劣等生にお恵みを
「なるほど、サキュバス。実在したとはな……」
ここまで来てしまったらもう、言いつくろうことなどできない。そもそもこれほど劣等生ぶりを披露してしまって、上手い言い訳なんてできるはずがないではないか。
メリューナは諦めて、自分の事情やら棲んでいる場所のことやら種族やら……とにかく、洗いざらい話したのである。黒髪の『騎士』はベッドの上にあぐらをかいて、あごを撫でつつメリューナを見下ろしてくる。すっかり降参、とばかりに床にへたりこんでいるメリューナを、だ。
「本当に、出来が悪いにもほどがあるのだな。普通はここで言い訳なりなんなりして、あっさり正体を吐いたりしないだろう」
呆れたように言われたし、事実、そのとおりである。
「実は貴方に想いを寄せていたのです」とか、あるいは少々無理があるとしても「男性が恋しかったのです」とか。言い訳などほかにあるだろう。
それをはじめから全暴露である。しかしメリューナも、悔しいながら自身の出来についてはもう良く思い知っているのだ。ここでそのような言い訳を口にしても、この騎士には通用しなさそうだと感じていた。
メリューナの夜這いを次々切り捨ててきた彼のことだ。つまらない言い訳をしたところで、切って捨てられておしまいだろう。そうされてがっくりするなら、いっそはじめからぶちまけてしまったほうが楽だというわけである。自分としても余計にみじめであるし。
「すぐに露見すると思いましたから」
「まぁ、貴様の手腕ならそうだろうな」
しょぼんと言ったというのに、その殊勝な言葉も切って捨てられた。メリューナはもはや泣きたい気持ちであった。もうさっさとおさらばしたい。魔界に帰って、今日も上手くいかなかったと落ち込みながら、でも落ちつく自分の棲みかで一息つきたかった。
だが何故かこの騎士は自分を解放してくれないようで。メリューナは困ってしまう。
もう失敗に終わったのだ。そろそろ解放してくれても。
思ったのだが、不意に騎士が立ち上がった。ベッドを降りる。
それだけでなく、メリューナの目の前まできて、あろうことか膝をついた。
が、それはメリューナにひざまずこうなどというものであるはずがない。
むしろ逆である。へたりこんでいたメリューナのあごを掴んで、上向かせた。
丁寧とは言い難いその手つきに、メリューナの顔は歪んだ。少々痛みを感じるくらいだ。だというのにそれを覗き込む騎士は、むしろ楽しそうな表情を浮かべる。
「劣等生とはいえ、見た目は綺麗な女ではないか」
メリューナの顔をまじまじと見て、騎士は言った。一応褒められているのだろうが、嬉しくはない。かといって、嫌悪するというほどでもないのでメリューナは単純に肯定した。
「……サキュバスなので」
しかし騎士はちょっと不思議そうな顔をした。
「それが関係あるのか?」
魔なる者の存在を知ってはいても、人間はその仕組みに詳しいとは限らない。おはなしの中では違うように書かれていることもあるのだし。
そのたぐいのように、騎士は美醜については知識がなかったようだ。
「人間を誘惑しなければいけないので、インキュバスやサキュバスは、総じて美男美女なのです」
「ほぉ。それは羨ましいことで」
羨ましいと言われても。メリューナは困ってしまう。
言葉に詰まったのを見たのだろう、騎士が、くくっと笑った。
「貴様が魔なる者などではなかったら、大歓迎といったところだったろうにな」
そう言われても、やはり困ってしまう。メリューナがここへやってきたのも、夜這いをかけようとしたのも、すべては精気を得るため、つまりは食事をするためで、それ以上の意味などないのだから。
「俺も男だからな、美人の夜這いとなれば拒む理由などないのだし」
言いながら騎士は、メリューナのあごを掴んでいた手を上に移動させた。するっと頬に手が滑る。
このように触れられることは滅多にないために、メリューナは目を丸くしてしまう。
きょとんとしたようなその顔は、騎士を笑わせてしまったようだ。
「本当に、貴様は人間を襲いに来たとは思えぬ様子だな」
どうして笑われたのかわからないメリューナは、戸惑うしかない。
「……すみません……?」
「俺に謝られてもな」
言うことがわからず謝ってしまったが、当然のような返しをされるし、事実その通りであった。メリューナのその反応が彼にはおかしかったようで、また騎士は、くつくつと笑う。
「なかなかかわいいじゃないか。サキュバスなど辞めてしまったらどうだ」
「……はぁ」
