家族全員が揃った食卓で、アドルシュタイン家の長女、ヴィクトリア・ヴァン・アドルシュタインの第一声が響いた。
朝の爽やかな食卓が、一瞬にして異様な空気に包まれる。
父は、動揺のあまり手を滑らせ、ガシャンと大きな音を立て、フォークとナイフを落とした。
次女のイザベラは、無言。
……いや、あまりの衝撃に処理が追いつかず、ミシミシと音を立てて、愛用のフォークを握り潰している。
三女のエレナだけが、そんな突拍子もないことを言い出した姉を、冷静な目でじっと観察していた。
「あ、相手は誰だ!?」
ようやく声を絞り出した父が、狼狽しながら叫ぶ。
「北部騎士団副団長、カシアン・ヴァラドです。」
ヴィクトリアは、淡々と言ってのけた。
「いつ決めた!!……しかも、カシアンだと?!」
次の瞬間、イザベラがドンッ!と音を立てて、身を乗り出した。その目はすでに姉をたぶらかした不届き者を、いつでも斬り殺せる騎士のそれに変わっている。
「まだ、承諾は得ていません。」
ヴィクトリアは、動揺することなく現状を伝えた。
ヴィクトリアの言葉に対する父とイザベラの凄まじい動揺を他所に、エレナは上品に紅茶に口を付ける。そして、言葉を発した。
「興味深いお話ですね。承諾を得ていないにも関わらず、結婚すると断定した理由をお聞きしても?」
「断られる理由がありません。」
ヴィクトリアは、事もなげに言ってのけた。
「あるだろ。」
「ありますね。」
脳筋騎士と、論理主義者。相反する二人が、完全にシンクロして、姉を見返した。
「ま、待ちなさいヴィクトリア。順番に話そう。まだ、心の準備が……」
父は、おびえた小動物のような声を出した。その声は、熊のような巨体に似合わないほど、か細かった。
「では、今から契約に行って参ります。」
家族の困惑した声を、ヴィクトリアは完全無視し、朝の爽やかな食卓から離脱した。
******
アイゼンガルト国、北方領土。アドルシュタイン侯爵家の長女、ヴィクトリア・ヴァン・アドルシュタイン。
母を早くに亡くした彼女には、幼い頃から一つの使命が課せられていた。
それは、母の代わりとして、騎士として優秀ではあるが、頼りない父の代わりに、アドルシュタイン家を切り盛りすること。そして、二人の妹を立派に育てあげること。
その責務を果たすため、彼女は自らの感情を鉄の仮面の裏に封じ込め、一切の妥協を許さぬ『女帝』へと成長した。
冷徹に透き通る紫水晶の瞳に、夜の闇を紡いだような漆黒の髪。妥協を許さない美貌は、社交界で女帝と畏怖される彼女に、あまりにも相応しいものだった。
そんな彼女も、気づけば結婚適齢期を迎えている。
しかし、社交界において彼女に求婚しようという命知らずは、一人として存在しなかった。『アドルシュタイン家の猛獣姉妹』そう揶揄される妹たちを管理する……女帝の威圧感。
その冷徹な刃に晒されれば、並の貴族など一溜まりもない。
彼女を妻に迎えるということは、家の中に審判官を住まわせるに等しい。それが、社交界の共通認識だった。
それでも、家格や利権を目当てにした縁談が、いくつか舞い込むことはあった。
だが、「この条件では、アドルシュタイン家に利がありません。時間の無駄です。」と。ヴィクトリアはそのすべてに、冷ややかな一瞥とともに「ノー」を突きつけた。
朝食の時間が終わり、困惑する家族を切り捨て向かった先は、北部騎士団詰所だった。
「カシアン副団長。」
朝の訓練を終え、剣の手入れをしていた北部騎士団副団長、カシアン・ヴァラドは、その硬質な声に小さく肩をすくめた。
若くして副団長を務める実力者であり、次期団長候補と注目される男だった。漆黒の髪に、薄いスカイブルーの瞳。長身で、騎士として鍛え上げられた身体。社交界の女性で、彼を知らない者は、存在しない。
カシアンは何度か貴族女性から、求婚や付き合いを求められる事はあったが、彼自身は全く興味がなかった。
「貴方に話があります。夕刻頃に、私の執務室に寄って下さい。」
ヴィクトリアは、幼馴染という気安さなど微塵も感じさせない、公の顔で要件だけを告げた。
******
そして、魔石灯が薄く灯り始めた夕刻。
カシアンは、仕事終わりの足で執務室のドアを叩いた。
そこには、山のような書類を完璧な手際で捌くヴィクトリアの姿があった。
「失礼する。……呼び出しとは、また随分と物々しいな。何か不手際でもあったか?」
カシアンは、慣れた様子でヴィクトリアの真正面の椅子に腰を下ろす。それを見た彼女は、ペンを置いた。
彼女の視線は、鋭かった。
「いいえ。むしろ貴方の評価は、騎士団の中でも『非の打ち所がない騎士』と聞いています。」
ヴィクトリアは、一枚の書面を卓上に滑らせた。
