失踪
空に一番星が瞬きだした頃、城下町の海岸側は一段と活気づく。安い料理屋や酒場が犇めき合うそこは、毎夜多くの傭兵や若者たちで賑わっている。
店内には、オリーブ油で焦げる肉や魚の香ばしい臭いが漂い、様々な食材を惜しみなく使って調理された料理が、それを運ぶウェイトレスによって忙しなく行き交っている。
この国では、豊富に獲れる魚介類はずいぶん安く食べられた。味付けには岩塩や魚醤、そして多種多様の香辛料が使われる。酒はビールを始めに、ワインや地酒、そしてアルバドルの帝都から輸入されるものの中には強い焼酎が多くあった。
その立ち並ぶ酒場の一つに、剣を腰に帯びた若い男が駆け込んできた。
オリーブ色の長髪を一つに纏めているその男、彼がレッドの戦友としては最も親しいスエヴィ・ブレンダンである。レッドとは約一年間、職を探しながら旅路を共にした仲だ。
混みあう客席を縫って進み、奥の丸テーブルを囲んでいる、いつもそろう顔ぶれのもとへ駆けつけるなり、スエヴィはこう喚いた。
「大変だ、皆聞いてくれ!」と。
だが目を向ける者はいなかった。連中の誰もがギャンブルで忙しいから。
「スエヴィ、先に言っておく。冗談はその面だけにしとけ。」
鼻の下に細く髭を生やした男が、チラとも目をくれずに言った。
「レッドがお嬢様と駆け落ちしたんだと!」
「今日も冴えないたわごと聞かせやがって・・・。」その男は呆れたように呟くと、「あのなスエヴィ、お嬢様はまだ・・・確か四歳くらいだろ。で、レッドは二十歳だっけ?年の差十六か・・・ありえるかもな。」
「ていうか、それって失踪っていうんじゃないのか。」
また別の男がそう口を挟んだ。
「駆け落ちよりは失踪だな。」と、また違う男が言った。
誰も彼もがスエヴィの顔を見もせずに、ただひたすらカードのマークや数字を睨みつけながら会話をしている・・・が・・・。
「・・・失踪?」
一人がそう口にすると、テーブルを囲む全員が、仰天しながら勢いよく立ち上がった。
「なにいっ⁉」と、見事に声をそろえて。
なにしろスエヴィは、冗談でない面をしている。
「どういうことだ。」
髭の男が真顔できいた。
「知るかよ。けど、直接城のヤツに聞いたから確かだ。」
その召使いは、お嬢様を捜索中に、知人であるこのスエヴィに街角で偶然会った。そこで、スエヴィがレッドの親友であることから、何か有力な情報を得られると思い、極秘であるにもかかわらず、事情を説明してしまったのだ。そして最後に、この話は内密にと伝えたものの、この男に事情を話すということがそもそも間違いであって、十分と経たないうちにこういうことになる。
「あのヤロウ、俺たちに一言の挨拶も無しで。」
「お嬢様が一緒だからじゃないか。」
「そんなこたあどうだっていいが、あいつめ、いったい何考えてんだ。」
「けどあいつのことだから、何か考えがあるんだろう。」
「どう考えたって正気の沙汰じゃないだろ。閣下のご令嬢だぞ、あの子は。」
たちまち口々に騒ぎ出したが、彼らがそのお嬢様・・・ミーアを、実はここトルクメイ公国の公爵令嬢であると理解したのは、つい数日前のことだ。しかも、その驚くべき瞬間は、ここで起こった。
その時の彼らは、愛想のいいミーアのお酌を、公爵閣下の一人娘であるとは知らずに、酔ったノリで気分よく受けているところだった。城の使いたちがお嬢様を見つけ出したのは、まさに、ちょうどその瞬間だったのである。
そして、さすがに血相を変えた彼らの前から連れ戻される時、ミーアは同じセリフを夢中で連発していた。
「いやーっ、放して!まだ帰りたくないんだってば!レッド、助けてレッド!」と。
だが、レッドもまた唖然と口を開けたまま、小公女のお帰りをただ見送っていただけだ。
「とにかく、えらい事になったぞ。」
顔を見合った一同は、そのあと言葉もなく黙り込んでしまった。