今度は謝ることすらできなかった。サキュバスを辞めるとは。そんなこと、できるはずがない。
人間が人間を辞めるというなら、それは死ぬしかないのであって。それは魔なる者とて同じであるのに。
騎士はそれを承知で、どうやらメリューナをからかっただけの模様だ。また、くくっと笑った。最早、騎士のペースどころではなかった。メリューナは彼の手のひらで、転がされているようなものである。
「本当に、魔なる者などではなかったら、すぐに男の一人や二人、捕まえられそうなものだがな」
そう言われてしまうのは痛い。自分が人間であったなら。そう考えたことがないではないので。
人間になれるはずなどない。けれど、人間が「もしも鳥だったら空が事由に飛べるのになぁ」と考えるような程度の妄想としてなら、もちろんある。
サキュバスという種族ゆえにではあるが、生まれ持ったこの美貌。これを生かせば確かに男性の一人や二人、簡単に捕まりそうだ。
実年齢はともかく、メリューナの見た目はまだ成人前の若い女性。言い寄る男など掃いて捨てるほど集まりそうだ。
だから。
「自分が人間の女の子だったら、素敵な男のひとと恋をして結婚ができるだろうになぁ」
そういう妄想はしたことがあるのである。
まぁ、種族など変えられないので妄想の域を出ないことであるのだが。
その妄想を少し思い出してしまって、ちくりと胸を痛めたメリューナであったが、不意に騎士が、ずいっと顔を近付けてきた。その琥珀色の瞳が眼前までくる。
メリューナの心臓がどきりと高鳴った。これほど近くで『獲物』と接したことはないので。
しかし、この期に及んでもメリューナは騎士を『獲物』と思っていたのだが、それはどうやら甘かった模様だ。
「サキュバス」
騎士が至近距離で、打って変わってひそめた声で言った。低いその声が、メリューナの耳に入ってくる。
騎士はメリューナの頬をもう一度撫でた。白くてやわらかいであろう、その頬。感触か体温か……確かめるように手が動いた。
しかしメリューナは騎士の瞳を見つめるしかなかった。琥珀という宝石は、こんな色をしているのよね。ふとそんなことが頭によぎった。
以前、仲間に見せてもらった綺麗な石があった。ペンダントに嵌め込まれた、金色。きらきらとしていて、美しいアクセサリーになった、琥珀の石。
彼女はそれを「獲物からもらったのよ」と言っていた。「私のことがそんなに気に入ったんですって」と笑っていたものだ。
その綺麗な石のことを思い出してしまったのだが、違うことを考えていたのを悟られてしまったのか。ぐっと手に力を込められて、騎士の望み通りにであろう、メリューナの意識は戻ってきた。
「本当に色気のないことだな。こうして迫られているのに考え事とは」
呆れたような声を出される。
迫られている?
一瞬、不思議に思った。しかし、直後、はっとする。
確かにこれは『迫られている』という状態である。サキュバスであるなら、獲物から精気を奪うための行為が目の前にあるのだ。
それにやっと思い当たったメリューナであったが、当たり前のように遅すぎた。獲物であったはずの騎士に呆れ笑いをされてしまうほどに。
迫られている、という言葉。
近すぎる距離。
そして、呆れられたことも。
色々と混ざった羞恥がメリューナを襲って、その頬を赤く染めさせた。
その反応を見て、騎士はまた違う意味にか笑う。
「人間の女なら、初心でかわいらしいと思うところだったが」
そう言ってから、メリューナの頬を捕まえた。先程と同じように、手に力を込められて。
「だが、まぁ、せっかくの来訪なのだ。精気の欠片くらいはくれてやろう」
「え……?」
メリューナは驚いてしまう。精気をくれるとは。向こうから申し出られるとは。一体どんなつもりなのか。
混乱してしまったが、その様子はやっぱり騎士を苦笑させるのだった。
「ここはかわいらしく『ありがとうございます』とでも……、まぁ、いい。貴様にそう、上等な反応を望んではいけないと、もうよくよくわかった」
メリューナにとっては恥でしかないことをさらりと言ってのけ、しかし今度はそれだけで終わらなかった。
すっと、顔がもう一段階近付く。先程の暴言を気にしているどころではなくなった。メリューナの心臓が違う意味で跳ねた。
『精気をくれる』という行為。知らないはずはない。サキュバスとして当たり前のことだが。
だが、メリューナは今まで精気を得たことがない。つまり、そういう行為だってしたことがないのだ。
