エヴァロンの森
トルクメイ公国より北の方角に、エヴァロンと呼ばれる森があった。それは〝のどかな日々〝という意味で、聖なる名前である。大陸には同じように、イデュオン、バルン、ジュノンなど、聖なる名がつけられた森がいくつかある。
その森の中央には小さな湖があり、それを見守るように、青々と生い茂った草木が取り囲んでいる。野ネズミやリスなど矮小な動物もちらほらと姿を現し、小鳥が気持ちよくさえずっている。まさしく、その名の通り平穏な森だった。森の精霊たちが、毎夜欠かさず見回っているのかもしれない。
そんな聖なる森の木漏れ日の中で、一つの小さな墓石を前に、黙祷を捧げる二人の人影があった。一人は愛らしい小柄な少女。そしてもう一人は、いかにも腕のたちそうな体格と風貌の精悍な若者である。
この奇妙な取り合わせの二人組こそ、失踪中の公爵令嬢ミーアと、本来一匹狼であるはずの伝説の戦士レッドだ。
墓石には、テリーという名前と没年月日、そして「イルハザードの地に眠る」と彫られてある。この下に遺体はない。埋められてあるのは、きちんと鞘に収めた一本の剣と、ベルトなどの遺品だけだった。
「テリーって?」
目を開けたミーアが、自分の倍ほど背丈のあるレッドを見上げて問うた。
レッドはまだ黙祷を捧げていたが、ミーアの声にゆっくりと瞼を上げた。
「俺の先輩で、俺が最も尊敬している人だ。俺に剣術を教えてくれた人だから、師匠でもある。戦士の鑑だった。」
墓石の名前を寂しそうに見つめて、レッドはそう答えた。
「ふうん・・・。」
ミーアも、もう一度墓石に目を向ける。
レッドは心の中で、そのあとこうも付け加えていた。
〝そして・・・俺の命の恩人。〟と。
脳裏に、数年前の辛い過去がよみがえる。
山岳地帯の戦場が目に浮かび、その中でレッドは、敵との死闘の末、崖から突き出している木の枝に辛うじて掴まっていた。その時、まだ戦いは終わっていないというのに、そのレッドの腕を引っ張り上げようとしてくれた男がいたのである。
その彼の額にもまた鷲の刺青があった。それは、幾多の戦場のどれにおいても、最も死に近い修羅場で立派に戦い抜いてきたベテランの鷲だった。
それに比べて、この時のレッドの鷲はまだ若かった。レッドはこの時、アイアスの資格を取ったばかりだったのである。
そのベテランアイアスの彼こそ、個人的に三年間みっちりとレッドに剣術を教え込み、レッドにアイアスの試験を受けることを勧めた男だ。
だが・・・彼はこの日死んだ。
レッドにかまっていたために、敵の殺気を感じながらも、避けることができなかったのである。レッドも気付いて、腕に装備しているナイフを敵にくれたものの、ぶら下がっている状態から相手をとらえられるようになった時には、テリーはすでに敵の剣にかかっていた。その傷は致命的なもので、結局、レッドはとどめの一撃を阻止しただけに過ぎなかった。そして、致命傷を負いながらもレッドを見事引き上げてみせたテリーは、枝に掴まるため剣を崖下へ落としてしまったレッドに、自分の剣を押し付け、戦いに戻れと一言命じて、その場に倒れ込んだ。
レッドは言うことを聞くしかなかった。そして、敵が退却するやすぐさま舞い戻った。もう息も絶え絶えの師匠のもとへ。
〝テリー・・・なんで・・・。〟
〝レッド・・・必要だからだ・・・この時代に・・・お前が。〟
〝俺なんかより、あんたの方が必要だ。俺は・・・あんたのようにはなれない。〟
〝ならなくていい・・・お前は・・・俺を超える。〟
