第6話 熱帯の風と、九年間の答え合わせ
機内の乾燥した気圧から解放され、ハッチが開いた瞬間。
ボーディングブリッジに流れ込んできたのは、早朝だというのに肌にねっとりと絡みつくような、重く熱い湿気だった。
シンガポール・チャンギ国際空港。
緑が溢れ、人工的な滝の音が響くその空間は、どこか現実離れした植物園のような静謐さに包まれている。
安全を考慮して選んだ早朝六時の到着便。節約のために利用したLCCの狭い座席は、七時間ちょっとのフライトで私の身体をバキバキに凝り固まらせていたけれど、この独特の熱気を含んだ空気感は、停滞していた私の五感を強引に叩き起こした。
入国審査を終え、大きなバックパックを背負いながら、MRT地下鉄乗り場へと向かう。一人旅で、しかも期限は未定。節約するに越したことはない。
スマートフォンで、『シンガポール ホテル 安全 安い きれい 女性』と打ち込む。表示された検索結果を「料金の安い順」に並び替えると、一泊六十SGD、約六千八百JPYの女性専用カプセルホテル・スリーピングポッドがヒットした。
レビューには、『清潔で、女性一人でも安心』『洗濯機が故障中だったが、他は快適』『駅からは少し歩くが便利』。評価は『8.9』で『非常に満足』。
「……やっぱり、宿泊費って重いなあ」
分かってはいたが、最安値の宿でも一週間で五万円近く飛んでいく。ビザがない以上、労働で稼ぐわけにもいかない。ここに来てようやく、自分の旅がどれほど無計画なものだったかを突きつけられた。
「こんなことなら、SNSちゃんとやっとけばよかった。……インスタとかYouTube。いや、今からでも遅くないよね。やるしかないし」
MRTのドアが開き、英語の放送が車内に響く。乗り換えを経て、目指すはRaffles Place MRT Station ラッフルズ・プレイス駅。
冷房の効いた車両の隅に身を寄せ、窓の外を眺める。地上へと出た列車の車窓を流れるのは、整然と並ぶ高層マンションと、濃い緑の街路樹。
その景色を眺めていると、意識は抗いようもなく『過去』へと引きずられていった。
二十二歳、大学の卒業旅行。私はこの場所へ、健一と一緒に来た。
健一と付き合い始めたのは、大学二年の夏、サークルで行った登山がきっかけだった。
山頂からの下山中、少し照れながら告白してきた健一。優しくて容姿も整った彼に好感を抱いていた私は、その申し出を心から嬉しく思い、二人の時間は始まった。
他大学との合同登山を目的としたインカレサークル。そこで社交的に振る舞い、常に集団の中心で笑っていた健一と、装備の確認や記録作成といった裏方仕事をコツコツこなす方が性に合っていた私。
所属する大学も性格も正反対。けれど、だからこそパズルのピースが隙間なく嵌まるように、互いの欠けた部分を補い合って上手くいっているのだと、当時の私は信じて疑わなかった。
二十八歳。気づけば九年という、あまりに長い月日が流れていた。
これまで、私から『結婚』を匂わせたことは何度かある。
大学卒業という転機に、生活が変わる不安を口にした私に、彼は言った。
『これまで通り、何も変わらないよ』。
当時はその言葉を、揺るぎない愛情の証だと信じて疑わなかった。けれど、彼への信頼が崩れ去った今ならわかる。あれは愛ではなく、ただ関係を維持するための「現状維持バイアス」に過ぎなかったのだ。
それから三年が経ち、周囲が結婚ラッシュに沸いた二十五歳の頃。『私たちは?』と尋ねた私に、彼は余裕のある笑みで答えた。
『結婚は、すみれとしたい。でも、今は仕事が楽しいんだ。まだ考えられないな』
その言葉の「結婚相手は私なんだ」という部分だけを都合よく切り取って、私は純粋に喜んだ。今思えば、それは決定的な拒絶を避けるための「便利な保険」をかけられていただけだったのに。
そして二十八歳の誕生日が近付き、私は別れを覚悟で切り出した。
『二十代のうちに結婚したい。健一はどう考えてるの?』
パタンナーとしてキャリアを積んできた私には、ライフイベントを先延ばしにすることが、その後の人生設計をどれほど歪めてしまうか、そのリスクが痛いほど分かっていた。
私の問いかけに、健一は抗うことを諦めたように、あるいは面倒な議論から逃げるようにして、流される形で両家の顔合わせと結納を承諾したのだ。
今なら、はっきりと見える。
彼が結婚を渋っていたあの不自然な空白の時間には、常に私以外の「誰か」の影があったのだ。
私は、彼が最高の一着を選ぶための比較対象、あるいは、いつでも帰れる安全な居場所としてキープされていたに過ぎなかった。
( 愛されてるって信じることで、自分の価値を守りたかっただけなのかな。……本当は、ずっと前から気づいてたはずなのにね )
ガタン、と電車が大きく揺れた。
窓ガラスに映る自分の顔は、あの卒業旅行の時のような無垢な若さではない。けれど、九年間にわたる健一への『期待』をすべて捨て、やつれてはいても、芯の通った清々しい表情をしていた。
九年間。私は彼という歪な型紙に合わせて、自分という素材を無理やり切り刻み、継ぎはぎにして縫い合わせてきたのだ。
でも、もういい。これからは、誰の目も気にせず、私自身の美学で、私だけの人生を型紙から引き直していこう。
バックパックを握る手に、ぐっと力を込める。
かつて彼と歩いた、けれど今は私一人しかいないこの熱い街へ、私は確かな一歩を踏み出した。
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