急に緊張してきてしまう。人間のするそれとは違う意味とはいえ、生き物であるのだ。緊張はあって当然。
メリューナが息を呑む思いでいるのは伝わっただろう。騎士の目が、すっと細くなる。
そして、奪われるのは一瞬だった。
頬を包む手に力がこもり、そして口元にあたたかな息がかかったのが最後。ひとの肌の感触がくちびるに触れていた。
どくっと心臓が高鳴り、そのままどきどきと速い鼓動を刻む。
初めての『食事』。これほど高揚するものだとは思わなかった。メリューナはすぐに夢中になってしまう。
騎士の手管は巧みだった。メリューナのやわらかなくちびるをついばむように味わっていくが、それは一方的な行為なのに、むしろ利があったのはメリューナのほうである。
上質な精気がくちびるから流れ込んでくる。仲間たちからもらうものとは比べ物にならなかった。
直接人間から得る精気が、これほど美味しいとは知らなかった。初めて人間から精気を得るメリューナにとっては、これが、上質であるから美味しいのか、単に人間から得ている精気であるから美味しいと感じているだけなのかは、判断するすべがない。
けれど、この『食事』が非常に甘美なのは確かであった。人間であれば『空腹感』といえる感覚が薄らいでいく。この身にたくさん流れ込んでくる。慣れぬメリューナはすぐに満たされてしまった。
くちづけされていたのはどのくらいの間だったのか。それすらわからぬほどに、『食事』は甘美であったが、くちびるを離されてメリューナは、やっと人心地ついた。
とても美味しかった。
その気持ちが胸をぐるぐると回る。きっと満足そうな顔をしていたのだろう、メリューナの目の前の騎士は、おかしそうに笑った。
「くちづけでこんな『腹がいっぱいです』なんて顔をされるとは……やはり貴様は劣等生だな」
笑われてしまったが、実際のところそれは本当のことであるし、もはや言い返すことなど思いつきもしなかった。
が、いつまでもお腹がいっぱいである、という甘美な感覚を味わっている場合ではなかった。
騎士の手が、するっと違うところへ伸びる。
「あ……っ?」
黒く薄手のワンピースの胸元へと。豊かな膨らみに騎士の手が触れた。メリューナは戸惑いの声をあげてしまう。
「精気を奪われる行為とはいえ、こちらにもメリットがないではないのだな。食い尽くされてしまわなければ、良いものかもしれん」
それは冗談であったのだろうけれど、手はとまらなかった。やわやわと膨らみを揉まれる。少し痛いくらいの感触に、メリューナは小さく呻いた。
「顔立ちだけでなく、体も豊満でなかなか美しい」
褒められたので、メリューナは「ありがとうございます……?」と言ったのだけど、それはやはり「また色気のない返しをするものだ」と再び笑われてしまった。
しかしメリューナにとっては謎である。
もう精気はいただいたのである。これ以上どうするというのか。
……これ以上。
メリューナの意識はそのように認識していた。
「あの、」
騎士の手が、ワンピースの肩紐にかかったとき、メリューナは思い切って言った。
騎士がメリューナを見つめる。先程至近距離で見た琥珀色の瞳に見つめられて、何故かどきどきとしてしまいつつ、メリューナは口を開いた。
「もう帰っても、よろしいでしょうか」
「…………は?」
暇乞いには、盛大に気の抜けた声と表情が返ってきた。
当たり前である。胸に触れて、脱がそうとしているところへそんなことを言われては。人間の男としては当然の疑問。
騎士の手はとまってしまう。沈黙が数秒、そこに流れた。
帰ってはいけないのかしら。もう用事は済んだと思うのだけど。
精気も恵んでいただけたし。お腹も膨れたわ。とても美味しかった。
メリューナはそんなことを思いつつ、騎士の目を見つめるしかない。
それとももう少し精気をくれるのかしら。
そんな、呑気極まりないことまでメリューナの思考が至ったときであった。
騎士が不意に、メリューナの肩から手を離した。それだけでなく、体も離して、おまけに大きなため息をつく。
「…………念のため、確認するが」
数秒、更に沈黙が落ちたあとに、騎士が口を開いた。呆れかえった、とか、失望した、とか、そういう感情の声であるようにメリューナには聞こえた。
「貴様にとって、精気を得るとは、どういう行為のことを言うのだ?」
「……えっ」
その質問は意外であった。どういう行為、と言われても。先程したではないか。
「くちづけでしょう……?」
そう答えたメリューナは、まだまだサキュバスの卵。『ほかの手段』があるなどとは思いもしなかったのである。