テリーはそう言うと、手を上着の内ポケットにそろそろと忍ばせて、何かをレッドに手渡そうとした。
レッドも、何かと思い手を出した。そして、指を開いてみたあと驚いて目をみはった。
どんな謂れからか、神々《こうごう》しい輝きを放つ飴色の宝石を握り締めていたのである。
〝テリー・・・これ・・・。〟
〝俺が持っているより・・・お前の方が・・・御利益がありそうだ。〟
〝嫌だ、あんたの御守りだ!あんたは死なない!こんなことしないでくれ!〟
〝レッド・・・。〟
〝あんたを超えるなんてできない。〟
〝お前は・・・俺が惚れこんだ男だぞ。〟
〝テリー・・・嫌だ・・・。〟
レッドはその時、彼がもはや声を出すことも叶わなくなったのを見て、その宝石を慌てて彼の掌にねじ込んだ。そして、その手を自分の両手でぎゅっと覆った。
だが・・・テリーはただうっすらと微笑んで、そのまま静かに息を引き取った。
レッドは、遺体の頭を抱いたまま歯を食いしばり、声を殺して、ただ涙を溢れさせている自分を思い出した。
レッドは、ズボンのポケットから布包みを取り出して、ぎゅっと握り締めた。テリーから譲り受けた、その宝石を包んでいる布だ。レッドは再確認したのである。墓石の裏にそっと刻み込んだ決意を。そこには、こう書きつけていた。
〝テリー 俺はあんたの分まで戦うと誓う レッド〟
だがレッドは、過去に一度だけアイアスを辞めようとしたことがあった。
その時のレッドは、世のために貴重な伝説の戦士を死なせてしまったことで、使命感と罪悪感の狭間にいて、度々自己嫌悪に陥りひどく情緒不安定だった。
だが、名誉の象徴を剥ぎ取るということは、そう簡単にできるものではない。レッドはそのうえ、そんな中出会ったある一人の女性の存在によって、一度は本気で決断したのである。
レッドはやっと気が済むと、隣というよりは足元にいる可愛い連れに話しかけた。
「さ、飯にしようか。」
「うん!もうお腹ペコペコ。」
ミーアはそう言いながら、自分の腹部に両手を当ててみせた。
そのいかにもお子様らしい仕草に、レッドは相好を崩した。
昼食は、樫の木の下でとった。二日前に寄って来た村で購入できたパンと、この森で見つけた柑橘類の果物。それに、神聖な湖に流れこむ澄んだ湧き水。
「ところでミーア、お前、自分がどれだけ大変なことしてるか、分かってるんだろうな。」
レッドは、大口を開けてパンを頬張る可愛い連れに話しかけた。こんな姿を見れば、誰一人として実は公爵令嬢などとは思うまい。レッドはそう呆れながらも、正体を偽るには好都合かと、胸の内でひとりごちた。
「うん、もちろん!」
ミーアは無邪気な笑顔で答えた。
レッドは憮然とため息。
「ちなみに、俺も物凄く大変なことしてるんだぞ。お前のために。」
「大丈夫よ。もし見つかったら、私がちゃんと話してあげるから。」
「あげる・・・ね。」
レッドは、やれやれと快晴の空を仰いだ。
周りには、じゅうぶんな距離を置いて警戒しながらも、二人の旅人の様子を窺う森の動物たちが集まってきていた。一匹、また一匹と、その数は増えていく。
食事中にも、そんな動物たちを見て落ちつきがなかったミーアは、残りのパンを急いで口に押し込むと言った。
「ね、遊んできていい?」
気持ちを察して、レッドはすぐに頷いてやった。この森は、ミーアにとっては別世界のようなもの。興味津々に違いない。
「ちょっとだけだぞ。」
「うん!」
そう返事をするや否や、ミーアは気の向くままに駆け出した。
「俺から分かるところにいろよ!」
「はーい。」
そして少女の姿は、右手の重なり合う木々の陰に消えた。