「だからこそ、提案があります。カシアン・ヴァラド。私と契約を結んでください。内容は、私との『結婚』です。」
「……休め。」
カシアンは椅子から身を乗り出し、心底、怪訝そうな顔で彼女を見つめた。
あまりにも突飛な言葉に、耳を疑ったのだ。
目の前の有能すぎる幼馴染は、たまに仕事に没頭しすぎて常人の理解を超える内容を口にすることがある。今回もその類か、あるいは過労で熱でも出したのか。
「何を言うかと思えば。ヴィクトリア、少し休め。顔色が悪い。」
カシアンは、椅子から立ち上がり、無作法に手を伸ばすと、彼女の額にそっと手をあてた。幼い頃、熱を出した彼女にこうすると、「子供扱いはやめなさい」と怒りながらも、大人しくなっていたものだ。
「無礼です、カシアン副団長。職務中に私的な接触は、慎んでください。」
ヴィクトリアは、額にあてられた手を払いのけることなく、冷静に告げた。
だが、その指先がわずかに震え、彼女が握りしめた書類に微かな皺が寄る。その動作をカシアンの鋭い目は、見逃さなかった。
(……どうやら、本人は、大真面目に話をしているらしい。)
カシアンは、椅子に深く腰を掛けなおし、足を組んだ。そして、突拍子もない幼馴染の言動に理由を探した。
「疲れてるな。最近、国境での問題事が多いからか?」
図星を突かれ、彼女の端正な眉がぴくりと跳ねる。
現在、アドルシュタイン領では、隣国ガルダリカとの緊張が日増しに高まっていた。戦争が始まれば、最前線へ送られるのは、アドルシュタイン領に所属している北部騎士団である。そして、その中心にいるのが、副団長カシアン・ヴァラドだった。
有能であるが故に、彼は必ず戦場へ立つ。
だから、ヴィクトリアは考えた。侯爵家へ迎え入れれば、少なくとも王都の政治的駒として消費されることはない。
本格的な戦争となっても、中央管理下に置かれず、北部に留まる理由も作れる。それは、アドルシュタイン家にとっても、合理的な判断だ。
……そう、彼女は思っていた。
つまりこれは、国家の危機を前提とした、完璧な「契約結婚」の提案。
「これは、武者震いです。重大な交渉を前にした、高揚感に過ぎません。」
嘘をつけ、とカシアンは心の内で苦笑した。
社交界の猛者たちを黙らせる時の彼女は、氷像のように静かだ。
こんな風に、図星を突かれた時だけ見せる、あの妙な仕草。それを見せるのは、自分の前だけだということを、カシアンは知っていた。
「いいですか。私は、アドルシュタイン家の当主として、最適解を提示しているのです。」
ヴィクトリアは一度言葉を切り、カシアンから視線を逸らして、窓の外の夕陽を見つめた。
カシアンは、しばらく無言になった。
この幼馴染は、今度は何を企んでいるのだろうか。アドルシュタイン家の女帝と恐れられ、周囲を翻弄する彼女のことだ。考えても正解に辿り着けないことなど、今に始まったことではない。
「……お前という奴は。」
カシアンは呆れたように息を吐いた。
だが、視線を彼女の手元へ向けた瞬間、その感想は少しだけ変わる。何事もない顔をしているくせに、ヴィクトリアは何度も書類の端を揃え直していた。
(どうやら本人が思うほど、平静ではないらしいな。)
カシアンは小さく笑った。
「……受けよう。断る理由もないしな。」
カシアンは、吐き出すような溜息とともにそう言った。投げやりな言葉に聞こえるが、その瞳は真っ直ぐにヴィクトリアを射抜いている。
「……そうですか。賢明な判断です。貴方なら、そう言うと思っていました。」
ヴィクトリアは、即座に応じた。事務的で完璧なまでの女帝の口調。だが、その手元では、未だに整然と並んでいた書類が、ずっと何度も揃え直されていた。
ヴィクトリアは、気を取り直し、何かを言おうとして、結局何も言えなかった。
代わりに、彼の前へ契約書を静かに押し出した。それを見て、カシアンは苦笑しながら書類を受け取った。
「まさか、今、書類を用意しているとは。」
カシアンは、用意周到な幼馴染の様子に苦笑いした。それは、彼女らしい行動であった。
「当然です。私は、断られるとは考えておりませんでしたので。」
ヴィクトリアは、きっぱりと告げた。
「そうか。」
カシアンは、契約書へ視線を落とした。
(⋯⋯自分の名前を書くだけだ。)
そう思いながらも、結婚という人生の一大事にカシアンは、少しだけ心が揺れた。そして、幼い頃の記憶を思い出した。
つづく
初めまして、ななめ尚央です。
緊張しながら初投稿しております。読んでくださり、ありがとうございます。
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