くちづけでも確かに精気は得られる。
が、『サキュバスが精気を吸う』方法としては、もっと上の段階のものがあるのであって。
……残念ながら、メリューナにその知識がなかっただけだ。
それをはっきりと悟ったのだろう。騎士はもう一度ため息をついた。今度は、肺の中の空気をすべて吐き出さんばかりに長くて深いものであった。
「よくわかった。貴様は劣等生どころではない。サキュバス未満だ。ひよこだ。いや、ヒナだ」
次々に段階が下がっていく。酷い言われようであった。メリューナは戸惑うしかなかったが、とりあえず自分がなにか間違っているようなのは理解した。
しかし「それはなんなのですか」などと聞けるはずもないではないか。これほど呆れられてしまっていて。その質問はきっと馬鹿げているものなのだろうから。
「……もういい。帰れ」
「……え?」
唐突に帰れ、などと言われてメリューナは戸惑った。しかし騎士はもはや、野良犬でも追いやるように、手を振る。
「ヒナに用はない。魔界でもどこでも帰ってしまえ」
「……はい」
もう「すみません」くらいしか言えることはないので、メリューナは大人しくそう言った。
一応、目的は果たした。くちづけにより与えてもらった精気によって。
とっても美味しかった。恵んでもらったようなものとはいえ、少しくらいは成功といっていいんじゃないかしら。
呑気なメリューナはそう考え、大人しくその場をおいとましてドアへ向かったのだが。
「……あれ」
かちっと音がする。ドアノブは止まってしまい、ドアは開かなかった。しかしメリューナはすぐにその理由を理解する。
ああ、鍵がかかっているのね。
入ってきたときは、メリューナの魔力でドアを開けたので、物理的な鍵はなにも問題にならなかった。なので、今度もそうしようと手に力をこめたのだけど。
「……あれ……?」
もう一度不思議そうな声が出てしまう。
手は光らなかった。魔力を発揮する、銀の光は輝かない。ドアノブをひねっても、ドアが開くはずもなく、がち、がちっと嫌な音を立てるばかり。
「……なんで?」
メリューナは戸惑ってしまう。どうして魔力が働かないというのか。
「なにをもだもだしているんだ」
もうすっかりメリューナを見限ってしまったらしい騎士はベッドに潜りかけていて、そんな声をかけてくる。
確かにそのとおりである。帰ることもすんなりできないとは。
また恥ずかしくなったメリューナは、「すみません」と言って、仕方ないので鍵を開けようとドアを探った。
しかし人間の鍵の仕組みなど、一目見ただけではわからない。首をかしげてしまう。
これはひねるのかしら。押すのかしら。
まだ『もだもだ』してしまったメリューナを不審に思ったらしい騎士が「なんなんだ貴様は」と、再びベッドを出てこちらへやってきた。
「あの、鍵が開かなく……あっ、でも大丈夫です! 窓から出て飛んで帰りますから!」
帰るときまでひよこだヒナだと言われてしまってはかなわない。メリューナはそう言って、翼を出現させるため、背中に力をこめたのだが。
「……あれ?」
また同じ疑問の声しか出なかった。
生まれ持った黒のツノと翼。
それが、出てこない。
いくら劣等生といえども、ツノと翼を出し入れすることくらいは普通にできるというのに。出てくる気配もなければ、実際に背中に触れてもそこにはなにもない。
「……どうしてでしょう」
呆然と呟いたメリューナ。どうしてでしょう、なんて言っても、答えをくれるひとはいない。
ここには騎士しかいないのであるし、人間である騎士が、メリューナのこの状態に答えが出せるはずもないではないか。
魔力でドアが開けられないだとか、翼が出ないだとか。そういうことは説明せずともなんとなく察されたらしい。
ドアの前で立ちつくすしかないメリューナの傍まできて、騎士は、まじまじとメリューナを見つめた。琥珀の瞳がメリューナを見つめる。
とても綺麗なのに、今は見入っている場合ではなかった。
お互い、馬鹿のように見つめ合ってしまう。騎士がどう思っているかはわからないが、メリューナはとりあえず、そうするしかなかったのだ。
どうして魔力が働かないのか。わからないが、働かないのは事実なのでどうにもできない。呆然と立ち尽くすしかない。
一体何秒が経ったのか。騎士はのろのろと口を開いた。
「もしかして俺は」
騎士は眉間を押さえて、そして絞り出すように言った。
「とんだお荷物を抱えてしまったのでは……」